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影は影でしかない事実

事実というものはどれほどの力を持ってしても、変えたり、歪めたり、やり直したりできるものではない。
事実は事実でしかなく、夢や幻のように脆く容易いものではない。
もちろん、何ものにも干渉されないほど強固なものでもないが、人ひとりの意思や願いなんてもので湾曲できる程度のものでもないのだ。

「事実」を変革させるためには、それ相当の熱量が必要。
そしてその必要な分の熱量は、ものによっては全世界を巻き込んだとしても足りないほど膨大なものになる。

…無謀なのだ、要するに。
俺や彼が望むものは、あまりに無謀過ぎるのだ。

俺は、いつでも俺の前を歩く彼の足元から伸びる影だ。
俺は彼の影なのだ。
それ以外の何者でもない。
彼が歩く方向へ歩み、彼が欲する方へ手を伸ばす。
彼の身体から完全に切り離されることはなく、しかし彼の足元転がるたかが小石ひとつの障害物で意図も簡単に形を崩す。
本来意思など持たぬはずの影は、本体である彼の信じられないほど膨大な熱量でもって「俺」という人格を手に入れてしまった。
それさえ変えようのない「事実」。
それが無駄であろうと悲しいものであろうと何であろうと、変えられない。

俺は彼の信じられない熱量によって奇跡的にも辛うじて固体として存在できているようだが、彼や彼と対峙し会話をする人間とは元々の発生源が違う。
そもそも人間というものが何から発生したものなのか俺には詳しく説明できないが、彼が時折弄ぶ分厚い書物(聖書と言うタイトルらしい)に明記されているように、神と呼ばれる者(これも人間ではないらしい)が塵を集めて己を模ったものではない。
…否、そういった意味では似通ったものかもしれない。
なんせ俺は、彼の影でもって彼を模ったものなのだから。

しかし神ではない彼が作った(創造、とでも言うか)俺は、彼らとは違う。
当初、俺を作った彼と、彼に作られた俺はそのことをさほど深刻になど捕らえていなかった。
俺と彼が、禁断の果実とやらに喰いつき、無謀な願いを持ってしまうまでは、の話だけれど。

ある日、彼は珍しくこちらを振り返って皮肉に笑った。

『俺は塵なんだよ』

俺はその言葉に一体どんな深い意味が隠されているのか分からずに、そのようだな、と応えた。
そんなことよりも、俺はいつも彼の背中ばかり見ていたから、彼が不意にそうして俺を振り返り、俺に声をかけてくること自体に驚き戸惑っていた。

『…俺は塵なんだよ』

彼はニヤニヤと笑みを深めて繰り返す。
俺がその言葉の真意を汲めないことを嘲っているのか、悲しんでいるのかすら俺には分からなかったから、やっぱり俺はそうだな、と応えることしかできなかった。

『お前は俺の影だ』

彼は言った。

『俺は塵。お前は影』

彼はまるで美しい歌劇の一節を謡うように言った。

『それ以外の何者でもない。それが事実』

彼は低く喉を鳴らして笑い、ステップを踏むようにして歩みだした。
以前は逆らおうにも勝手に影として彼の動く通りに身体が動いていたのに、いつの間にか軽やかなその歩みを真似ることもできなくなってしまった俺を、彼はくるりと回る仕草で振り返り、また笑った。

『だけどお前はもう俺のただの影じゃないとしたら、お前、…どうする?』

俺は彼の熱量の膨大さを嘆いた。
今更、ただの影として彼のかかとから伸びていた頃に戻りたいわけじゃない。
だけど、彼とは違う「俺」という意思を持ってしまっただけでもうろたえたというのに、彼はそれだけで満足せず、俺の身体を彼から切り離したのだ。
もう小石にもビルの壁にも乱されない確かな形を、彼は俺に寄与したのだ。
そのことで、俺は彼から離れてしまった。
彼に全てを委ねることができなくなってしまった。

『さぁ、…どうする?』

彼は残酷に微笑んだ。
ここから先はお前次第。好きにしろよ。と彼は笑った。
急激な変化についていけずに立ち竦んでしまった俺は、またくるりと俺に背を向け歩き出した彼に慌てた。
なんてことだ。
俺は彼から離れてしまった!
今までありえなかった距離感に怯え、俺は急いで彼の背中に追いつこうと走る。
今までと同じ距離に戻るためだけに。

早鐘を打つ己の胸に違和感と戸惑い。冷や汗。こんな生きた心地がしなかったのは初めてだと思った。
何故なら、俺は今までそんな想いなどしなくてもいい存在だったのだ。
彼のただの影でいられていたのだから。
だけど、立ち止まりまたこちらを振り返った彼の、そのいつもの意地悪げな笑みが僅か、ゆわりと和らいだのを見て、俺は無性に泣きたくなった。

彼が望んで俺を切り離した理由が、今の俺と同じだと分かったからだ。

「…俺は、俺の意思であなたのそばにいよう」

俺は声が震えるのを必死で耐えてぶっきらぼうにそれだけを言った。
もっと他に色々な言葉があったはずなのに。もっと他に様々な言い様があったはずなのに。
俺はぐるぐると内心酷く後悔していたが、じゃあ好きにすれば。とまた謡うように笑う彼を見て、安堵したと同時に、彼を酷く哀れに思った。

彼は、俺と同じ願いを持って、俺を放した。
事実は事実でしかないと最初に俺に教えてくれたのは彼だ。
俺がどれほど彼とは違う意思を持とうと、彼から切り離されようと、それでも彼のそばにいようと。
俺と彼の願いは叶うことなどありえない。

俺は結局、影なのだ。
彼が塵であるように、影は影でしかない事実は変わらない。
そこにどれほどの膨大な熱量が加わったとしても、人ひとりと影ひとつの意思や願いなんてもので湾曲できる程度のものではないのだ。

だけど俺は寂しさや虚しさだけではなく、今まで感じたことのないほどの抑えきれない喜びでもってまた泣きそうになった。
どんなことが起こっても決して泣けない哀れな彼のために、代わりに泣ける身体と意思を持てたこと。
どんなに不可能な願いでも欲し続ける彼と一緒に、同じ願いを持ち続ける存在になれたこと。
そして何より、切り離され個々の物体として存在できたことで、これから先ますます倍増するであろう生きる苦しみを味わい、そうすることで彼を今より尚、少しでも理解できるようになるかもしれないという、影だった頃には不可能だった事柄に可能性が見えたことが酷くやるせなく不安で仕方なく、そしてまた酷く幸福だと思えた。

「俺は、俺の意思であなたのそばにいる」

俺は結局同じ言葉しか言えなかったけれど、目の前、彼の笑顔がくしゃりと歪むのを見て、今はこれでいいのだと口を噤んだ。

無謀でもなんでもいい。
俺と彼は確かに、同じ願いを胸に抱く。
そのことだって、確かな事実なのだから。
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