そしてまた、僕らはその圧倒的なまでの温度差に怯みおののくのだ。
なくす、という状況を何度経験したところで、ただ慣れることもできないばっかりに。
ただそのままにしておくこともできないばっかりに。
卑怯さばかりを手に入れて、守る価値もないものを守り、そのせいで身動きもできない。
新しく見つけ出し許し抱きとめる勇気がないのは、またなくすことを想定すればするほど竦む臆病なまでに冷え切った手足のせいだ。
それだけ一生懸命、愛した結果だったりもするのだけれど。
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どうかどうか言って。
あっけないほど簡単に。あっさりと。笑い飛ばして。
あたしが泣きそうになるほど固執してしまうものたちを、必死で守ろうと抱きかかえうずくまってしまう宝物たちを、どうか無価値だと鼻でせせら笑って。
いとも簡単に。無責任に。本当にどうでもいいこととして。
この両腕から無理やり引き剥いで、わめくあたしのことなどまるで無視して、芯まで冷え込む寂しい夜の路上に、無造作に、無情に投げ捨てておくれ。
あの人は「飲み込め」と言う。
この世は「吐き出せ」と言う。
世に習い世に生きる身としても、それでも私は世よりもあの人に従おう。
だってあの人は誰より、本当に飲み込んできたのだ。
何もかも全て、上下の唇をぴったりとくっつけ、噛み締め、無理やりにでも飲み込んできたのだ。
実際にそうやって生きてきたのだ。
あの人は「上手に飲み込め」と言う。
上手に。そうすることに慣れてしまえと言う。
この世は「下手に溜め込むな」と言う。
下手に。そうすることに囚われるなと言う。
どちらが正しいかなんて知らない。
どちらが圧倒的多数の意見かは知っている。
だけど、それでも私はあの人に従おう。
その罪の身の内から這い出たこの身は、生まれる前から罪にまみれている。
今更、善悪も正誤もない。きっと。
何一つ、差し出せなかった。
それどころの騒ぎでもない。
それならせめて、たかが唯一のこの身くらい、あの人と同じように生きさせよう。
今生の私のできる限り全てでもって。
そうやって、そうやって。
そういうやり方で、あの人の罪の欠片を貰い受ける。
過保護なのは、多分、それを感じない君を守るふりをして自分を慰めるため。
嘘つきなのは、無駄を積み重ねて、無駄を掻き集めて、本当はもっとずっと必要不可欠なものから自分が目を逸らしたいから。
大事に大事にしたい。
それは、君であり自分だ。
君と言う名の鏡に映った自分だ。
だけどいつか。自分は君もろともと祈るから。
そういった方法しか、知らないから。
そういった方法でしか、君を愛せないから。
一息分、つかせておくれ。
君が感じない寒さや痛みを、それでも君から遠ざけることで。
君には暗い話も悲しい話も寂しい話も聞かせない。
頭の悪いばかりの明るく楽しくどうしようもない話をもっと、沢山話そう。
君が呆れ返って「馬鹿だなぁ」と言って笑うのを見たいんだ。
君より下に自ら下がる。
そういった方法しか、知らないから。
そういった方法でしか、君を笑わせられないから。
“もう十分”なんて誰がそんな酷いこと言うの。
ふと気づいたら知らないところにいた。
ふと気づいたら知らない人といた。
ふと気づいたら知らない自分が発生していた。
“もういい”なんて誰がそんな酷いこと言うの。
ふと気づいたら。
何も知らないことを知っていた。
喉の奥に引っかかって困っているんだ。
米粒よりも小さな、ゴマ粒みたいな小さな何か。
飲み下すこともできず、かと言って吐き出すこともできない微妙な場所にそれはある。
いつだってある。
もしかしたら自覚するよりもっとずっと前からあるのかもしれない。
もしかしたら自覚したことを忘れてもずっとずーっとあるものなのかもしれない。
パチリ、何かが爆ぜる音がした。
僕は体内に膨れ上がる何かを言葉にしようと足掻いて足掻いて、結局「嗚呼」と声を漏らすことしかできなかった。
喉の奥に引っかかった何かが邪魔をする。
いつだってそう。
いつだってそうなんだ。
いつだっていいと思う。
そのくらいは、待つことに慣れた。
いつだっていけると思う。
もしも待つだけでは駄目だと言うのなら、今すぐにでも迎えに行く準備もできてる。
待っててとも、迎えに来てとも言わなかった君が、
本当に。本当に望んでいたのは何だったのだろう。
いつだって大丈夫だと。
いつだって平気だと。
繰り返し繰り返し口にすれども。
僕の唇の先から零れるそれが、君の耳にちゃんと届いているかどうかなんて、分からない。
待っててとも、迎えに来てとも言わない君が、
今どこで何をしているのかも知らないけれど。
それでも待てる。
それでも行ける。
どっちがいいか、君次第。
正直、自分で選べと命令されるとちょっと困るけれど。
覆うものが厚ければ厚いほど、濃密であれば濃密であるほど、安心するのと同時に、息苦しくもある。
安全と自由のどちらが欲しいかと問われた場合、過去の自分と今の自分では答える内容の分量自体、きっと違うのだろう。
ありがちな言葉でも、その積み重ね方によって全然意味も味気もふり幅も違うように。
何度も何度も繰り返し、もう随分と使い古した感情は未だ、擦り切れていないだけまだマシだと思うように。
背伸びをして、
これで精一杯と決めて、
爪を短く切った。
ごめん、と声には出さずに心の中で呟いた。
俺は汚いんだ。俺は卑怯なんだと、口にせずに懺悔する独白は、声に出すなりして相手に届けなければ意味がない。
むしろ、罪を自覚することで軽減させようと足掻く汚さ、卑怯さを際立たせ上塗りするだけ。
ごめん。知ってるんだと心の中で頭を下げる。
こういう時どのように振舞えば君が不快に思わずにいてくれるのか。どのような言葉を選べば君が喜ぶのか。
君を気遣って、というよりも、君に自分が嫌われないように。
君が喜べば、その喜びの万倍自分が嬉しいから。
要は自分可愛さ。
君を自分の手のひらの上で転がしたいわけじゃない。
だけど、知ってて選ぶ。
数ある選択肢の中から、君のためというこれ以上ないくらいの名目を冠に、拾い上げる。
経験がものを言う。
俺が生まれ生きてきた中で手に入れてきた全てを、後悔したことも含め、正しい意味で後悔などしたことはない。
辛いことも苦しいことも、嬉しいことも楽しいことも、そのどちらにもならない、毒にも薬にもならないことも、全部無駄であり、全部無駄ではない。
それら自分の体験や知識を駆使して君が喜んでくれるなら、君が笑ってくれるなら、君が奮い立ってくれるなら。
優しさというものは全て偽善だと思っている。
結局は自分のためなのだから。
だけど、そう言った俺に、君は言ってくれた。
偽善だと知っていて尚、それでも人に優しくできることは尊いことだと。
ならば俺が今まで生きてきた中で手に入れてきた経験も知識も想像力も全てを総動員して、俺にそんなあたたかな言葉をくれた君に優しくしようと思った。
だけど本当に臆病で汚く卑怯な俺は、やはり、ごめん、と声には出さずに心の中で呟く。
俺の選んだ行動、言葉を無垢なまでに真っ直ぐ受け止め喜んでくれる、誰より何より優しい君が、頬を緩ませ俯くタイミングで。
きっと僕は、どこかで「それ」を諦めていた。
時の流れは人の心を、じわじわと。それと気づかせぬようゆっくりゆっくり変えていくことはとっくの昔に知っていたけれど、それでも、どんなに時間が流れても変わらないものだってあるのだということも知っていたからだ。
生まれ出でて、成長して、歳をとって。
大人になればなるほど、柔軟さを失って、意地とかプライドとかそういうものでカチコチに凝って、変えたくても変えられないことも増える。
その逆だってもちろんあるけれど、でも「それ」に関しては、時間が解決してくれるなんて欠片も期待していなかった。
「それ」のかたくなさを、痛いほど。そして愛しいほど知っていたから。
人は生きていくために、生きてきた過程で体験した様々なことを思い出にする。
思い出にしないと生きていけないのだ。
過去にあったことをまるで今体験しているかのように胸に抱いていたら、例えそれがどんなに幸福であたたかく優しいものであったとしても歩けなくなるからだ。
人は回遊魚と一緒だ。
動いていないと生きてはいけない。
きっと、呼吸すらできない。
悲しいことや、辛いこと。そういった重く胸の奥にのしかかるものほど、思い出という形に変換しなければ生きてなどいけない。
だから思い出にした。それは諦めと同じだった。
これ以上同じ傷を負いたくなかったし、同じ傷を負わせたくなかった。
諦めてしまえば、思い出にしてしまえば、表面上だけでも瘡蓋になってくれると知っていた。
内側がどれほど腐って爛れていようとも、蓋をしてしまえばもたせられる。生きていける。
僕らは大人になったのだ。大人として生きていかねばならないのだ。
だけど、僕のことなんて忘れてくれていいよなんて。
あなたが幸せになってくれさえすれば僕はそれで十分満たされるんだなんて。
そんなテンプレート通りの愛情深い言葉なんて嘘でも口にできなかった。
だって好きなんだ。
だって大好きなんだ。
僕は「それ」すら諦めて思い出にして、だけど、好きだった。なんて過去形になんてできなかった。
僕はきっとあなたを本当の意味で愛してなどいないのだろうと思う。
だって僕は、未だにあなたに対して無償の愛だけを注ぐことができない。
いやだと思ってしまった。
僕のあずかり知らぬどこかで、あなたが他の道で、あの頃とは違う幸せを見出して静かに生き、死んでしまうのがいやだったんだ。
エゴ丸出しのこの醜い感情は、愛などという小奇麗でふくふくとしたものでは決してない。
時間の流れは何より残酷で、誰より優しい。
いつだってそうだった。
完全に身を任せきることでなんとか呼吸を繰り返し生きて、それでいいと思ったこともあったけれど。
果たしてそれで本当に、僕は幸せなのだろうか。あなたは幸せなのだろうか。
分からない。分からない。分からないけれど。
一度諦め思い出にしたはずの「それ」を、僕は性懲りもなく求め求めて生きてきたことを、思い知った。
そして、二度目の思い出にいつかなると知っていて。
それでも求めて、胸に抱く。
愚かでも、馬鹿でも、なんでもいい。
きっと最初の傷とは違う傷を負うことになる。僕も、あなたも。
それでもいい。
だって好きだから。
だって大好きだから。
動いてないと、生きてはいけない。
きっと、呼吸すらできない。
あと一歩。が出ない。
別に。100m先の景色が見たいなんて言ってない。見たこともない色をした土を踏みたいなんて思ってない。風を探しになんて忘れてた。
前へ歩幅一歩分。たったそれだけで十分だというのに。
もどかしいほどあと一歩。
踏み出してみないと分からないとかそういうありきたりな言葉を必死で言い聞かせても。
深く、胸いっぱいに吸い込んだ空気の行き場を求め求めてあと一歩。
目の前の小石を蹴り飛ばしてそのまま。
本当は本当は、言いたいこと沢山あるんだ。
一個一個積み上げてたらすぐにバランスを崩して倒れてしまいそうなくらいの歪で不ぞろいなやつが。
だけど言い出したらきりがないじゃない。
本当はいっぱいいっぱいあるんだ。
乱暴に、一方的に、自己満足のためだけに投げつけたいぶつけたい言の葉なんて誰にだって沢山。
だけどそれら全部吐いたところでどうなるわけでもないし、むしろデメリットしかないと成長してきた過程で嫌というほど思い知るから、
飲み込む。ごくりと喉を鳴らして。
頭の中でどれほど練り上げたり積み上げたり繋いだり、したふりして。したつもりになって。
練習したってリハーサルしたって想定したって、結局唇から手放すこともできない言の葉くらい、誰にだって沢山あるんだ。
嗚呼、嗚呼、あああ。
はしょって切り落として捨てて濃縮して、一言だけでも口にできたらもうけもの。ということにして。
花だ花だと僕は笑う。
からかうように。はやし立てるようにして。
そのような子供地味た方法でしか、僕は君を認めることができないのだ。
不器用な僕は繰り返す。
花だ花だと僕は笑う。
いい加減にしろと苦く笑う君をそれでも尚。
そのような頭の悪い方法でしか、僕は君に認めてもらおうとできないのだ。
花だ花だ。
これでも精一杯、君を褒めているつもりだと。
君は多分、わかってはいるんだろうと期待している。勝手に。
例えば。
恐れ戦き震えるほどの激しい喜びを感じ、爪が食い込むほど強く両手を握り締め、これ以上の幸福なんてきっとこの先ないんだ。と心の奥底から信じて疑わない瞬間や。
また例えるなら。
表情を作ることや声を出すことすらできなくなるほどの激しい悲しみに出会い、これから先一体どうしてこれを乗り越え生きていけというのかと何かを憎みたくなる瞬間や。
その他、様々な感情の大波、渦、嵐に出会ったとして。
その渦中にいる時はもちろん呼吸すら困難なのだけれど、それらはいつの間にか過去のことになり、思い出になってしまっていたりする。
気づいた時にはとっくの昔に。
どうやってそれら激しい感情を乗り越えたか覚えていない。
ただ、奇妙な倦怠感とおぼろげな欠片が胸の奥に掠れ残っているだけで、あまりのそのあっけなさに、せめて忘れないようと何度も思い出しては脳の奥に教え込む。言い聞かす。繰り返す。
両目が潰れてしまうのではないかと思うほどの鮮やかさが、どこに行ってしまったのか分からない。
積み重なる、単なる思い出と、これから積み重ねる、いつか単なる思い出になる物事を数え数えて探す旅。
あの頃の僕にとって、自分の視界の狭さも、そこに映せる世界の矮小さも、どうしようもないくらいの愚かさすらどうでもいいことだった。
ただ、自分の未来にはあなたがいること。
乱暴な言い方をすれば、あなた=僕の未来だと信じて疑っていなかった。
だから、それ以外のことなんて本当にどうでもよかったのだ。
どうとでもなると思っていた。
否、なんとも思っていなかったのだ。
あなたがいる僕の未来。それが、その当時「今」を生きていた僕にとって全てだった。
それは僕以外誰のものにもなりえない、僕だけの未来だった。
両腕を目一杯伸ばしたって、高が知れていた。
だけど、この狭く貧弱な両腕の中、世界全てを抱きしめられると信じていた。
天の高みから舞い降り落ちる雪の粒ひとつだって、逃さず抱いてあげられると。
抱けばすぐに自分の体温で溶かしてしまうことくらい知っていたけれど、まだ今よりずっと小さかった手のひらは今よりもっとずっと純粋でいて、何より残酷だったのだ。
メリー、メリー。
意味なんて別になくたっていいんだ。
どうせまたすぐに忘れてしまうんだから。
心と心を紡いでいこうと足掻いて足掻いて、時々それが形を成すことがある。
それは大概にして不恰好だったり歪だったり。非常に稀に尊く美しかったりする。
足掻けば足掻くほど全てが形を成してくれるわけでもないけれど。
時々、その瞬間を求めて足掻き続けるばかり。
多分、欲張りなんだと思う。
紡いだものを、あなたにあげよう。
紡げてしまえばそれはもう、僕の手元にあっても仕方ない。
紡ぐ、という行為を僕は成したいだけなのだ。
髪を伸ばし、それなりにと手入れをし続けるのは、決してその一房を掴んで引っ張られたいがためではない。
どんなに強く引っ張られたって、動かない時は動けないんだ僕だって。
迷うのは、まだその時がきていないから。
だって、時が満ちればこんなにもたやすくこの身は揺れる。
髪の一房掴まれなくたって、勝手に。
小さく小さく身体を折りたたんで。
できる限り省スペースを心がけて。
息を殺す。
息を殺す。
息を殺す。
本気のかくれんぼをするみたいに、気配が近づくだに息を止める。
遠のいたらそっと解く。
それでも完全に弛緩することはない。
抱き込んだ膝小僧の上に額を乗せて。
押さえつけるような手のひらはじっとりと湿る。
足の指先も縮めて。
息を殺して。
息を殺して。
息を殺して。
見つからないように。
沢山の制約の中に、自由というかたちないものが息づく。
多少窮屈な方が楽しいことに、子供の頃は気づかずにいた。
目の前に線路があるからこそ、そこから脱線しようとする力が湧く。
だから鎖を用意した。
だから約束をした。
だから、それらに爪を立てることができた。
急いで急いで、爪先立ちのまま息せき切って。
蹴り上げる地面はどんどん背後に。
裸足のまま。
剥き出しの焦燥と一緒に。
伸びかけた煩わしい爪を、まだ切り落とせなくても。
さわさわと乾いた音を立てて揺れる髪のひとひらが視界の端っこで踊っても。
急いで急いで、今この瞬間爪先を立てた地面を背後に。もっと。
もくもく。紫煙渦巻く狭い世界の最中。
飛び交う君に猛毒の灰を被せましょう。
上唇と下唇の間、こなした数だけ正しく慣れた形を挟んで笑う。
そのまま喋ることだってできる。
もくもく。様々な大切なものを紙に包んで火をつける。
発生する煙も当たり前に猛毒だ。
青紫色の煙を肺いっぱいに吸い込んで吸い込んで、毒素を漉してから白い煙を吐く。
もうどのくらい沈殿したのか。時々開いて見てみたくなるんだ。
「いつか」が来ても、「もしも」が来ても、分け与えてあげられないくらい使い古して、僕の代でこれはお仕舞い。
このまま、様々な大切なものを燃やしたみたいに、最後も燃やしてはい、お仕舞い。
そんな終わりが一番似合う。多分。
灰被りになんてなりたくないけど、灰そのものにはなってみたい。
妙に手のひらが湿っているけれど、衝動のままそっと手を伸ばした。
本当なら石鹸でごしごしとこすってよく濯いでからの方が断然いいことくらい分かっていたけれど、今、と思った瞬間を逃したら、この次この手はいつ伸ばせるのかと。
撫でた指先に僅かに付着した細かな埃の粒に、少しだけ驚く。
常時埃というものは空気中に存在するものだけれど、どうしてこんなにも呼び寄せてしまうのだろう。
冷たい手汗がそれを捕まえ、目に見えるまでに集った。
場所も状況も考えずに適当に叩き払えばそれなりだけど、そっと席を立って手を洗いに行こう。
今、は多分、もう終わったから。
また、今、と思うその瞬間まで、また手のひらは湿り、埃は集う。
そっと手を伸ばせるその時まで、そのまま。そのまま。
実際に声に出して君の名を呼ぶことを、あれほど躊躇したというのに僕は。
一度声に出した君の名のその発音ひとつひとつ、その一回一回につけ、着実に増していくもこもことした、ふわふわとした、なのに恐ろしいほど確固たる存在のなんと狂おしいことかと。
一度声に出した刹那からそれは、とめどなく増え積みあがり溢れ、また。
「あぁもう、」
僕は笑ってしまう。
もう笑うしか僕なんかにはできることなんてない。
「…ね、名前は声に出して呼んでしまうとこんなにも強大なものになる」
だから怖いと言ったんだ。
だから。
だから声になんて出せないと言ったんだ。
もう全部、後の祭りだけれど。
「大ごとなものほどこんなにもあっけない」
結局、自分以外の誰の気持ちも、正しく全て理解しきることなんてできないのだ。
どれほど長く付き合いがあっても、血が繋がっていても、どれだけ深く関わっていても。
だから想像するしかない。
対比材料が自分しかないから不安感は拭いきれないけれど、それでも想像するしかない。
こうしたら喜んでもらえるだろうか。こう言えば悲しませてしまうだろうか。
その想像はどれほど沢山様々な種類の選択肢を作ったところで、結局想像でしかなくやはり正しくはない。
だけど想像するしかない。
君が嬉しいと僕も嬉しい。
君が寂しいと僕も寂しい。
そんな、至極単純でいて説明不可能な感情を抱いてしまった時点で、他に静かに歩み寄ったり、そっと寄り添う方法なんてない。
君が喜ぶかもしれない、と想像するだけで浮き足立ち、君が苛立つかもしれない、と想像するだけで目が泳ぐ。
僕みたいな小心者はそれでもやっぱり、想像するしかない。
どうか、君の知覚する「君の世界」が、例えどれほど狭く小さな箱庭だったとしても、君にとって心地よく鮮やかなものでありますように。
どうしようもないことって、意外と多い。
子供の頃の僕はそんなことも知らずに暢気に。でもどこかキリキリと張り詰め戦闘体勢をとったまま生きていた。
歌を歌おう、とふと思った。
ありきたりで、ありふれた、だけど「今」にぴったりな歌をと。
どうしようもないことも、どうでもいいことも、意外と多い。
だけどなんでもいいんだ。許せることも、意外と増えた。
少しずつ、少しずつ、言葉にしていけばいくほど。
当初に思い浮かべていたイメージがことごとく崩れていってしまうけれど。
予定と違うなぁなんて呟いて苦笑してみつつ、多分これもいいんだろうと思っておく。
少しずつ、少しずつ、焦点を絞っていくように。
曖昧だったものが形を成していこうと足掻く様は、なんだか生命の発生の過程みたいだ。
言葉は命をも成す。と言うとさすがに言い過ぎかもしれないけど、命の定義をもう少し大きくしてみると、なるほどそれほどの力があるのかもしれないとも思う。
ひたすらひたすら綴るけれど、多分いつか綴ったこの手でいとも簡単に消去するだろう文章たちを、今はそのまま。
無造作に転がして広げておける場所がある分、仕合わせなのだろう。
会いに行くよ、会いに。
いつかきちんと向かい合って、「お願いね」と託せるように。
言葉のバトンタッチは、命のバトンタッチに匹敵するくらい凄いことだったりすることも、…時々ある。と、信じている。
一枚一枚、丁重に捲り捲る白紙のページの合間から、文字が言の葉が溢れるようにして宙に舞う。
それら一文字一文字を指先で捕まえいちいち目の前に翳して確認しながら、なおかつ抑えたページが閉じてしまわないように気をつけなければならない。
そうこうしている内にまた、言葉がとめどなく溢れてくる。
片手にはページを抑えた本。もう片手だけで全て捕まえられるだろうか。
うかうかしていたら逃してしまう。
大切な文字が、言の葉が、指先するりと逃げてしまう。
一文字すら逃がすわけにはいかない。
だってその一文字の核心に大切なものが隠れていることがあるからだ。
読書は時々、言葉との追いかけっこになる。
これが結構大変なのだ。
そして結構楽しいのだ。
ずしり、等の重々しい言い方はさすがに大げさかもしれない。
だけど確実に内部に一塊、その存在は平時より重さを感じる。
確かにそこにあるのだと、この目で確かめなくとも分かる。
ちらちら、瞼の裏瞬く世界。
呼びそうになる名前を耐えて、口端を持ち上げて笑みにして。
「さぁ」
誰かが言った。
「さぁ、さぁ!」
確率で言えばさほどのことはないはずなのだけれど。
「すまない。基礎情報が足りなさ過ぎて、まず自分が何を理解していないのかも分からない」
流水の中に手を浸し、ありふれた柄のタオルで水分を細かく拭き取る。
ドアを開け、後ろに後ず去るようにドアを閉める折、ドアの向こう側、前方に上半身が移る鏡。
そこに移り込む自分の無表情。
鏡に映る自分と目を合わせたまま閉めるドア。
暗転。
見えないものを見ようとするから。
見えるものを見ないようにするから。
見えるはずなのに見なかったりするから。
僕らは自分自身の視力さえ、あまりに信奉しすぎてはいけないんだ。
頭上、空は高く透き通って、その向こう側にひそむ季節風や事象、様々なものを抱え込む。
足元、土は深く積み重なって、その真下に隠れる生命や現実、様々なものを抱え込んでいる。
それら最中に自分が欲しいものが。自分に見合うものがあるかどうかは分からないけれど、欲せたらいい。見合えたらいい。
いつかと思いながら、霞む目を擦る。
あまりに視力の悪い目を、擦る。