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見えないから切ないのだ

いつか手にして泣きたいものは、

あなたの腕に大事に大事に抱かれるもの。

それは目に見えないもの。

だから余計にいつかこの手に抱いて、泣きたいと切望するもの。
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手に入れるためになくしたもの

夜の雨は時々、身体の奥深く芯の辺りを水の幻で満たし、ぶわりと膨らませて筋肉から皮膚まで圧迫する。
ぶわぶわとした圧迫感は雨が止むか夜が明けるかするまで収まらず、そういう時はどうしようもなく気だるくて、食事だとか睡眠だとか以前に呼吸すら億劫になる。
壁際に押し付けたベッドの真上、背中を壁に預けて両手足を投げ出し、カーテンも閉めず、明かりもつけずに窓の外を流れ落ちる土砂降りの雨の気配ばかりを追って時間を潰すしかない。

「…早く雨、止まないかな」

ぽつり、零した独り言。
声を出すだけでも結構肺活量がいるんだなぁ。なんて、普段の自分じゃ考えられないようなことを、だけど本気で思う。

あの時。
うなだれ地面に力なく膝をついた君の透けるような白いうなじに息を呑んだ僕は、咄嗟に駆け寄ろうとつま先で地面を踏みつけた。
だけどそのまま背後に蹴り飛ばすことができなかったのは、君の元まで全力疾走できなかったのは、顔を上げるでもなく僕の存在に気づいた君が、僕に真っ直ぐ、手のひらを向けたからだ。
その手のひらは無言で僕に、来るな、と言った。
来てくれるな、と。
それは拒絶だった。紛れもなく頑なな、拒絶だった。

その指先が僕を呼んでくれるなんて思い上がっていたわけじゃない。だけど君は誰より傷つきやすく、不器用なだけで本当は優しいから、もしかしたら許してくれるんじゃないかと思っていたんだ。
僕が、君に駆け寄ることを。君のそばにいつでも存在することを。
だけどあの時の君の手のひらは、そんなのちっとも許してはくれなかった。
僕は立ち竦んだ。
その場から遠く離れることで君をひとりにしてあげることもできず、だけど声をかけるどころか拒絶を強引に無視してそばに駆け寄ってその肩を撫でてあげることもできずに、僕は立ち竦んだ。
どうしていいのか分からなかった。
どうしたらいいのか。
君に拒絶された僕は一体これから何をどうやって。

たったひとつの願い事を祈るだけで。
まだ叶っていないけど、いつか叶えたいと願う。たったそれだけで。
僕らは大事なものをふたつもなくした。

ぶわぶわとした圧迫感に疲れ切って脱力したまま放り出していた耳に、トン、トン、階段を上る足音が聞こえた。
それは歩けてるのが奇跡みたいだと思うほど今の僕よりもっと疲弊しきって、重々しく、気だるく近づいてくる。
トン、トン、…トン。
ぴたりと止まったのは、今僕がいる部屋のドアの前だ。
目の前にあるドアノブが異常に重たいものに見えているのだろう。一度触れたらそれがどんなに重労働になったとしても絶対に開けなければならない気がして、ドアを開けるという行為を開始することに躊躇しているのが見てなくても分かる。
だって今の僕にとってもそのドアノブは途方もないものだもの。
僕は何故か億劫な呼吸を抑えて息を殺し、君がドアを開けてこの部屋に入ってくるのを待った。

あの時。
一度僕を拒絶した君は、だけど次に会った時にはもう普段通り振舞っていた。
僕と目が合っても普通に、まるで何事もなかったかのように声をかけてくる。そして僕はそんな君の態度も予想していたから、普通に。普通に返事をした。普通に。
…普通に。
だけど僕はいつもみたいに上手に笑えていただろうか。
君に拒絶されるという初めての衝撃を味わう前の、何も知らない僕のまま振舞えていただろうか。
少し自信がない。
すごくすごく遠いことのように思うけれど、今日の昼間のことだ。
君はその後すぐにどこかへ出かけてしまい、今の今まで連絡も取れなかった。

手の重さだけでドアノブは簡単に動く。力なんて込めなくていい。
さぁ開けて。僕にその姿を見せて。
夜の雨にずぶ濡れにされ凍え重たくなった身体と、全くの素である疲れ切った青白い顔を見せて。
拒絶しないで僕を。
いらないなんて。
来るななんて言わないで僕に。
欲しがってくれなんて言わないからせめて、僕を許して。

「ひとつ願っただけで、ふたつも消えた。不毛だよね。願っただけなのに」

僕は小さく、だけどドアの向こうで躊躇し続ける君にも聞こえる程度の声で言った。
声を出すだけでも結構肺活量がいる。気力もいる。勇気もいる。覚悟もいる。
僕はたったそれだけでまたへとへとになってしまい、早く雨止まないかな、とか、夜明けないかな、とかどこか暢気に思った。

「…それでも俺は願う。自分の願いを叶えるためにお前の願いを潰してでも」

ドアの向こうから小さく、だけど僕にだけ届く低い声で君が言った。
僕は雨が止むか夜が明けるまでぴくりとも動かせないだろうと思うくらい重たく気だるい身体を無理やり引きずり、ドアの前に立った。
だけど立ち続けていられなくて、すぐにその場にしゃがみ込む。
顔を上げてるもの億劫で、僕は俯き両膝に顎を預けて暗い床の擦り切れた木目を眺めた。
それは僕らと同じく水の幻に満たされて、ぶわぶわ圧迫されてるみたいで苦しそうだと思う。
そこにある、というだけのことさえなんて気だるく辛いことなんだろうと思う。

ひとつ願っただけでふたつも消えた。
もし願いを叶えたら、一体どれほど消えるんだろう。
君の願いの中に僕の存在は許されないのだろうか。
僕の願いの中に君は必要不可欠だというのに。

「雨、早く止んで欲しいよね。夜、早く明けて欲しい。…ね、ドア、早く開けてよ」

もう、尻餅ついてしまいそうなんだ。
そうなったらきっと、もうベッドの上にすら戻れなくなってしまうから。
君が部屋に入ってくるのすら阻んでしまう。
それでは意味がないのだ。

「せめておかえりくらい言わせて。平和そうな言葉のひとつ、口にしてみたいんだ」

どうせ濡れて帰ってきたんでしょ。風邪ひくよ、とか、風呂入ってきなよ、とか、もう飯食った?とかさ、色々あるじゃない。言わせてよ。手放しに平和そうな、どこにでもありふれた言葉をさ。僕にもさ。今くらいいいじゃない。外は雨だし。夜だし。ねぇ。
気を抜いたら泣きたくなるくらいの、どうでもいいのに大切な言葉たちをさ。
言わせてくれよ。
もうこれ以上ないんだ。なくしちゃったから。ふたつも。
アンタだってそうでしょう?
だから帰ってきたんでしょ、ここに。
遠くまで。行けるとこまで行って、でも結局帰ってきちゃったんでしょ、ここに。

僕はひくひくと痙攣する頬を必死で笑みの形に歪め、背後の窓、止む気配も、明ける気配もしない真夜中の長雨が君のあの真白なうなじをも覆い尽くし強張らせたのだろうことをぼんやり想像した。
きっと今も尚、痛々しいほど鳥肌を立てて震えているのだろうことも。
それでもドアの向こうにいる僕の、へんてこに歪んだ笑顔と対面する気力も勇気も覚悟もなかなかつけられず、躊躇し続けていることも。
なのにまた立ち去ることもできずにいることも。
…分かってるから。大丈夫。

窓の外、あらゆるものを叩く雨音以外、何も聞こえない静かな真夜中。
ドア一枚挟んで立ち尽くす君と、しゃがみ込んだ僕。
たったひとつの願いを叶えたいと祈る。たったそれだけで大切なものをふたつもなくした君と僕には。
今の僕らには、雨が止むのも、夜が明けるのも、あまりに遠い。
あまりに、遠すぎるんだ。

名前を探して。

あなたは奇麗だ。君は笑った。
見た目もそうだけど、今俺が言う奇麗はそういうことではなくて。
あなたの体内潜む、だけどどんな医療機器を使っても見つけられないし数値化できない核の話。心の話。
打ち付けた手首が赤黒く染まり、見た目だけで十二分に痛むそれをもう片手のひらで覆い隠しながら君は笑った。

僕は君と同じくらいの強さで打ち付けたわき腹の軋むような痛みを溜め息で覆い隠し、君を真似て笑う。
知ってた?僕と君はよく似てるんだ。
だからこそ、僕のそばにいつも君がいてくれると信じれば信じるほど、僕はどんなことも平気になっていく。
痛みも迷いも吹っ切れてしまう。
まるで魔法のように。

ずっと一緒だと幸福な勘違いをさせてくれるほどに。

あてどない旅路を行く君の隣、僕は僕と君の名前を探して歩いてみたかった。
あまりに似すぎている僕と君の、ふたり旅。
きっととても、幸せにまみれた苦しい旅路だ。

だって僕らには、最初から名前などないのだから。
どこにも。

“彼”に関する考察レポート

彼について?
そう…だね、一年と少しばかり彼のそばにいたけれど、まだまだ分からないことが多い。
ただ一言はっきり言えるのは、彼は圧倒的に「大人」だということだろうか。
僕は様々な場面でそれなりの結果を出してきたと自負しているし、まずまず正当に評価されていると思うけれど、結局、彼の前では単なる若輩者でしかないんだ。
というより、尚悪く、単なる子供でしかないかもしれない。

彼は僕と比べること自体が間違っていることに思えるほど、圧倒的に大人だ。
時々悪戯っぽく歯を剥き出し、斜め下から僕を見上げるような仕草で笑ったり、僕らと一緒になってはしゃいでみたりもするけれど、その時さえどこか冷静に周囲を見ているようでもあった。
僕らとの距離感の取り方も絶妙だった。誰より近くにいると見せかけて安心させときつつ、どんなに間違っても踏み込めないくらい遠く離れていた。
あぁ、簡単に言えば、単に落ち着いているんだろうね。
確かに生きてきた年数だけを見ても僕と彼の間には圧倒的な隔たりがあるし、社会に出て自分の力で稼ぎ、生活をしていく面でも大先輩。
言わずもがな、経験値の差は歴然だ。
だけどまさかここまでとは夢にも思っていなかった。
僕はどこにでもいる若者よろしく、世間を甘く見ていたし、心底自惚れてもいた。

実際彼、僕と初めて顔を合わせた時、まず僕の年齢を聞いてきたんだ。
仕事の内容とかそういうの後回しにして、まずそれ。
そして答えた僕に対して、自分の年齢を口にしただけでは済まさず、僕と彼との年齢差を口にした。
それは僕と彼とが、年齢だけではなくどれほどかけ離れた存在かを、まず僕に知らしめる行為だったんだと思う。
多分、僕が「若者」然とした紗にかまえた視線でそこに立っていたことを瞬時に見抜いたんだろう。
さすがだよね。

彼は自分が一度請け負った仕事に関してものすごくシビアで、職務遂行のためなら何でも犠牲にした。
彼が今になってもまだ家庭を持っていないのは、多分忙しすぎて彼女を作っている暇がないだけではなく、そういう理由もあるんだと思う。
むしろ、わざと避けているように見える。
うん、できない、のではなく、しない、の方。
家庭と仕事を天秤にかけた時、自分が迷わず仕事を取ることを知っているし、それどころか天秤にかけることすらしないと固く決意しているみたい。
そうなった時、不幸にしてしまう人がいるわけで。
彼は多分、前もって悲しませたり寂しがらせたりすると分かっている人なんてわざわざそばに引き寄せるつもりないんだろうな。
彼はそういった優しさの使い方をする。
彼は多分あのまま独り身を貫くつもりだと思う。彼とそんな話したこともないから分からないけど、そんな気がするんだ。
何より仕事を最優先にするから、彼は家庭を持って落ち着くつもりなんてないんだ。
落ち着いたら終わるんだよ、きっと彼の中で。色々と。
大人然とした落ち着きと、家庭を持つ者の落ち着きとはまた違うものだし。
多分ね、これ多分なんだけど、彼は自分が大人然とした落ち着きを持ってしまっていることすら後悔してるんじゃないか、って思うんだ。
彼は落ち着きたくなさそうに見えるから。いつも。
変な人だよねぇ。僕に格差を見せ付けておいて。自分が一番その格差にショックを受けてる感じ。

彼の生き方は彼の手にそのまま現れていると思う。
器用に何でもこなすかと思いきや、大切なところで妙に不器用だし、ごつごつと力強く頑なで、何でもその気になれば簡単に壊してしまいそうなのに、優しくしなやかに動く。無邪気なのにしたたかだ。
お世辞にも綺麗とは言えない。いつも深爪気味だし、どっちかと言うと乾燥肌っぽいし。なのにいつ触れても汗ばんでたり熱を持ってたりしてむさくるしいことこの上ない。
だけど僕は彼のそんな手が好きだ。
何故か彼と僕は何かにつけよく握手をした。
お疲れ様でした、の握手。だから会うたび殆ど毎回してたんじゃないかな。
それだけ僕と彼は一緒に仕事をするとなると命がけとも取れるほど全精力をつぎ込んだんだ。
お陰で毎回へとへとになったよ。家に帰り着く頃には意識は朦朧。すぐにベッドにダイブ。そして目覚めたらまた仕事だよ。
いつか僕は過労死してしまうんじゃないかと思うくらいきつかったよ。
彼はよくこんなこと続けられるな、と思った。
彼は完璧だった。仕事に関してだけは本当に。

手抜きも忘れてなんでそんなに頑張ったのかって、…多分僕は悔しかったんだと思う。
彼ほど仕事にわき目も振らずいられる自信がないことを、彼を見て自覚したから。彼のようになりたいと心の奥底から思うと同時に、彼のようにはなりたくない、とどこかで思っている自分を自覚したから。
僕はどんなに彼を尊敬し彼に憧れても、彼には絶対になれないのだと思い知ったから。
だからせめて彼と仕事を共にしている間くらいは、彼のそのまま思い切り正面からぶつかっていたいと思ったんだ。
僕なりのやり方で、僕なりの全力で。
それが彼の前では単なる若輩者だった僕にできる、彼へ示せる唯一の誠意だと思ったから。
可笑しいよね、僕はどっちかっていうと手抜きに見せず手抜くのが上手い方なのに。

彼は僕をよく呼んだ。何かにつけてよく。
彼の声は特に低すぎるでもなく高いわけでもなく、少しばかりハスキーな部分を除けばさほど個性的な声ではなかった。
だけど多分今でも僕は、彼の声だけはすぐに聞き分けられる自信があるよ。
ざわざわ騒がしい雑踏の中でも。
それだけ彼は僕を呼んだし、僕と話をした。殆ど仕事の話ばかりだったけどね。
休憩時間の他愛のない雑談の中にも、彼は決して仕事を忘れなかったから。だけど堅苦しい感じは元々彼自身にないから、僕はいつもそれを不快にも思わず応じていた。
むしろ、仕事の話をする、という大前提さえあれば、僕はいつでも彼を独り占めできるのだと内心喜んでいたりもした。
彼の周囲はいつも人でいっぱいだったから、そこから彼を引き外し、自分の目の前に置けることが特別めいて嬉しかった。
多分彼は僕のそんな子供地味た独占欲も分かっていて、大人の優しさプラス、自分の好奇心プラス、必要性を考慮して、僕の前に座ってくれていたんだと思う。
簡易パイプ椅子に座った僕の前、いつも正しい姿勢で立つ彼がほんの少し猫背になって、悪戯めいた…そう、不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫みたいなあれ。あの笑顔で下から斜めに見上げるようにして笑うんだ。
笑って、向かい合わせに置いたパイプ椅子に座るんだ。
僕の名前を呼びながらね。
僕はそのたび内心はしゃいだ。本当の子供のように。

彼のプライベート?僕が知るわけないじゃない。
昔付き合ってた彼女とも連絡は取ってないみたいだし、現恋人もいないようだし。
仕事人間よろしく、他に何か趣味がありそうでもないし。
正直、僕は彼のプライベートなんてどうでもよかったんだ。
仕事人間である彼と一緒に仕事をする、ということで手一杯で、その他に目を向け掘り下げる暇なんてなかったし。
今でも彼は僕を呼ぶよ。やっぱり仕事の話ばかりだけど。
いや、僕はそれがいいんだ。それでいい、ではなく、それが。

彼のあり方は僕の人生にとても大きな影響を与えてくれた。
僕は彼に感謝しているんだ。そして、正直できればもう少しとも思ってる。
彼から吸収できるものは何でもしておきたい。まだ尚もっとあるはずだと思うほど彼の懐は広いし、彼の引き出しは豊富だ。
僕はいつか彼の元から巣立つ。彼と仕事をしてきた経験を活かし、彼から受け継げるものは受け継ぎ、だけど彼とは違う大人になる。
彼と僕との圧倒的な隔たりは、年齢だけでなくその他様々な意味でも決して埋まらないものだと思うけど、だけど彼とまたわき目も振らず過労死しそうなくらいのハードな仕事を。
今度は、彼からの直接のご指名をもらって。隣に並んでやりたいな。

彼について?
そう…だね、うん。今の僕に言えることといったら…彼は圧倒的に「大人」だということ。
彼の手は、彼の声は、彼の全ては仕事のためにあるということくらいだよ。
僕はその彼の長い人生の中、一年と少しのわずかな時間関わり、また会える日を今すでに夢見てしまうほどに。

彼が好きかって?
好きだよ。好きだね、本当に。
なんだろう、別にそういう意味じゃないんだけど、時々無性に彼を捕まえたくなってしまう。
鬼ごっこの鬼になったみたいに。
彼は多分きっと、僕と一緒にはしゃいで逃げてくれると思うんだ。
どこか冷静に周囲を見極めながら、丁度いい頃合いを見て、僕に捕まってくれちゃうんじゃないか、って。
そう、彼は多分、そんな人。

四つ目のための断片候補

あの人からこの携帯に着信があるのはこれで二回目だ。
僕はなんとなくその物珍しさに、素早く瞬きをした。
最初はあの人の携帯の番号すら知らなかったから、一回目の時は見知らぬ番号からかかってきたと途惑ったっけ。
だけどそのまま無視することができなかったのは、マナーモードで震え続ける携帯の、いつもと同じはずなのにどうも不穏な気配を伴ったそのフォルムに前髪を引かれたような気がしたからだ。
あの人から僕の携帯に電話がかかってくる時は、非常時だけなのだろうと思う。
まだ二度目の通話すらしていないけれど、僕は無言で震え続ける携帯の、登録したまま呼び出すことのないあの人の名前を見下ろしながら何故か確信した。
このまま気づかなかったことにして逃げることも可能だったけれど、僕はやっぱりそんなこともできずに通話スイッチを押すのだろうと思う。
押せば、僕が苦労して作り上げる忙しくも平和な日常が、いとも簡単に。かつ容赦なく非日常にひっくり返されると知っていて。
あの人の名前は僕の前髪を引く。それはそれは強引なほどに。
何故かは知らない。…ふりで。
こんな時でも忘れない悪足掻きで、深くて重たい溜め息、ひとつ。

好奇心は猫をも殺す

「知る」ということと「死ぬ」ということがイコールで結ばれているとして。

それでも君は、知りたいと願うのだろうか。

命がけの問いかけの言葉を、それでも君は彼に投げかけるのだろうか。

人呼びの詩

なぁ何か歌ってくれないか。と強請る声はどこまでも甘く幼く、どこか有無を言わせぬ強引さも相俟って無下に断ることができなかった。
人に聴かせるほどの喉など持ち合わせていない僕はかなり躊躇したが、多分、彼はプロ級の美声などはなから期待していないのだろうと思い直す。
鼻歌程度なら無意識紡ぐことくらいあるけれど、ちゃんと喉を震わせ歌詞を紡ぐような歌なんて、一体どのくらいぶりだろう。
何より、何を歌えばいいのだろう。
彼が今欲しているだろうものは静かで優しく、ぬるい歌なのだろう。くらいしか思いつかない。
仕方なく、僕は昔聞いた歌をまるで子守唄でも歌うかのように声を抑えて歌うことにした。
だって他の誰かに聞かれても恥ずかしい。
本当なら、人前で歌を歌う、というだけで十分恥ずかしいのに。

ぴちりと隙間なくドアを閉め、簡素な内鍵まで閉めて閉じ篭った薄暗い一室。
僕と彼以外誰の気配もしない、すかすかな部屋。
彼は壁に背を預け、足を投げ出し座った僕の膝を抱え込むようにして横になった。
僕は遠慮がちに、彼のはらはらと落ちる漆黒(それは今にも何の躊躇もなく薄闇の中に溶け込んでいってしまいそうなほどの艶やかな黒)の髪を指先で撫でながら、歌を歌う。
懐かしい懐かしい、古い歌。
あの時でも十分胸の奥から震えたあの歌は、あれから大人になり様々な経験を積み、己を知った僕に更に深く沁み込んだ。
膝の上、重ねた腕の中、ほんのひとときだけのこの彼の重みに溺れそうだと思った。
溺れてしまいたいと思った。
そうなったらもう二度と元いた場所に戻れなくなると分かっていても。
否、もしかしたらもう駄目なのかもしれない。

彼はうとうとしているのだろうか。
先刻から身じろぎひとつせず、じっとしている。
薄暗い最中に慣れた目で彼の横顔を盗み見るも、ひたりと瞼が下りたまま。
僕はなんとなく、弛緩した頬の表を包む柔らかで透明な産毛の気配を探したくなった。
それでも僕はなんとなく歌い続ける。
歌うことが楽しいからとか、歌わなきゃいけないからとか、そういった理由からではない。
ただ、止めるタイミングが分からなくなってしまったのだ。
彼は心地よさげに眠っているように見える。だけどもし彼が本当は眠っていなかったら。中途半端なところでいきなり歌うのをやめてしまったら、気まずい静寂が僕らを飲み込んでしまうではないか。
彼の安らかなひとときがぶつ切りになってしまうではないか。
僕の精一杯、が、無駄になってしまうではないか。
僕はできるなら今すぐにでも歌を止めたいと思ってしまう心を叱咤し、ぼそぼそ曖昧な発音で懐かしい、ひたすら懐かしい歌を歌い続けた。



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彼は言う。
西洋の海の魔物の伝説を知っているか。セイレーンという魔物だ。
セイレーンはこの世のものとは思えぬほどの美しい歌声で船乗りたちを呼び寄せ、二度と港に帰れなくさせる。
捕まえて喰らうという話もあるし、逃げようとしても船が動かなくなってしまう、もしくは正しい航路に戻れず彷徨うという話もあるし、嵐を起こして船を沈めてしまうという話もある。とにかく共通しているのは、海の魔物の歌を一度でも耳にした人間は、二度と戻ってこなかった、ということだ。
人を殺す魔物だ。
多分、昔の人は愛しい人が乗った船がいつまで経っても帰ってこないことを嘆き、そういった魔物のせいにして自分たちを慰めていたのだろう。
憎む相手、畏れる相手がいれば、まだ言い訳になるから。海を恐れつつ、それでも海のそばで海に関わりながら生きていけるから。
だけど俺は時々思うんだ。
セイレーンに呼び寄せられた人たちは、果たして本当にセイレーンによって殺されたのだろうか。
悲惨な死を遂げてしまったのだろうか。
この世のものとも思えぬほどの美しい歌声を耳にし、その姿を一目見ようと。少しでも近くで聴こうと近寄った人々は、もしかして。

「帰ろうと思わなくなった」のではないか。

このまま一生死ぬまでずっと。その美声のそばにいたいと思ったのではないか。
愛する人を港に残し、無事に戻ると約束していたことも、遂行すべき仕事も何もかも、忘れた、もしくはそれより大切に思ったのではないか。
もしかしてセイレーンの歌声を聴き、二度と戻らなかった人々は、仕合せだったのではないのか。

彼は言う。
なぁ何か歌ってくれないか。二度と戻れなくてもいいと思わせる歌を。
愛する人たちを捨て、大切にしていたものも忘れ。
いつか冷たい海の底に沈み、海の藻屑となることも厭わぬほどに、仕合せな歌を。
セイレーンは今で言うプロのような正しい音階で正しい発声で正しく歌っていたとは思えないんだ。
きっとただただ全てどうでもよくなるほど、人の心に沁み込み地球の殆どを包む海水に溶け込んでしまうような歌だったのだろうと。
だからお前に歌って欲しい。なんでもいい。お前が今、思いついた歌を。
そしたらきっと俺はもう、戻れなくてもいいと。惑わされるでもなく自分で決めて、お前もろともここで溺れ死ぬことができるから。
なぁ何か歌ってくれないか。
そして、俺とここでこのまま溺死してくれないか。

海の魔物になど到底なりきれない僕はそれでも、小さく頷くしかないのだ。
全くのど素人である拙い歌で、彼を港から完全に引き離してしまうしかないのだ。
そうしないと彼はいつかきっと。僕はいつかきっと。
たったひとりで広大な海の真上、もうないと分かっていながら帰り道を探して永遠に彷徨わなくてはならなくなるから。

僕は言う。
セイレーンは寂しがりなんだよ、きっと。
ひとりはもう嫌なんだ。
だけど人の寿命は短いでしょう。魔物は人より長く生きてしまうのが決まり事。
そうだね、セイレーンは確かに、ものすごく歌が上手なわけではないのかもしれない。
寂しい、誰か、愛してあげるから愛して。そばにいて。ひとりにしないで。と、切実な想いを歌っていたから、人は引き寄せられていたのかも。
じゃあ僕は魔物にでも何にでもなろう。
そうして、アンタを呼び寄せよう。
愛しい人たちも、大切にしていたものたちも全て捨てて、忘れて、投げ出してしまうほど、仕合せに溺れて死のう。

僕は言う。
僕の歌はこれでお終い。ねぇ次はアンタが何か歌って。
二度と戻らないことを決意せざるをえないほどの、仕合せな人呼びの詩を。

「退屈」は死に至る毒だ

退屈で退屈でたまらなかったんだ。
たったそれだけで?と君は憤るかもしれないけれど、僕にとってはそれだけで十分な理由だったんだよ。
今、そのままでいられなかったその瞬き一度分ほどの刹那を僕に頂戴。

僕はただ、大声上げて笑いたかっただけ。
寂しかったんじゃない。
ただ、退屈で退屈でならなかっただけなんだ。

ねぇ、遊んでよ。僕と。
もっともっと。一緒に。

だってそうしないと、いつか君も同じ想いをすることになるよ。
平気だなんて嘘つかないで。

見えすぎる彼の目を眩ませるために

シャ、と勢いのついた音がして、分厚いカーテンがレールの上を滑る。
その不意打ちに驚いて閉じていた瞼を開けた途端、目に酷く激しい痛みが走り、視界が一気に真っ白になった。
遮光カーテンに守られた暗闇に甘え切っていた眼球が、いきなり差し込んだ強い光に眩んだのだ。
視界を塗り潰し何も見えなくさせる、ということだけに関しては、光も闇も同じだと思った。
張り付いた結露が白く凍った窓越しに、いつの間にか朝日が昇っている。
すり硝子のように不鮮明な視界はだけど、ひっそりと静まり返った闇を絶対的な力でもって押しのけていく光を十分俺に知覚させた。

もう二度と目覚めないのではないか、と思うほど昏々と眠り続けていても、結局こうして目が覚める。
彼の手によって目覚めさせられる。
俺が、望んでいようといなかろうとそれは同じだ。
こんな目覚めの朝を迎える羽目になったのは、一体いつからだっただろう。

「夜はいつも昼をゆっくり覆っていくのに、朝はいつも夜を無理やりぎゅうぎゅうと隅に押しやっていく。随分乱暴だな。お前にそっくりだと思わないか?」

まだ光に慣れない目を強く瞑って耐える俺の頭上、勝手にカーテンを開けた犯人の声が、皮肉めいた笑みを含んで降り注ぐ。
どっちがだ。心の中でひっそり毒づきつつも、その皮膚や鼓膜に触れる音声の振動からなんとなく自分と相手の距離感を測り、今目を開けるのは止そうと判断した。
目が慣れたとしても、せめてもう少し顔と顔の距離が離れてからだと。

「おはよう。分かってるとは思うが、二度寝は許されないからな」

「分かってる」

俺はわざとらしいほどに憮然とした口調で取り繕う。
距離はまだ、近い。
腕で庇うには少し足りない気がして毛布を引き上げ顔を覆うも、軽く引き剥がされた。
ち、と舌打ちし、無理やりにでも距離を作ろうと闇雲に腕を振るが、くつくつと喉を鳴らして笑うそいつはその腕を簡単に避け、また同じ距離に戻ってくる。
俺が目を閉じているせいで何も見えないのをいいことに、からかっているのだ。
だけど寝起き一発そいつのドアップから一日を始める気には到底なれなかった俺は、頑なに目を開けない。開けさせようとするそいつとの攻防戦は、これまた毎朝のことだったりするから不快極まりない。

「いい加減に、」

しろ、と怒鳴ろうとして、ふと気配が遠のいたのが分かった。
からかうような笑みがぴたりと止まり、不思議に思って目を開けた途端、俺もまたその意味を知る。
彼の鋭い視線は窓の向こう側。
冬の透き通るような朝日の中を真っ直ぐ貫いている。

「…行くぞ」

どこに、とはあえて聞かない。
寝起きだとか朝飯がまだだとかそういったことは彼を止める理由になどならないことも分かっているから。

何の意味もない。
もしかしたらこのまま明けることなく永遠に続くのではないか、と疑うほど夜が深く全てを飲み込んでも、結局こうして朝がくるように。
人ひとりが日々全力で行ってきた働きかけを不意にさぼったとしても、なんの影響も起こらない。
もちろん歯車がひとつ止まるわけだからどこかで小さな綻びが出るかもしれないが、表向きなんてことない。
大したことない。
せめてと願うのはいつも同じで、些細な揺れにいちいち動揺したって変わらない。
全ては単に些細なことの積み重ねなのだ。

俺は着ていた寝巻き代わりのくたくたのシャツをベッドに脱ぎ捨て、慌しく適当な衣類に着替えてコートを引っ掴む。
靴下が左右違っていてもこの際気にしないことにしよう。靴を履いてしまえば誰からも見えまい。
開けっ放しになっていたドアの向こう。彼は一瞬立ち止まってこちらを振り返った。
その目はつい先刻の戯れが嘘か夢みたいに、殺意地味た物騒な光を灯して俺を射抜く。
朝日とも夜の闇とも似た彼の深い深い両目は、やはり俺の視界をそれだけで塗り潰してしまうものだ。
それに魅入られるなんて絶対にごめんだと思う。
この距離でこれなのだ。俺は至近距離で目を開けるなんて馬鹿な真似はしないと決めている。

俺が床を蹴り上げるとほぼ同時に彼もまた俺から視線を前方に素早く投げ打ち、走り出した。
置いて行かれてなるものか。
俺は、ただそれだけを思って彼の背中を追いかける。

彼だけが知っていて、俺が知らないことが多すぎる今は、まだ。
俺だけが知っていて、彼が知らないことを彼に伝える義務なんて、多分俺にもない。

飛び出した下界。未だ闇に凍らされた気配残る空気が頬をきゅうと冷やした。
首に引っ掛けたマフラーを巻きつけようと手を上げた俺の肩を、彼の手がぽんと叩いて行く。
耳元、微かに聞こえた低く、真剣な声が俺の名前を呼ぶ。
俺はつい顔を上げ、するりと俺の隣をすり抜け先を行く彼の背中を見た。
慣れたはずの目がまた眩むのは、俺を覆い尽くし守ってくれる暗幕が彼の手によって乱暴に、一気に引き剥がされたからだ。
きっとそうだ。
だから俺はそう遠くない未来、彼の暗幕を引き剥がさなければならない。
彼にもまた、目が眩むほどの眩い朝日を当ててやらなければ。彼が俺の目をそうやって塞いだように、彼の見えすぎる目を塞いでやらかなければならない。
それができるのは、多分俺しかいないから。

俺はまた、俺の少し先を行く彼の背中を追いかけた。
あわよくば追い抜いてやろう。口端歪めてそう思う。
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