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オレンジ・ペコー

沢山のものを守ろうと、正面からぶつかる風に抵抗もせずただただ切りつけられ傷つくことを繰り返す君は、誰より馬鹿で愚かで、愛しい。
そんな君の絆創膏だらけの指先が、あたたかなティーカップの淵をゆるゆるとなぞっていくのを、俺は君に興味なんてちっともないふりをして隣に座ったまま、横目にひっそり眺めた。
ゆるゆる、ゆるゆる、君の傷だらけの指が。お世辞にも奇麗とは言えない無様な指が、だけど何より誰より優しくそっと、華奢なティーカップの淵を辿っていく。
同じ辺りを何度か撫でて、くるりと一周したら、もう一回。
多分、君はまた考え事をしているのだろう。
また、君に不相応なほど答えのない迷路みたいな小難しいことを延々思い悩んでいるのだろう。
君のそういうところもまた、馬鹿で愚かで、愛しいと思う。
俺は、思う。

以前、お前の信じるものは何なんだ。と俺が問うた時、君は真っ直ぐ俺を見つめるだけで答えを口にしてくれなかったことがある。
負う必要のない傷まで負って、なんでそこまでできるのか、何のためにそこまでするのか、俺にはちっとも分からなかった。
人は何か最終目的があってこそ、頑張れるものだと思う。
それが例え独り善がりな欲望であれ理想論であれ、自分が信じて疑わない目標があり、それを叶えるためになら傷をもまた厭わないものだと。
俺には確固たる目標がある。だからそのためだけに生きることができる。走ることができる。夢中になれる。それ以外の全てを冷淡に投げ打つことができる。
だけど、どうしても君の目標が見えない。分からない。言ってることが全て真実だとも思えない。俺が知りたいのはそんな表向きなものではなく、君本人の剥き出しの真実だ。
だから聞いたのに、君は揺らぎもしない真っ直ぐな目で俺の両目を見詰めるだけで、うんともすんとも言わなかった。
いつまで待っても、何も言おうとしなかった。

君のささくれ立ち痛み切った無残な指が、少し有名な銘柄のティーカップの薄く美しい淵をなぞる。
優雅な柄が焼きこまれたティーカップに触れる指の歪さとか虚しさとか、そういったものとカップの存在のあまりのアンバランスさに、何故か俺の方がいたたまれなさを感じてしまった。
丁寧に淹れた紅茶から湯気は立ち上り続け、満たされたままのカップの中からあたたかみだとか、旨みだとか、香りだとか、そういった大切なものがどんどん抜けていくのが見ていて分かった。
それら紅茶の紅茶たる魅力を、今後君が自らの身体で知ることはない。
多分もうない。
そう思い知るだけ俺は何故かいてもたってもいられなくなる。

「…紅茶飲めよ。冷めたらまずい」

俺はできるだけ静かに、さりげなく、だけど急いでそう言った。
そこでようやく君はカップの中の液体の存在理由(紅茶は飲み物だ、という基本中の基本)に気づいたかのようにはっと顔を上げ、あぁ、と苦く笑ってティーカップの細っこい、優美な曲線を描くラインを指先で捕らえた。
持ち上がるカップ。その薄く開かれた唇に触れる、先刻まで痛々しい指先になぞられ続けるだけだった淵。
湯気の格段に減ってしまった透明度の高い鼈甲色の液体が、

…だけど君の唇に触れる頃にはもう。

「あぁもう冷えちゃってる。苦い」

君の苦笑を濃くするだけで、君の中に凝った冷たい何かをあたため解す作用なんてないんだ。

「…なぁ、もう一度聞くが」

俺が以前投げかけた問いをもう一度しようとした刹那、君は不意にぐぃっと苦いだけの冷えた液体を呷った。
ごくり、喉を鳴らすことで俺の言葉を遮った君は、やっぱり苦いと僅か疲れたように笑い、横目に。今日初めて俺を視界に見つけたみたいにそっと、どこか申し訳なさそうにぎこちなく、俺を見た。

「人ってね、何もなくても生きていけるんだって。独りでは生きていけないけど、意味とか意義とか目的とか、そういった頑なではっきりしたものがなくても、それなりに生きていけちゃうんだって。知ってた?」

いきなりそんなことを言い出す君に、俺は大いに戸惑った。
なんて返せばいいのか分からず黙っていると、君は小さく首を振り、僕にはそんなの信じられない。何もなくなってしまったら、どうしていいか分からなくなるじゃない。と悲しげに呟く。

「僕が特別弱いだけかもしれないけど、僕は何かのためとか、誰かのせいにしないと、一度座ってしまった椅子から立ち上がることもできない」

君は眉間に皺を寄せた切実そうな表情裏腹、淡々と独白した。
そう、独白なのだそれは。俺に向かって言葉を投げかけ、俺からの返事を待つ会話のキャッチボールなんかじゃない。単なる独り言。
俺はそれが分かってしまった以上(元々なんて返事を返せばいいのか分からなかったけど)、君に渡すべきものは何一つないと諦めるしかなかった。
君が何故いきなりそんなことを言い出したのか分からない。だけどそのことで、以前信じるものが何か一切口にしなかった君に、多分俺にだけ言わなかったのではなく単に誰にも言わないというだけで、確固たる何かがあることが分かった。
そしてそのことが、なんだか妙に俺を安心させた。
ふ、と溜め息が零れる。
そこでようやく、俺の前に置かれたままのティーカップに満たされたそれが、君の喉奥に消えたものよりもっとずっと冷え切って、紅茶の紅茶たる魅力の欠片もなくなっていることに気づいた。
俺もまた、君と同じなのだ。
全く違う身体と心を持った、だけど同じく馬鹿で愚かな人間なのだ。

「…俺も多分、どうしていいか分からない」

俺は胸の奥からぶわりと湧き上がった酷く寒々しい何かを必死で押さえ込んで小さく呟いた。
喉の奥がくっついていたみたいにうまく喋ることができなかったけれど、そうだと思ってた。と僅かに嬉しそうに微笑んでくれた君を見て、少しだけほっとした。

痛々しく傷ついた君の、ボロボロの指がこちらに伸ばされる。
俺は素直に届くまで待つこともできずに、いつの間にか君と全く同じようにズタボロの雑巾みたいになった汚い指でもって、そっとその傷口ごと迎えに行った。
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長い道程

一生かけても決して手に入らないものを求め求めて僕らは生きる。
時に歩き、時に走り、時にわざと転んだりしてみながら。
絶対に手に入らないものと最初から分かっているから、安心して心の奥底から必死で欲しがることができるのだ。
いつか手に入ると分かっているものは、あまりに恐ろしくてそうそう簡単に手なんか出せない。

禁色

思わず、と言わんばかりに、君の口から禁句が零れた。
それは紛れもなく僕に向かって発したもので、その言葉をあまりかけられたくなかった僕はつい眉間に皺を寄せ、唇を固く閉じてしまった。
腹が立つ、というよりも、まさかその言葉が君の口から出るとは(だって僕より君の方がその禁句を心から嫌っていた)、という驚きや戸惑いの方が勝っていたように思う。
それに、発した直後君が、しまった、という顔をしたのを真正面から見てしまったからには、さほど怒るわけにもいかない。
だけど君は慌てて、「今の忘れて」と禁句を発した時よりずっと早口で急いで言った。
今の忘れて。聞かなかったことしにてということか。
僕はなんとなく、そうしてあげたいと思った。
一度耳にしてしまった、君の音声による禁句は、すぐには完全に記憶から抹消できずに僕の脳裏をぐるぐる回るけれど。
一巡りするたびその言葉は新しい刃物みたいにいちいち僕の心をずたずたに切り裂いていくけれど。
「分かった。聞かなかったことにする」と僕が辛うじて強張った唇を動かしてもごもご言うと、君は安堵したのか残念がっているのか、ちっとも分からない中途半端に歪んだ顔で「うん、そうしてくれるとありがたい」と言った。

立ち往生

君のくるぶしは正しく張り詰めている、となんとなく思った。
ただ真っ直ぐその場にしゅっと立つ、少し丸みを帯びた後頭部、筋肉とほんの少しの脂肪分で包まれた骨の気配がする肩先から、なだらかに伸びる背中、頑強な腰骨、太もも、膝裏、ふくらはぎ、そしてくるぶしとかかと。
そのあらゆる各部位の中でも、君の剥き出しのくるぶしは特に僕の目を釘付けにした。
骨の真上を皮膚で覆っただけの、だけどどこよりも隙のない場所。
ごつごつとしたそこはきっと、触れたら硬いのだろうと当たり前のことを思う。
硬く、固く張り詰めているのだろうと。
僕は僕に背を向け美しい姿勢を保ったまま立つ君の、何よりどこより誰より、正しく張り詰めているくるぶしを、なんとなく眺め続けた。

それは大したことではないのだ

意外とそれは大したことではないんだ。と君が笑った。
あなたや他の人たちがどう思うかなんて僕には分からないけれど、そこまで大げさに考えるほど重大な出来事ではないんだと。

夜空いっぱいに広がる星たちが一斉に地球に降り注いでくる世界の終わりや、睫毛の先どころか眼球すら凍りつきそうな極寒の時代の終わりや、反対に全てを焼き尽くし黒い炭と白い灰だけになってしまう灼熱の愛の終わりだって、あなたたちが思うほど大変なことじゃない。

まるでカラフルで無邪気な子供歌を歌うようにして君は笑った。

今僕らが立っている地面がひび割れ砕け散って、様々なものが壊れ、全てのものが空に堕ちていったとしても、だからって僕らに何ができる?
もしかしたら終わりって、感動するほど美しいかもしれない。
純粋に心が震えるかもしれない。
それともそういうのも無視してありがちに絶望してみる?
全て幻だと誰か言ってくれと縋ってみる?
どれにせよ、僕らにはその場に立ち尽くしただただ終わりを眺めてることくらいしかできやしないよ。
終わりが終わって、また始まるまで。
それまで自分がまだ自我というものを持っていられたら、の話だけれど。

だから、それらに比べたらこんなの大したことないんだ。と君が笑った。
まるであたたかで残酷な子守唄を歌うようにして、君は静かに密やかに、溜め息をついた。

懐かしい懐かしい夢の中、もうすでに存在しない人の元へとひた走る自分という幻を見ただけ。
見慣れたドアの向こう、残された者だけが淡々と時を刻む残酷さも直視できないだけ。
今思えばあの手放しに平和だった、だけどあの当時の自分たちにとっては毎日が命がけの戦いだった日々。
ぬくぬくと柔らかく頑強な繭の中に守られていることも自覚せず、真剣におままごとを繰り返しては未来の自分に分不相応な願いを託した井の中の蛙たちの、愚かで稚拙な可愛い夢。
それだけの話だよ。大したことじゃないんだ。

繰り返し君がそう笑うから、僕はなんだか泣き所も何も分からなくなって、うん、とぎこちなく頷くだけのへたくそな相槌しか打てなかった。

勝敗を決する時

恋愛においては、先に本気になった方が負けだと良く言うけど。
遊びにおいては、先に本気になった方が勝ちだって知ってた?

本気とか真剣さとか、そういった勝負に絡んでくる激しい感情をを格好悪いと思うのは勝手だけれど、だからってわざと手抜く方が無様に見える時だってあるんだよ。
だから僕は最初から言ってるじゃない、遊びは本気で、真剣に。って。

だけどこれが遊びかそうでないのかは、蓋を開けてみないと分からない。
先に本気になった僕の勝ちなのか負けなのか。
さぁ、開けてごらん、君の手で。
そこに無造作に転がる答えは多分、どっちにしたって君を打ちのめす。

だって勝敗は最初から決まっていたのだから。
…そうでしょう?

こんな時くらい、素直になればいいのに

こめかみを伝い落ちる冷たい汗の気配に頬が痙攣し、そのことで我知らず、自分の顔が皮肉めいた笑みを模っていたことにようやく気づいた。
ばくばくと落ち着きなく鳴り続ける心臓がうるさい。
酸欠のせいでか、頭の中がぐらぐら揺れている。
冬の冷たい空気を必死に取り込んだ肺がその気温のあまりの低さに驚いて、油が切れた歯車みたいにきちきちと痛々しい音を立てて軋んだ。

目の前ぶら下がる自分の限界をも無視して走ったのは、別に君のためじゃない。
走りたかったから走った。
走らなければと思ったから、走っただけだ。
行き着いた場所にたまたま君がいただけだ。

そんな、子供にすら通用しなさそうな愚直な言い訳を口にしそうになって、目の前へたり込んだまま驚いた顔でこちらを見上げる君の、まん丸な瞳があまりに澄んでいるのに我に返り、慌てて飲み込んだ。
その瞳を目の前にして、くだらない言い訳を口にするにはあまりに無粋だと思ったのだ。
顔に張り付いたろくでもない笑みを、ぎゅう、と抑え込む。
冷たい風を振り抜いてきたせいで、凍りついたみたいにぎこちなく、ぱりぱりと頬が音を立てた気がした。

「… 、」

震えた声が空気を通して俺の鼓膜までも震わせる。
その何かに怯えるかのような表情から紡ぎ出された言葉が、怖いだとか嫌だとか無理だとかそういった悲しいものではなく、単純に俺のファーストネームのみだったことに、俺は何故かその場にへなへなと脱力しそうなくらい安堵した。
走ってる最中、がちがちに強張っていた肩からほんの少しだけ力が抜け落ちた。
落ちた欠片は粉々に砕けた硝子の破片のように俺の肩先から腕を掠め、着ていたコートの裾にぶつかって地面に散らばる。
俺はさりげなくそれをつま先で踏みにじり、土の中に隠そうと無駄な抵抗を試みた。
だけど君は多分そんな俺の虚勢なんて自然に見抜いていて、抱え込みすぎて歩けなくなるほど膨れ上がった荷物の上にまた、破片すら拾い集めて乗せてしまうのだろうと思う。
そんなこと、しなくていいのに。

「…ばか」

俺は小さく呟いた。

「ど、うして」

くしゃり、君の顔が歪む。
今にも泣き出しそうに、溢れ返りそうな感情を一生懸命抑えるみたいに、君の顔が歪んだ。

「どうして、どうしてどうしてどうして!」

途方に暮れた声が、何かを乱暴に振り払おうと暴れた。
だけどそんな程度の暴動じゃ、君や俺を取り巻く様々な悲しみを振り払うことなんてできない。
君がその荷物の、せめて一部だけでも諦めない限り、君も、君を連れ戻そうと走ってきた俺も、ここから動けやしない。
簡素でぬるく薄っぺらい俺たちの家になど、帰れないのだ。

「…分かってる。分かってるから」

俺はそんな安っぽい言葉ばかりを繰り返し、未だ鳴り止まない耳鳴りと、荒いままの呼吸を唾液ごと喉の奥に無理やり飲み下し、深く、息を吐いた。
君がどれひとつ諦めないことくらい分かっている。
だから迎えに来たんだ、本当は。
無理やり君の腕から荷物を剥ぎ取ることもできない俺には、だけどせめて分担すればもしかしたら、とか、それでも駄目ならもういっそこのままここで君といればいいだとか、何の解決にもならない慰めすらも口にできないけれど。

「どうして!」

君は取り乱し、へたり込んだ周囲の土を両手でなぎ払う。
だけどそれでも乾いた土煙が僅かに上がるだけで、それすら君の両目から零れ落ちた透明な雫の言い訳には使えそうもなかった。
はたり、はたはた、後から後から零れ落ちる雫は、乾いた土の表を点々と湿らせていく。
俺はそれを、今にも君の目の前座り込んでしまいそうな己の両足に怯えながら、でもどこか他人事のように見下ろした。
俺はまだ、へたり込んでしまうわけにはいかないのだ。
俺まで立ち続けることを諦めたら、一体他の誰が君の腕を掴んで引き上げてくれるというのだろう。
一度へたり込んだら最後、多分俺も君も二度と立ち上がれない。
だから駄目なんだ、君がどんなに疲れ果てても、俺だけは立ち続けていないと。
例えどれほど君の涙が奇麗でも、触れたいと心の奥底から願っても、今、君の目の前膝をつくわけにはいかないんだ。

「分かってる。もういいんだ。…行こう」

悪かった、ありがとな。力なく呟く俺に、君は固く目を閉じ、小さく頷いた。
俺はこめかみから顎先を滴り落ちた冷たい汗を無視して、君の土で汚れた手を掴む。
いくら分担しようとも君の大荷物を持ち上げることなどできないかもしれない。
でも、せめて引きずることくらいはできるかもしれないだろう?
もしそれでも駄目なら、いっそここで君とふたり、春を待てばいいんだ、きっと。

「一緒に帰ろう」

今すぐは無理でも、いつかあの、どこまでも嘘っぽく殺風景で優しい、俺たちの家へ。

冷淡な思考から成す身辺整理

欲しいと。だからちょうだい。と真っ直ぐ乞われて、あぁいいよ、どうぞ。と何の躊躇もなく差し出せるものなんて実はさほど持っていない。
以前、出来る限り荷物は減らそうと思ったから、そんな簡単なものは全て捨ててしまったのだ。
それが例え世間的にとても大切なもの(高価だったり、お金でやり取りできないほど重要なもの)であったりしても、その時僕にとって不必要だと判断されたものは即座に手放してきてしまった。
あー、もうちょっと前に言ってくれてたら捨てずに残しておいたのに。と思うものは実は結構あって、僕と他のタイミングというものがそうそう簡単には噛み合わないことを思い知る。
とは言え、そんなこと今だから言えるのであって、捨てる前に「いつか欲しがるから残しておいて」なんて言われても無視して捨てるか、今持って行って、と差し出すかしてどっちにしろ手放していたのだろうけれど。

どうせするなら徹底的に。
欲しがるなら今僕が持ってる全てを欲しがってくれなくちゃ。中途半端に求められたら、差し出した後、残るものたちに執着心が増して余計に諦めがつかないじゃない。
そうそう簡単に手渡せるものなんてあまりないけれど、丸ごとならもしかしたら投げ出せるかもしれないよ。
僕は出来る限り軽薄な言葉でもって笑うけれど、口先三寸。結局丸ごと差し出せるような対象なんて僕にはいない。
だから捨てる。だから手放す。
欲しいと。だからちょうだい。とどんなに必死に乞われても、別にどうでもいいから好きにして。なんて本気で言えるわけがない。
あげるくらいなら、捨てる。手放す。
僕が残りを抱えて歩くより、僕のものだったものを君が抱えて歩くより、そっちの方がもっとずっと僕が、楽だから。

僕らはまるで植物を育てるようにして

君は今にも泣き出しそうな顔をして首を傾げる。
どうして皆は僕にそんなに優しくしてくれるの?と。
その両目はとろりと甘やかに溶けて、それでいてまた愚かな僕らを責めるようでもあったので、僕は胸の奥底を見透かされないよう目を細めて微笑んだ。
それはね、君が手にした以上の優しさをこんな僕らにまで惜しげもなく真っ直ぐ満遍なく注いでくれたからだよ。と。
強いるでもなく、手抜くでもなく、見返りを求めるでもなく、君は上手に受け取ることもできない僕らにただただ沢山のひたひたと穏やかであたたかい優しさをくれた。
僕らはその種を胸に抱き、途方に暮れた。
だって僕らの胸の土壌は元から痩せ衰え、君から貰ったあらゆる希望に満ちた瑞々しい種を育てる自信なんてちっともなかったのだ。
だけど僕らには君からもらった種をそのまま枯らせる勇気も、腐らせる勇気もなかった。
それは勇気とは少し違うものなのかもしれない。
単に、小心者だっただけかもしれない。
人からこんなにも無条件に注がれることに僕らは慣れていなさ過ぎただけかもしれない。
恵みの雨を待つこと、耕してくれるミミズをはじめそこここで支え合い育み合う小さな生命たちと共に生きること、ふくふくとあたたかい肥料を捜し求め歩くこと、単に何かを命がけで大切に守り抜くことに対して憧れのような感情が掠れ残っていたのかもしれない。
未だにはっきりと理由が分からないままだけれど、僕らのこんな枯れた土壌ですら、君がくれた種は力強く芽吹き、だけどどこか儚く華奢な双葉を広げるから、大事にしなくちゃいけないとどこか縋るように強く思ったんだ。
いつかこの芽が育ち実を成すような奇跡が起こってくれたなら、手に入れた全てを君以外の誰に捧げるべきだと言うのだろう。
僕らは君から優しさの種を沢山貰い、胸の奥枯れた土壌ですら育てられるかもしれないという可能性を知り、そのあまりの喜びに竦み上がるほど慄いたのに。

夕凪の時間、迷子のままの僕ら

上手に一歩踏み出す方法も知らない僕らは、途方に暮れた迷子の集団だ。
一緒にいるけど、皆それぞれひとりひとりが迷子なんだ。

帰る家は違うんだ。
握りたい手は同じなのに。

行くべき場所も違うんだ。
見たい景色は同じなのに。

僕らはそれぞれにあったかいものが何か分かってる。
慈しむべきものも尊ぶべきものも分かってる。
そのためにどうすればいいのかも分かってる。
目も見えてる。耳も聞こえてる。
つま先から髪の毛先まで。小さな細胞ひとつひとつにみっしりと、今にも溢れ返りそうな想いが詰まってるのも分かるのに。

夕凪の時間、迷子のままの僕ら。

ちゃんと全部何もかも分かってるのに。
ちゃんと全部何もかも知っているのに。

離れがたさに些細なはずの一歩をすら踏み出せず途方に暮れる。

君が掴んだ肩が熱い

たった一言、口にすることのなんと難しいことか。
不可能に近い言の葉はやはり喉の奥で暴れ狂って行き場がない。

君が掴んだ肩が熱い。
君へと伸ばした指先は、未だこんなに冷たいと言うのに。

ほんとうの夢はどこ

「夢ならいいのに」

そう呟いて夢から目覚めた僕は言う。

「ほんとうだったらどんなにいいか」

それを聞いた君は笑う。

「そんなに変わりゃしないよ」

君は断言する唇の上、両目の奥で迷いながら。

「夢でもほんとうでもどちらでも構わないでしょう」

今知覚した方を優先すればいいだけの話。呟いて、君は逃げるように背を向け行ってしまった。

夢ならいいのに。
ほんとうだったらどんなにいいか。
僕は繰り返し言う。
繰り返せば繰り返すほど、確かに夢なのかほんとうなのかいまいち区別がつかなくなってきたけれど。
今知覚している方をわざと夢と位置付け僕は笑った。
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