スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

蜜色の水底

手のひらが、両目の瞼を撫で下ろす感触。
それに従うのは癪だったけれど、その流れるような手のひらの温度はそんな俺の意地っ張りな反抗すらそっと、溶かす力があった。
普段じゃ考えられないほど素直に瞼を下ろした俺に、間近、ふ、と柔らかに空気が揺れる気配。
それは君が微笑んだ時の揺れなのだと、悔しいほど簡単に知れた。
…何をそんなに嬉しげに微笑むんだろう。
そんなに、密やかに。

…目眩がするじゃないか、馬鹿。

焦れてるみたいじゃないか。
餓えてるみたいじゃないか。
待ってるみたいじゃないか。
それらを認めるのは瞼を下ろすより、逃げるタイミングを逃すより、何より悔しい。

だから絶対に、認めない。
どこまでも。
恋しい君を、認めない。
スポンサーサイト

銀葉樹

するりとすり抜けて行ってしまいそうな肩を、行かせたくなくて。
つい、加減を忘れて強い力で掴む。

『痛い。離せ』

その力の強さを嫌がって、必ず顔をしかめてそう言われてしまう。
天邪鬼を纏い己を隠そうとする、その難解な性格を知っている。
こうして強引に引き止められることを厭うていることも。
手を離せば、行ってしまうと分かっている。
引き止められればますます離れたくなることも。
だから、離せと言われてはいそうですか、なんて、離せるわけないじゃないか。

いつも、お前を優しく抱きしめてやれないのは。

『アンタはいっつも余裕ぶって俺を見る。そういうところがいけ好かないって言ってんだよ』

お前はいつもそう言って、この手を振り払おうとするけれど。
本当は、俺に余裕なんてない。
お前に対してだけは、微塵も。

『いつも俺ばっかり余裕がないみたいでむかつく』

伝わらないのはお互い様。
もどかしいほどにすれ違うのは、それでも互いに向かう視線。
不器用な方法でしか伸ばせない手のひら。
ぶつかるだけの言葉の応酬。
それでも離したくないとこいねがう強い想い。

…こんなにも。
たったひとりに必死になったことなんて、ない。

『…なんだよ』

それでも離さない腕に、焦れるようにこちらを見上げる。
強い反抗の目が、最近少しだけ優しくなったと思うのは、ただの俺の欲目だろうか。
それでも、その分優しくしたいと強く思うのは。
自分から抱きついてくるなんて絶対にしないこいつが、それでも一度、この背中を抱きしめてくれたことがあるからだ。

過去の過ちを悔い、深い思考に溺れて抜け出せなくなっていた時だ。
俺はここにいる資格などないのではないか、そう思うと、何か分からない底知れぬ恐怖のようなもので身が震えた。
その時、ふ、と背中に気配を感じた。
それは涼やかな月夜のように静かで、柔らかく、優しい気配だった。
他の者に背後を取られることは、あまり好きではなかった。
しかし振り返ろうとした俺を制するように、両腕の隙間から滑り込み、俺の腹部を抱きしめる腕を見た時、俺は急激にこみ上げる切なさや愛しさに息ができなくなった。
震えが伝わってしまわぬよう、慎重に呼吸を意識する。
そんな臆病な俺を宥めるように、背骨にぶつかる額の硬い感触。
それから、薄く、でも柔らかな頬の感触。
すぅ、と肩から何かが落ちた。

あぁ、
俺は目を閉じる。
あぁ、俺は。こいつになら。…こいつになら、この背中を預けてもいい。
もしこのまま背後から刺されたとしても、こいつなら。
そう、思ったんだ。

あの時、この背中を暖めてくれたお前を、大切に、優しく。正面から抱きしめたいと思う。
この背中を唯一預けられるお前を、何よりも大切にしたいと。
なのに、すり抜けようとするその腕に焦って、つい強く掴んで引いてしまう。

『だから痛いってば。離せよ』

そう、言わせてしまう。
しかめた顔。薄められた瞼の奥の瞳が、切なげに揺れることを知っていて。
ただ、俺はただ、行かせたくないだけだ。
俺から、離れるな。

「   」

呼ぶと、こちらを僅か薄めた目で、それでも真っ直ぐ見上げてきた。

『なんだよ』

その視線ごと、今すぐお前を攫って逃げたいくらい。
胸がざわめく。
自分が、あまりに矮小に感じる刹那。

「…俺から、離れるな」

お決まりのその言葉は、口癖のように。
だけど毎回、心の奥底から真剣に。

本当に余裕がないのは、俺の方だ。

続きを読む »

欲しかったのはただ、

『待て、そこから動くなよ!今から向かう!』
不意に陥ってしまった真っ暗闇の中。
手のひらの上、彼と繋がる端末機から、彼らしからぬ酷く焦った声が聞こえて、思わず鼻で笑ってしまった。
そんなに何を焦るのだろうか。
「俺に命令するな。俺がここから動こうがどうしようが、アンタには関係ないことだ」
できるだけ早口でそう捲くし立てるように言った後、喉の奥がひくりと痛んだ。
『…な、…?』
微かに伝わってくる息を飲む気配に、喉奥の痛みは増す。
俺が口走った言葉に対して、純粋に驚き、不思議がっている様子だった。
予想通り怒声や叱咤が聞こえてこないことを知り、これ以上、会話を交わすことは不可能だと思う。
「ばっかじゃねーの」
できるだけ冷たく、突き放すように言うつもりだったのに、少しばかり失敗して震えてしまった。
悔しくて、主電源からオフにする。
切ったところで、それを投げ出すことなんてできないのに。
ぎゅう、
強く手のひらに握り締めてまた鼻で笑った。

この手のひらに強く握り締め手放せない端末機ごと、彼をも捨ててしまえばいいのに、と他人事のように思う。
それは実はとても簡単なことで、今すぐその気になればできることだ。
これを投げ捨て踏み壊し、後ろを振り返らずに歩けばいい。
なのに、地面に投げつけようと振りかぶるのに、それを握り締める手から力が抜けない。
それどころか、足は震えるだけで硬直し、ここから一歩も前に進めそうになかった。

…簡単に、捨てられたらどんなにいいか。
「…っち、」
思わず舌打ちした。

早く。
早くここから離れなければ、彼は来てしまう。
たったひとりででも。
ここがどんなに危険な場所であろうと、彼は関係なく来るだろう。
勝手な行動に出た挙句、勝手に危険な状態に陥り、やっと連絡が取れたと思えば命令を無視し主電源を落とし。
己の失態に混乱し、ただの八つ当たりのような子供地味た言葉でもって拒絶した俺を、それでも。
それでも、…俺を迎えに。

「こんなところにいたのか」
背後、真っ暗だった空間に細い光が差したと同時に、彼の声がした。
「…早かったな」
振り返らずに、できるだけうんざりした口調を心がけて言う。
そうでもしなければ、今にも彼を振り返り、彼の眼前で無様に膝を折ってしまいそうだった。
近づく彼の足音が、俺の背後で止まった。
「   」
「俺の名前を呼ぶな」
肩に伸びた彼の手ごと、咄嗟に拒絶する。
「…どうした?」
それでもそんな俺の態度に不快感すら見せず、純粋に不思議がる気配しか見せない彼。
無性に、理不尽と分かっていて腹が立った。
「アンタ何してんだよ!こんなとこに来てる場合じゃないだろ!」
彼が崩して入ってきた隙間から差す僅かな光を頼りに見える程度の、狭い落とし穴のような空間に、俺の、どこか焦った声が響いた。
汗ばんだ手のひらに握り締めた端末機を壊して歩き出そうとしたって、こんな狭い空間で、一体どこへ行けばいいと言うのだろう。
「アンタの向かうべき場所は違うだろ!急がないといけないだろ!」
ぎり、端末機を握り潰してしまいそうになるほど、力を入れた。
彼を真っ直ぐ見据えることなどできない。
こちらを真っ直ぐ見つめる彼から目をそらすことは、敗北を意味するようで悔しくてしたくなかったけれど、どうしても顔を上げることができなかった。
彼の視線は真っ直ぐに俺を見つめ、
「もう少し、俺を信用したらどうだ」
静かな、自信や生命力に満ち溢れたいつもの彼の声が俺を制する。
「   」
「俺の名前を呼ぶな!」
伸ばされた彼の手を、その声ごと振り払う。
「   」
それでも彼は俺の名を呼ぶ。
耳を塞いで逃げ出したくなるほどに、真っ直ぐ俺を呼ぶ。
少し乱暴なほどの力でもって、両肩を掴まれた。
「痛い。離せ」
振り払おうにも、払えないほどに。
「   」
「…何で…」
「   」
「何でアンタ、俺を呼ぶんだよ。俺を探したりなんかして、貴重な時間をロスする?俺なんか放っておいてくれよ!このくらい、自分で脱出できた!」
「   」
「呼ぶな!」
「…少し、黙れ」
彼は俺を制するように静かに、言った。
彼が崩して入ってきた隙間は人ひとり分の狭い穴で、そこから差す光は僅か。
だけど狭いこの空洞を何とか見渡せた。
何もない、空っぽな狭い空間。
俺と彼以外、何も。
ぎり、握ったままの端末機。
「…無事でよかった」
彼の言葉は吐息と見まごうほどにか細く、彼らしくないものだった。
「俺から離れるなと言ったはずだ」
「…アンタの命令なんて、」
言いかけた俺を、彼は首を振ることで遮る。
「命令じゃない」
「じゃあ何だよ!」
「願いだ」
「願いだと?」
間近の彼を睨む。
すると、彼は、やっとこっちを向いたな、と笑った。
そこにはすでにいつもの強気な彼の顔があった。
「戻るぞ」
俺の肩を押して促す。
それを振り払った。
今度は、簡単にその手は離れた。
「   」
「…呼ぶな」
「俺は何度でも呼ぶぞ。お前が望むだけ何度でも」
「…は?俺は呼ぶな、と言ってるんだ。寝言は寝て言え」
「そうかな。俺にはもっと呼んでほしい、と聞こえる」
「…アンタ、馬鹿じゃないのか、耳鼻科に行って検査してもらえよ、…アンタ、」
おかしい。
そう、言ってやりたかった。
声が途切れてしまう。先が続かない。
「   」
彼の声は、こんな狭い空洞に静かに染み渡るようによく響く。
俺の抗う声なんかよりずっと、力ある響きでもって。
「俺から離れたお前を迎えにくるのは、俺しかいないだろう」
俺から離れるな。一緒に戻るぞ。
はっきりと、きっぱりと。
彼の声には迷いなどない。
こうして足を引っ張る俺を、それでも何度でも迎えにくると、彼は言う。
何度でも名前を呼ぶと。
「…アンタがそんなんだから…」
彼と繋がる、握り締めた端末機。
光差す、彼の開けた出口。
「   」
「…なんだよ」
「愛してる」
初めて耳にする聞き慣れない言葉に驚いて顔を上げると、そこにはやはり、いつもの自信と生命力に満ちた彼の笑みが、俺に向かって手を伸ばしていた。
「…寝言は寝て言えよ」
必死に鼻で笑うも、目頭と喉奥がどうにも痛くて唸ることしかできなかった俺は、端末機を握り締めたまま固まってしまった手と逆の手を、彼のあたたかい、強い手に引かれた。

彼が開けた隙間から、眩い光差す、出口の方へ。

俺が欲しかったのは、ただ、…

種子から芽生えたものは

僅かな布ずれの音に、ふわり、浮き上がるような目覚め。
朝日の眩しさにおずおずと目を開けると、視界の殆どを自分のものではない柔らかな黒髪が埋めていた。
そのあまりの幸福さ加減に、思わず鼻先を摺り寄せ目を閉じる。
己の体躯と僅かな隙間をおいてそばにあるそれを、起こしてしまわぬように慎重に抱き寄せる。

自分の隣に眠るのは、黒猫だ、と思う。

艶やかな毛並みは黒々と朝日に光り、体温を含んだ哺乳類独特の優しい、甘い体臭がする。
きっと優しく撫でればゴロゴロと喉を鳴らす。
よほど機嫌がよければ、鼻先を摺り寄せ甘えてくるかもしれない。
しなやかな体躯をそっと抱きしめれば、柔らかく、でも美しく筋肉のついた心地よい手触りでもって応えてくれるだろう。
気が向かなければ、ぷぃとそっぽを向いてベッドから降りてしまう。
ひとりこちらに背を向けて考え事に没頭している時に邪魔などすれば、途端機嫌を損ねて出て行ってしまう。
無理に追わずに待ってやれば、何事もなかったかのように戻ってくる。
穏やかに毛づくろいをし、そしてまた、こうしてベッドに潜り込んで眠るのだろう。
我侭で気まぐれで不器用な、可愛い黒猫だ。

『今までたったひとりで生きてきた。これからだって生きていける。アンタなんか必要ない』

黒猫はそう言って強がりを言ってみせる。
俺の手を振り払おうとする。
だけど、実際の猫だって、単独行動を好んでも、単独生活はできないのだ。
それを証拠に、黒猫はひとり途方に暮れていた子猫を見つけ、連れ歩くようになったではないか。
俺を睨みつけ俺を追いかけ、だけど手を伸ばせば噛み付き、引っ掻いてきていたけれど、こうして、俺の隣で眠るようになったではないか。

「…もう大丈夫だ。何も怖くない」

未だ眠る黒猫の耳元、柔らかな黒い毛並みを撫でながら言い聞かせる。

『…んなこと言って、アンタだってどうせいつか俺をひとりにする。ひとりの感覚を忘れた頃にまたひとりにするくらいなら、最初から手なんか伸ばすんじゃねぇよ!』

ひとりに慣れ、ひとりでいることが一番だと思っていた黒猫。
だけど一度ひとりがふたりになってしまい、それに慣れてしまったら、もうひとりに戻ることなんてできない。
全てに怯え、警戒し、毛を逆立て、爪を立てて威嚇してきていた黒猫は、今。
少しだけ身を丸め、俺の腕の中で眠っている。
これほどの幸福はないだろう。

「もう大丈夫だ。俺が、お前を全て許そう」

許し、愛そう。
それは、お前が望む望まないに関係などない。
愛というものが、自分よりも相手を優先し相手のことを想い、自分の欲を制するものであるならば、これは恋でもかまわない。
俺はどこまでも自分勝手に、許し、愛しく思い続ける。
初めて会った時、こちらを睨みつける黒い瞳に、自分の顔だけが映っていることに気づいた高揚感も。
こうして、隣で身を丸めて眠るその体躯をそっと抱き寄せる幸福感も。
俺は一生、忘れない自信があるから。
何も、怖くない。

お前をまたひとりになど、例えお前にひとりになりたいと懇願されてもさせてやらない。

光明

あなたは、暁。

まさに暗闇を切り裂き全てを照らす、眩い光そのもの。
そして闇そのものであった俺にとって、闇は光が強ければ強いほど濃くなることを教えてくれた人。

闇が先か光が先か。
そんなことは知る由もないのだけれど。
どちらかが存在すれば、必ずもう片方もそこにある。
闇が光の強さでその濃さが際立つように、光もまた、闇の濃さでその強さが引き立つ。
それらを知っていて、あなたは俺を真っ直ぐ見つめて言う。

「俺の執着心を舐めるな。お前は俺のものだ。そして俺はお前のものだ。それ以外の何もなれやしない」

早くそのことに気づけ。お前はすでに知っていただろう?

あなたは、暁。

まさに深い夜を巡り、水平線から出ずる太陽のように尊い輝き。
そして闇の中だけにいた俺にとって、今まで見たことがなかった光の下での視界を見せてくれた人。

今までずっと、俺は独りで生きてきた。
そしてこれから先もずっと独りだと思っていた。
それを悲しんだ覚えはない。それが当然だと思っていたからだ。
なのに、あなたは俺に手を伸ばして言う。

「諦めるんじゃない。認めろと言っている。俺に追いつけ。ここまでこい。お前にしかできないことだ」

お前以外意味がない。俺の隣にいろ。

あなたに夜の闇の安らぎを教えてあげよう。
その代わり、俺に、あなたの温かな光の下でしか見えない、広い視界を。

あなたは、俺の暁。

滴り落ちる汗の行方

不意に過ぎる風に、乱された前髪ごと気を取られる。
木々の狭間を器用に縫うようにして、足場を選んで進むその背中だけを、じっと見つめていればよかったものを。
風と同じくらいの不意打ちでもって降ってきた後悔が、喉の奥少しだけ苦かった。

「見失うなよ」

君が笑って言った言葉には、この深い森の中、先を進む君の背中を見失ってしまうと迷うから、なんて簡素な意味だけを内包しているわけではなかったのに。
そんなこと、言われた時点で分かりきっていたはずなのに。

「俺から離れるな」

うるさいほどに繰り返されたその言葉を、きちんと理解なんてしたくない。

荒い呼吸音は自分だけのもの。
足を踏み出すたび靴の下で折れる枝や枯れ葉の音は何だか遠い。
呼吸音と、耳の奥でどくどくと早鐘を打つ心拍音が全てを遠のかせているみたいだ。

気がつくと、君の背中は思ったよりも遠くにあった。
こちらを振り返りもせずに先へと進むその背中に、思わず手を伸ばしてみる。
伸ばした手のひらに隠れてしまいそうなほど離れた背中。
絶対に届かないと分かる距離。
こめかみを伝い、顎の先から汗が一滴落ちた。

待ってくれ。…なんて、言えるはずがない。
置いてかないでくれ。…なんて。

いつも俺の先を進むその背中を見ていた。
追いつこうと必死に走れど、ちっとも近づけない背中だ。
ぎりぎりまで伸ばしたこの手が、そこに届く日がくるのだろうか。
この手に掴んだその背中は、どれほどの熱でもって俺の手のひらを焼くのだろうか。
君は、一体どんな顔をしてこちらを振り返ってくれるのだろう。

「…待っ、…」

つい言いかけて必死で飲み下す。
弱みなど見せたくない。
ざくざくと木々をかきわけ、枝や落ち葉を踏みしだいて進む君の足に淀みはない。
絶対に、負けるもんか。
掴んでいた樹木の皮に爪を立てる。
随分先を進んでいた背中越し、君が少しだけこちらを振り返った。
いつもの自信に満ち溢れた横顔が俺を見る。
皮肉のひとつも言われるのか、と歯噛みをして睨みあげると、君は顎でくぃ、と先を示すだけでまた前に進み始めた。
君の頬を、汗が一筋流れ落ちるのが見えた。

「…っち、」

皮肉を言われた方がまだましだ。
君の歩みは淀みなく続く。
少し気を抜いたら簡単に遠のいてしまいそうなその背中を睨みつけ、残りの力全部振り絞って、地面を思い切り蹴った。

絶対に、追いついてみせる。
その背中に、この手でもって。せめて引っかき傷のひとつ、つけてやる。
ぎりぎりまで手を伸ばす。

『見失うなよ』

『俺から離れるな』

今更何言ってんだ。
一度だって。今まで一度だって、目を離したことなんてない。
離れるどころか、近づけてもいない君の背中を、どれほど睨み続けたかも覚えていない。
この感情は、憎悪にも劣情にも似た、無様でいて激しい、どうにもならない執着心だ。

君だけを。
こんなにも激しく、想ってる。

ジムノペティ第三番

夜のしじま。
全てを覆い隠してしまう濃い闇の隙間をすり抜けるようにして、眠る彼のそばに立つ。
暗闇は俺を隠してくれる優しい色だと思う。
だけど何もかももろとも引きずり込み、二度と元に戻ることを許さない、恐ろしい色でもあると思う。
自覚はある。
その闇が俺の背後にいつでもあることくらい。
そして、それに覆われそうになってしまった時、振り払い、腕を掴んで引いてくれたのは、まぎれもなく、…彼という絶対的な存在だったということも。
あの時俺は、このまま一生彼を超えることができないのではないか、という絶望と、言葉に言い表せられない奇妙な希望がない交ぜになって混乱した。
胸がひしゃげるような、でも内部から膨れるような、心地よいのか不快なのかも分からないこの感情の名は、未だに知らない。

爪先立ち。
忍び足。
息を殺して、気配も消して。
闇の中、何故かベッドの上ではなく、床に倒れるようにして眠る彼。
その半身を窓から差す弱い月光が照らし、彼の寝顔をうっすらと確認できた。
薄曇の月夜。
開けたままのブラインド。
らしくもなく、そこら辺に散乱している書物とファイル。
きっと、調べ物をしながらそのまま眠ってしまったのだろう。
どこまでも静かな、夜。

今なら、彼を殺すことだって可能だと思う。
別に殺す気なんてさらさらない。
俺は彼を殺したいのではなく、単に超えたいだけだ。
けれど、なんとなく。
なんとなく、白々と薄い月光に照らされる彼の白い喉が目に入った時、今なら殺せる、そう思った。
今なら。そう、今なら確実に。
武器などなくても、ただこの聞き腕一本あれば済む。
こうしてぐずぐずしている間に、チャンスはことごとく粉砕されてしまうから。
今だ、と思った時に行動していないと、後々後悔するんだ、いつも。
だけど、
だけど例えば、本当に彼を殺しにここにこうして忍び込んできたとしたら、彼はきっとこれほど暢気に眠ってなどいないのだろうと思う。
自分に対する殺気の有無くらい、深い睡眠の淵にいようが彼はきっと気づく。
それに、もし彼を殺そうと忍び込み、たまたまこんなチャンスが転がっていたとしても、こうして安穏と眠られたりなんかしたらきっと、俺は力が抜けてしまう。
目の前でこんな、寝顔晒されたりなんかしたら。
…こんな風に。

俺は足元散乱する書物やファイルを踏まないように気をつけながら、へたりとその場に膝をついた。
眠る彼の頭元、そっと手を伸ばす。
力の抜けてしまった指を伸ばすのは、白い首、ではなく、僅か額にかかった黒髪に。
見た目よりは少しだけ柔らかな感触。
さらり、微かな音が、彼の規則正しい呼吸より内側に聞こえた。

俺は一体何をしにこんなところまで忍び込んできたのだろう。

そんな愚考に気を取られた刹那。
伸ばした指先で彼の髪をひと束掬おうとした俺の手首を、素早い動きで彼の手が掴んだ。
ひゅ、と喉から声にならない情けない悲鳴が逃げる。
薄い月光を集めるようにして光るのは。
彼の強い瞳。

彼に咎められることなんて、ちっとも怖くない。
そんなもの恐れていない。
俺が本当に恐れるのは、怒るどころか咎めもなく、ただ、

「…眠れないのか?」

こちらを真っ直ぐに射抜く、優しい、だけど抗えぬほどに強い彼の視線と声だ。

咄嗟に手を振り払おうとしても、彼の手の力には勝てない。
またあの絶望とも希望とも知れない、心地よいのか不快なのかも分からない感情が胸をひしゃげさせ、膨らませた。

「痛い。離せ」

本当は、痛いのは手首などではない。

何故ここに来てしまったのだろう。こんな、泥棒みたいな真似。
真夜中ひとり目が覚めて。
寝なおそうとどんなに身を丸めても眠れず。
少し歩けば眠くなるかと歩き回って、なのに外に散歩に出ずに彼の部屋の前にまで来て。
彼が眠っていることを知り、その眠りを妨げぬよう忍び込んで、寝顔を見て。
髪に触れてどうする。
彼が殺気の有無に気づくのは知っていた癖に、人の気配だけでも起きてしまうと何故気づかぬふりをした。
俺は知っていたはずだ。そのくらい常識だ。

身じろぐと、散乱していたファイルが膝にぶつかった。

「眠れなかったのなら、ここで眠ればいい」
「勝手なこと言うな、なんでアンタなんかと…!」

「   」

彼の声が、どこまでも穏やかに俺を呼ぶ。
途端、かっとなる。
彼に名を呼ばれるたび、余裕がないのは俺の方だと身に沁みる。

「つい転寝していたな…、でも、ベッドで眠れない時は床で眠るのも悪くはないぞ?」
「冗談はよしてくれ!」
「じゃあ何故ここにきた」
絡め取られる。
彼の強い手の力と視線、声は、俺の手首ごと全部を持っていってしまう。
闇はいつでも俺の背後にあり、それに覆われてしまいそうになった時、彼は助けてくれた。
だけど俺にとって、背後の闇よりももっとずっと強力に俺を全て飲み込んで逃がさない、何より危険な対象は彼だ。

こんな、自ら蟻地獄と知っていて足を踏み入れるような真似、

「明日は早い。…もう眠れ」
床に転がったまま俺もろとも巻き込んで、彼は目を閉じた。
先刻の寝顔はやはり演技だったのだろうか、俺が入って来たことに気づいていながら、寝たふりをしていたのだろうか、と思うほどすんなり。
やっぱりさっき殺せばよかった。
だけど、寝たふりであろうと嘘であろうと、こんな顔を目の前で晒されたら、やっぱり力が抜けてしまうのだろう。
先刻よりもずっと間近。
抱き込まれた不自由さも苛立ちも、さっき彼に掴まれた手首の熱に気を取られて分からなくなってしまいそうだ。

夜のしじま。
薄い月光の下、目を閉じたその顔。
さらり、僅か俺より短い前髪が、額に落ちた。
何とか片腕逃れた俺は、そのチャンスを生かして脱出することを忘れ、彼の前髪ひと束、撫でてしまった。
一度逃したチャンスは、二度と戻らない。

力が抜けた指でもって、彼の胸元のシャツを軽く掴む。
目を閉じたままだった彼の口元が、ふ、と僅か緩んだのが見えた。
途端、何故か不意に、泣きたくなった。
硬い床の上、周囲に散乱した書物とファイル。
不自由な自分の身体。
なのに、目を閉じたままの彼につられるようにそっと、瞼が落ちた。
きっと明日の朝までこの瞼は上がらない。そう思うほど、重たく。

賭け

「俺がお前を塗り潰す」

睨みつけ指差し言い放った俺の宣言を、彼はどこまでも強気に笑った。

「いいだろう。お前が俺を塗り潰すのなら、俺はお前を取り込もう」

「どっちが先に相手の色に負けるか、勝負だな」

「賭けるのは、己そのもの」

「上等だ」

きつく睨みつけその賭けに乗った俺を見て、彼は強気に笑った。とても、楽しげに。
最初から勝負はついている、と言いたげに。

だけど俺だって負ける気がしない。

俺たちの戦いは、何も今始まったわけではない。
もっとずっと前からきっと、続いていたのだ。
俺たちがこうして直接対峙する前。出会う前から。

彼はきっと俺を取り込む。

俺は絶対に彼を塗り潰す。

それは、もっとずっと前からきっと、決まっていた。

俺たちがもろとも何色になるのか。

きっと、俺と彼が恋だか愛だかと見間違えてしまいそうになるほど焦がれ、片やきつく睨みつけ、片や強気な笑みでもって見つめているものの答えはそこにある。




互いに、もしかしてあの時のあれは互いを嵌める罠だったのか、と気づくのは、もう少し後の話。

形成する基礎から全て

恐る恐る近づく臆病極まりないこの足は、いつもは真っ直ぐに伸ばされている君の背中が、深い考え事の海に沈んでいると俺にも知れるほど、緩やかに丸まっているからだ。
君の背中が珍しく丸まっている時は、いつも君はあんまり楽しくない考え事に没頭している時。
それを邪魔したい俺と、邪魔してはいけないと牽制する俺が、君に気づかれぬよう鬩ぎ合って、この足を臆病にする。

僅か丸まった背中はそれでも、普段の俺よりはずっと姿勢がいいと思う。
君はいつも正しく美しい。
外見のことではなく、魂、核の部分。
本質がとにかく美しいのだ。
真っ直ぐに物事を見て、真っ直ぐな言葉を使う。
初めて君を見た時なんて、君の全身から溢れるキラキラとした真っ直ぐな生命力が眩しくて、俺は元々の天邪鬼をますます酷くさせてしまったくらいだ。

「アンタなんか嫌いだね。どうもいけ好かない」

できるだけ吐き捨てるようにして言うけれど、君は真っ直ぐな瞳で俺の内部すら射抜く。
その視線の矢を、俺はつい、綺麗だと見ほれてしまう。
俺を内部もろとも貫いた君の視線の矢はいつも正しく真っ直ぐに、美しい線を描いて俺を黙らせる。
そして俺の心の奥底に、拭えぬ敗北感を塗りつける。

君は誰より、俺にとって正しく美しく、残酷なのだ。

君の生き方そのもののように、いつも強く真っ直ぐに伸ばされた背中が、僅か丸まることに気づいた時、俺は少しだけ優越感に浸った。
君にも気を抜く瞬間があるのだと、俺だけが気づけたんだと思ったからだ。
だけどそれは「正しく」なかった。
君は深く、暗いものをその背に背負っていながら、普段はそれを一切外に出さない。
君はどこまでも、誰より、俺よりずっと、強かった。
君の考え事が深ければ深いほど。
脳裏よぎるものが重ければ重いほど、君の背中は僅か丸まる。
それでも僅かだ。
俺の普段の猫背よりずっと「正しい」。
そう思うと、少し悲しくなった。
何故かは分からない。
ただ、君は僅か背を丸めるだけしか弱みを見せない。
それすら、俺以外の誰も知らないのだ。
そしてそれに俺だけが気づけた理由は簡素なものだった。
ただ、君が俺を他の人よりも連れまわし、一緒にいる時間が長い、それだけだ。
職権乱用だ、と俺が怒っても、君は俺を射抜いて黙らせる。
僅か丸まる背中を、不意に俺だけに見せる。
俺を、惑わせる。

僅か丸まった背中。
考えていることの重さと深さを体言仕切らぬように、本当に僅か。
俺はその考え事には終わりなんてないと知っている。
だから邪魔したいと思う。邪魔してはいけないとも思う。
恐る恐る近づく臆病極まりないこの足は、邪魔をしたとしても君は決して怒らないと知っている卑怯者だ。

薄いシャツ越し、丸まることでようやく君の背骨の並びがうっすらと分かる。
君の正しく真っ直ぐな背骨は、こんな時にしか俺にそのひとつひとつを慈しませてくれない。
君の背骨。
君を形成する基礎。
正しく美しく、そして強い、君の骨格。

足と同じように、恐る恐る手を伸ばす。
布越し、君の「正しい」背骨は、ごつごつと、だけどうっかり触れてしまった指先に温かい。
「…どうした」
沈んでいた思考の深海から、俺の指先に気づいて浮かび上がってきたばかりの君の声は、いつもより少し低い。
「…別に」
俺はどうしても捻くれた不機嫌な声でもって、君を弾く。
だけど君は俺の天邪鬼なんて簡単に見抜いていて、俺の装った不機嫌なんかで弾かれてはくれない。
君はゆっくりとこちらを振り返ろうとする。
その刹那、振り返ってほしくない。と強く思った。
こんな時に君の顔など見れない。
君の、生命力に満ちた顔に僅か陰が差しているところなんて、今の俺には見れない。
見たところで君はきっと、俺と目が合った途端にいつもの表情を作るのだろうけれど。
目が合う直前のあの陰だけは、怖くて見られない。
君を振り返らせないためにどうしたらいいのか、瞬時に考えた。
近づかなければよかった。
触れなければよかった。
そう後悔してももう遅い。
俺は半ばヤケクソで、君の腕と腰の隙間に両腕を差し込み、巻きつける。
ぐ、と力を込めて、君の背骨に額をぶつけた。
こうすれば、振り返っても俺ごとだ。
互いの顔は見えない。
…もしかして。
俺は思う。
もしかして俺は、君の陰った顔を見たくないのではなく、陰った君の顔を見た時の俺の顔を、君に見られたくないのかもしれない、と。
その時自分が、一体どんな顔をして君を見ているのか、なんて、知らないけれど。
「どうした」
君は同じ問いを投げかけてくる。
いきなり抱きついたんだぞ?もうちょっと戸惑ってくれてもいいんじゃないの?と思うくらい、君の声は普段通りだ。
額にごつごつと当たる君の背骨は、俺の前髪越しにも収まりが悪い。
「別に」
俺は同じ返事を返し、君の背骨に鼻先を掠め、目を閉じて頬を預けた。
あぁ、こっちの方がずっと収まりがいい。
我ながら薄い頬だけれど、君の背骨の正しい並びはびっくりするほどぴたりと重なった。
「………」
君は、深く、呼吸をする。
両腕を巻きつけた腹部と、頬を重ねた背骨が揺れる。
「…お前は今、俺がどんな顔をしているのか、知ってるのか?」
君は笑う。深く、静かに。

知らない、そんなの知るかよ、

不機嫌を装って弾こうにも、どうにも強く発音できなかった。
知らない。
だって、今俺は、自分がどんな顔をしているのかも分からないのに。
緩やかな君の背骨の丸みは、あまりに俺の頬にぴったりだった。
そのひとつひとつを慈しむほどに俺は、恐る恐る君の考え事の邪魔をしてしまう。

『アンタが怒るどころか嬉しげに笑うからだ』

俺は心の中でこっそり君に責任転嫁して、もう一度目を閉じた。

あぁ、やっぱり君を形成する基礎から全て、正しく美しい。
捻くれ者の俺は、ぷぃと横を向いてやっと、君とぴったり寄り添えるのだ。
なんとなくそう思った。

君の唇の先、僕の喉奥に潜むもの

いつもいつも、つい忘れてしまうことがある。
いつもいつも、その時だけ強く感じ、そしてその感じたことを忘れていた、と気づくこと。
そしてまたすぐに、感じたことも、忘れていたことを思い出したことをすら忘れてしまう。

降り立つ刹那、一歩目のつま先。
季節関係なく、全てを遮断するような硬い風。
ぱちん、と切れるスイッチのようにあっさり変わるその刹那、ほぅ、と吐息をつく。
陽に干した柔らかな毛布に包まり目を閉じるように、硬い風に包まれ全てを遮断して、目を閉じる。
泣きたくなるくらいの、奇妙な安心感。
それは望郷の念とは明らかに違うものだった。

どこでもいいわけではない。
そこに温度も意思もないシェルターはここだけだと強く思う。
自覚しているよりずっと、ここに頼りきり、執着していることを思い知る。
以前も同じ思いをしたことを思い出す。
そして、次の足を踏み出す時、またすっかり忘れてしまう。
その繰り返し。

追うなんて決してしない。
馴れ合いや関わり合いなど元より必要がない。
他なんて結局、どうでもいいのだ。
いちいち気にしていたらきりがない。
多量に何もかもがあって、そして何もない。
ごてごてに。
悪趣味全開で飾り立てられた宝石箱のようだと思う。
しかし箱の中身は空っぽ。
そして、箱を飾るキラキラしたものは全てフェイク、という徹底ぶり。
きっとそんなチープさに安堵するのだろう。

降り立つ刹那、一歩目のつま先。
脳の一部だけがぐわりと歪むような、目眩。
何にも例えようもない、何にも似ていない奇妙な安心感。
肺一杯に吸い込んだ、硬い風。
すとんと落ちる、

…あぁ、駄目だ。
忘れないように忘れないように、必死で脳裏で反復したというのに、あの泣きそうになるほどの奇妙な安堵感をもう忘れてしまっている。
…あぁ、駄目だ。
微熱が下がらない。

カウントゼロ

今更のようにようやく思い出すのは、最後のボタンを押したその柔らかな唇。
数年前に失敗に終わってしまった稚拙な反逆は、あれからどう足掻いたとしても、最後の最後、結局こうなることを予言していたかのよう。

全てはその手を汚すためだけにあり
全ては成されたのちに、ようやく気づくもの

彼はたやすく君の伸ばした手をやんわりと払い、笑った。
君はもう後戻りできないことを払われた己の手のひらで知り、愕然とする。

ざわり、胸騒ぎがする。
見上げるあの人の瞳はどこまでも空っぽだった。
あの人だけは、何も望んではいけないと。
望んでも無駄だと知っていた。
一度飲まれた者は、その世界そのものを壊すことでしか、そこから出ることなどできないということも。

喘ぎもがくほどに欲したものに手は届かず、差す光は太陽光などではなく。
当然のようにそこは楽園などではなく、かといって他の場所も同じようなもの。
必死で何かを残そうと足掻いたそれすら無駄で、結局は何も残らなかった。

終わりの始まり。

無音の地雷原(sechs)

無音の世界で。
その名を、その音を、その意味を耳にした時。
その色を、その輪郭を、その流れを目にした時。

私は息を詰めても、歯を食い縛っても抑えきれない、胸中激しく鬩ぎ合う強力な圧迫に耐え切れずに、だけど片足、ほんの少し下がっただけなのに。

裸足の右足のかかとの下、かちり。
何かが噛み合う音を耳にすることなどできず、ただ、皮膚越し感じるだけだった。
あぁ、この耳はそれすら拾えないのか。

あれから私の耳は役立たずになり、無音になってしまったこの世界。
だけど、それでも。
裸足の足の裏に伝わる柔らかな土の感触は優しかったのに。
荒地は季節がすぐに新芽を芽吹かせ、全てを覆い尽くしてくれたはずなのに。
そのせいで、浅く埋められたそれを見落とすことになるなんて。
噛み合う音をすら拾えないなんて。

地雷は、私の真後ろにあった。
もっと遠く後ろにあると思っていたそれは、私の背後から離れることなく、ずっとあった。
否、私が地雷のそばから遠く離れたつもりが、実際はその場に立ち尽くしたまま、全くどこにも行けていなかっただけかもしれないけれど。
たった片足、一歩下がっただけの素足のかかとの下。
冷たく硬い違和感。

この足を上げてしまえば全てが終わってしまう、と思うと、身体が硬直して動かなくなった。
それは、私もろとも逝こうとする。
あの時のように私だけ助かったとしても、右足は持っていかれる。
どうしても、私を無傷では手放してはくれないのか。
あの時だって、だらだらと流れる血液を苦々しく思っていたというのに。
流れるそれは真っ赤で真っ黒で、熱くぬるく、すぐに冷えて粘ついて、ちっとも綺麗なんかじゃなかった。
どこまでも禍々しく、汚らわしいだけだった。
やっと、止まったと思っていたのに。
やっと荒地に芽吹いた新芽を慈しめるようになっていたのに。
もう耳は役立たずだけれど、それでも風を感じる皮膚は生きていたのに。
柔らかな土を踏みしめる両足は、辛うじて私を支えているのに。
呼吸ができる、それだけで幸せだと思えるようになったのに。
どうして今なの。
どうして、
たった片足分だったのに、

私はそのまま動けずに、ただ硬直したまま歯軋りした。
悔しさや悲しさというより、憤りのような感情が胸をぐるぐると暴れ回る。
喉元、溢れ出そうになった声を、ぐ、と飲み込む。
喉がぎゅ、と絞まって、酷く痛んだ。
瞬きの仕方を忘れたせいで、乾いてしまいそうな粘膜を守るためだけに涙が出た。
そう、今更泣くわけないもの。

どうして今なの。
どうして、あの時この地雷は私の裸足のかかとの下にいなかったの。
あの時なら、迷わずこの足を持ち上げられたのに。
笑ってあげられたのに。
泣いてあげられたのに。
一緒に、逝ってあげたのに。
どうして今なの。

地雷は私の真後ろに。
立ち尽くしたまま動けない私の、裸足のかかとの真下。
土は柔らかく、新芽は眩しいほど鮮やかだった。
息苦しいほど愛しい、無音の世界。

季節が夏に変わる頃の夢

「おやすみ」

その言葉は、いつもうっかり眠り方を忘れてしまう俺にとって、眠りとは意識し焦ることでつくものではなく、ただ目を閉じ安堵の溜息をつけばそれでいいものだと、すんなり眠る方法を思い出させてくれる不思議な魔法の言葉だったように思う。

たったその一言(しかも有り触れた挨拶の言葉)で、最近またろくに眠れもしなかった俺を、下手すれば眠ろうと足掻く時間の方が実質の睡眠時間よりも長かった俺を、意図も簡単にすぅ、と眠らせる。
夜の闇のように静かに沈んだあの人の声だけが、俺の何よりの睡眠薬だ。

もしかしたら、あの人は魔法使いなのかもしれない。なんて、子供じゃあるまいしと笑ってしまいそうなことを、半ば本気で思うほどだ。

「おやすみ」

たったそれだけの言葉に、一体どんな力が備わっているのだろう。
ぱちん、とスイッチが入れ替わるようにして、俺の意識は簡単に眠りにつく。
信じられないほど、穏やかに。

子供の頃、暑くて蹴り飛ばしたタオルケットを、母親が腹の上に戻してくれたことを思い出す。
「おなか冷やすよ」
その人の抑えた笑みが滲んだ声はどこまでも優しく耳の奥に響いて、そのたびそれは不思議と泣きたくなるほど懐かしい、もう覚えていない過去の記憶の向こうでも聞いたような錯覚を起こす気がした。
意識が片足夢に踏み込んでいるからだろうか。
その曖昧さは、完全に目覚めている時には馬鹿らしいほどなのに、こんな時だけは本気で分からなくなる。
胸の真下から太ももの付け根の僅か上を覆うだけのタオルケット。
全部かけたら暑くてまた蹴り飛ばすと分かっているから、せめて、ときっちり腹の上だけ。
その慎重さに感謝して、その好意を蹴り飛ばしてしまわぬよう、脚から力を抜く。
自分でかけたタオルケットは、どうしたって蹴り飛ばしてしまうけれど、母とその人にかけてもらったタオルケットだけは気をつけた。
それが唯一、やっと眠れる嬉しさと、不思議な切なさでいっぱいいっぱいになった俺にできることだった。

「おやすみ」

眠りは祈りと似ていると、何故か殆ど睡魔に覆われ、指先ひとつ動かせず、声ひとつ出せなくなってから思う。
目が覚めたら忘れてしまうほど、抗えぬほどこってり重たい意識の淵で。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。