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とりかえしのつかない瞬間

その瞬間はいつも突然やってくる。

洗濯したてのシーツを広げたベッドに倒れ込みうとうとまどろみ始めた刹那だったり、手に馴染んだカメラのファインダー越しに真夏の空を見上げた刹那だったり、熱したフライパンの上に卵をひとつ割り落とした刹那だったり。

その瞬間はいつもその時僕が行動していたことと全く関係なく降ってくる。

カラカラに乾いたパイル地の心地よさも、生命力に満ち満ちた眩しさに眼球が痛むことも、ふるふると不安定な半透明が白く固まっていくことも、僕には少し遠い世界の出来事のよう。

『   』

初めて名前を呼び捨てられた瞬間は、今でもよく覚えている。
驚きと、戸惑いと、ほんの少しの照れくささ。
そしてあらゆるものを犠牲にしてまで頑丈に構築したはずの壁を意図も簡単に破壊されたことに対する、腹の奥底から湧き上がる激しい怒りと嫉妬心。
あの瞬間から僕は、それまで全く知らず、想像することすらなかった感情や、景色の色彩、風の気配、そして今思い浮かべて指折り数えることもできないくらいの沢山の見目珍しいキラキラしたものたちを知った。
それらは今まで僕の手のひらの上になかったものばかりだったのに、手に入れた次の瞬間から、まるで最初から僕の手の上にあったもののようにごく自然に僕に馴染んだ。
この指の隙間すり抜け、また僕から離れていくなんて思えないくらい、それは僕にすっかり馴染んでしまったのだ。

『   』

何度名前を呼び捨てられたかは、もう数え切れない。
そのたびいちいち初めて呼び捨てられた瞬間を思い出してしまっていたくせに、何度呼び捨てられたか。そしてその時折その僕を呼ぶ声に一体どんな感情が込められていたか思い出せない。

僕は手のひらの上に新たに手に入れたキラキラしたものたちを、ある日突然またなくして呆然とした。
僕は手のひらの上のキラキラしたものをなくす日がくるなんて夢にも思わず、脳裏反芻するでもなく、フィルムに焼き付けるでもなく、何かに記すでもなく、ただ凡庸とぬるま湯に浸かり日々を過ごした自分を少しだけ恨んだ。
いつかこうしてなくしてしまうことが最初から分かっていたら、僕はそれらキラキラしたものたちを手に入れないようにしていただろうか。
君が僕を呼び捨てる声すら、耳を塞いで拒否できていただろうか。
それとも、手に入れた瞬間からなくしてしまう瞬間までの間に、それ相当の覚悟くらいできていただろうか。
すっかりなくしてしまった今ではそんな「もしも」なんてどうでもいいことだけれど。

だけどその瞬間はいつも突然僕の元へとやってきた。
僕は何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないのだろうか。と思って顔を上げるのだけれど、

『   』

初めて僕の名前を呼び捨てた時の君の声が脳裏過ぎるだけで、最後に僕の名前を呼び捨てた時の君の声や、それに含まれた感情の欠片すら、僕は思い出せなくてまた顔を伏せる。
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