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晴天の屋上から

その日は格別、澄み切った清浄な空気の最中を太陽光がきらきらとすり抜け、満遍なく地の表を照らす、最高に心地よい日だった。
真夏のような乱暴さもなく、真冬のような冷徹さもない。
春のような強すぎる膨張の気配も、秋のようなあっけない収縮の気配もなかった。
日本にある四季のどれにもあてはまらなかったけれど、気温、湿度、天気、どれを取っても日本人に一番優しい瞬間だったように思う。

だというのに、私たちは薄暗く狭い階段を必死に昇っていた。
背後から迫り来る憤怒、恨みや妬み、激しい嘆きといった嵐のような恐ろしい感情からひたすら逃げていたのだ。
それに捕まってしまったら、私たちはバラバラになってしまうと思った。
もう二度と会えなくなるほど遠くに引き離されてしまうと思ったのだ。
今にも追いつかれ肩先を掴まれてしまいそうな距離感に怯え、肺いっぱいに酸素を吸い込む余裕もなく階段を駆け上がる。
この階段が途切れたそこには、清浄な空気と太陽光があると知っていた。
そこまで逃げ切れればきっと、恐ろしいものに飲まれたり、引き裂かれ孤独に沈んだりせず済むと思っていたのだ。

屋上へ。

もつれそうな両足、手すりに縋る手のひら、噛みそうになっては上顎に押し付ける舌、視界を遮る前髪を首を振ることで避け、瞬きをする瞬間にすら怯えて走った。
先を行く彼の背中から僅かでも離れてしまわぬよう、捕まってしまわぬよう。

彼の手によって、少し錆びたような荒い音を立ててドアが開けられた。
彼に続いて、敷居を越えたつま先が屋上の色褪せたコンクリートを踏みしめることに成功した。
空から降り注ぐ太陽光は優しく眩く、私たちは目を細め詰めたままだった息を全部吐き出す。
一気に身体から緊張が抜け落ち、その場にへたり込みそうになったが、乱れたままの呼吸を正す前に、私たちの背後未だ追ってくる気配に驚いてコンクリートを蹴った。
ここまでくれば大丈夫だと思ったのに。

私たちは屋上の入り口からできるだけ離れようと端へと逃げた。
そこは他に隠れるような場所も物も、周囲取り囲むようなフェンスすらなかった。
私たちは先刻出てきた入り口から現れ、私たちを捕まえ飲み込もうとするその姿を見極めようと視線を固定した。
薄暗い入り口の向こうの影が、一瞬、濃く揺れた気がして、思わず一歩後ず去る。
と、屋上ギリギリにいた彼が足を踏み外した。
彼の両手は掴む場所を決める余裕もなく空を掻く。咄嗟にそれに手を伸ばし、強く掴んで引っ張った。
しかし、重力に呼ばれる力の方が私の力よりずっと強く、私は彼もろとも落下しそうになる。
だというのに、彼は何かを悟ったかのような穏やかな微笑を浮かべ、一緒に落ちようと私を呼んだ。
瞬間、私の脳裏に蘇ったのは、エレベータや飛行機の落下時、内臓がぶわりと浮くような不快感と恐怖感。
私は咄嗟に彼の腕を掴む手を離した。
彼は私の腕から手を離そうとしなかったけれど、私の顔に明らかな恐怖が滲んでいることを見て取ったのか、微笑んだまま、先刻まで私の手を掴んでいた強さも痛みも嘘みたいに儚く、そっと手を離した。
私はその場に残った。
彼は落下した。

屋上から。

私はへたり込む気力すらなく、そのままその場に立ち尽くした。
先刻まで彼を強く掴んでいた手を下ろすこともできず、落下した彼を下に探すこともできず、澄み切った空気、降り注ぐ太陽光の最中、色褪せたコンクリートの上に立ち尽くした。

『一緒に』

最後に聞いた彼の声が頭の中に木霊した。
それを咄嗟に拒絶してしまった私は、もう二度と彼と落下するチャンスをものにすることができないことを思い知り、呆然とした。
何故、手を離してしまったのだろう。
たかが刹那の不快感と恐怖感などに飲まれ、一緒に。そう言って宥めるよう優しく微笑んでくれた彼をひとり落下させてしまったのだろう。
見殺しにしてしまったのだろう。
あのまま一緒に落下できていたならきっと、私たちはもう逃げなくても良かったはずなのに。
ひとりになることも、彼をひとりにすることもなかったはずなのに。
どうして迷ったりなんかしたんだろう。
迷う理由なんてなかったのに。
ひとり呆然と立ち尽くす。

絶望的なほど最高に心地よい、晴天の屋上にて。
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