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莉世と羽流

わたしはこれ以上ないくらい柔らかな陽だまりの中で、優しい繭にくるまれ息をしている。
わたしは時々そう思う。
思うたび、どうしてわたしはこんなに幸福であることを強いられているのだろう、とついでのように考える。
結局明確な答えなど得られないのだけれど、それでも思う。ついでに、くらいの気軽さで。

「ハル」

呼びかけると、目の前、まるで当たり前のことのように廊下で座り込んでうとうとしているわたしの兄は、うっすら瞼を持ち上げた。
まだ熟睡していたわけではなかったようだ。

その見るからに薄い皮膚を縁取る細いまつげの規則正しい配列を眺めながら、ハルはかわいいな、と思う。

まだわたしの両腕はハルを包み込むことなんてできない。
多分、わたしが大人の女の人になったとしても、ハルみたいに大きな男の人をすっぽりと抱きしめてあげることなんてできないのだろう。
だけどこうして無防備にうとうとするハルを眺めていると、不意に胸の奥深く辺りがむずむずしてきて、ぎゅうぎゅうと。だけど優しく労わるように。両腕めいっぱいでもって包み込んであげたいと思ってしまうことが、よくある。
自分の両腕の幼さが酷くもどかしく思うほどに。

頬にキスをして、いい子いい子と頭を撫でて、大事に大事にしてあげたいと思うのだ。
ヤヒロもそう。ふわふわの髪を撫で撫でしてあげたい。
本家分家の長男ふたりは、同じ人種だからか、妙に似通っている。
顔つきも身体つきもそうだけれど、纏う雰囲気そのものが。

そのせいもあってか、彼らは他の兄たちより尚強くわたしの心に衝動を起こす。
抱いてあげたいという、根拠も理由もない、紛れもなく純粋な「衝動」を。

「ハル」

もう一度呼びかけると、ものすごく重たそうに、今にもまたくっついてしまいそうだった上の瞼と下の瞼の隙間がゆるゆると広がった。
完全には開ききらない色素の薄いまつげの隙間、やはり限界まで色素の薄い、血管すら透けそうな眼球がわたしの顔に焦点を絞ったのが見えて、わたしはにっこりする。
ハルは虹彩が奇麗だ。時々触ってみたくなる。

「ハル、こんなところで眠ったら風邪ひいちゃうよ」

「…うん」

ハルは声をあげるのも億劫なのか、唇も動かさずに喉を鳴らしてそう言った。

ハルの喉は白く薄く筋張って、だけど真ん中あたりにぽこっとした出っ張りがある。
わたしやイヅルちゃんたちにはないけれど、他の兄たちにもある。
彼らはそれを上下に震わせることで、声を発することもできるのだとわたしは思っている。

以前、モモのそれに触れたことがある。
ぼこぼことして意外と硬く、骨かと思ったけれど、骨にしては弾力があった。
触っていると、時々、上下に揺れてわたしの指が滑り落ちる。
それがまた面白くてつい夢中になって指先で押していると、ちょっと苦しい。と笑った。
これはなに。と聞いたら、喉仏。と簡素に返事が返ってきた。大人の男の人にはあるものだという。
ということは、いつかイヅルちゃんやイヅカちゃんたちもこんな喉になるのかもしれない。そうなったら触らせてもらおうと思う。あの感触は結構楽しいのだ。
マスミのも、ヤヒロのも、楽しかった。何より、そこに触れるには彼らの膝の上に乗り上げなければ届かないから、必然的に彼らに抱いてもらうことになる。
多分、その状況も含め、楽しいことなのだろう。

ふくふくとあたたかく、骨ばっているけれど柔らかく、また頑強であり、何よりどこまでも優しい彼らの膝の上は、わたしにとってこの上なく居心地のいい、安心する場所だ。

「ハル、喉仏、触ってもいい?」

「…うん?」

黙っているとすぐに落ちてくる瞼を、ハルはまたもう少し開いた。
不思議そうな声色がわたしの耳たぶを優しく撫でて、わたしも喉を鳴らしそうになる。だけどわたしには一生、彼らのような出っ張りは生まれない。
何故ならわたしは、本家分家の中で唯一の女の子だから。

「のどぼとけ、触ってもいい?」

わたしはもう一度、今度は喉仏、という言葉をはっきりと発音した。
ハルはそれを聞いてもやはり不思議そうな顔をしたけれど、首を傾げつつ、うん、いいよ。と柔らかく微笑み、膝を抱えていた両腕を広げてわたしを呼んでくれた。
わたしは軽く広げ床に落ちたハルの細長い両足の上にそっと乗り上げ、片手をその広い肩へ当て、もう片手でもって喉仏に触れた。
ハルはごく自然に、僅かに顎を持ち上げわたしに触りやすくしてくれた。

ぼこ、とした硬いような柔らかいような、軟骨部分みたいな感触。
思いっきり噛んだら噛み砕けそうだ。以前齧ったことのある鳥肉の軟骨を思い出す。こりこりとして、味はともかく歯と歯の間で砕ける感じは面白かった。

「これって食べられるのかな?」

「…うーん。どうだろ。食べられるかもしれないね」

ハルは夢うつつに答える。ちゃんと分かっているのだろうか。
わたしは少し意地悪をしてみたい気持ちになって、食べちゃってもいい?と聞いてみた。
するとハルはゆっくりと瞬きをしながら、わたしの言葉の真意を見ようとしてか、こちらの両目を真っ直ぐ見つめてくる。…が、すぐにまた微笑みに溶けてしまった。
ハルが微笑む瞬間は、フライパンの上でバターが溶ける瞬間に似ているとなんとなく思う。

「今?…うーん困ったな。今は痛そうだから、僕が眠ってる間にしてくれる?」

「眠ってる間ならいいの?」

「ちょっと齧ってみるくらいなら今でもいいよ。…莉世、おなか空いてるの?」

「そうじゃないけど…じゃあ、食べちゃったらなくなっちゃって困るだろうから、今ちょっと齧ってみてもいい?」

「いいよ」

ハルはどこまでも柔らかくそうわたしを許し、むしろ促すようにわたしの背を大きな手のひらで抱き寄せた。
わたしはその手のひらのじんわりと湿ったような高い体温をシャツの布越しに背中で感じながら、ハルの懐に身体全部を預ける。
そうすることで、すっぽりと収まる自分の体躯の小ささを実感し、それと同時にハルの大きさも実感する。

目の前に晒された喉仏に、わたしはそっと歯を立てた。
ほんの少しだけ力を入れるけれど、思い切り噛んだらやっぱり噛み砕けそうだと思う。思うと、何故か不意に怖くなってすぐに唇を離した。

痛い。そんなことしたらきっとハルはとても痛い。そんなの嫌だ。
違う。ハルを痛めつけたいわけじゃない。いい子いい子したいのだ。大事に大事にしたいのだ。
優しいハル。わたしを許してしまうハル。大好きなハル。

「…ハル、ごめんね」

わたしは何故か無性に悲しくなって、噛んでしまったハルの喉仏に唇を押し当て、うっすらとついてしまった歯型をちょっと舐めた。
どうして?大丈夫だよ。ちょっとくすぐったかったけど。とハルが笑うと、目の前の喉仏がくくく、と上下に揺れ、同時に密着した皮膚越し、耳から聞こえるハルの声と連動して、声が身体全部から聞こえてきた。
わたしはハルの腕の中にすっぽり包み込まれていることを、こういったことで知覚する。

「ハル、大好き」

わたしはまた不意に起こった衝動のままハルの頬にキスをし、そのまま目の前の首に両腕を巻きつけ、ぎゅうぎゅうと。だけど優しく労わるように。両腕めいぱいいでもって。今のわたしでできる限り包めるように抱きしめた。

「ありがとう。僕も莉世のこと大好きだよ」

ハルはわたしを完全に包み込み、だけどわたしに抱かれてくれた。
わたしが強いた幸福を、とてもとても嬉しそうに全面的に甘受してくれた。
わたしはそのことで、またふと、わたしはこれ以上ないくらい柔らかな陽だまりの中で、優しい繭にくるまれ息をしている。と思った。
ついでに、どうしてわたしはこんなに幸福であることを強いられているのだろう、とも。

「ハルは陽だまりみたい」

「莉世は詩人だね」

ハルは睡魔から少し離れることに成功したのかもしれない。
少しだけはっきりした物言いで、ふんわりと微笑むバターのような甘い気配がわたしの頭を撫で、優しく緩んだ薄い唇がわたしの髪に押し付けられたのが分かった。
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