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間違わない人

あなたは決して距離感を間違えない人でした。
そのことが、どれほど臆病な私を安堵させたことでしょう。

あなたは「そこにある」ことに関して誰より秀でていました。
そのことが、どれほど弱った私の許しとなったことでしょう。

だけど私はあの日以来、半分外れたあなたが正直少しだけ、怖かった。
元々交差することなどありえなかった分、笑う以外にどうしていいのか分からなかったのです。
擦り切れるまで使い古した表情筋は、いちいち意思を伝達させなくとも自動的に動きました。
しかし、身体は皮肉なほど正直でした。
あなたを前にして、私はあなたに近づくためのほんの一歩分すら進むことができなかったのです。
あなたの周囲に広がる気配が怖かった。
近づくことで、その気配の正体を思い知るのが。そしてその波に当てられるのが怖かったのです。

多分、あなたは私が頑なに隠すもの全て、あの赤子のような透き通った瞳でとっくに見透かしていたのでしょうけれど。

その瞳に私は一体どのように映っていたのでしょうか。
それを知るためには、私もまた、あなたと同じ瞳を手に入れなければならないのでしょう。
しかし、私があなたと同じ美しい瞳を手に入れるには、まだまだ時間が足りなさ過ぎるのです。
それはそれは、途方もなく。
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梅の花に似た、

抱いた身体はどこまでも温かかったのを覚えている。
艶やかなそれはぎこちなく撫でる手のひらに優しいだけで、その、ぴたりと触れ合った手と肌の間には、責める言われも、責められる言われも、何もなかった。
無邪気な喜びに。
今にも溢れ返りそうなほど全身に。頭の先からつま先までみっしりと満ちた生命力に。
それと同じくらいの、希望に。
暗い影なんて欠片も近寄れなかった。…はずだった。

日向の匂いと、鼻先擽るような乾いた土の匂い。
瑞々しい草木の青臭さと、風が運ぶ豊かな水の気配。
それらにくるまれて眠り、小鳥の囀りにまどろみから目覚める日々。
それは愛しいほどに、残酷なほどに、あまりに短い日々だったけれど。
幸せだったと、信じていたい。

せめて君をあの場所に、連れて帰ってあげられたら良かったね。

今、君はどこで何を待っているのだろう。
今、君の目には何が見えているのだろう。

君は無口だったけれど、いつか僕に君の居場所を知らせてくれるだろうか。
僕に迎えに行かせてくれるだろうか。
それとも、僕を迎えに来てくれるのだろうか。
犬のように大人しくお座りして待っていればいつか、君は、僕を迎えにきてくれるのだろうか。
何度も何度も、長く君を待たせた分、今度は僕が待てばいいのだろうか。

短すぎた思い出の中、それでも思い出すのは。
キラキラ初春の梅の花に似た、君のぬくもりばかりだよ。

降り積もるは、粉雪。

天の高みから、まるで全てを覆い隠そうとしているかのように、とめどなく降り積もる粉雪を。
いつまでもいつまでも同じ場所に蹲ってひたすら待つのは、僕だけじゃない。
だけどどれほど凍えていてたとしても、同じそれを待つ僕らは寄り添い暖を分け合うなんてできないから、僕らはひとりひとり、凍えたままそれぞれの場所で蹲り待つ。

ただひたすらに。
ただひたすらに。

舞い降る粉雪は何かにとてもよく似ている。
大切なものも、見たくないものも、全て容赦なく埋め尽くしてしまう何かに。
そのまま永遠に溶け消えないんじゃないかって思うくらいの強さと、いつか簡単に形、理由さえも変えて癒着してしまうんじゃないかって思うくらいの儚さも。

僕らの頭上、いつか粉雪は降るのだろうか。
似た何かばかりが降り積もるこの場所で、蹲り空を見上げ待つ僕らの頭上に。

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低体温症

時に必死に。

集めてきたものは、失くしたものに「似ている」ものばかり。

時に無意識に。

選んでいるものは、無くしたものに「似ている」ものばかり。


本当に手に入れたいものの代用品なんて、本来ならばありえないはずだ。
代わりで満足できてしまったら、余計に本命から遠のくだけ。
もう二度と手に入れられないと諦めている証拠になるだけ。

絶対にもう届かないなら、手なんて必要ない。

カミサマ

アナタを思い出すことすら、どこかで怯えておりました。
全てなかったことになどできないけれど。
未だに、したくないと思うし。
アナタがいなかったら、今の自分は存在しないと重々承知でしたし。
言葉の持つ恐ろしさにも気づかず、言葉を紡ぐこともできなかったでしょうし。
彼岸を見つめ続けるその瞳の色も知らずにいれば、きっと今の自分は生きてなぞいなかったでしょうし。

空も飛べず、地に潜ることもできないままで。
行き場もなにも見つからずに。

だけどアナタの言霊だけは、空を地を、自由に行き来できていました。
それがきっと、神の起こす奇跡ように見えたのでしょう。
まぎれもなく、アナタは僕にとって神様だった。
それだけは確かだったのです。

あれから随分と僕は大人になりました。
あれから随分と僕は変わってしまいました。
アナタを思い出すことすら、怯えながら。
それでもアナタを変わらず、愛しく思いながら。
あの頃の僕にとって神様のようだったアナタもまた、今は随分と人間らしく生きてくれています。
アナタもまた、大人になり、変わったのでしょう。
随分と擦れてしまった僕にはそれが何故かとても、切なくもあり、寂しくもあり、また、とても嬉しいのでした。

君の声は僕のスイッチになる。

獣は、古傷が開いてしまった時、どうするだろうか。
どこかに身を隠し、静かに息を殺して身を丸め、その傷を舐めて過ごす?
そこは暗くて狭くて、あたたかいのだろうか。

癒えるまで。
癒えるまで。

辛抱強く。
辛抱、強く。

流れた血液を舐めては飲み下し、目を閉じてじっと動かない。
そうやって静かに、残された時間をひたすら生きる?

それが例え、自分の力ではどうにも塞ぐことができない傷でも。
一時的に出血を止めるだけで、結局またいつ口を開くか分からないような、後々残ってしまう傷だとしても。
遅かれ早かれいづれにせよ、己の生命を脅かすものであったとしても。
仲間の前からすら身を隠し、近寄る気配に警戒しながら。

癒えるまで。
癒えるまで。

辛抱強く。
辛抱、強く。

ただひたすらに、生きるしかないのだろうか。




君の声は僕に、最期まで差し伸べた手に抗い続けた野生の獣を思い出させる。

バランス

あの時、鮮明なそれを諦めたのは、別にどうでもよかったからではない。
それが鮮明であればあるほどに、流れ込む情報量があまりに濃密すぎて、この腕ではどうしても抱えきれず溢れた。
そうしてとめどなく溢れるそれが足元溜まっていき、いつか自分がその水溜りに足を取られ溺死してしまいそうで、怖かったからだ。

諦めるためなら何でもしよう。
表向きだけでも記録を抹消するためならば、生贄すら厭わない。
あの頃、抑えきれないその恐怖をごまかすため、そう固く誓った。
もろとも全部、焼却炉に投げ入れ蓋をした。
潰し、穴を穿ち、印で封をしよう。
塞ぎ、これにも穴を穿ち、印で封をしよう。
今後一切、それらに対して執着心を見せないように。
無様に縋ったりしないように。
徹底的に。完璧なまでに。
全てを「現在進行形」から「過去形」にしてしまおう。

臆病者は視界から遮断した。
舌を止めて耳を閉じる。
指先がそれらの代わりを務めはじめて途方に暮れた日もあるけれど。
毎日そうしていられるわけもなく、途方に暮れることすら、早々に諦めた。

バランスなんて、最初から取れていなかったのに。
無理に取ろうとするから、歪さが目立って仕方なくなるんだ。

謝罪の言葉はますます相手と自分を貶めるだけだと知ったのは、昔大切にしていたものことごとくを「過去形」にし終え、辛うじて歪なバランスを見出した後のこと。
そんなもの、満潮直前の波打ち際の砂の城と同じようなものだと知っていたけれど。

これもまた、今更の話。

IMAGE

あとすこし。

その景色を、本来の視界ではなく、眼球の一歩手前、ごちゃごちゃ雑然と色々なものが詰め込まれた脳裏に見つけるたびに、あと少し。そう思う。

あと少しで分かりそうなんだ。
あと少しでこの手は届きそうなんだ。
あともう少しで、思い出せそうなんだ。
あとすこし、もうすこしで、見つけられそうなんだと。

だけどいつもそこに到達することはできずに、景色は意図も簡単に歪んで消える。

あぁ、あとすこしだったのに。

伸ばしたままの自分の指先を呆然と眺める。
その先、濃霧のように一歩先すら曖昧な世界。
無防備な手のひらを地面にぺたりと当て、探るその先にあるのは、罠か答えか。

あの景色。
あの風の温度と空の匂い。音も気配も何もかも。
覚えているのに。
忘れるはずもないのに。
すぐそこにあるような気がするのに。
無性に、切なくなるほどそばに。
だというのに、分からない届かない見つけられないのは何故か。

あとすこし。
あとすこしで、

カスリ

彼らがあの場所に見た思い出と、そこで止まった時間、そこから流れた決して短くはない時間は。
この我々が息づく世界、果ては宇宙全体の流れからすれば、ほんの一瞬だっただけなのかもしれないけれど。

それでも想う。
会ったこともない人も、小さな頃にしか会っていなくて、覚えていない人も。
もう数え切れないほど私達に、優しく微笑みかけてくれた人も。
新しく出会った人も。

無機質なものにすらこの指先を伸ばし、慈しむように撫でる。
そこに感情があるような気がするのはきっと、私自身がそれを望んでいたからだ。

素直さを忘れて、だけど温もりを求める切実さは未だにその胸に抱いていて。
許してくれる存在を、いつも同じ場所で待つあの子。
柔らかなその身を強く抱しめることもできず、ただ、許すことしかできない私を許してください。
私はあなたが思うよりずっと、弱い人間なのです。
ただ、刹那だけでもあなたが安らかに目を細め、甘い夢を見られるようにと。
私はじっと息を殺し、動かずにいることしかできないのです。
あなたの小さな小さな我侭を、甘受しながら空をぼんやり見上げ、祈るように音を探すことしかできないのです。
それでも、優しく撫で、口付けましょう。
たった一度だけでも、そしてあなたがこの手でも、この唇でもいいと言ってくれるなら。
せめて別れ際くらい、またこうして会えることを祈っているというせめてもの証に。

風は通り抜け、雨は土を濡らし、森は呼吸を繰り返し、水は川を流れる。
それだけが全て。
あなたはそこで生き、私は遠く離れたここで生きる。
彼らが紡いだ、私達よりずっと長い時を、真似ることもできずにただ。
この我々が息づく世界、果ては宇宙全体の流れからすれば、ほんの一瞬なのかもしれないけれど。
それでも連綿と受け継ぐものを知っているのだから。

もう私には、これ以上何も持てない。

君の唇の先、僕の喉奥に潜むもの

いつもいつも、つい忘れてしまうことがある。
いつもいつも、その時だけ強く感じ、そしてその感じたことを忘れていた、と気づくこと。
そしてまたすぐに、感じたことも、忘れていたことを思い出したことをすら忘れてしまう。

降り立つ刹那、一歩目のつま先。
季節関係なく、全てを遮断するような硬い風。
ぱちん、と切れるスイッチのようにあっさり変わるその刹那、ほぅ、と吐息をつく。
陽に干した柔らかな毛布に包まり目を閉じるように、硬い風に包まれ全てを遮断して、目を閉じる。
泣きたくなるくらいの、奇妙な安心感。
それは望郷の念とは明らかに違うものだった。

どこでもいいわけではない。
そこに温度も意思もないシェルターはここだけだと強く思う。
自覚しているよりずっと、ここに頼りきり、執着していることを思い知る。
以前も同じ思いをしたことを思い出す。
そして、次の足を踏み出す時、またすっかり忘れてしまう。
その繰り返し。

追うなんて決してしない。
馴れ合いや関わり合いなど元より必要がない。
他なんて結局、どうでもいいのだ。
いちいち気にしていたらきりがない。
多量に何もかもがあって、そして何もない。
ごてごてに。
悪趣味全開で飾り立てられた宝石箱のようだと思う。
しかし箱の中身は空っぽ。
そして、箱を飾るキラキラしたものは全てフェイク、という徹底ぶり。
きっとそんなチープさに安堵するのだろう。

降り立つ刹那、一歩目のつま先。
脳の一部だけがぐわりと歪むような、目眩。
何にも例えようもない、何にも似ていない奇妙な安心感。
肺一杯に吸い込んだ、硬い風。
すとんと落ちる、

…あぁ、駄目だ。
忘れないように忘れないように、必死で脳裏で反復したというのに、あの泣きそうになるほどの奇妙な安堵感をもう忘れてしまっている。
…あぁ、駄目だ。
微熱が下がらない。

カウントゼロ

今更のようにようやく思い出すのは、最後のボタンを押したその柔らかな唇。
数年前に失敗に終わってしまった稚拙な反逆は、あれからどう足掻いたとしても、最後の最後、結局こうなることを予言していたかのよう。

全てはその手を汚すためだけにあり
全ては成されたのちに、ようやく気づくもの

彼はたやすく君の伸ばした手をやんわりと払い、笑った。
君はもう後戻りできないことを払われた己の手のひらで知り、愕然とする。

ざわり、胸騒ぎがする。
見上げるあの人の瞳はどこまでも空っぽだった。
あの人だけは、何も望んではいけないと。
望んでも無駄だと知っていた。
一度飲まれた者は、その世界そのものを壊すことでしか、そこから出ることなどできないということも。

喘ぎもがくほどに欲したものに手は届かず、差す光は太陽光などではなく。
当然のようにそこは楽園などではなく、かといって他の場所も同じようなもの。
必死で何かを残そうと足掻いたそれすら無駄で、結局は何も残らなかった。

終わりの始まり。

時折、緩やかさを信じてみる

規則と義務の間に、自由はあるということを。
目を閉じ耳を塞いでいたあの頃は、当然のように知らずにいた。
浮腫むような感覚の指先で触れたそれらは程遠く、ただそこにあって。

ただ、そこにあるだけだった。

同じように、一緒に生きていけると思っていた。
君も僕も、何も持ってなかったし、だけど同じものを持っていたから。
同じものを見て、同じものを感じて。
だけど僕らは手を離した。
このままでは、この指は擦り切れてしまうと思った。

何も信じられないと思っていた。
何でも信じられると思っていた。

それら相反するものを、矛盾と気づかずそのままにしていた。
欲しいものだけを手に入れて、いらないものは無視して。
それが許されるのは、君と手を繋いでいたあの時期だけだったのだと、今更気づいた。

あれから、君は大事なものを手に入れ、
僕は手ぶらのまんま。

どっちがいいかなんて、それは君と僕がそれぞれ決めること。
僕らは最初から、別々の人間だったのだから。
ただ少しだけ、似ていただけで。

紺色の洋服

数年前、アナタに言った言い訳の言葉。
口先だけの奇麗事を重ねて、その中にこっそり、気づかれぬ程度に本音を混ぜて話す癖は、一体いつからこの身にこびりついてしまっていたのだろうか。

子供の頃、好きだったものがある。
保育園の棚に何故かたったひとり、ぽつりと座っていた小さな人形だ。
あの頃の記憶は殆ど残っておらず、あったとしても大概曖昧だったけれど、その人形だけは他の記憶よりはずっと鮮明に残っている。
毛糸に似た繊維で編まれた肌の白い女の子の人形だった。
紺色地に小さな白い花柄のワンピースを着て、同じ生地のボンネットを被っていた。
毛糸でできたベージュの髪はゆわゆわと、うっすら微笑む表情が可愛らしかった。
そのお人形は当然のごとくその保育園のどの女の子にも人気で、誰もが独り占めしたがった。
自分もそれに執着していた。
だけど、自分だけのものには絶対にならない、とどこかで気づいていた。
時々、うっかり保育園の玩具を鞄に入れたまま忘れ、持ち帰ってしまい、次の日先生に謝罪して返したことがあった。
だけど、その人形だけは絶対にうっかり持ち帰ることなどしなかった。
その人形は、その保育園から外に出られないものだと。
その保育園にい続け、自分が成長して出て行く時も、出て行った後もきっと、そこにい続けることしかできないのだと。
絶対に出してはいけないものだと思っていた。
私はそのお人形にきちんと別れを告げることもなく、卒園して小学生になった。
指を吸う癖を、「お姉ちゃんになるのだから」と窘められ、爪を噛むことで耐えるようになった。
ランドセルは私にとって、あまりに大きく、重すぎた。

その小学校にも、好きだったものがある。
昔この町のどこかに立ち尽くしていただろう古いタイプの円柱型をした郵便ポストだ。
ところどころペンキが剥がれ、長年風雨に晒されたのだろうそれは、何故か校庭の隅にいつもぽつり、あった。
新しい箱型のポストに変える時に学校に寄贈されたのかもしれない。
もはやそのポストの存在意義だったはずの、誰かの思いを記した紙切れを内部に抱くこともせず、ただ校庭にあった。
それは固定されていなかったけれど、子供の力では動かせるはずもなく、いつも同じ場所にあった。
私は同級生たちが鬼ごっこに興じるのを、そのポストの上に器用に上って座り、そこから眺めるのが好きだった。
時折同級生たちは私を鬼ごっこに誘いに来たが、私は鬼ごっこ独特の焦燥感や恐怖感が大嫌いだったので、ここで見ている、といつも曖昧に断った。
ポストの上は、他の子供よりも成長の遅れていた小さな自分にとって、とても新鮮な景色を見せてくれた。
大人になればきっとこれに近い高さの視界で生きられる。
そうどこかで信じて疑わなかった。
固定されていないポストは、時折体重のかけ方を間違うと、簡単にぐらついた。
だけど私はそこから降りようと思わなかった。
同級生たちの笑い声が響く校庭で、私は時間が許される限り、役立たずの古いポストの上に座り続けた。
学年が上がり、教室が校舎の上階になった頃、私は授業中、何度も何度もベランダから飛び降りる妄想ばかりしていた。
頭から落下するイメージ。落ちたそこには、必ずあのポストがいた。
ペンキの剥がれたそれは赤いというより朱色。
私の血の方がずっと赤いと思っていた。
実際はそのポストより赤い血を広げることもなく、そしてやはりきちんと別れを告げることなく、私は卒業して中学生になった。
爪を噛む癖は、抜けなかった。
指定の制服は、やはり私にとってあまりに大きく、重すぎた。

中学生になり、高校生になり、それぞれに好きなものを見つけてきたけれど、それらどれも、自分だけのものにならないとわかっているものばかりだった。
爪を噛む癖は抜けず、頭痛薬を毎晩飲まずには眠れなかった。
強くなりたくて、必死で身体を鍛えようともした。
小さいから、女の子だから、と言われることが屈辱だった。
プライドに縋って、言葉に縋った。
何でもいいわけじゃなかった。
誰でもいいわけでもなかった。
自分が求めているものはいつもわかっていたけれど、それは決して自分だけのものになるものではなかった。
書き散らかした言葉たちに抱かれて、ようやく眠れた。
自分の意思に反して、どんどん女のようになっていく身体が怖かったし、とても恥ずかしかったし、申し訳ない気持ちになった。
どうして自分がまだ生きているのか分からなかった。
結局、私を生かしたのは、音と言葉だけだった。

その、言葉すら。
数年前、アナタに対して偽った。
その、音すら。
私の傷だけが増えたこの身では、全ては抱けない。
爪を噛む癖は、成人する前に喫煙し始めるとほぼ同時に一度治し、最近再発していたけれど、今またどうにか治った。
何がきっかけだったのかわからないけれど、子供の頃好きだったものを思い出しては苦笑する。
決して手に入れられないものが好きだった。
それは、今でも変わらない。

言い訳がましく、繰り返す。
私はまだ、生きている。と。
自分が死ぬ瞬間を夢見始めた時から、20年近く経った今でも。
あの当時の子供だった私が、今の私がまだ生存していることを知ったら、何て言うだろうか。
絶望しそうだな、罵られそうだ。
苦笑。
だけど節目とタイミングを見事なまでに逃してしまった私は、まだ、生きている。
見苦しく浅ましく、過去の記憶を辿り辿り。
少しずつ増えていく「決して手に入らない愛するもの」をひとつ、またひとつを抱きながら。

4つの窓

思ったよりもずっと、それは差し迫っていたことのようで。
ぐらりと揺れ、今にも倒れ込んでしまいそうな刹那を、酷く生々しく感じたものです。
そのあまりの切羽詰り具合に、焦燥感ばかり。

「人には、4つの窓があるのを知ってる?」

昔、ある人が僕に言った言葉を、ふと思い出しました。

「1つめは、自分も他人も知ってる窓。2つめは、自分しか知らない窓。3つめは、他人しか知らない窓。そして、4つめは自分も他人も知らない窓」

その時の僕は思春期に入ったばかりで、いつも考え事ばかりしていた子供だったので、自分のことは自分だけが知っている、と、指折り数えるあの人の大人な横顔に悔しい思いをしたものです。
きっと、あの人が自分よりずっと先を見ていることを。
そして、その人の言うことをどこかで理解し、己の幼さ、浅はかさを知り、そのことを心底悔やんだのでしょう。

いつか、4つの窓全てを覗きたいと無謀を願ったのは。
思春期のなせる業だったのでしょうか。
まだ、自分でも知らぬ窓がある。
僕はまだ、2つの窓しか知らない。
一生そのままかもしれないけれど、せめてその窓から見えるものを増やしたいと思う。
それは、思春期をとうに過ぎた僕が未だに思うこと。

今日、ぐらついたのはきっと、4つ目の窓だったのでしょう。
焦燥感しか感じない、だけどそれは紛れもない真実でした。
否、現実、でした。
まざまざと眼前突きつけられた現実に、僕は呆然とするばかり。
だけど知った。
そう、知ったのです。
どうすればそれが改善されるかはまだ分からないけれど。
知覚したことを、また見失わないように。

またひとつ、噛み潰して飲み下す。
そうそれが、どんなに焦燥感に駆られるような現実であっても。

少しずつ

少しずつ少しずつ、積み重ねることを放棄していた指先で

僅かじりじり、手繰り寄せるように

「還っておいで」

手を差し伸べ優しく微笑むことは、安易な覚悟じゃかなわない

「おかえりなさい」

広げた手のひら、あたたかく迎えることはさほど難しくないはずだった

それはすでに成せる場所にある

「あいしてるよ」

言い含めるようにそっと

強くあることで、やっと優しくなれるなら

きっと全て、嘘にならないでいてくれるはず

さぁ、抱きしめてあげましょう

「安心していいよ。もうおやすみ」

おいで

役立たずだったこの指で、あなたを呼び続けましょう

あなたが本当に、還ってこられるまでずっと

Colors

探した夜空に月はなく、今夜のその色を確かめることができなかった。
夜空には、一番星がたった独り。
ぽつり。輝くだけ。

手繰る記憶の中。
昨夜見つけた月は、とろりと濃い黄色。
先月見た月は、滲むようなオレンジ。
昔見上げた月は、冴え冴えと青白く。

あの時魅入った月は、朱かった。

その形などいちいち覚えていない。
私にとって造形は些細な問題だった。
ただ、その色だけは。
もはや何をもそのまま映せぬまでに汚れ歪んだ、この役立たずなレンズの内側深く、沁み込むようにただ。

030402

まだ。
未だ。
眠りたくない。
眠りにつきたくないんだ。
眠ってしまったら、この夢が。
過去の甘くて切ない夢が、醒めてしまいそうで。
溶けて消えてしまいそうで。
酷く怖いんだ。
眠ったら醒めてしまう。
眠ってはいけない。
酷く怖い。

神様。神様。父なる神様。
もし本当にあなたがいるのなら、このまま時間を止めてください。
神様。神様。父なる神様。
もしあなたが本当にいたとして、どうして私達を見捨てたのか教えてください。

まだ。
未だ。
眠りたくない。
眠ってはいけない。
眠ってしまったら、この感覚が。この感情が。この感傷が。
昔の懐かしい夢が、醒めてしまう。
儚く薄れ消えてしまいそうで。
酷く怖いんだ。
眠ってしまったら、醒めてしまう。
眠ってはいけない。
酷く怖い。

神様。神様。我等が父なる神様。
もし本当は私達を見捨てていないのだとしたら、どうかお声をお聞かせください。
お導きください。
お救いください。
見えていたものすら見えなくなった私の目を、もう一度開いてください。
見続けることのできる夢を見せてください。
切実に祈り守る力をください。

まだ。
未だ。
眠れない。

花守

酷く懐かしく思うのは、会ったこともない祖父の愛した桜の淡い紅と、父の愛する桔梗の濃い蒼。
母の植えた芝桜。
弟の植えた朝顔。
枝垂桜と薔薇の花。梅の花。ツツジ。
あたしは何を咲かせることができたでしょうか。
いただいたパンジーは寒さに凍えてしまったし、愛したペチュニアはいつの間にか塵に還った。
鳳仙花は種を飛ばして、己生えを覚悟したコスモスは毎秋群生を約束してくれたはずなのに。
強く残るドクダミの花は雪の下で眠り続ける。
水仙はどこ。
鈴蘭はどこ。
椿は花ごと落ちた。
猫柳は毎冬探した。
露草は道路の脇に。
紫陽花は裏に。
薊は指に傷みを残した。
蓮華畑は埋もれて、ヒヤシンスは水に溶けた。
月見草も、姫百合も、クロッカスも、竜胆も。
確かに、咲いていたはずなのに。
あの場所に金木犀を願ったのは余罪でしょうか。

あぁ、あの勿忘草を咲かせることができなかったあたしはどこに?
すでに?

繰り返し繰り返し

繰り返し繰り返し。
飽きることもなく紡ぐ言の葉は。
無力だろうと無意味だろうと、繰り返す。

君の背中越し見える空の色と。
指先でそっと翳した紅水晶の光。

眼前通り過ぎるのは、雪虫だったのかそれともただの幻だったのか。
本当の、雪だったのか。

「空の高みから舞い降る美しい雪は、神様からのプレゼントよ」

その言葉を信じていた時期も、ありました。

冷たい雨が雪に変わる頃

私のとってのこの5年間は、とても長く重たいものでした。
思い出さないように思い出さないように。
そうやって5年も経てば忘れられると信じて。
忘れることなどできないことを知りつつも。
そんなやり方でしか、守る術を知らなかったから。
大切に大切に抱きしめ守ってきた記憶は全て、抜け落ちることもなく今もここにあります。
あの頃にしか感じられなかったものもあるし、今でこそ理解できるものもあります。
だからきっと、この5年間は不必要なものではなかったのだろうと思います。
なくしてしまったものももちろんありますが。
手に入れたもの、手に入れなおしたものもあります。
それでもブラスマイナスゼロにはなってはくれませんが。
抜け落ちた全ては埋まらないけれど、それでも。
時間が経ったからこそ手に入れられるものもあった。
それでよかったのかもしれません。
笑うアナタを見て、やっとそう思えました。
ぽっかり空いたままの穴でも。

完全な空っぽにしてはくれませんでしたね。
結局。
僅か痛む隙間を埋めるようにして。
全て壊してはくれませんでした。
最後に全て奪い取って行ってくれませんでした。
糸が切れた操り人形のように、その場で動けなくなってしまえたら。と思った日もありましたが。
過去にだけ生き続けられたらと思った日もありましたが。
アナタが現在生きるのであれば。
私も現在に生きましょう。

アナタの手はそれでも何でも。
やっぱり、とっても優しいままなのですから。

アナタの言霊を抱いて、大切に大切に。
優しい手のひらを、想って。

ここに、アナタはいないけれど。

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小さい頃

小さい頃、願った夢は全て叶っていた。
小さい頃、願う夢が沢山あった。

小さい頃、今のこの瞬間の風の匂いを、大人になった自分にプレゼントしたいと思っていた。
だからお母さんに買ってもらった猫のパズルピースの入っていた箱に、お気に入りのタオルと小さな縫いぐるみを入れて、そっと蓋をして。
背伸びしなければ届かない、クマのプリントがされた可愛らしい箪笥の、一番上の観音開きになる扉の奥へ仕舞い込んだ。
きっと大人になった自分は、ここに背伸びなどしなくても届くようになるのだろうと、思っていた。

大人になって、それを開ける前に。
高校生だった自分が開けた。
そこには、思い出せるだけの風の匂いなどなくて。
ただ、くたくたになった懐かしいタオルと、薄汚れた小さな縫いぐるみがあるだけだった。
高校生の自分はそのタオルを洗濯して、また使った。
小さな縫いぐるみは、また同じ箱の中へ仕舞い、そのままだ。

小さい頃、大人になった自分のために残した風は。
まだ大人になっていなかった高校生の自分には届かなかった。
高校生の自分は、もう大人になったと思っていたのだろうか。
もし、今の自分があの時の箱を開けたなら。
自分は、あの頃の風の匂いを感じることができたのだろうか。
もう、大人になれているのだろうか。

小さい頃、祈る夢は必ず実っていた。
小さい頃、祈る夢が沢山あった。

大人になったら、それが全部、なくなるなんて考えなかったけれど、きっと。
いつか全部なくなってしまうのだと、どこかで覚悟していたのかもしれない。

小さい頃、二階の窓から抜け出して、屋根に登った。
針葉樹の濃い緑色と、空の青。雲の白と土の茶。
「危ないから気をつけなさい」
お母さんが怒るでもなく、笑って言った。
裸足で登った屋根の汚れが、足の裏を黒く汚すことなんて何でもないことだと思っていた。
大人になったら、屋根にも登れなくなると、きっとどこかで覚悟していたからかもしれない。
高校生になった自分は、もう屋根に登れなかった。
だけどその代わりに、道路脇に捨てられていたのを姉が拾ってきた猫たちが、屋根の上で風を感じてくれているのが嬉しかった。
小さい頃、自分が見た景色を。
きっと、あの猫たちが見ているのだと。
だけどその猫たちもいつしか、巣立っていった。
あの家は、彼らにとっての通過点でしかなかったのだ。
だけど、それでよかった。
彼らが自分の意思でその道を選んだのだから。
今は生きているのか死んでしまったのかも分からない。
だけど、それでよかったのだ。
あの風の匂いは、あの猫たちと小さい頃の自分だけの、宝物なのかもしれない。

小さい頃、大人になった自分のために残したプレゼントはもう、どこにもない。

ねがい

雪は、いつ降るのでしょう。
毎年待ち侘びる雪は、いつ空の高みから降り落ちてくれるのでしょう。
全て白く埋め尽くしてください。
何ものにも代え難い純白で、全て僕らの目から覆い隠してください。
例え大気中の水分と汚れが凍っただけだとしても。
口に含むには毒だとしても。
いつか、溶け消えてしまうとしても。
いつか、また眼前に全て突きつけられるのだとわかっていても。
嘘でもいいから。
偽りの白でも。
幻でもいいから。
すぐに目覚めてしまう、夢だとしても。

手のひらの上。儚く溶け消えるは、雪かそれとも人の夢か。

あぁ、お願いですからお願いですから。

春などこなくてもいい。
夜明けは僕らに眩すぎる。

雪の夜の闇は等しく。
真白と真黒に。
強固なまでに、全てを塗り潰す。
そしてどこまでも僕らに、優しかったのです。

あの冬の日の夜から。
僕らの願いはひとつだけ。

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ふたつめのつみとばつ

覚えてるも何も。
僕は君の腕の中に蹲って甘えるも何も。
我侭や言い訳や嘘ばかりを積み上げて、真実を飲み下すことしかできなかったというのに。
覚えられなかった方法は沢山。
覚えられた方法も沢山。
欺き騙すことばかりに長けて、気づけば自分でもどれが偽りで、どれが真実か分からなくなってしまったけれど。

覚えているも何も。
それはつい先刻のことのように。
そっと差し出された本は薄く軽く。
優しく柔らかく、そして強い祈りが込められていることだけはわかった。
君の祈りだ。
僕への祈りだ。
僕だけへの。
そしてそれは、他の誰かのために生まれ、他の誰かにとってはとてもあたたかい救いだったのだろうけれど。
その本を君が、僕に差し出すという事実が、僕には酷く辛いのだった。
救いを求めているわけではない。
ただ、許しを請うているだけだ。
もう許してくださいと。
ただそれだけなのに。
たった一度だけ口にしただけなのに。
それすら、酷い我侭だったのだろうと思う。

覚えているも何も。
君の強いその祈りに応えるどころか、最後まで耳にすることすらできない僕が。
君の祈りの強さだけを、感じる感覚だけは麻痺していないことに気づいたとしても。
君の、君が僕に求める言葉を、僕は知らないのだ。
沢山の言葉に触れ、思い出したり忘れたりしながら、そして少しばかり操る僕はきっと。
君が僕に求める言葉を、いつか。
いつか見つけられるように。
そしていつか君に、自然に差し出してあげられるように。
そのためにきっと。
僕はこうして、「言葉」という余計なツールを両腕いっぱいに抱くのをやめないのだろうと、…思うよ。

覚えてるも何も。
時は流れて。
それでも君の祈りを最後まで耳にできず。
君の求める言葉を見つけることもできず。
君は強く祈り続けて。
僕は、探し続ける。
許しを請う我侭を、声には出さずに繰り返しながら。

ひとつめのつみとばつ

覚えているも何も。
僕は君の亡骸に縋って泣くも何も。
君が眠りについたその瞬間を知らず、冷たい机に目いっぱい広げたノートと教科書を睨みつけるのに必死だった。
シャーペンの芯が折れ飛んで、教室のどこかに行ってしまっても、僕は目で追うことすらしなかったのに。
叩き落とす消しゴムの滓の行方すら想いもしなかったのに。

覚えてるも何も。
僕は君の亡骸に縋って泣くも何も。
君が灼熱の炎に燃されて骨のカケラになる瞬間も知らず、くたびれた制服のスカーフを奇麗に結ぶことに必死だった。
鞄にぶつかってよく擦れる場所だけてらてらと光沢を持つ不思議な布地はただ重たいだけなのに。
隠したかった貧弱な身体を覆う下着の冷たさに項垂れるだけだったのに。

覚えてるも何も。
僕は君の痛み苦しむ表情を見ていない。
君が眠りについた安らかな寝顔を見ていない。
君が燃されて煙になって天国へ昇るそれすら見ていない。
君の骨のカケラも見ていない。
君の墓石も見てなんかいないのだ。

覚えてるも何も。
僕は君の本来の声も知らず、その皺々の喉仏にぽっかり空いていた穴のように、僕の記憶から君の死に直面するべき全てが足りないのだ。
位牌は見た。遺影も。
線香もあげたし、手も合わせたけれど。
僕の記憶に残る君はただ、掠れてうまく出ない声で慈しむように僕の名を呼んでくれる響きだけだ。
穏やかに静かにそばにいてくれた。
伸ばしてくれた手は大きく柔らかかった。
君が紡いだ人生の何一つ僕は、知らずに済んでしまった。

時は流れて。
覚えているも何も。
君が慈しみ愛してきた全てが、君の通ってきた長い道のりの後に続くように生きているだけで。
その恩恵に少しばかり預かれた僕にとって、君の死を完全に受け入れるために必要だった全てが、足りないだけで。
時は流れた。
君の血を受け継ぎ、生まれた子供は大きくなった。
心の優しい、いい子になった。
まだ貧弱な身体のあの子はきっと、君のようにあたたかい人になるだろう。

だけど覚えてるも何も。
その子と僕は、泣くタイミングを逃してしまったのだ。

風の音

先刻まで小雨が降っていたのだろう、開け放した窓の向こうから入り込む風は、少し冷たく湿っていた。
さわさわと揺れる木々の枝葉と。
まるで窓を横切るかのように滑空するカラスと。
あの人の瞳と同じ灰青色の雲の割れ目、垣間見れる白の光。

ふわり、香るのは。

キンモクセイの匂い。

忘れもしない、確かにそれはキンモクセイの匂いだった。
忘れたことなんてなかった。
思い出そうとしなくてもそれは、酷く強固に記憶に染み付いた匂いだった。

あの日だって、窓を開けていた。
吹き込む風に、カーテンは脆弱に揺らめいては元に戻れずに、ただ不規則に皺を作った。
空は真っ青に。そして少し遠く晴れ渡っていて。
眩しさに目を細めて、冷たい金属を抱き締めた。
まだ、私の手は今よりずっと貧弱だった。

神様がいるかいないかなんて、考えもしなかった。

まだあの花の名前も知らず、咲き乱れる姿も見たことがなかった。
ただ、あの匂いだけ。
あの強い匂いだけを、私は思い切り吸い込んで、吐いた。
何度も何度も。
飽きるまで。
覚えようなんて思ってなかった。
いづれ簡単に忘れてしまうものだと思っていた。
目まぐるしいスピードで押し寄せる時の流れに、自然埋没していくものだと思っていた。
抱き締めた冷たい金属が、自分の体温に馴染んでしまうまで、私はそこに立ち尽くしていた。
まだ、私の足は今よりずっと貧弱だった。

窓の外。
上空の高いところをくるくると旋回するカラスの黒い影。
風が運ぶ、キンモクセイの花の匂いと。
手を伸ばしてしまいそうになるほど、遠い青空。
室内に反響する管を通した人間の音。
これこそ唯一の生きてる証拠だと、思ってた。
大人になんてなりたくないと思ってた。

神様がいるかいないかなんて、どうでもよかった。

嘘つき

嘘をつくことが悪いなんて言った覚えはない。
嘘で塗り固めたそれはとても美しく、ただただ完全に見えたのだから。
素晴らしいほどに完璧に。
そんな場合もある。

だけどあの時、「何も見ていない」と言った彼は凄いと思った。
見えないことを見えないと発言することの難しさを知っている。
目の前は霞み、焦点など合わないと。
何も。
誰も。
そう、彼はあっけらかんと笑って言った。

嘘をつくことが良いなんて言った覚えもない。
だけど、嘘で塗り固めたそれはとても素敵だった。
きらきらと輝いてさえ見えた。
それだけで十分だと思った。

どうせ嘘をつくならば、いっそ。
どこまでもどこまでも、一切の真実を塗りつぶして、見えなくしてください。
そうすることでアナタは楽になるし、僕も楽になる。
ただただ完全に見紛うそれだけを押し付けて、満足すればいい。

嘘が絶対悪なわけではない。
かといって、絶対正義であるわけでもない。
それをアナタは痛いほど知っている。
だから、嘘で塗り固めたそれを、もっと見せてください。

ノスタルジア

どうか。
どうかこのまま。
どうか。

水の中に。
海水よりは淡水がいい。
あんな生命濃度の濃すぎるものより、もっと少し優しいのがいい。
生命の源は、私には苦しすぎるから。

水の中に。
完全な透明より、薄く色の入った、だけどどこまでも透き通った水がいい。
完璧な透明度は、私を全て晒してしまうから。
視界のない濁った水は、私から全て見えなくしてしまうから。

水の中に、沈みたい。
深いグリーンがかった透き通る水や、淡いブルーの水。
とても安らかな気持ちで水底に沈めそう。
目を閉じて。弛緩して。
ゆらゆら。

それはまさしく、ノスタルジア。

還りたいと、強く思う。
惹きつけられる。
呆然と見つめているだけで、ぐぐっと引かれる。

どうか。
どうかこのまま。
どうか。

あの水底へと、沈めてください。
きっといつかあそこに還りたいと、私はずっと、願っていたのですから。

あの寒い、冬の日から。
ひとり立ち尽くした、川岸で。

だからどうか。
どうかこのまま。
どうか。


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Silence

景色が歪む。
目眩に似てる。
痛いくらいだ。

だから目をきつく閉じたんじゃないか。
あの時。
僕は。
僕らには眩すぎたんだ。

つま先から、せり上がってくる。
滑り上がるように着実に滑らかに。

急激に変化していく全てに追いつけなかった。

音色が歪む。
頭痛に似てる。
痛いくらいだ。

だから耳を強く塞いだんじゃないか。
あの日。
僕は。
僕らには優しすぎたんだ。

髪の先端から、伸び上がってくる。
手繰り寄せるように着実に緩やかに。

確実に変化していく自分に追いつけなかった。

「気にしないでいいよ」って、うまく言ってあげられなかった。
あんなに練習したのに。
「気にしないでいいよ」って、うまく笑ってあげられなかった。
あんなに練習したのに。

しゃがみこんで小さくなって。
耳を塞いで目を閉じてた君の。
その、頑なに握り込み震えていた小さな手を、優しく解いてあげられなかった。

途方に暮れて立ち尽くした僕らの静寂は。
あの時もあの日も、守られなかった。
それだけだよね。

カタストロフィはやってこない

「いらない。何もいらない」

彼はかぶりを振って拒絶する。
両手を赤ん坊みたいに丸く握り締めて、胸元に隠して守る。

「いらない。何も必要ない」

彼は目をきつく閉じて否定する。
背を丸めて急所を隠して全てを隠して縮こまって守る。

「嘘だね。君はその全てを欲しがっているだけ」

あの人はそう言って彼を笑った。
指先に捕まえたままのタバコの火が、じりじりとその体積を減らしていくのに。
煙は空へ。
灰はその場に辛うじて繋がれて。
元々の形を残そうと足掻くのに。

重力は残酷にもそれを崩して落下させた。

あの人の膝の上でそれが壊れて散ってしまうのを、じっと見てた。

「君は駄々をこねる子供と同じ。無邪気に全てを欲しがっているだけ。欲しい、と叫ぶ代わりに、いらない、と言うだけ」

散った灰は脆く。
微かに吹く空調の風であの人の膝の上からすら散ってしまう。

あの人はそんなこと気にもせずに、かぶりを振って拒絶する彼を笑う。

「嘘だね。君は嘘つきだ」

そう言って笑う。

タバコは今も、じりじりと焼けてその本体の体積を減らしていく。
煙は空へ。
灰は散る。

「ほらね。カタストロフィはやってこない」

あの人は不意に、僕を笑って言った。
タバコを灰皿に押し付けて。

停止。

書けなくなった時いつも、ふと、思い出すもの。
それは、書き始めた頃の自分の姿。
椅子に座って、黙々とシャーペンと消しゴムとルーズリーフと睨めっこしていた頃。
下手くそな文章をつらつらとただ連ねていた頃。
図書室の本を部屋の隅で背中を丸めて読み漁っていた頃。

あの頃から私はどれほど変われただろう。


いつも稚拙な言葉を積み上げて折り重ねることしかできない。
編み上げるその技術もルールも何も知らないまま。
ただ吐き出さねば呼吸すらできないと気づいたあの時から、私は私の指先だけを働かせてきた。

それは音楽を作り上げるよりたやすい。
歌を口ずさむよりもたやすかった。
稚拙な言葉を繰り返すことは時間さえあればどこでもできる。
授業中だって私は吐き出し続けていた。
セーラー服を着ていたって、ジャージに着替えたって。
電気を消して目を閉じたって。
太陽の匂いのする毛布にくるまれたって。

口先から零し落とすこと。
そしてそれを誰かに優しくそっと差し出すことが苦手だったから、こうするしかなかった。

始まりは一体どこだったのだろう。
幼く頼りない指先は何故かいつも自信にも似たプライドに塗り固めて、それを否定するものをただただ激しく攻撃してきた。
ただ、怖かっただけだから。

私は私の指先だけを働かせてきた。
それしか方法はなかった。
それらを否定されることは、私自身を否定することと同等だった。
だからあの日だって攻撃した。
激しく抗議して強く机を叩いた。
憎悪の瞳で睨んで、絶対に許さなかった。
謝罪の言葉なんていらなかった。
撤回すらすでに遅い。
私はなけなしのプライドでもって、それだけで呼吸をしていた。
だから、何年経ったって、許せないままだ。

あの人は覚えてなどいまい。
あの人からすれば、過ぎていく長い人生の中の、ちょっとした日々の中の一欠の反逆でしかなかったのだから。
反省などしていまい。
噛みつかれた痛みなど感じなかったはずだ。
噛み付いた私の口端が切れ、だらだらと血液を流していたことなど、あの人には見えなかったのだから。

あの人は盲目だった。
あの人は難聴だった。

そして私もまた、盲目であり、難聴だったのだ。


私はあれから、どれほど変われたというのだろう。
今日もまた、稚拙な言葉を繰り返す私は一体。
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