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無題。

きちりと噛み合う歯車は、
きちりと噛み合う歯並びは、
きちりと噛み合う。
きちりと。
耳障りな微かな音を立てて。
きちり。


「もう疲れたよ」

笑う君の頬の筋肉もまた、きちりと。

「ねぇ、出かけない?」

強請る君の指の関節もまた、きちりと。


きちり。
よもや聞き逃してしまいそうなくらいの小さな音で。
僕はついつい、耳を澄ませる。
きちり。

うまく噛み合わない歯車も、
うまく噛み合わない歯並びも、
きちりと音を立てる。
噛み合うそれより僅かぎこちなく。
きちりと。
耳障りな微かな音を立てて。
きちり。
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小さな赤い巾着袋

雨が降っていた。
土砂降りではなく、霧のように静かで細かな小雨だった。
その中に、ひとり立ち尽くす夢だった。

凍えていたわけではない。
ただ、心細かったことだけは確か。
たったひとり、古くて大きな家の前に立ち尽くしていた。
だけどその家すら僕の家ではなく、そこに自分が立つ理由も分からなかった。
どこから来たのか。どうしてここなのか。
自分は何をすべきなのか。
何一つ分からなかった。
古くて大きな家の庭から、少し段落ちした場所に狭い道路があった。
僕は何故かそちらを小雨に降られながら、ぼんやり見ていた。
そこへ、一台のバイクが通り過ぎる。
湿ったアスファルトの上を、タイヤが走る。
そのエンジン音は、忘れない。
その、ブレーキ音も。

ふと気づけば、少し先でバイクが止まっていた。
全く知らない人だし、普通に通り過ぎると思っていたから少し戸惑った。
その人はフルフェイスのメットから見える目だけで僕を振り返り見た。
バイクから降りて、こちらへ歩いてくる。
その足取りは少し不安定で危なっかしい。
それでも僕の前まできて、立ち止まった。
メットを脱ぐとそこには、荒く伸ばした艶やかな黒髪と、慈愛にも似た優しい瞳があった。
僕は声が出なかった。
ただ、その人をじっと見つめるだけだった。
その人は低く優しい声で何かを言った。
だけど僕にはそれが聞き取れず、ただじっと見つめるだけだった。
その人は着ていたジャケットのポケットから、手のひらより小さいくらいの、赤い巾着袋を出した。
中に和菓子が入っているのだと言った。
これをお前にやる。と言った。
甘くて俺には食べられないから。と。
どうしてか分からなかったけれど、なんだかとっても嬉しくて、僅か微笑んで頷いた。
差し出すその人の手のひらに、自分の手のひらを広げると、そっと置いてくれた。
瞬間、少しだけ触れた指はとても冷たかった。
驚いて顔を上げると、その人は蒼白な顔で僕の方へと倒れ込んできた。僕は慌てて抱きとめる。
僕より背が高いその人はだけど、思ったよりずっと肉薄で華奢で。
僕はこのままこの人が壊れてしまうのではないか、と怖くなった。
抱きかかえ、背後の古くて大きな家に連れ入った。
その家の人は全く知らない人だったけれど、倒れた人を頼み込んだ。
家人は快くその人の介抱を承諾してくれた。
だけど僕はその家の中にその人に付いて入ることはできなかった。
僕は家人に何度も何度も頭を下げて、手のひらの上の小さな赤い巾着袋を握り締め、そこを後にした。

僕は流れ流れて、今度は古くてだけど高層のビルの中に住んでいた。
廃れ廃れて物置と化していたそこは人が住むような場所ではなかったけれど、そこには僕と同じように行くあても何もない女の子や男の子が数人住んでいた。
それぞれに生活テリトリーがあって、僕は掠れた朱色や淡い暖色系の着物を着た女の子数人とビルのとても高い階にある部屋に住んだ。
女の子たちは僕の手のひらにある赤い巾着袋をいつも見たがった。
僕は「これは僕の宝物だから、あげられない」と断る。
女の子たちは「好きな人からもらったものなのね」と笑った。
好きな人かどうかはわからないけれど。僕はあの人の名前も何も知らないから。
だけど、あの時。
この巾着袋をもらった時。
すっごくすっごく嬉しかったことを思い出す。
受け取った時、僅か微笑んだような気がした、あの人。
あの人は元気になったのだろうか。
あのまま離れてしまったけれど。
ぼんやり思っては、その赤い巾着袋を開けられずにいた。
きっと何度も握り締めていたから、お菓子は潰れて食べられなくなっているだろうと思う。
だけど僕はどうしても開けられなかったし、手放すなんて絶対にできないと思った。

ある日。
高い高いビルの下の道路を、バイクが通るエンジン音が聞こえた。
僕は手に赤い巾着袋を握り締め、殆どもう使われていない古い家具や荷物で埋もれている窓へとよじ登って下を覗いた。
そこには確かに、あの人のバイクとフルフェイスのメット。
僕に気づくはずがない。
そう思いながらそれでも、僕は身を乗り出して赤い巾着袋を振った。
その人は減速する様子もなくそのまま通り過ぎようとしたけれど、ふと顔を上げてこちらを見た。
フルフェイスから僅かに見える目だけ。
その黒い瞳が、あの時のように慈愛にも似た優しい角度で緩むのが見えた。
そしてそのまま、バイクは通り過ぎていった。
僕はどきどきと鳴り続ける心臓に爪を立てて、小さな赤い巾着袋を抱きしめて泣いた。
初めて、神様に感謝した。

それから何度か、同じことがあった。
僕はそのたび小さな赤い巾着袋を握り締めて、高い高いビルの窓から身を乗り出し、その人の瞳が緩むのを見送った。

僕は凍えていたわけではない。
そして、心細く思うことも、もうない。
僕はきっと誰より、幸せなのだと思った。

今日もまた、あのエンジン音が聞こえる。
二度と聞くことのないブレーキ音を思い出しながらそれでも、僕は小さな赤い巾着袋を握り締め、窓へと走る。

ねがい

雪は、いつ降るのでしょう。
毎年待ち侘びる雪は、いつ空の高みから降り落ちてくれるのでしょう。
全て白く埋め尽くしてください。
何ものにも代え難い純白で、全て僕らの目から覆い隠してください。
例え大気中の水分と汚れが凍っただけだとしても。
口に含むには毒だとしても。
いつか、溶け消えてしまうとしても。
いつか、また眼前に全て突きつけられるのだとわかっていても。
嘘でもいいから。
偽りの白でも。
幻でもいいから。
すぐに目覚めてしまう、夢だとしても。

手のひらの上。儚く溶け消えるは、雪かそれとも人の夢か。

あぁ、お願いですからお願いですから。

春などこなくてもいい。
夜明けは僕らに眩すぎる。

雪の夜の闇は等しく。
真白と真黒に。
強固なまでに、全てを塗り潰す。
そしてどこまでも僕らに、優しかったのです。

あの冬の日の夜から。
僕らの願いはひとつだけ。

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a ray of hope

(鏡の表Ver.)

明日の朝には、光は差すのでしょうか。
朝焼けに凍えることなく、光を全身に浴びることができるのでしょうか。
明日の朝には、あなたは笑ってくれるのでしょうか。
俺はあなたに笑いかけられるのでしょうか。
いつになったら俺たちは。
伸ばす先もわからず、ただ伸ばしていたその手に触れ合えるのでしょうか。
ぬくもりを分け合えるのでしょうか。
自分にとって冷たいこの手は、互いにとって温かくあれるのでしょうか。
明日の朝、俺たちは。

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TWICE

もう一度と。懇願して。
もう一度と。哀願して。

実のところ、あの頃の思い出の品など、殆ど処分してしまったのだけれど。
先刻、あの頃ちょっと無理して買った奇麗なグラスを割ってしまいました。

あぁこれでもう、なくなってしまったのだな、と思います。
君とお揃いで買ったのに。
片割れは割れてしまった。

もう二度と。
どんなに懇願しても哀願しても。
元には、戻らないし戻れないものなのだな、と思います。
この粉々になってしまったグラスのように。
俺たちにとってそれはきっと脆くて、だけど無理してでも手に入れたいくらい、奇麗なものだったのでしょう。

あぁ君に電話をしよう。
ごめんね、割っちゃった。そう言って笑って謝ろう。
きっと君は、まだ持ってたの?俺もうそれ随分前に捨てちゃったよ。と言うのでしょう。

片割れは、すでにいないことを。
先刻割れてしまった俺のグラスは、知っていたのかもしれない。

もう一度と懇願して。
もう一度と哀願して。
もう一度。
二度と戻れないあの頃に置き去りにして。

奇麗事

君は奇麗事だと思うだろう。
そうだね、奇麗事かもしれない。
ずっと、きっと一生信じられないものだろう。
後から後から降り落ち、君を全部。埋めてしまうほどの幸福で。
君が、窒息しそうなほどのぬくもりに包まれるといい。
痛みも悲しみも辛さも寂しさも苦しみも全部、埋めて。
君の目から隠れてくれればいい。
せめてと祈る僕を、君が許してくれればいい。

今まで僕は、沢山の祈りの言葉を紡いできた。
それはいつか君に届くだろうか。

痛む君が安らかでありますように。
嘆く君が眠りを貪れますように。
悲しむ君が穏やかになれますように。
苦しむ君が光をその身に受けますように。
求める君が満たされますように。
足掻く君が報われますように。
祈る君が救われますように。

僕の偽善が、君を傷つけませんように。

いつか、君は僕の願うようになるだろうか。
祈り続けて、僕はずっと。きっと一生、祈りの言葉を紡いでいく。
めくるめく幸福の中。
君だけが感じるぬくもりの中、君は。
君は、笑ってくれるのだろうか。

奇麗事を嫌う僕が紡ぎ続ける、奇麗事。

ふたつめのつみとばつ

覚えてるも何も。
僕は君の腕の中に蹲って甘えるも何も。
我侭や言い訳や嘘ばかりを積み上げて、真実を飲み下すことしかできなかったというのに。
覚えられなかった方法は沢山。
覚えられた方法も沢山。
欺き騙すことばかりに長けて、気づけば自分でもどれが偽りで、どれが真実か分からなくなってしまったけれど。

覚えているも何も。
それはつい先刻のことのように。
そっと差し出された本は薄く軽く。
優しく柔らかく、そして強い祈りが込められていることだけはわかった。
君の祈りだ。
僕への祈りだ。
僕だけへの。
そしてそれは、他の誰かのために生まれ、他の誰かにとってはとてもあたたかい救いだったのだろうけれど。
その本を君が、僕に差し出すという事実が、僕には酷く辛いのだった。
救いを求めているわけではない。
ただ、許しを請うているだけだ。
もう許してくださいと。
ただそれだけなのに。
たった一度だけ口にしただけなのに。
それすら、酷い我侭だったのだろうと思う。

覚えているも何も。
君の強いその祈りに応えるどころか、最後まで耳にすることすらできない僕が。
君の祈りの強さだけを、感じる感覚だけは麻痺していないことに気づいたとしても。
君の、君が僕に求める言葉を、僕は知らないのだ。
沢山の言葉に触れ、思い出したり忘れたりしながら、そして少しばかり操る僕はきっと。
君が僕に求める言葉を、いつか。
いつか見つけられるように。
そしていつか君に、自然に差し出してあげられるように。
そのためにきっと。
僕はこうして、「言葉」という余計なツールを両腕いっぱいに抱くのをやめないのだろうと、…思うよ。

覚えてるも何も。
時は流れて。
それでも君の祈りを最後まで耳にできず。
君の求める言葉を見つけることもできず。
君は強く祈り続けて。
僕は、探し続ける。
許しを請う我侭を、声には出さずに繰り返しながら。

掃き溜める言葉

見届けることは私の義務であり、私に唯一許された権利である。

だから、私はここにいるしかない。
そうするしか、選択肢は他にない。

見届けることは私の意地であり、私に唯一許された祈りである。

そしてそれらは、私の望むところであるのだ。

飢えた獣4

こんな触れ方なんて知らなかった。と笑う。
切り裂いて弄ぶ、だとか、乱暴に掴んで引きずり回す、だとか。そんな方法でしか、人に手を伸ばす理由がなかったと。
他に欲求は沸かなかった。
獲物か敵かしか、存在しなかったから。と。
そう言って俺を見上げる。
俺だって。
言い返す。
俺だって、触れ方なんて知らない。
ブラスターの試合で殴るか、蹴るか。肩をぽんと軽く叩かれることはたまにあったけれど、自ら誰かに触れることなんて、なかった。
触れたいと思ったこともない。
なのに。

「…どうしてだろうな」
「ふっしぎだよなぁ~?」

安穏と繰り返し交わす疑問の言葉は、特に答えを欲していないことに気づく。
それでいいのかもしれない。
ねだることも、ねだられることも。お互い、未体験だった。
だけど気づいたら、まだぎこちない時もあるけれど、両者間でならなんとかできるようになった。
甘えたり、我侭を言ったり、拗ねたり、相手の表情を伺ったり。
俺たちは、いつの間にか名も知らない感情を沢山共有している。

きっと俺たちは、子供の頃学習すべきだったことが欠落しているんだろうと思う。
そしてその欠落部分のバランスが、絶妙だったのかもしれないと。
あまりいいとは言えない出会い方をしたのに、それでも互いの足りない穴を埋め合うように。
いつの間にかこうして、そばにいる。
きっと俺たちはこうして、育ち直しをしているのだろう。
育てたり、育てられたり。
こうするしかなかったんだ、きっと。

気まぐれにせがむ膝を貸せば、甘える猫のような仕草で擦り寄る。
まるで昔から知っていた、慣れた仕草に見えるけれど、こんな自分なんか知らない。と笑った。
別にいいんじゃないか。と俺も笑う。
そうだ、普通に笑えるようにもなったな。と思う。
膝の上、でかい体躯を折り曲げるようにして、できるだけ全部で触れ合うように。

今まで飢えていることにも気づかずにいたのだろう。
それは、俺も同じなのかもしれない。
そしてその飢えは、一度気づいてしまうと際限がなくなってしまう。
きっとタガが外れてしまうのだ。
いつまで経っても満たされないような気がして。

こちらもまた気まぐれに膝の上の金色の髪に触れる。
すると、それ気持ちいいからもっとして。そう言ってせがむ声がする。
何度も何度も、意味なんてないのに。
せがまれるままに髪に触れる。
痛んでぱさぱさの髪はそれでも何故か、指先に絡まる感触さえ心地良かった。
せがまれなくとも触れていたいと思う。

「…どうしてだろうな」
「ふっしぎだよなぁ~」

繰り返し交わす疑問の言葉の答えは、俺たちふたりにとって不必要なものなのかもしれない。
なんとなく、そう思った。

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振り返る

「後から後悔したくないし」
そう言った僕に、彼女は笑って言った。

「後悔は後からするものよ」

その穏やかな口調と笑顔から零れる言葉に、一体どれほどの後悔が詰まっているのだろうと思う。
きっとこの人は、僕なんかじゃ把握しきれないほど後悔を繰り返してきたのだろうと。

可哀相なんて思わない。
不憫だとも思っていない。
彼女はきっとそれでも尚、後悔し続けても幸せなのだろうから。

急に寂しさを感じるようになったのは、きっと季節のせいでしょう。
だから安心して傍観していてください。
いづれ僕はあなたと同じ轍を踏みしめる。
そして誰かが僕に、「後から後悔したくないし」と言ったなら。
僕はその人に対して、できるだけあなたに似せるように穏やかに笑って。
「後悔は後からするものだよ」と言ってあげられるようになるから。
あなたほどにはなれないかもしれないけれど、似せることはきっとできる。
そうやって、僕も季節の変わり目に寂しく思うのでしょう。
後から後から後悔を繰り返し積み上げながら。

向かう行き場と残る行き場

最初から知りません。
僕はきっと、最初から何も知らないのです。

きっとどこかで学習するべきものだったのでしょう。
必然的に。ごく自然に習得していくものだったのでしょう。
知らず覚え、難しく考えずとも見つけられるものだったのだと思います。

だけれど僕はそれを知りません。
最初から知らなかったのです。
どこで知るべきだったのか。
どこで見落としてしまったのか。
それすら知る由もありません。
僕は知らぬものが多すぎます。

だから、今更それを僕に差出し、当然のように待たないでください。
それを知らない者はただ途方に暮れるだけなのです。
受け取り方も、返し方も知らずに。

息巻いて焦り求め請うたとて。

それはどこの言葉ですか。
辞書に載っていますか。
今からでも知ることができますか。
差出すアナタの手のひらの上に、当然のように的確なものを返すことができるようになるのでしょうか。
いつまでにアナタに応えてあげられるのでしょう。
いつになったら。
そっと受け取り、アナタに、優しく微笑んでありがとうと言えるのでしょう。

僕は生まれながらに難聴でした。
優しいアナタの声が聞こえなかった。
しかし僕はきっと、色盲でもあったのでしょう。
優しいアナタの瞳の色すら、思い出せない。
そして僕は愚鈍でもあったのです。
優しいアナタの手の感触すら、そして先から零れ落ちる感情すら、汲み取ってあげられていなかったのですから。

夢枕

決して、それほどまでに嘆いているわけではないのだけれど。
長年大切に抱いてきたものを、不意に横から奪われてしまうような、だけどどこか他人事のような、妙な絶望感があった。
それは物質として確かにあるものではなく。
かといって、感情という名で固めて他人に的確に提示できるものでもなく。
言葉というツールで表せるような簡潔なものでもなく。
至極曖昧なもので。
だから、それほどまでに嘆くわけにもいかないのだけれど。

赤子が生まれた瞬間、肺いっぱいに酸素を吸い込み、喘ぐ産声のようにただ、引き攣れそうな痛みを帯びた悲鳴を。
あの時、その至極曖昧なものを見つけた瞬間、あげた自分がいて。
それだけははっきりと覚えていて。
あの痛みも喜びも眩さも困惑も。
きっとこの命が終わるその時まで、大切に抱いていくのだと。
考えもしなかったけれど、同時に疑いもしなかった。
それはどこまでも胸奥深くに突き刺さり、その痛みすらなくては呼吸もままならないことを知った。
方法が、他に見つからないのだ。
だからこのままこうして。
ただ、生きていくのだと。
この大切に抱いて、奪われそうになるだに激しく威嚇し、攻撃して守ってきた、至極曖昧なもの。
他に何をもそれには勝らず、それを抱き続けるためにと犠牲にしてきたものは数え切れない。
今更悔いることもない。
それだけ、大切だっただけだ。

夢を。
ただ愛しいほどに懐かしい、夢を見ただけなのに。

意義も意味も権利も全て奪われるような恐怖感が滲んだ。
滲むのは汗か涙かすら分からないけれど。
今まで必要と思っていなかった酸素が、ぺしゃんこだった肺に急激に流れ込み、今にも破裂してしまいそうなほどの乱暴さで、ぶくりと内部から押し広げられる痛みは、筆舌に表しがたいものがあったけれど。
だけど確かに、覚えている。
忘れられるはずがない。

至極曖昧なもの。

決して、それほどまでに嘆くわけにはいかないのだけれど。

侘び。

俯いた顔は、いつまで経ってもこちらを見ようとしない。
だけど、それならそれでいいと思う。
見ないのではなくて、見られないのだろう。
顔を上げて、こちらの瞳を覗き込む仕草も好きだけれど、俯いて口惜しげに唇の端を噛む表情もまた、好きだとはっきり言ってやれると思った。
自信があるわけじゃない。
いつだって不安と戦い続けているのは同じ。
いつか自分か彼か、どちからが先に死ぬ。
その「いつか」は、今まさにこの瞬間かもしれないし、明日かもしれないし、果ては何十年先かもしれない。
死なないことはない。
いつか死ぬのは分かっている。
でもだからと言って、ずっと死に怯えて暮らすなんて不可能だ。
何度見据えて覚悟を決めていたとしても、ぼんやりしていたらいつの間にか忘れてしまうものだ。
そうやって平穏な時は流れ、そして、ふと思い出す。
その繰り返し。
それだけだ。
だから今、不安に襲われてしまって、顔を上げられなくなったとしても。
そして俺の顔を見ることすらできなくて、口惜しげに唇を噛んだとしても。
今、この瞬間の重みを無駄だと罵ったとしても。
それでも笑えるから、大丈夫だよ。
好きだとはっきり言ってやれる。いつだって俺は。
なんだっていいんだ。
先のことは確かにわからないけれど、今。
まさにこの瞬間息絶えたとしても君が。
君が、俺の目の前から立ち去ろうとしない事実だけで。
それだけで俺は、往生できるってものだよ。
ねぇもしも。
もしも俺が、君より先に死んでしまったら。
君は悲しんでくれるんだろうか。
君はそんな例え話を心底嫌がるんだろうけれど、もし。
君を置いて。
君をひとりにしてしまう俺を、君は恨んでくれるのだろうか。
一生憎んで恨み続けて、そうしてでも、俺を記憶の隅に残し続けてくれるのだろうか。
君を。
どんな瞬間も君を好きだと言い続けてやれると思い続けた俺を。
忘れずに、そしていつか、死んでくれるのだろうか。
だから、俺をあまり好きにならないでいて。
俺が先に死んでしまった時、君が、俺のことをとても好きでいてくれたりなんかしたら、君はとても苦しむだろうから。
憎んで、恨んでいて。
一生、忘れないでいてね。
その分俺が、君の事。
大切に大切に、好きでいるから。
もしも君が俺より先に死んでしまったら、これ以上ないくらい苦しんで悲しんであげるから。
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