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水葬式

この手で良かったのでしょうか。
あなたは。
こんな、非力な手で。

窓から見えた景色は、随分昔の家の庭に似ていました。
地域に住まうごく僅かな人間しか利用しない狭い道路の向こう側。
ひょろりと伸びた一本の木に、繋がれた大きな犬がいました。
こげ茶色のミックスで、黒目がまん丸で。耳の先が少し、折れていました。
太くてふさふさとした尻尾は力なく垂れたまま。
ずっと誰かを待っているようでした。
私は窓からずっとその大きな犬を見ていました。
私もまた、ずっとここで誰かを待っていました。
元々曇りの薄暗かった空から、大粒の雨が降ってきました。
犬は雨宿りすることもできず、繋がれたままそこにいました。
私は窓辺から動けずに、ずぶ濡れになっていく大きな犬を見ていました。
気づけば、私は裸足のまま、外へ飛び出していました。
大きな犬は私を見ても動じず、ただ、そこにいました。
ひょろりと伸びた木は枝が少なく、犬も私もずぶ濡れです。
ぐるぐるに巻きつけられた鎖を解いて、犬を玄関まで連れて行きました。
犬はやはり動じず、されるがままについてきました。
タオルも何もなくて、私は犬の身体にびったりとしみこんだ水滴を手のひらで必死に払い落とします。
獣の匂いがぷんとしました。
私も犬も、へとへとでした。
犬はいつしか眠り、私は玄関でその犬の頭を膝に乗せたまま、座り込みました。
冷たく硬い玄関のたたき。
犬の頭だけは、大事に抱えて座りました。
しばらく眠った犬は、私を見上げます。
あぁ、きっとこの犬はかえりたいのだろう。と思いました。

「かえりたい」

そう呟いたのは、私だったのか犬だったのか。
私はその大きな犬を抱えあげました。
ずっしりと重く、今にも落としてしまいそうになりながら、私は玄関から外へ出ました。
雨は降り続いていましたが、気にもなりません。
元々私と犬は、ずぶ濡れなのですから。
ふらふらと犬を抱えて、森の中へ入って行きました。
しばらく奥まった獣道をかき分け歩くと、狭い洞窟がありました。
中に入り、少し地中に下ると、どこからか入り込む光に照らされた、薄暗くて小さな湖がありました。
恐ろしいほどの青を湛えたそこに、私は犬を抱えたまま入りました。
浮力が大きな犬を抱える私の腕を助けました。
私は胸まで水に浸かり、犬の顔以外の身体が完全に沈みます。
ふと、犬は私を見上げ、弛緩し、薄目になりました。
浮力だけではなく、犬の身体が軽くなりました。
魂が抜けた後、その身体はその魂分だけ、軽くなったようでした。
薄目を開けたままの犬を、そっと腕から離しました。
ゆらり、犬の身体は水中に揺れました。
そっと、手のひらを犬の両目にあて、その目を閉じてあげました。
犬の身体はゆらり、私から離れていきました。
沈むでもなく、浮かぶでもなく。
きっと、あの犬はこうして水に浸り、いつしか溶けて海へかえるのだろうと思います。
海へ。

「かえりたい」

この手で良かったのでしょうか。
あなたは。
あなたを見送る者が、私で良かったのでしょうか。
あなたが待っていた誰か。
私ではない誰か。
私が待っていた誰か。
あなたではない誰か。
それはきっと、もう、かえってはこないのでしょう。
待ち続けてへとへとになった私とあなたは、ずぶ濡れです。
だけど玄関のたたきの上、抱き締めたあなたはとても、あたたかかったよ。
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秋火花

所詮、一瞬のものです。
所謂、階層の違いを見せ付けるだけの作業だったのでしょう。
無駄に中途半端な思い出を、このような形で再度焼き鏝を押し付けるような痛みを伴って再現されると、これ以上何をどうすればいいのか困惑するだけです。
何がしたかったのか。
何が欲しかったのか。
何をして欲しかったのか。
何をどうしたかったのか。
そんな稚拙な欲望など覚えておりません。
あれが何年前の何月何日だったかも覚えておりません。
人は歳を取るたび、何かを諦め、何かに執着していく生き物です。
年々強固に塗り固まっていく「己」と対峙しつつ、溜め息のような呼吸を繰り返す生き物です。
ですから、今更その当時の記憶を思い出させたところで、その時の欲望も、感情の流れも、何一つ思い出せないのです。
ただ、映画館のフィルムが流れるように淡々と。
焼きつき残ってしまっていた残像が、映像として目前でちかちかと瞬くだけです。
無駄が嫌いなわけではありません。
生きること自体が無駄なのですから、無駄を嫌っていては生きていかれません。
人の人生は無駄なもので溢れ返っております。
きっと私があの人と出会い、交わした言葉も視線も体温も、全て無駄だったのでしょう。
今更、あの時あぁしていれば。などと馬鹿げた後悔もありません。
私は諦め諦め、固執しては「己」を塗り固めて生きているのですから。
所詮、一瞬のものだったのです。
所謂、世界の違いを思い知らせるだけの行為だったのでしょう。
困惑は私の無知と浅はかさをむき出しにするだけでした。
結局私は未だ、子供だった、というわけです。
…修行が足りません。

ひとつめのつみとばつ

覚えているも何も。
僕は君の亡骸に縋って泣くも何も。
君が眠りについたその瞬間を知らず、冷たい机に目いっぱい広げたノートと教科書を睨みつけるのに必死だった。
シャーペンの芯が折れ飛んで、教室のどこかに行ってしまっても、僕は目で追うことすらしなかったのに。
叩き落とす消しゴムの滓の行方すら想いもしなかったのに。

覚えてるも何も。
僕は君の亡骸に縋って泣くも何も。
君が灼熱の炎に燃されて骨のカケラになる瞬間も知らず、くたびれた制服のスカーフを奇麗に結ぶことに必死だった。
鞄にぶつかってよく擦れる場所だけてらてらと光沢を持つ不思議な布地はただ重たいだけなのに。
隠したかった貧弱な身体を覆う下着の冷たさに項垂れるだけだったのに。

覚えてるも何も。
僕は君の痛み苦しむ表情を見ていない。
君が眠りについた安らかな寝顔を見ていない。
君が燃されて煙になって天国へ昇るそれすら見ていない。
君の骨のカケラも見ていない。
君の墓石も見てなんかいないのだ。

覚えてるも何も。
僕は君の本来の声も知らず、その皺々の喉仏にぽっかり空いていた穴のように、僕の記憶から君の死に直面するべき全てが足りないのだ。
位牌は見た。遺影も。
線香もあげたし、手も合わせたけれど。
僕の記憶に残る君はただ、掠れてうまく出ない声で慈しむように僕の名を呼んでくれる響きだけだ。
穏やかに静かにそばにいてくれた。
伸ばしてくれた手は大きく柔らかかった。
君が紡いだ人生の何一つ僕は、知らずに済んでしまった。

時は流れて。
覚えているも何も。
君が慈しみ愛してきた全てが、君の通ってきた長い道のりの後に続くように生きているだけで。
その恩恵に少しばかり預かれた僕にとって、君の死を完全に受け入れるために必要だった全てが、足りないだけで。
時は流れた。
君の血を受け継ぎ、生まれた子供は大きくなった。
心の優しい、いい子になった。
まだ貧弱な身体のあの子はきっと、君のようにあたたかい人になるだろう。

だけど覚えてるも何も。
その子と僕は、泣くタイミングを逃してしまったのだ。

構築と崩壊

目的も分からず、だけど闇雲に駆けずり回っていれば、いづれ見えなかったものも見えてくるだろうと思ってた。とあの人は笑った。
あの頃、俺には特に守るものもなかったから。と。
だけど今のあの人には守るものが沢山ある。
あの人は己の手を見下ろして、俺にできることはまだ残っているだろうかと疑問を持つけれど。
あの頃の俺と比べて、俺は守るべきものを手に入れてしまったがために、非力な臆病者になってしまっていないかと悩むけれど。
その手には、他のどの人間よりも、力がある。
不特定多数の人間を生かすも殺すもあなた次第なのだ。
その力を自覚していないのが、何より危険だ。
構築していく力と、崩壊させる力は同等に脅威だ。
構築する力をなくしたとしても、少なくともその手には崩壊させる力が残っている。
それはとても怖くて強いもの。
闇雲に駆けずり回っていた力とはまた別物の、力だ。
壊すことは可能だ。そしてとても簡単。
いつでも。
まさに今この瞬間ですら。
しかしそれをあえてしていないだけ。
まさに生かすも殺すもその手次第なのだ。
例えば、普通の人間が普通に細々と暮らしているとする。
その人間にだって、力はある。
構築していく力も、崩壊させる力も。強弱の違いはあれど、等しく誰にだってある。
だけどあなたの場合、その力の影響を及ぼす範囲があまりに広い。
どうか自覚してください。
あなたのその手の影響力は脅威だと。
あなたにとっても、少しでもあなたに関わってしまった人間全てにとっても。

だからと言って、無理を押してでも耐えろと言っているわけではない。
壊したくなったら壊せばいい。
耐え切れなくなって、もういらない。と思うなら。
その守るべきもの全てがあなたにとって、重荷でしかなくなってしまったら、即刻壊してくれてもかまわない。
ただ、壊してしまった後で己の力が及ぼす強大な影響力に驚いて後悔などしないように。
それだけ。
だから自覚は必要なのだ。
あなたが闇雲に駆けずり回り、見つけ、生き、守るべきものを見つけてきたその道程全てを、後悔なんかに摩り替えてしまわないように。

もはやその手の力が及ぼす絶大な影響が崩壊させるものは、人だけでは済まないのだから。

幸福の定義

「知らない」

君は何かに酷く怯えたように。
君の魂の入れ物である身体は、君の理解の範疇を軽く越えて、急激に大人になってしまった。
長く逞しい手足。広い肩幅。太い骨格。
だけど君はまるで稚児のようにその体躯を縮めて竦み上がる。

「可哀相に」

おいで、と手を伸ばすけれど。
君はかぶりを振って声を殺した。
君は全てに酷く怯えるように。
がたがたと震える全身を小さく小さく折りたたむ。
それすら様にならないくらい、君の身体は完璧な成長を遂げた。

「ついていけないの」

僕は聞く。
君はただ、わかんない。と消え入りそうな声を搾り出した。
稚拙な言葉に似遣わしくない、低い声。

「 」

僕は君の名を呼ぶ。
僕らの周囲は知らない人だらけだね。
格好だけ大家族みたいで、だけど皆知らない。
愛情に見立てたよくわからない感情が、沢山渦巻いていて何だか怖いよ。
だから僕らは互いしか知らないし、認知しない。
僕は君の名だけを知覚する。
君は僕の名をすら知覚していない。
だけど、声と顔だけは分かっているようだった。

「 」

僕は君の名を呼ぶ。
毎朝必ず、僕は君のベッドに迎えに行く。
僕以外の他の人が幾ら声をかけても、君はベッドから出ようともしないし、声に反応すら返さないから、毎朝君を起こすのは僕の役割になってしまった。
毎朝、名前どころか顔も覚えていない女に「起こしてきて」と頼まれる僕の身にもなってよ。

「 」

もう朝になってしまったよ。
あぁ、神様は非情だね。僕らに朝を押し付けてくる。
どんなにこないでこないでと強く祈って目を閉じても、膝まづいてもひれ伏しても。
強引にただ、朝を。

「 。神様っているのかな」

君はかぶりを振って、今にも泣き出しそうな顔をした。
立派な大人に成長した体躯を持った君と、中途半端にしか成長できずに止まってしまった僕。
なんてあべこべなんだろうと思う。
どちらが幸福かなんてわかんないから、どちらが不幸かもわからない。
そのどちらかに当てはまるのかどうかも。

だけど僕らは互いだけを知覚する。認知する。
似ても似つかない僕らはそれでも、全く血の繋がらない双子だからだ。

「 。僕らは痛む場所が似すぎたんだ」

還る場所は、違うのにね。

呟いた僕の背中に、君はただ縋りつくように爪を立てて泣いた。
赤ん坊のような、大きな声で。

白い滑稽

重くて邪魔な大きな荷物を持って、僕は狭い階段を屋上に向かって上っていた。
途中、擦れ違う同年代の人たちの脇をへこへことこれ以上ないくらい、これ以下もないくらい謙りながらすり抜けた。
身内間では歯に衣を着せぬ僕の本来の性根は、大袈裟なほど小心者なのだ。
少し荷物がぶつかっては、頭を下げた。
だけど肝心の謝罪の言葉は、声になって喉からは出てくれなかった。
もはや僕の声は、毎日あなたに同じ言葉を告げるためだけにあった。
そしてそのことは、いつの間にかこの広大な建物の中でほぼ一日の大半を過ごす人間殆どに知れていた。
それほど僕は毎日毎日、飽きもせずあなたを探し出し、同じ言葉を告げた。
そのたびあなたは曖昧に煙に巻いては、しかし帰り道の道草に僕を連れまわした。
僕はこの広い建物の中、沢山の人間の中に紛れ込んでしまうあなたを毎日探す。
繰り返していくたび、あなたが僕があなたを探し出して同じ言葉を言うのを待ってくれているような気がしてならないからだ。
もはや僕はあなたを探して同じ言葉を言うこと。そしてあなたは僕に探し出されて同じ言葉を言われることを毎日の日課のようにすら勘違いしていたように思う。
そのことで、この建物の中に自然埋没するだけだったはずの僕のような目立たない小心者は周囲に一目置かれるようになってしまった。
何故ならあなたは僕と全くの正反対。
ただ立っているだけで人目についてしまうほど、どこか際立った人間だったからに他ならない。
そんな正反対の共通点すらない人間同士が、毎日同じことを繰り返し繰り返ししている。
傍から見れば、さぞや滑稽だろうと思う。
しかし周囲が騒ぎ立てることにも飽きるほど、僕らは変わらず同じことを繰り返した。
気づけば殆どの人間は僕らに対して一目置いてしまった、というわけだ。
最初はこれほどの大事になるとはちっとも思っていなかったのだけれど。
人間、慣れというものは怖いものだとなんとなく思う。

そして今日もまた、僕はあなたを探す。
今日は冬の入り。
外はべとべとした緩い初雪。
この建物の屋上にあなたがいると、僕は思った。
きっと、この寒い中。
粉雪よりも手に触れるだに溶けては身を切るほど冷たく体温を奪うべた雪の舞う屋上で、期待を殺しながら僕を待っている。
待ってなんかいない。そう口の中で言い訳しながら待っている。
だから僕は、重くて邪魔な大きな荷物を持っていても、狭くて長い階段を必死で上った。
身を切るほど気温が低かろうが、僕は寒さなど感じない。
むしろ汗ばむほどだ。
ぜいぜいと肩で息をしながら、漏れる吐息が白いことを不思議にすら思う。

屋上に繋がるドアの手前。
毎日同じことを繰り返す僕らを、呆れ見放して傍観する多数の者の中に唯一、すぐそばで見守ってくれている友達が立っていた。
友達もきっと、あなたが僕がここに来ることを予想してひとり僕を待ち、そしてそれを予想して僕がここに来ることをも予想していたのだろう。
「いつまで続けるつもり?あんたら、どう見ても滑稽だ」
友達は笑った。
うん。僕も少し笑った。
友達もまた、僕らほど滑稽でないにしても、似たような日課を持つ者だ。
笑う言葉はきっと、僕らだけにじゃなく、自分自身にも言っているのだろうと思う。
だけど。友達は俯いて笑みを殺しながら言う。
「あんたらは面白い」
そりゃどうも。僕はますます笑んでしまう。
肩に食い込む、僕の身体ほどある大きな荷物を、友達の足元に置く。
それを友達はじっと見つめている。
僕は笑って屋上のドアに手をかける。
「滑稽だけど、繰り返すしかないんだ。あの人が、笑って頷いてくれるまでは何度だって」
僕は僕に言い聞かせるみたいに言う。
友達は荷物を見下ろしたまま僅か頷き、さっさと行きなよ。と笑んだ。

手をかけた屋上のドアは少し、重い。
ぐ、と体重をかけて外側へ押しやれば、僅か軋む音を立ててそれは開いた。
その時、履いていたぺたんこのスニーカーの裏が床の上を滑って、きゅ、と高い音を立てた。
開いたドアからまず見えたのは、僕と似たようなぺたんこのスニーカーのつま先が、べたべたと降り積る緩い半透明の雪を、掘り起こそうと突っ込む刹那だった。
それは紛れもなく僕が毎日探しているあなたのものだ。
この屋上のある場所は、屋上といえども周囲を半周ほど囲むように増設された建物より少し低い。
中屋上、と言ったところか。
屋上の高さよりも、隣の建物の部屋の方が少し高い位置にあるから、その窓から人間たちが歩いているのが見える。
あなたはそこでひとり、立っていた。
俯いて、緩い雪を蹴る。
こんなに寒い中、ひとりで。
そして僕に気づくと、呆れたように溜め息をついた。
それは先刻、階段を上る間ずっと僕の口から出ていた白い吐息よりももっとずっと白かった。
「…また来たのかよ」
うん。僕は頷く。
そして、あなたに向き合って、毎日の日課である言葉を告げる。
背後、僕らのいる屋上より少し高い位置にある建物の窓から、見慣れた光景を傍観する人間の気配が沢山した。
僕らはいつの間にか、有名人になってしまっているようだ。
あなたはいつものように、僕の言葉を曖昧に煙に巻こうとするだろうか。
僕は何故かそんな予感すら感じなかった。
変わる。
何かが、とは分からなかったけれど、そう思った。
べたべたの緩い雪が降り落ちる。
こんなに寒いのに、僕もあなたもコートを着ていないのがまた、滑稽だ。
僕はあなたから視線を外さず、後ずさった。
屋上の端と端ほど離れてから、僕は同じ言葉を言って、素早く頭を下げた。
あなたは俯きがちに僅か顔を傾け、横目で僕を見た。
そして、困ったような照れたような、不思議な笑みを零した。
僕は正体不明の高揚感で胸がいっぱいになって、いつ破裂するかでどきどきした。
一歩、あなたに近づく。
ぐしゃり。ぺたんこのスニーカーの下、潰れるべた雪の音。
もう一歩。
するとあなたも一歩、おざなりな動作で僕に歩み寄る。
まるでべたべたの緩い雪を蹴り上げるついでのように。
僕はまた一歩、そしてまた一歩、だんだんその歩調が急いてしまう。
だけどあなたは不思議な笑みを滲ませたまま、また一歩。
ついに僕はあなたに向かって駆け出した。
何故か満面に滲む笑みが抑えられなかった。
あなたは同じ不思議な笑みのまま、駆け出した僕を見て両手を伸ばしてくれた。
僕は迷わず、あなたの両腕の間に飛び込んだ。
ぎゅう、とあなたの首に両腕を巻きつける。
あなたの両腕もまた、僕の脇下から背中に巻きついた。
背後、僕らより高い位置にある窓からどよめきが聞こえた。
僕はあなたの冷たい首筋に鼻先を埋め、目を閉じた。
「…笑って」
僕が耳元で頼むと、あなたは頷きながらくつくつと笑みを零した。
「今日帰り、どこ行くよ。俺本屋行きたい」
あなたはいつもの口調と同じように、また僕を連れまわす算段。
僕は頷いて、いいよ。と笑った。
変わらない。だけど決定的に変わった僕らはそれでも。
屋上のドアの隙間、友達が抑え切れない、と言いたげにげらげら笑った。

そう、僕らは結局、滑稽なままなのだ。

風の音

先刻まで小雨が降っていたのだろう、開け放した窓の向こうから入り込む風は、少し冷たく湿っていた。
さわさわと揺れる木々の枝葉と。
まるで窓を横切るかのように滑空するカラスと。
あの人の瞳と同じ灰青色の雲の割れ目、垣間見れる白の光。

ふわり、香るのは。

キンモクセイの匂い。

忘れもしない、確かにそれはキンモクセイの匂いだった。
忘れたことなんてなかった。
思い出そうとしなくてもそれは、酷く強固に記憶に染み付いた匂いだった。

あの日だって、窓を開けていた。
吹き込む風に、カーテンは脆弱に揺らめいては元に戻れずに、ただ不規則に皺を作った。
空は真っ青に。そして少し遠く晴れ渡っていて。
眩しさに目を細めて、冷たい金属を抱き締めた。
まだ、私の手は今よりずっと貧弱だった。

神様がいるかいないかなんて、考えもしなかった。

まだあの花の名前も知らず、咲き乱れる姿も見たことがなかった。
ただ、あの匂いだけ。
あの強い匂いだけを、私は思い切り吸い込んで、吐いた。
何度も何度も。
飽きるまで。
覚えようなんて思ってなかった。
いづれ簡単に忘れてしまうものだと思っていた。
目まぐるしいスピードで押し寄せる時の流れに、自然埋没していくものだと思っていた。
抱き締めた冷たい金属が、自分の体温に馴染んでしまうまで、私はそこに立ち尽くしていた。
まだ、私の足は今よりずっと貧弱だった。

窓の外。
上空の高いところをくるくると旋回するカラスの黒い影。
風が運ぶ、キンモクセイの花の匂いと。
手を伸ばしてしまいそうになるほど、遠い青空。
室内に反響する管を通した人間の音。
これこそ唯一の生きてる証拠だと、思ってた。
大人になんてなりたくないと思ってた。

神様がいるかいないかなんて、どうでもよかった。

朝焼けはすでに鎮火している。

あからさまなその言葉を口にしたところで。
結局僕はどこへも行けずに。
同じ場所に立ち尽くして。
遠く霞んで見えもしない君を、見てるふりを続ける。

あけすけにその感情を表に出したところで。
結局僕はどこへも行けずに。
同じ場所にへたり込んで。
遠く霞んで届きもしない君に、手を伸ばすふりを続ける。

離れたんじゃない。
置いてかれたんじゃない。
君と僕は最初からずっと、この距離を保っていただけ。

捨てたんじゃない。
忘れられたんじゃない。
君と僕はただ、始めから何も変っていないだけだ。

結局僕はどこへも行けずに。
君はそこでひとり立ち尽くす。
行きたい場所も、動きたい衝動も、
全て元々、なかっただけだ。

全ては朝焼けと見紛う炎の中、炭化する思い出のように。
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