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百々と真墨

真墨兄は羽流兄に甘い。と俺は思う。
でも、そのことを直球ど真ん中に真墨兄に言ったとしても、「そうかぁ?」なんて片眉上げた明らかにピンときてない顔で返事されるだけだった。
そういう無自覚なところがまた、甘い証拠だと俺は思う。


月に一度、分家総出で本家に泊まりに行く。
俺がガキだった頃はそんな習慣なかったけど、莉世がうちにきて、莉世とほぼ同世代の五つ子が本家に来た頃からなんとなくそれは習慣付いた。
今や、莉世はもちろんだが、その下の弟たちも楽しみにしている行事のひとつだ。
さぼろうものなら泣き喚き駄々をこねられる始末。

…否、別に俺も嫌じゃないんだけど。
ただ、本家だって手のかかる小さいガキが増え、こっちも増えたのだから、いくら本家が広いからって押しかけたら迷惑なんじゃないかと心配しているだけだ。
結局ガキ共の世話を焼くのは俺と真墨兄だ。八尋兄だって手伝ってはくれるけど、真墨兄と羽流兄を育てた割に子供の扱い方がぎこちない(というか子供相手に真面目に接しすぎる。もうちょっと強引でもいいのに)だし、羽流兄はいつでもうとうとしてるし、紫色は子供が苦手だからって逃げ回るし。
弟の数の少ない俺が頑張ればいい話なのだろうが、情けない話真墨兄は俺の弟より倍以上いる弟たちを俺より早くさばいてしまう。
必然的に、俺の分まで真墨兄が動くことになるのだ。
さすがの俺だって申し訳ない気持ちにもなる。

昼間はさほどではない。
ガキ共を子供部屋に押し込んで、真墨兄とオヤツとか作って(この時点で俺は時々自分と真墨兄の将来に不安を持つ)、揉め事にならないよう均等に配って、あとは見張りながら食わせてしまえばいい。
問題は夜だ。
飯はオヤツと同じ。でも、そのあとの風呂からが戦争だ。
遊びに夢中になってる時に声をかけたって言うこと聞かないし、かと言って飽きるまで待つわけにもいかないから適当なこと言って煽って入れる。
一旦風呂に入ったガキ共は、ついさっきまで渋ってたのが嘘みたいに遊び始め、それらをひとりひとり捕まえて頭を洗い身体を洗い湯船に放り込みを繰り返す。
出そうと思ったらまた渋り、適当なこと言って煽って追い出すも、ひとりが出ると言い出すと何故か全員出ると言う。
それを宥め宥めひとりずつ脱衣所でバスタオルを持ってスタンバイする真墨兄に押し付ける(ちなみに風呂に入れる役と脱衣所で待ち受ける役は俺と真墨兄がその時折決める。俺が風呂に入れる役だった場合、時々「百々も大人になったな」とかどこ見て言ってんだと言いたいくらいのことをニヤニヤした顔で言われる。酷え)。

ガキ共は待つことが苦手だ。
真墨兄がいくら急いで拭いても、すぐに僕も僕もと出て行こうとする。
少しでも気を抜くと濡れたまま飛び出していったりするから、真墨兄はいちいち拭いて着替えさせてなんてしてられず、とりあえず拭くだけ拭いて放置だ。
当然、真っ裸で走って逃げられる。きゃっきゃきゃっきゃとそれはもう楽しげに。
ガキを全部出した後俺は急いで風呂から上がり、真墨兄と一緒になってパジャマと下着片手に弟たちの捕獲作業が始まるのだ。
ゆっくり湯船に浸かってる暇なんて欠片もない。
さすがにその時は八尋兄とか羽流兄も手伝ってくれるけれど。

やっと全員パジャマ着せたぞ!と思ったら、次は耳掃除。
胡坐をかいた俺の膝の上に頭を乗せ転ばせて、綿棒でいちいち拭いてやる。正直面倒くさい。でもそれぞれに任せるにはまだ幼すぎて、怖いのでできない。
拭いた横から八尋兄のところへ行って、ジュースが飲めると分かっている(拭いたあとじゃないと八尋兄は絶対に。どんなにぐずっても絶対にジュースをくれない。さすがだ)ガキ共は、さすがに従順だ。
だがまたその後の歯磨きタイムも戦争だ。

もちろん、暴れるやつもいれば大人しいやつもいる。それぞれ性格が違うのだから仕方がない。
でも結局、手間は一緒だ。胡坐をかいた俺の膝の上。そして同じように胡坐をかいた真墨兄の膝の上であんぐり口を開けるガキ共の歯をなるべく手早く。かつ奇麗に磨くのは大変だ。
もたもたしていたら真墨兄が全部やってしまうから、俺はいつも必死になる。

「あーもう、じっとしてろってコラ」

きゃっきゃ、楽しげに暴れる弟をとっ捕まえて、小さい口の中を覗き込む。
てめぇいつチョコ食ったよ。目を細めて威嚇しても、知らないもん。とか返される。
このやろう今度風呂に沈めんぞ。脅すと、ろくでもない恐喝すんなと真墨兄に怒られた。
ちぇ。舌打ちして顔を上げ、真墨兄はあと何人だ。と確認しようとしたら、丁度真墨兄担当の最後のガキだったらしく、はいおしまい。と両手を挙げるところだった。
…また負けた。と苦々しく思っていると、立ち上がろうと膝を立てた真墨兄を羽流兄が手で制し、こともあろうかその膝に頭を乗せたのが見えた。
俺はびっくりして硬直したが、真墨兄は心底呆れたような溜め息をつき、膝から羽流兄を追い出そうともせずに見下ろす。

「…なにしてんだ羽流」

「皆いいなーと思って。僕もして」

「ふざけんな。とっくに永久歯だらけのお前を何で俺が磨いてやんなきゃなんないんだよ」

「だって。僕は真墨にお風呂に入れてもらったことないし、歯も磨いてもらったことないよ」

「お前俺とタメだし。一緒に風呂入ったことはあるだろ。その時頭洗ってやったじゃないか」

「それも小さい頃のことじゃない」

お前馬鹿か。心底呆れ返った表情で脱力して真墨兄が言う。真墨兄は羽流兄に対して結構容赦ない物言いをする。
でも、甘い。と俺は思う。
本当に面倒くさかったら膝から落とせばいいのだ。俺だったらそんな恐ろしいことなんか絶対にできないけれど、真墨兄になら簡単だ。羽流兄だって真墨兄相手にそのくらいじゃ怒らないだろう。
でも落とさない。どけ、とも。嫌だ、とも言わない。何故だと聞くだけだ。
お願い。羽流兄はとても楽しそうに真墨兄の膝の上、真墨兄を見上げて微笑む。
それを見て、あぁこれは。俺はなんとなく感じた。あぁこれは終わったなと。

しばらく眉間に皴を寄せて自分の膝の上の羽流兄を睨んでいた真墨兄が、深々と溜め息をついた。

「…この甘ったれ」

やっぱり。俺が思うのと、ふふ、羽流兄が嬉しげに笑うのはほぼ同時だった。



「真墨兄は羽流兄に甘い」

俺はやっと自分担当のガキ共をさばいた後、心の奥底から正直に感想を述べた。

「そうかぁ?…まぁ、こいつが甘ったれなのは確かだけどな」

真墨兄はいまいちピンときていない様子でそう言い、苦笑とも嘲笑ともつかない微妙な(でも見下ろす目が優しい辺りで駄目だ)表情で自分の膝の上で大人しく口を開けている羽流兄を見下す。
手には羽流兄の大人サイズの歯ブラシ。もう片手は羽流兄の頬に添えられている。

「あぅいー、」

歯磨きされながら羽流兄が真墨兄を呼ぶと、喋るな馬鹿。と真墨兄が一喝した。

「あぁ面倒くさい。永久歯の数知ってるかお前。でかいし多いし面倒くさいんだよ」

何で俺が。自分でできるだろ。いくつだよお前。でっけー。うぜー。頭重てー。とかぶつぶつ言いながら、それでも真面目に羽流兄の口の中を覗き込んで歯を一本一本磨く真墨兄。
そしてその真墨兄の膝に頭を乗せ、長い長い手足を折り曲げご機嫌そうにしている羽流兄。
俺はそのふたりをぼうっと眺める。
なんだろこの家族風景。ないだろこれ。思うけれど、うちじゃこんなもんか。結局真墨兄と同じような溜め息をつく。脱力。
俺もある意味、羽流兄に甘いのかもしれない。

昔、俺もこうして真墨兄に歯磨きをしてもらったことがある。
それどころかそれこそ風呂の世話も、耳掃除も。オヤツだって。
あの頃はまだガキと言ったら俺か紫色くらいで、その紫色は結構早くから自分のことは自分でしようとしていたし、俺より少し年上だったこともあって、散々手間をかけてもらっていたのは俺だった。
真墨兄はやっぱりぶつぶつと何か文句を垂れながら、それでも大人しくしてれば俺の頭をわしわしと撫でてくれたし、服を泥でものすごく汚して帰ってきても怒るどころか大笑いしてくれた(そのあと服着たまま風呂に放り込まれたけど)。
何にせよ気長に相手をしてくれたのだ。今思えば。

あれからガキがどんどん増えて、俺も真墨兄の真似をするようにガキ共の世話を焼くようになったけれど、未だに真墨兄には敵わないと思うことが沢山ある。
俺の兄は羽流兄だけど、真墨兄もまた、俺の兄みたいなものなのだ。
そうして同じ分家の兄より真墨兄と深く接してきた俺を。分家の長男である自分の弟に本家の弟と同じように世話を焼いてきた真墨兄を、羽流兄は一体どんな気持ちで見てきたのだろう、と少し思う。
羽流兄は真墨兄と同い年だけど、真墨兄の弟に生まれたかったのかもしれないとか。ちょっとだけ。
否、これはこれでいいのかな。
だって子供は子供の内だけだ。こうして真墨兄に世話を焼いてもらえるのは。
でも羽流兄は、大人になった今でも甘えれば世話を焼いてもらえる。彼だけの特権と言ってもいい。

「はい終了。重たいからどけ」

真墨兄が両手を軽く上げ、手首から先をひらひらさせて羽流兄を膝から追い出そうとする。が、羽流兄は楽しいからもうちょっと。とか言って強請る。
羽流兄は真墨兄に対してものすごく甘ったれだ。真墨兄も真墨兄で、そんな羽流兄に甘いから余計にそうなる。分かってるのだろうか。

「足痺れるんだけど。…しょうがねぇな」

じっとしてるのも勿体ないからついでに耳掃除してやる。感謝しろ。言って、真墨兄は俺に綿棒を持って来いと指示を出した。
それもなんとなく予想できてしまっていた俺は、はいはいと適当な返事をし、すごく嬉しそうに微笑む羽流兄のために腰を上げる。
背後、いつの間にいたのか紫色が、相変わらずだねぇ。馴れ馴れしく俺の肩に手を乗せてくるから、今までどこ逃げてたんだお前。軽く叩き落として溜め息もうひとつ。
綿棒を渡したら、ガキ共先に寝かしつけてしまおう。となんとなく思った。
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紫色と真墨

俺は時々、貧血を起こす。
時々。本当に時々、不意に眩暈がして動けなくなってしまう。あぁ血が足りないんだな、と自覚する。
だからと言って、別に貧弱だとか不健康だとかいうわけじゃない。

貧血が起きたら確かに動くどころか立ってもられないし、元々青白い顔がもっと青くなるから我ながら気持ち悪いな、とは思うけど、しばらく休めば元通り。
だからあえて貧血になったからって他の兄弟たちに伝えることもしないし、なんとなく朝から気分が悪かったりした日は、ばれないように自室に引き篭もったりしている。

無駄な心配をかけたくないのもあるけれど、普段は普通に元気なのにこういう時ばかり「細いし」とか「弱そうな顔だからなぁ」とか全く関係ないことを言われるのが癪に障るのだ。
俺だって好きで女顔に生まれたわけじゃないし、太陽にだってまずまず当たってるし、きちんと3食摂ってる。栄養バランスだって別に偏ってるわけでもない。…運動はあんまり好きじゃないけど。
太らないんだ。焼けないんだ。そういう体質なだけだ。
そういう、どうにもならないことを引き合いに出されても困る。ていうかちょっとムカつく。

意地になって貧血を隠す俺に、他の兄弟は特に気づかずにいた。
当たり前だ。俺のプライドにかけて必死で隠してきたんだから。そう簡単に気づかれてたまるか。
だけど、そういう意地も何もかも含め、そっと気づいたのは真墨兄さんだった。


吐きそうなくらい気持ち悪いけど、吐ける感じじゃない。目が回る。ぐらぐらする。身体がだるい。最低。
俺は自室まで間に合わず、リビングのソファで伸びていた。
リビングの照明は俺の眼球にキンキンするから、腕で顔を覆ってソファに沈み込む。

大丈夫だと思ったのだ。
夜の10時を過ぎた今なら、弟たちはもう眠っているし、八尋兄さんも真墨兄さんも自室に引っ込んでるはずだからと。

安心して目を閉じていたら、ふと、人の気配がした。
まずい。転寝してるよう見せ掛けないと。そう思って呼吸を気にしつつ寝返りを打つふりして両腕で青い顔を隠す。
声をかけられたら今起きたように。寝ぼけているようにしてごまかさなければ。
まだ動けない。せめてもう少し。

そう内心焦っていると、ふわり、俺の上に柔らかなものが被さってきた。

「……?」

腕の隙間から見下ろすと、腹の上に子供用のブランケットが乗っていた。
五つ子のうちの誰かのだ。だけど、色違いの似たようなデザインが5枚もあると、どれが誰のだかまでは俺は分からない。真墨兄さん辺りなら知ってるかもしれないけれど。
あぁ、ブランケットって軽くてあったかいな。
…ていうか、誰。

俺は重たい腕を少しずらして周囲を見た。
と、俺の寝転んだソファの隣、真墨兄さんが裁縫道具を出して何やら縫っていた。
身じろぎした俺なんて全く気にしていないみたいに、手に持った柔らかそうな布地と針に集中しているのが分かる。

「…何、縫ってるの」

あまりの無関心っぷりに拍子抜けして、寝てるふりを忘れてつい俺の方から声をかけてしまった。
真墨兄さんはまるで俺が声をかけてきたことでやっと俺に気づいたみたいに、だけど驚いた素振りも見せずにちらとこちらを横目に見、縫ぐるみ。と小さく言う。

「伊歩の縫ぐるみ。腕が取れそうだって泣きついてきたから直してやんだよ」

ったく。あれほど乱暴に扱うなっつったのに。ぶつぶつ文句を言いながら、熊だか犬だかよく分からないくたくたの縫ぐるみの腕と胴体を器用に縫い合わせる。
五つ子がこの家に来てから、真墨兄さんはいよいよお母さんっぽくなってきたな。思うけれど、それを口にしたら烈火のごとく怒られるのが分かるから言わない。本人もある程度自覚があるみたいだし。
何より、今大声で怒鳴られたら頭痛が酷くなりそうだし。

俺は無関心を装って放っておいてくれるのに甘えてブランケットを顔から被った。
そうすることで、子供用の小さなブランケットから俺の脚が思い切りはみ出したけど、そんなのこの際気にしないことにした。
今は、寒さより眩しさの方が辛い。

子供の頃、確か俺もこういうの持ってた。
何度も洗濯するから解れてしまって、多分もう処分してるだろうけど。
淡い淡いラベンダー色したブランケット。…どんな模様だったか覚えてないな。あれってこんなに小さくて軽かったっけな。あったかかったのは覚えてるけど。フリースだっけ。もっとさらさらしてた気がするけど。あぁ。貧血って何でこんなに気持ち悪いんだ。頭痛い。
どうでもいいことも大事なことも、滅茶苦茶な順番で思考に入り込んでくる。

声に出さないように内心唸っていると、ふかり、ブランケット越しに俺の頭の上を優しい手のひらが撫でた。
少しブランケットをずらして目だけ出すと、真墨兄さんの珍しい無表情がこちらを見下ろしている。

「…なに。裁縫終わったの」

「ちょっとは楽になったか。動けそうだったら部屋戻ってベッドで寝ろよ。こんなとこで寝たら風邪ひく」

「…真墨ってほんとに、」

「自分の兄貴を呼び捨てんな」

言いかけた俺の言葉を遮って、真墨兄さんは眉間に皴を寄せた。
だけど、本気で怒っているわけじゃない。分かるから俺は、なんだか泣きそうになる。別に泣くほど辛いわけじゃないし、何にせよこの俺が人前で泣くわけないけど。

「…真墨兄さん」

「ん?」

そういうのやめてくんないかな。俺はぼそぼそと言う。だけど、こういうのはめったにないんだからたまには我慢しろ。軽く流されてしまった。
俺の精一杯をそんなにも簡単に。くそ。

「心配しなくても誰にも言いやしないよ。今までだってそうだったろ?」

「…そうだけど」

「でも言っとく。八尋兄さんに隠し事は不可能だと心得とけ。この意地っ張り」

「…だよね」

俺の兄ふたりは何でもかんでも、そっと。そんな素振りも見せずにそっと気づいてしまう。
なんだってそうだ。いつだってそうだ。それが大人の余裕なのだろうか。
悔しい。悔しい。悔しいけれど。

「俺は、へーき」

「うん」

「平気だったら」

「分かってるよ。だから八尋兄さんだって放っておいてくれてるだろ」

真墨兄さんはやっと無表情を崩して微笑んだ。
笑むと途端子供みたいな童顔になる。俺よりちっさい上に童顔な真墨兄さんはだけど、ブランケットより何よりあったかくて柔らかな手のひらで、俺の頭を撫でて笑った。

先刻まで縫ぐるみを直していた器用な指先が俺の髪を撫で通っていく心地よさに、胸の奥と頭の中に沈殿していた気持ち悪さがすぅと引いていく。
ほっとする。変なの。
だけどなんだか癪に障ったから、真墨兄さんてマジでお母さんみたい。と言ってやった。

百々と羽流

「………またか」

ぽつり、脱力感満載の溜め息と共に口にする言葉は、「また」というそのまま。もう何度目か分からない。

ぼふり、そのまま持ち上げかけた頭を枕に落とす。
その弾みで枕や布団に抱き込まれた柔らかな体温とシャンプーや石鹸の匂い、それから、太陽の匂いが鼻先をくすぐった。
俺はそのあまりの心地よさに目を閉じる。このままうとうとまどろんで、もう一度寝てしまえばいいのだとどこかで自分を甘やかそうと画策する。

「………………………」

完全に自分を甘やかしきることができないのは、殆ど一人で俺を育て上げてしまった真墨兄の影響が残っているせいだろうか。それとも、次男坊というポジションのせいだろうか。
そういった何か他の要因ではなく、正しく俺という人間の性格によるものなのだろうか。
どちらにせよ、こうしてぬくぬくと布団に包まってそのまま二度寝に突入できないことだけは確かなようだ。
そろそろ負けを認めようか。
認めなかったら勝てるかって、…勝てないし。

俺は渋々片目を薄く開けた。
ぴっちり閉めたはずなのにいつもうっすら隙間が空いてしまうカーテンの合間、音もなく差し込んでくる朝日は、俺のごちゃごちゃと散らかった部屋を明るく淡いクリーム色に染め上げ、一際強い一筋の光の中、空中を滞留する埃の小さな欠片がキラキラと舞っている。
あぁ奇麗だな。今日滅茶苦茶天気いいんだ。気合い入れて掃除でもすっか。俺の部屋以外。
あーでもまた莉世に呆れられるかな。モモはお掃除が上手なのに、どうして自分のお部屋だけ汚いの。とか言われるかな。…なんて、もう少しあと少しと現実逃避を試みて、結局すぐ現実に戻る。

カーテンの布地の向こう側の光溢れる世界より、明るく淡いクリーム色より、もっとずっと至近距離。
俺が包まるふかふかの布団と同じくらいの距離(目と鼻の先とはこのことか!とか妙に真剣に噛み締めるくらい)に、昨夜就寝する折にはなかったものがある。
それを半分覚醒した状態で、この距離で視覚に認識してしまうと、いくら「またか」と呟くことでも俺は何度も息を呑む。何度でも息を呑む。
俺は、何度繰り返そうと慣れることと慣れないことは、意外ときっぱりと二手に分かれていると思う。
慣れない。こればっかりは何度だって。毎日繰り返したって。

天使。とただ思う。

俺はやっぱり真墨兄に似てる。
妙なところロマンチストなところとか。自覚してて直そうとするけど直らないところとか。それを成人男性が持つ感覚としてはちょっと恥ずかしいことだと思ってるとことか。
だけど俺は、まず最初に天使。と思う。それ以外に言葉が浮かばない。
キラキラと淡い光の中、今にも境界線をなくして溶けていってしまいそうなくらい儚いそれは、元々ボキャブラリーの少ない俺には天使としか言い表す術がないのだ。

そのくらい儚く曖昧で、ちょっと怖いくらい奇麗で清廉。
今、俺の目の前に本物の天使が舞い降りたら、多分そっくりこんな感じ。…とかさ、だから。恥ずかしいから俺。

「…天使っちゃあ、天使なんだけど」

大変残念なお知らせです。心の中で俺は俺にそう最終通告。
それと同時に、俺は寝起きの寝ぼけた脳みそや身体全部(爪の先から髪の先まで)に、一気に勢い良く血液が走るのを感じて思い切り息を吸い込んだ。肺にめいっぱい。これ以上無理ってくらいがっつり。

一拍止めて、

「ッギャーーー!!!羽流兄ィイ!!なんっで俺のベッドで寝てんだよーーーーー!!!!!」

飛び起きようとして、しっかり握り締められたパジャマ代わりのTシャツの胸元にぐん、と引き返されて元に戻る。ぼふりと勢い良く顔から。痛い。

…あぁ、………またか。

弾みで枕や布団に抱き込まれた柔らかな体温とシャンプーや石鹸の匂い、それから、太陽(という名の羽流兄)の匂い。
ふわりと舞った羽流兄の長い前髪が俺の鼻先をくすぐる。至近距離に色素の薄い長い睫の規則正しい配列が見える。
だけど一旦目覚めた俺にとってそれは、天使とかそういう平和で美しいものではない。もうタイムアウト。…あぁもう、俺もう一回寝たい。目が覚めたら単なる夢だったとかそういうオチが欲しい。
そうどれだけ願ったところで、叶ったことなんて一度もないのが悲しい話。

「離せよ羽流兄ぃー。頼むから!夜中にトイレ行くのは全然いいよ、でもなんでそのたび寝ぼけて俺の部屋に来るんだよ。それもいいよ、間違いに気づいたら引き返せよ。そのまま俺のベッドに潜り込んでその上俺のTシャツ掴んでぴったりくっついて寝るのは本気でやめてくれよ。心臓に悪いんだよ。狭いんだよ。そして何より気持ち悪いんだよ。羽流兄自分がでっかい野郎だってこと忘れてねぇか?俺も羽流兄ほどじゃないにしろでっかい野郎なんだよー。むさくるしいよー。うぜぇよー。勘弁してくれよー」

至近距離で俺が叫んでも、こうして一息にうわーっと文句を言っても、寝汚い羽流兄は起きない。
すやすやと健やかな寝息はちらとも乱れないし、キラッキラな天使の寝顔も健在だ。これも毎度のこと。
その代わり、コンコン、とドアをノックする音。

「モモ?どうしたの、朝から元気ね。…あら、またハルが潜り込んだの?」

うっすら開いたドアの隙間から、小さな頭がちょこんと顔を出す。

「莉世ー。助けてくれよー」

俺より先に起きていた、もしくは俺が現実逃避を繰り返しては撃沈している間に起きたのだろう、妹の莉世は、まだパジャマの上にカーディガンを羽織っただけの姿。ちんまりとドアの向こうから身体半分を出してこちらを覗き込んでいる。
あぁ今日も可愛いな、朝日が似合うなオイ。俺はどっちかって言うとこっちの天使のがいいんだけど。しっかり者の莉世が俺のベッドに潜り込むとかよほどのことがない限りないんだけど。

「仲良しさんね」

にっこり。莉世は花のように無邪気に微笑んだ。

…泣きたい。
なんで朝っぱらからこんな切ない気持ちにならなきゃいけないんだ。

「さぁさ、ふたりとも起きて!今日はとっても天気がいいのよ!寝坊なんてもったいないわ!」

莉世は元気に小さな両手をぱちんと叩き合わせ、タタタと軽快にベッドに駆け寄ると、俺の胸倉を掴んだままの羽流兄の手を、指一本一本丁寧に外して開放してくれた。
俺はそれだけで随分と人心地つく。

「ありがとな、莉世」

お礼を言いながら起き上がり、ベッド脇にいる莉世を抱き上げる。
どういたしまして。と微笑む莉世は、今の俺にとって本気で天使だ。ちくしょう。

「ハルはまだしばらく起きそうにないね。…でもわたし、おなか空いちゃった」

朝ごはんミルク粥がいいか?それともフレンチトースト?ドライフルーツたっぷりのフレーク?俺は莉世のお陰で勝ち取れた平和を噛み締めながら、莉世の好きな朝食メニューを挙げていく。
メープルシロップたっぷりのフレンチトースト!元気良く答える莉世に、分かった。と頷き、なんとなく冷蔵庫の中身を思い浮かべる。ヨーグルトサラダもつけよう。ミルクたっぷりの紅茶も淹れよう。

「じゃあ先に顔洗って着替えてこいよ。俺もすぐ行くから」

うん。頷く莉世をそっと下ろして、出て行く小さな背中を見送って。さぁ立ち上がってカーテン開けてやれ!と思った途端。

「……羽流兄、せめて俺のTシャツ握るのは片手だけにしてくれないかな」

くん、と引き戻されたのは、俺のTシャツの裾。もう片手が残ってた。なんてフェイント。
莉世を真似てそうっと解きにかかると、いきなりTシャツの裾を握っていた手が俺の手ごとわし!と掴んできた。
ヒ!と息を呑んだ俺の目の前、天使の寝顔がうっすら目を開ける。

「…お兄ちゃんに向かって気持ち悪いって言った悪い子、だぁれだ?」

寝顔も天使。笑顔も天使。
だけど俺はこの日、朝っぱらから二度目の悲鳴をあげるしかなかった。

羽流と真墨

ぽたり。

「…あ、雨」

天から僕の頬へ降り落ち、ぱちんとはじけたひとしずくに顔を上げると、僕の隣で真墨が「げ、マジで?」と心底不満そうな声を上げた。
ちらりと横目に真墨を見やると、両腕いっぱいに大きな紙袋を抱きかかえ、それに鼻先を埋めて顔をしかめている。

さっき、僕が持とうか?と聞いたら、いいよ、俺だって男なんだから。と分かりきったことを言って拗ね、絶対に手放そうとしなかった紙袋だ。
僕は真墨を女の子だと思ったことは生まれてこの方一度もないのに。変な真墨。
ただ、真墨は確かに小柄だから、その紙袋は大変じゃないのかなと思っただけなのに。

僕はその分、両手に重たいビニル袋をぶら下げ歩く。
僕の持つ袋に缶詰とか牛乳とか重たいものを詰め込んだのは真墨だ。
わざとなんだろうけど、別にそれでもいいんだけど、重さが大体左右対称になるよう計算して入れてくれたのはありがたい。
こういうところは真墨だな、と思う。

がさがさ紙袋を抱きしめ歩く真墨と、ぱりぱりビニル袋を両手に歩く僕。
雨粒に気づいた途端、少しだけ歩幅を大きくして家路を急ぐ。
そうこうしているうちに、始めはぽつりぽつり程度だった雨脚がどんどん激しくなってきた。

今日の昼前、弟や妹たちと一緒に本家に遊びに行った時は清々しいほどの晴天だった。
あまりに天気がいいから、莉世は家を出る前に庭の花壇に水やりをしたくらいだ。
可愛いデザインのプラスティックの如雨露を片手に楽しげに、見て見て、虹!と如雨露の水と太陽の光でできた小さな虹を見せてくれたりした。
それがまるで嘘みたいな雨。しかもどんどん雨粒が大きく、多くなってくる。

「…っち!天気予報の嘘つき!」

僕の隣で足早に歩く真墨が、舌打ちと共に子供のような悪態をついた。
皆で昼食をとった後、子供たちの面倒百々に任せる。天気がいいから買い物付き合え。と僕に言いつけた真墨は多分、前もって天気予報もチェックしていたのだろう。
お菓子買ってきて。と弟や妹たちに強請られ、何がいいかひとりひとつずつリクエストを聞いてはメモしていた。
お母さんみたい。とか言ったら絶対に怒鳴られるから言わないけれど。

とうとう本降りになってきた雨と本家までの道程を考えると、ちょっと雨宿りした方がいいような気がしてきた僕は、隣、早歩きというより殆ど走る、に近い真墨をちらりと見やる。
真墨は本当に面白くなさそうに眉間に皴を寄せ、いつの間にか青空を覆い尽くした灰色の重たそうな雲を睨み上げ、そのままこちらをじろり。

「僕を睨んでも雨はやまないよ」

ふふ、僕が少し笑うと、真墨は深々と溜め息をつき、どっか適当な場所で雨宿りするか。と呟いた。
うん。それがいい。きっといい。だってきっと通り雨だもの。思った僕は二つ返事で賛成した。

だけどこういう時に限って適当な雨宿りの場所が見つからないものだ。
カフェは僕らより先に雨の中歩くのを諦めた人たちでいっぱいだったし、軒下もそう。
だから僕らは仕方なしに人の少ない軒下を探すしかなかった。必然的に、人が少ないイコール雨宿りにはあまり向いていない軒下。ということになる。

「…狭い」

「そうだね」

狭い軒下に逃れ一息ついたと思ったら、早速眉間に皴を寄せたまま不満げに空を睨む真墨。
だけど今からまた違う軒下を探そうとは思えないらしく、壁に背中をぺったりと預けて溜め息をついた。
横に狭いならまだしも前後に狭いから、真墨が抱えた紙袋が濡れてしまう。当然のように真墨の両腕も。
僕はビニル袋だし、濡れても別にかまわないけど。真墨は寒くないのかな。紙袋破けちゃわないかな。僕はそっと足元にビニル袋を置き、軽く口を結んでから真墨の前に向かい合うようにして立った。
壁に背中を貼り付けても狭い軒下だ。必然的に僕は雨の下に出ることになる。
目の前、真墨の両目がまん丸に見開かれた。

「な、何してんだ羽流!馬鹿、濡れる!」

「雨よけ」

「…あ?」

「雨よけ」

僕は繰り返す。
真墨はぽかんと口を開け、だけどそれと同時に眉間に寄っていた皴がするっと消えたから、僕はそれだけで結構満足してしまった。
ぽたぽた軒下から垂れる雨水は確かに冷たかったけれど、濡れて濃い色になってしまった真墨の両腕の布地も、冷えて少し白くなった手の甲も、その間に抱かれた紙袋もそれ以上濡れないで済むのだから、その代わりと思えば全然平気だ。

真墨はしばらくぱちぱちと瞬きをしていたけれど、我に返ったのか慌てて僕の肩を掴んできた。
僕を軒下に戻そうとしているのだろう。
だけど僕は殊更ゆっくり首を振り、真墨の手をやんわりと肩から離して大丈夫だよと笑って見せた。
真墨は不満げな顔をして僕を見上げるけれど、僕がどく気がないことに気づいたのか早々に溜め息をついて諦めてくれた。
こういうところも、真墨だと思う。

僕らの付き合いは赤子の頃からずっとだ。
今更、沢山の言葉を並べ立てて言い争いなんてしなくてもいい。真墨は分かってくれる。そう肌で感じるから、僕にとって真墨は誰よりそばにいて楽な人だ。
いつも僕の分まであれこれ世話を焼いてくれる真墨を、たまにはこうして雨粒から守るくらい、したいと思う。

僕は真墨に覆いかぶさるようにして真墨の頭上に両手をついた。
その拍子に、がさり、僕の胸にぶつかった、真墨が抱いている紙袋が音を立てる。
僕は紙袋の中身をそっと見下ろした。
弟や妹たちのリクエストのお菓子の箱や、袋。それから、チーズとか野菜がちらちら見える。
真墨も守るように抱いていたからだろう、あんまり濡れていないのが幸いだと思う。

それらのもう少し近く。僕の顔の真下にきた真墨は少し俯きがちに、なんだかぶすくれている。
その唇を尖らせる理由を、僕はなんとなく察した。

本家分家の中で一番でかく成長してしまった僕と、本家分家の中で(弟や妹以外で)一番小柄な真墨が間近で向かい合うと、その身長差が歴然だ。
真墨はあまり伸びなかった自分の身長をコンプレックスに思っているし、僕も僕で伸びすぎた自分の身長に未だに戸惑っている。
僕らはたまたまとは言え同じ日に生まれ育ったのにでこぼこだ。
思い出や美味しいものみたいに、身長も分け合えたらいいのに。
そうしたらきっと丁度いいのに。

僕は僕と真墨の大きな差を慰めるつもりで、真墨の湿った黒髪に鼻先を擦りつけて目を閉じる。
真墨も僕の意図を酌んでくれたのか、何も言わずされるがままでいてくれたから、通り雨がやむまでしばらくそのままでいた。


雨上がり。
少し湿ってしまった紙袋を胸に抱えなおした真墨と、濡れそぼったビニル袋を両手にぶら下げた僕の目の前、雲間から差す太陽光に雨粒がきらめいて大きな虹になった。
きらきら奇麗で、わぁ、とつい声を出してしまった。

僕らの家路に虹がかかる。大きくて奇麗な虹だ。
虹の袂に何がある?僕らは子供の頃それが知りたくて、歩けるだけ歩き続けて、気づいたら虹が消えてしまって迷子になったことがあるのを思い出した。

あの時は八尋さんが迎えに来てくれたけれど、僕らはちっとも泣いたりしなかった。
悲しくなかった。怖くなかった。だって僕らはひとりじゃなかった。
確かに、虹が消えてしまったこと、袂に何があるのか結局知ることができなかったこと、八尋さんに迷惑をかけてしまったことは悲しかったけれど、八尋さんは僕らを怒ったりしなかったし、それどころか「確かに虹の袂に何があるか知りたいよね」と優しく同意を示してくれた。

いつか大人になったら、またふたりで探しに行こう。そして何があったか八尋さんにも教えてあげよう。と僕と真墨は約束をした。

そうだ、約束したなぁ。

「真墨」

「あ?」

「虹の袂には何があるだろうね?」

「…さぁな」

真墨はそっけなく答える。けれど、ほんの少しだけ笑っていた。
その横顔を見て、あぁ、真墨も思い出してくれたんだと分かって嬉しかった。

「おうち帰ろ」

「あぁ。ていうか、…羽流、お前寒くないのか?」

「うん。大丈夫。でも本家帰ったらタオルと着替え貸して」

「お前俺の着れないだろ。八尋兄さんの借りればいいけど。…ていうかまず風呂だな」

真墨は横目に僕を見て、くっくっく、と喉を鳴らして笑った。びしょ濡れの僕を改めて見たら可笑しかったんだろう。
本家に戻ったら、多分他の兄弟たちにも笑われるんだろうな。

ぽたり、僕の前髪から雫が落ちる。
多分このひとしずくも虹の欠片だ。となんとなく思った。
莉世にも教えてあげよう。きっと喜ぶ。あの子はこういう話が大好きだから。

「雨粒は、虹の種だね」

「じゃあお前は今、虹の種まみれってことか」

「そう思うとたまには濡れるのも悪くないかも」

「…ばーか」

くくく、真墨が笑う。僕もつられてくつくつと笑った。
大きな虹はやっぱり僕らが袂に辿りつく前に消えてしまったけれど、いつかまた一緒に探しに行こうね。という僕と真墨の幼い頃した約束はずっと有効だ。きっと。

紫色と百々

百々の目は、普段真っ黒だ。
黒い瞳をした人でも大概、よくよく見ると焦げ茶だったり栗色だったりするけど、百々の瞳はマグカップになみなみ注いだ濃い目のコーヒーの中央部分みたいに、漆黒だ。
黒々としたそれは表面がいつも艶々して見えて、俺はとても綺麗だと思う。

だけど百々の目は、ある一定の条件下(とても天気のいい日、斜め下から見上げた時だけ)で見ると、赤く見える。
そのことに気づいたのは、多分俺が10歳やそこらの頃だったと思う。

気づいた時の高揚感ったらなかった。
だってその当時の俺と言ったら何も知らない子供だったわけで。黒く見えるものはただ黒いだけのもの、赤く見えるものはただ赤いだけのものだと思っていたのだから。

世界はこの両目に見えたままそのままだと信じて疑わなかった。
だから色々見なくちゃ、知らなくちゃとは思ってはいたけれど、俺はそんな感じであまり想像力に満ちた子供ではなかったから、まさか漆黒の中に赤が隠れているなんて夢にも思っていなかったのだ。

それはそれは燃えるような赤。
どこか秘密めいた、謎めいたその発見に、俺は内心興奮した。
そのことを知っているのは俺だけだと勝手に思って誰にも言わなかった。
もちろん百々本人にも。

百々の赤は底なしに透き通っても見えるから、何かの本で見た宝石のルビーのようだ。
深い赤だ。深過ぎて光に透かさないと漆黒に見える赤。
血のように赤の濃い、透き通ったルビーはビジョン・ブラッドと呼ばれ珍重されると知り、あぁ百々は鳩の血の目を隠し持っているんだ。と幼心に思ったのを覚えている。


百々たちが住む分家には、出窓と呼ぶには少々物足りないくらい大きく外側にせり出した窓がある。
そこは大の大人がひとり足を折り曲げれば座れてしまうほど広々としていて、午後になると南西側から差す太陽光でいつも淡くけぶっている。
どんなに寒い冬の昼間でもそこだけはふくふくとあたたかい静かな空気に満ちていて、意外と寒がりな百々は特に何の予定もない日、いつもそこに座ってなにやら本(その年代の男が好むようなやけに騒がしく雄々しい冒険ものや青春もの。もしくは漫画)を読んだり、窓の外に見える庭木に止まる小鳥や、透き通るように晴れた空やなんかを眺めている。

百々はどちらかというと外で泥だらけになって遊びまわるやんちゃ坊主。俺は家の中で本やテレビを見て過ごす大人しい子供だったけれど、定位置である出窓に座った百々は今も昔も変わらず俺をすら退屈にさせるほど酷く大人しく静寂を守る。
まるでそこで声をあげ音を立てることは罪悪だとでも言わんばかりに、ひっそりと。生真面目に。

そのひたすら静かな光の中に黙ったまま座り続ける百々を、俺は時々見上げる。
本当にすぐ近くまで歩み寄って、呆と外を眺める百々の横顔を眺める。
そこからだと多少百々に遮られるとは言え、それなりに太陽光のあたたかみという恩恵にも預かれるし、何より、普段の生活ではあまり見られない百々の瞳の赤みを見ることができるからだ。

百々は俺がどんなに近くに寄って行っても、声さえかけなければ。その静寂の邪魔さえしなければ、ちらりとこちらを見やるだけであっちに行けとか言わないで好きにさせてくれる。

ビジョン・ブラッド。

俺は百々にも内緒で勝手に名づけた百々の瞳の名前を、心の中でだけでひっそり呼ぶ。
呼びながら、赤々と艶めく瞳を見つめ、子供の頃は立ったままでも見上げていた出窓に座る百々の横顔を、大人になった今でも見上げられるようにと、その場にしゃがみ込む。

低い位置からしか確認できない百々の、多分本人は秘密にしようとも思っていないだろうけど、彼より先に成長した兄たちには発見することが難しいだろう漆黒の瞳に隠れた深い深い血の色。
さすがにもう俺だけが知っているとは思わないけれど、それを静かに見上げるだけで結構満足感を覚えるのだ。


また出窓に座ってぼんやりしている百々を見つけて近寄ろうとした俺の肩を、誰かがぽんぽんと軽く叩いた。
振り返ると、羽流兄さんが彼お気に入りの生成り色したふかふかクッションを差し出してきた。
百々の出窓の静寂を守るみたいに、何も言わずに。
声に出さずに視線で「なに?」って聞いたら、顎をしゃくる。それに従って視線をやったそこは、百々が座っている出窓の下、いつも百々を見上げるために俺が座り込む、長年かけて磨きこまれたアッシュブラウンのフローリングだった。

本家も分家も、建築方法なのか立地の関係なのか、夏でもフローリングはひやりと冷たい。
直接座ってじっとしてると結構冷える。
もしかして、羽流兄さんは俺がいつもその冷たい場所に直接座り込んで動かないのを知っていて、これを下に敷いてろと言っているのだろうか。と思い至り、俺は今一度彼を振り返った。

羽流兄さんはやっぱり無言のまま、とろりと眠そうな両目を細めて頷くだけだったけれど、その拍子に伸ばしっぱなしの彼のクリーム色した髪がさらさらと微かな音を立てて彼の顔を覆ってしまう。
彼のどこまでも色素の薄い透明な両目が見えなくなってしまう。

だけど彼はそんなのちっとも関係ないみたいに、確かに俺の目を見て、辛うじて前髪に隠れなかった薄い唇の動きだけで、「使って」と俺に言った。

俺はなんだかこっ恥ずかしい気持ち(だってなんか見透かされてるみたいだ)になったけれど、彼のその無言の優しさに素直に甘んじる気分でもあったから、小さめに頭を下げて受け取った。
ふかふかクッションは羽流兄さんの手から離れた瞬間、今まで使ったことのなかった俺の手にすらすんなり馴染んでしまう。俺はその柔軟さに驚いて素早く瞬きをした。
まるで羽流兄さんの分身みたいだと思ったからだ。

羽流兄さんは俺の直接の兄ではない。
もちろん、本家も分家も五つ子以外は誰一人として血など繋がっていないけど、俺は本家の三男。羽流兄さんは分家の長男だ。
本家の次男である真墨兄さんと羽流兄さんは双子みたいになんか独特な繋がりがあるけれど、俺と羽流兄さんには接点がない。
だけど羽流兄さんは不思議な人だ。本家の長男である八尋兄さんと同じ人種だからだろうか。妙に柔らかいのだ。物腰とかそういうのも含め、うまく言えないけど、…全体的に。
彼らと接触する場合、ぶつかる、という感覚が全くない。
ふわりと受け止められるというか、包まれるというか、吸い込まれるというか。陽だまりに滞留するあたたかい空気の中に一歩歩み出るような感じだろうか。
彼らは俺にとって、空気のような存在なのかもしれない。
向かい合った時の抵抗感がないという意味で。
その存在自体が俺たちを生かしているような気がするという意味で。

クッションが無事俺の手に渡ったことを確認した羽流兄さんは、ゆっくりと眠たげな瞬きをひとつ。それから、流れるようにしなやかに、するりと俺に背を向け部屋を出て行った。

俺はしばらくクッションを握り締めて立ち尽くしていたけれど、なんだか後を追う気にもなれずに背後を振り返る。
百々は相変わらず出窓に片膝を抱くようにして、静寂を守りながら座っていた。
手に持った漫画は読み終えてしまったらしく、ぼんやりと窓の外を見ている。
俺は足音を消して、息も殺してそっとそばに歩み寄り、いつも座って百々を見上げる定位置に羽流兄さんのクッションを置き、その上に座り込んだ。
クッションはつい今しがたまで日の光に当たっていたかのようにふくふくとあたたかく、やはり羽流兄さんみたいに柔らかかった。

見上げる先。
百々の漆黒に隠れた赤は、やはり光に透けて尚深く。硝子や鏡のように窓の外の景色を赤く染め上げ映している。

ビジョン・ブラッド。

俺はまた心の中でそっと呼んだ。

いいんだ、とふと思う。
羽流兄さんに色々ばれていたのはこっ恥ずかしい気もするけれど、でもこうしてクッションを貸してもらってしまうと、なんだか許されたような気分になった。
多分、羽流兄さんは俺より先に百々の目の秘密を知っていた。そしてそれに後から気づいて、まるで自分だけが知っているかのように口を閉じ、眺める俺をも知っていたのだと思う。
百々だって、俺がこうしてわざわざ冷たい床に座り込み、自分の目をじっと見ていることくらい気づいているだろう。
だけど何も言わない。羽流兄さんも、百々も。
俺がこうしていることを、少なくとも二人は許してくれているのではないだろうか。
いいんだ、と心の中でもう一度呟く。

いいんだ。

俺はなんだか嬉しくなって、緩む口端を抑える努力をわざと怠った。

「…何にやけてんだよ、気色悪い」

頑なに守り続けた静寂を壊して、不意に百々の声が俺の頭上から降り落ち、俺は驚いて顔を上げる。
つい先刻まで窓の外を見るともなしに見ていた漆黒の中の濃厚な赤が、それとは真逆の色である薄青がかった俺の目を映し、不思議な、なんともいえない色を作り上げていた。

「もも、」

「なんだよ」

それまでずっと守り続けた静寂を破ってまで百々が俺を見たことに驚いた俺は、たどたどしく彼の名を呼ぶ。
だけど百々はいたって普段通りに俺を見下ろし、まるで今まで守ってきたものなんて別になさそうに。それこそ驚くほど潔くそこにいた。

綺麗な赤。薄青色した俺とは正反対の、濃くて深い赤。
まるで宝石みたいだと俺は思う。
何度見ても飽きない。

座り込んだまま百々の瞳を真っ直ぐ見上げる俺に、百々は揺らぎもせずこちらを見返してくる。
真っ直ぐ。攻撃性なんて全くないのに、その分尊く射抜くようにして。
そうすることで、百々の深い赤の表に俺の薄青い色がうっすら重なって見えた。
何ものにも塗り潰されることなく確かに、確固たる強みでもって存在する赤の上、俺の薄い青が映り込むことが許されている。

…いいんだ。

「百々って優しいよねぇ」

「あぁ?」

なんのことだか分からない、といった顔をして百々が首を傾げるけれど、俺は腹の奥底から湧いてくる笑いがくつくつ喉を震わせるに任せることにした。

「平和だねぇ」

「だからなんなんだよお前はー」

「…知ってた?百々。お前の目、ビジョン・ブラッドみたいなんだ」

「びじょん、ぶ…?なんだそれ?」

百々は眉間に皴を寄せるとどうにも柄の悪い人相になるけれど、怒っているわけでも脅しているわけでもない。
それを知っている俺は、その単純に不思議がる表情を見て無垢だなぁなんて口にしたら怒られそうな感想を抱きながら、窓から差す光と、それを透かす深い、深い赤に目を細め笑った。

莉世と羽流

わたしはこれ以上ないくらい柔らかな陽だまりの中で、優しい繭にくるまれ息をしている。
わたしは時々そう思う。
思うたび、どうしてわたしはこんなに幸福であることを強いられているのだろう、とついでのように考える。
結局明確な答えなど得られないのだけれど、それでも思う。ついでに、くらいの気軽さで。

「ハル」

呼びかけると、目の前、まるで当たり前のことのように廊下で座り込んでうとうとしているわたしの兄は、うっすら瞼を持ち上げた。
まだ熟睡していたわけではなかったようだ。

その見るからに薄い皮膚を縁取る細いまつげの規則正しい配列を眺めながら、ハルはかわいいな、と思う。

まだわたしの両腕はハルを包み込むことなんてできない。
多分、わたしが大人の女の人になったとしても、ハルみたいに大きな男の人をすっぽりと抱きしめてあげることなんてできないのだろう。
だけどこうして無防備にうとうとするハルを眺めていると、不意に胸の奥深く辺りがむずむずしてきて、ぎゅうぎゅうと。だけど優しく労わるように。両腕めいっぱいでもって包み込んであげたいと思ってしまうことが、よくある。
自分の両腕の幼さが酷くもどかしく思うほどに。

頬にキスをして、いい子いい子と頭を撫でて、大事に大事にしてあげたいと思うのだ。
ヤヒロもそう。ふわふわの髪を撫で撫でしてあげたい。
本家分家の長男ふたりは、同じ人種だからか、妙に似通っている。
顔つきも身体つきもそうだけれど、纏う雰囲気そのものが。

そのせいもあってか、彼らは他の兄たちより尚強くわたしの心に衝動を起こす。
抱いてあげたいという、根拠も理由もない、紛れもなく純粋な「衝動」を。

「ハル」

もう一度呼びかけると、ものすごく重たそうに、今にもまたくっついてしまいそうだった上の瞼と下の瞼の隙間がゆるゆると広がった。
完全には開ききらない色素の薄いまつげの隙間、やはり限界まで色素の薄い、血管すら透けそうな眼球がわたしの顔に焦点を絞ったのが見えて、わたしはにっこりする。
ハルは虹彩が奇麗だ。時々触ってみたくなる。

「ハル、こんなところで眠ったら風邪ひいちゃうよ」

「…うん」

ハルは声をあげるのも億劫なのか、唇も動かさずに喉を鳴らしてそう言った。

ハルの喉は白く薄く筋張って、だけど真ん中あたりにぽこっとした出っ張りがある。
わたしやイヅルちゃんたちにはないけれど、他の兄たちにもある。
彼らはそれを上下に震わせることで、声を発することもできるのだとわたしは思っている。

以前、モモのそれに触れたことがある。
ぼこぼことして意外と硬く、骨かと思ったけれど、骨にしては弾力があった。
触っていると、時々、上下に揺れてわたしの指が滑り落ちる。
それがまた面白くてつい夢中になって指先で押していると、ちょっと苦しい。と笑った。
これはなに。と聞いたら、喉仏。と簡素に返事が返ってきた。大人の男の人にはあるものだという。
ということは、いつかイヅルちゃんやイヅカちゃんたちもこんな喉になるのかもしれない。そうなったら触らせてもらおうと思う。あの感触は結構楽しいのだ。
マスミのも、ヤヒロのも、楽しかった。何より、そこに触れるには彼らの膝の上に乗り上げなければ届かないから、必然的に彼らに抱いてもらうことになる。
多分、その状況も含め、楽しいことなのだろう。

ふくふくとあたたかく、骨ばっているけれど柔らかく、また頑強であり、何よりどこまでも優しい彼らの膝の上は、わたしにとってこの上なく居心地のいい、安心する場所だ。

「ハル、喉仏、触ってもいい?」

「…うん?」

黙っているとすぐに落ちてくる瞼を、ハルはまたもう少し開いた。
不思議そうな声色がわたしの耳たぶを優しく撫でて、わたしも喉を鳴らしそうになる。だけどわたしには一生、彼らのような出っ張りは生まれない。
何故ならわたしは、本家分家の中で唯一の女の子だから。

「のどぼとけ、触ってもいい?」

わたしはもう一度、今度は喉仏、という言葉をはっきりと発音した。
ハルはそれを聞いてもやはり不思議そうな顔をしたけれど、首を傾げつつ、うん、いいよ。と柔らかく微笑み、膝を抱えていた両腕を広げてわたしを呼んでくれた。
わたしは軽く広げ床に落ちたハルの細長い両足の上にそっと乗り上げ、片手をその広い肩へ当て、もう片手でもって喉仏に触れた。
ハルはごく自然に、僅かに顎を持ち上げわたしに触りやすくしてくれた。

ぼこ、とした硬いような柔らかいような、軟骨部分みたいな感触。
思いっきり噛んだら噛み砕けそうだ。以前齧ったことのある鳥肉の軟骨を思い出す。こりこりとして、味はともかく歯と歯の間で砕ける感じは面白かった。

「これって食べられるのかな?」

「…うーん。どうだろ。食べられるかもしれないね」

ハルは夢うつつに答える。ちゃんと分かっているのだろうか。
わたしは少し意地悪をしてみたい気持ちになって、食べちゃってもいい?と聞いてみた。
するとハルはゆっくりと瞬きをしながら、わたしの言葉の真意を見ようとしてか、こちらの両目を真っ直ぐ見つめてくる。…が、すぐにまた微笑みに溶けてしまった。
ハルが微笑む瞬間は、フライパンの上でバターが溶ける瞬間に似ているとなんとなく思う。

「今?…うーん困ったな。今は痛そうだから、僕が眠ってる間にしてくれる?」

「眠ってる間ならいいの?」

「ちょっと齧ってみるくらいなら今でもいいよ。…莉世、おなか空いてるの?」

「そうじゃないけど…じゃあ、食べちゃったらなくなっちゃって困るだろうから、今ちょっと齧ってみてもいい?」

「いいよ」

ハルはどこまでも柔らかくそうわたしを許し、むしろ促すようにわたしの背を大きな手のひらで抱き寄せた。
わたしはその手のひらのじんわりと湿ったような高い体温をシャツの布越しに背中で感じながら、ハルの懐に身体全部を預ける。
そうすることで、すっぽりと収まる自分の体躯の小ささを実感し、それと同時にハルの大きさも実感する。

目の前に晒された喉仏に、わたしはそっと歯を立てた。
ほんの少しだけ力を入れるけれど、思い切り噛んだらやっぱり噛み砕けそうだと思う。思うと、何故か不意に怖くなってすぐに唇を離した。

痛い。そんなことしたらきっとハルはとても痛い。そんなの嫌だ。
違う。ハルを痛めつけたいわけじゃない。いい子いい子したいのだ。大事に大事にしたいのだ。
優しいハル。わたしを許してしまうハル。大好きなハル。

「…ハル、ごめんね」

わたしは何故か無性に悲しくなって、噛んでしまったハルの喉仏に唇を押し当て、うっすらとついてしまった歯型をちょっと舐めた。
どうして?大丈夫だよ。ちょっとくすぐったかったけど。とハルが笑うと、目の前の喉仏がくくく、と上下に揺れ、同時に密着した皮膚越し、耳から聞こえるハルの声と連動して、声が身体全部から聞こえてきた。
わたしはハルの腕の中にすっぽり包み込まれていることを、こういったことで知覚する。

「ハル、大好き」

わたしはまた不意に起こった衝動のままハルの頬にキスをし、そのまま目の前の首に両腕を巻きつけ、ぎゅうぎゅうと。だけど優しく労わるように。両腕めいぱいいでもって。今のわたしでできる限り包めるように抱きしめた。

「ありがとう。僕も莉世のこと大好きだよ」

ハルはわたしを完全に包み込み、だけどわたしに抱かれてくれた。
わたしが強いた幸福を、とてもとても嬉しそうに全面的に甘受してくれた。
わたしはそのことで、またふと、わたしはこれ以上ないくらい柔らかな陽だまりの中で、優しい繭にくるまれ息をしている。と思った。
ついでに、どうしてわたしはこんなに幸福であることを強いられているのだろう、とも。

「ハルは陽だまりみたい」

「莉世は詩人だね」

ハルは睡魔から少し離れることに成功したのかもしれない。
少しだけはっきりした物言いで、ふんわりと微笑むバターのような甘い気配がわたしの頭を撫で、優しく緩んだ薄い唇がわたしの髪に押し付けられたのが分かった。

八尋と真墨

「…うるさいな」

ぼそり、僕の向かいに座ってコーヒーカップに口をつけた真墨が眉間に皴を寄せ、不満そうに鼻を鳴らした。
僕はその限界までしかめられた不機嫌そうな顔を、微笑ましい気持ちで眺める。

先刻丁寧に淹れたコーヒーをゆっくり味わうこともままならないのは、今真墨が不満に思っている騒がしさが直接の原因、…とは言い切れない。
もちろんそれも原因の一端ではあるけれど、どちらかというと真墨本人の性格とか、性質によるものの方が強く影響していると思う。
だから、今少しばかり静かになったとしても無駄なのだ。
真墨が濃いコーヒーを熱いうちに穏やかな気持ちで楽しめるのは、僕らの弟や妹たちが大人しくお昼寝をしてくれている間だけだ。

真墨は紫色が赤子の頃この家に入った時から自分がずっとそういう事態に陥っているということに気づいていないのだろうか。
本人だというのに?…否、本人だからこそ。なのかもしれないけれど。

真墨がどんどん不機嫌になっていくのなんて全く気づかずに、ぎゃいぎゃいと騒ぐ僕や真墨の可愛い弟、妹たち。
僕は確かに騒がしいのは苦手だし、真墨が不機嫌になるのも嫌だけれど、これもまた平和な風景のひとつとして認識してしまうほどに、それはひたすらに微笑ましい騒がしさだった。

「あぁもううるさい!特に百々!少しは黙れ!」

堪忍袋の緒が脆い真墨が吼えると、直接名指しされた百々が、えぇ!俺ぇ!?と目を見開いて吼え返す。
とはいえ、真墨の怒鳴り声に思い切り肩を震わせ、半分泣きそうな顔で、だけれど。

こういう時、普段そこそこきりりとしている百々の表情は一気に子供のそれになる。
それも仕方がない。だって百々が赤子の頃から一番彼の世話を焼いたのもまた、真墨なのだから。
育ててくれた相手に対して強く出られないのは、僕を含め子供たち全員共通だ。

「真墨、そんなに怒らないであげて」

僕はなんだか微笑ましくて笑ってしまう。
途端真墨はバツが悪そうな顔をして顎を引いたかと思うと、なにやら言いかけたのにすぐに飲み込んでしまった。
遠慮がちにこちらを上目に見上げる。どうやら僕が怒っていないか確かめているようだけれど、目が合えばすぐに泳がせて逃げる辺りが真墨だ。
僕にとっては真墨も「可愛い弟、妹たち」のうちのひとりだ。真墨が怒ったりしょげたり忙しい中、僕の機嫌は反してどんどん良くなる。

「百々だけが原因じゃないでしょう?紫色が莉世を抱っこして離さないから、百々は妬いてるだけだよ」

僕は怒ってないよ、と真墨に伝えるために、殊更優しく微笑みかける。が、それに反応したのは百々だった。
今度は僕の方に見開いた目を向ける。
真墨と同じく眉間に盛大に皴を寄せているけれど、見事に顔が耳まで真っ赤だから威圧感の欠片もない。

「や、妬いてねぇ!莉世が紫色に汚されるから、離せっつってるだけだ!」

「抱っこしてるだけじゃないの。なんで俺に抱っこされただけで莉世ちゃんが汚れるのさ。失礼な」

「莉世ちゃん、とか言うな気色悪い!汚れるっていうか穢れる!いいから離せ!莉世の半径5メートル以内に近づくんじゃねぇ!ていうか同じ空気吸うな!」

「ふはっ、無茶苦茶言うし。男の嫉妬は醜いねぇ」

「この野郎…!」

百々に怒鳴られた紫色は、だけど百々の怒声なんて全く堪えていないらしく、両腕の中に莉世を抱いたまま笑みまで浮かべて飄々としている。
その上、抱っこされている莉世は莉世で、珍しく紫色が相手をしてくれているのが殊の外楽しいのか離れる素振りも見せず、百々が必死になっているのを不思議そうに眺めている。
それがまた百々のもどかしさに拍車をかけ、声を大きくさせるのだ。
あぁ、またそんなに大声出したら、

「どっちでもいい!とにかくうるさい!」

ホラ、真墨が怒った。
ふ、ふふふ。僕はとうとう小さく吹き出した。
すると、百々と紫色を鋭い視線で睨みつけていた真墨が、弾かれるようにしてこちらに視線を持ってきた。
それ自体が小ぶりなせいで、ほとんどが丸々とした黒目で埋め尽くされた目が、驚きに見開かれている。
不思議に思って首を傾げ、ふと周囲を見やると、つい先刻まで顔を真っ赤にして怒鳴っていた百々も、それをからかって遊んでいた紫色も、そして莉世までも目を丸くしてこちらを見ていた。

「…なぁに?」

僕はとりあえず目の前の真墨に問うてみる。
真墨はまた、目が合った途端泳がせて逃げるけれど、それでも辛抱強く見つめているとちらりとこちらに戻ってきた。素直ないい子。僕はますます機嫌が良くなる。
だけどやっぱり、反して真墨は複雑そうに眉間に皴を寄せた。
今度は怒っているのとは違う。戸惑っているのだ。

それを見て、そうだ。そういえば真墨は僕に弱かったな。と思い出す。
僕は真墨みたいに真墨の世話を焼いたりはしなかったけれど、一番最初の弟ができて嬉しかったこともあって、僕なりに大事にした覚えはある。
やはり、真墨も僕に育てられたと認識しているのだろうか。

僕は目の前でもうすっかりぬるくなってしまっただろうコーヒーカップを両手で包み、据わり悪げに目を泳がせては戻ってくる真墨をじっと見つめた。

「いや、…だって、八尋兄さんが、…」

「僕?」

「…声出して笑うって、…珍しいし」

もごもごと言い辛そうにそう言って、真墨はまた視線を逃した。
その逃れる視線を追うと、やはり複雑げな顔でほんの僅か頷く百々と、こっくり深々頷く紫色、まん丸な目をしたままこくこくと何度も頷く莉世が見えた。

「…そうかな」

確かに僕はあんまり大声を出すのは好きじゃないけど…そんなに驚くほどのことなのだろうか。
僕が首を傾げると、すっかり力を抜いた紫色の両腕から離れた莉世が、満面の笑顔で僕に抱きついてきた。
椅子に座った僕の胸に顔をうずめ、僕のウエストに回した腕にぎゅうっと力を込める。
ちらりと百々を見やるも、紫色相手ほど文句が出ないらしく毒気を抜かれたような顔でこちらを見ていた。

…僕はいいんだ。

百々は紫色にだけは妙に厳しい。歳が近いからだろうか。
それとも、紫色にとって本家分家と離れてはいるものの初めての弟だったから、子供の頃からからかわれ過ぎた(それは紫色にとっての愛情表現だったのだけれど)せいだろうか。

「莉世?」

間近にある莉世の子供独特の甘い気配漂う小さな頭をそっと撫でると、僕の胸から顔を上げた莉世は頬を薔薇色に染め、きらきらとした薄青い瞳で僕を真っ直ぐ見上げて花のように笑った。

「笑ったヤヒロって素敵!ヤヒロの笑い声って綿菓子みたい!」

「…そうかな」

僕はなんだかくすぐったくて微笑んだ。
どちらかというと、綿菓子という表現は僕より莉世にぴったりだと思うのだけれど。
しかしすぐさま、そうよ!と答えた莉世は、なんだか本当に嬉しそうに何度も頷き、そうよね!と周囲の兄たちに同意を求める。
その迫力に気おされたのか、真墨も百々も、そして紫色まで曖昧に頷き、僅かに苦い笑顔を浮かべた。

「真墨」

呼びかけると、びくりと肩を震わせる。
その肩先を見て、真墨は子供の頃から僕に対して不思議な緊張感を持って接してきていたことをふと思い出した。

甘えるにしたってどこか遠慮がちで、いつも上目にこちらを伺うように見上げてきた。
そんな時僕は子供という生き物に対してどう接してあげれば心から安心してくれるのか分からずに、ただ優しく微笑みかけたり、目線を同じくしようとしゃがんだり、できるだけそっと抱いてあげることしかできなかった。
その分、初めて僕の腕の中で熟睡してくれた時の喜びはひとしおだったけれど。

可愛かったな、真墨。小さな小さな命の塊。
次の弟がこの家に入ってきて、真墨はすぐに甘えることをしなくなった。
まだ幼さの残る横顔で、立派な兄を勤め上げようと頑張っていた。
甘えるのは下手なくせに甘やかすのは上手な真墨は、本家分家関係なく、誰より弟や妹たちの面倒を見、常時気にかけてきた。
丁寧に淹れたコーヒーを熱い内にゆっくりと味わうことも無意識脇に寄せてまで。
だから皆なんだかんだ言って真墨には頭が上がらない。皆真墨が好きだから。
すごくすごく、好きだから。

「そんなに緊張しないで。僕だって時々は声を出して笑うよ。だって真墨が可愛いから」

「…俺?」

「そう。皆可愛いけど、今日は特に真墨が可愛いな、と思ったから。…気を悪くしないで」

にっこりと微笑みかけると、真墨はおたおたとうろたえる。
別に気なんて悪くなってないけど、でも可愛いってその、あんまり。もごもご言いかけて、だけど語尾は苦笑とも失笑ともつかない複雑な笑顔に消えた。

「…やっぱり八尋兄さんには適わない」

「そう?」

うん。真墨はまるで子供に戻ったみたいな幼い表情で小さく頷き、僕の胸に顔をうずめたままの莉世を抱くふりをして僕の肩にほんの僅かおでこを乗せた。
僕はそんな真墨の遠慮がちな甘えを愛しく思い、莉世の時と同じように優しくそっとその丸い後頭部を撫でる。
僕と真墨の間に挟まれた莉世と僕にしか聞こえないくらい小さな音で、くくく、と真墨が喉を鳴らす。
それを聞いたのだろう莉世は、蒸気した薔薇色の頬をますます鮮やかに染め上げ、嬉しそうに僕の胸に頬擦りしてきた。

僕と真墨がふたりきりで本家にいた頃。それは僅かな時間だったけれど、真墨はその頃くらいしか喉を鳴らしたりしなかったから、その喜びや心地よさを喉元に全て集めて凝縮したような、小さな硝子球が転がるような幸福な音は僕だけが知っているものだった。
それを莉世にもお裾分けできたことが嬉しい反面、ちょっと妬けちゃうな、とも思う。

莉世を抱き上げすぐに僕から離れた真墨は、照れくさそうにへにゃりと笑い、完全にあっけにとられてぽかんとしている紫色と百々の存在を思い出したか、急に顔を真っ赤にしてそのまま脱兎のごとく逃げて行った。

「………、て、あ!ちょっと!真墨兄!莉世まで連れてくな!返せ!」

莉世を抱いたまま部屋を飛び出した真墨に、随分な間を空けて気づいた百々が大慌てでその後を追い、それらを黙って見送っていた紫色が、ふ、と短い溜め息をつく。

「…あんな真墨兄さん初めて見た。超不機嫌だったのに。…さすがだよね、八尋兄さんって最強」

ぽつり、零された言葉に僕は、やっぱり少し声を出して笑ってしまった。

百々と紫色

本家の次男である真墨兄と、分家の長男である羽流兄は同時期にこの家に生まれ、(血が繋がっていないから当然だけど)外見も性格も全く似ていないなりに、双子のような、幼馴染のような、不思議な関係にある。
べったりなんて絶対にしないけれど、ふたりにはふたりにしか分からない暗黙の了解のようなものがあり、それはふたりが赤子の頃から見守り続けた本家の長男である八尋兄にも通じないものだと思う。

時々、真墨兄は自分の弟たちを連れて分家に遊びに来る。
こちらから行くこともあるけれど、家で俺たちが来るのを待つより自分が動く方が性に合っているらしく、どちらかと言うと彼らの方からこちらに来ることが多い。
八尋兄はすっかり大人だから来ないこともあるけれど、他の弟たちが来る時は必ず真墨兄も付いて来る。
本家の子供たちの監督権は完全に真墨兄に譲渡されているようだ。
八尋兄と同じ人種の羽流兄もそういうところがあって、結局俺が莉世や志乃、柚太の監督を買って出るから、本家分家の長男と次男というものは自然そういう役割分担というか、ポジションに付くものなのかもしれない。

ピンポーン、ピンポーン、とチャイムが二回鳴ると、その機械音はいつでも同じはずなのに、音色そのものや間の取り方で真墨兄たちが来たとなんとなく分かる。
それは羽流兄も同じようで、うとうとしていても一度は薄く目を開ける。
玄関まで迎えに行くのは俺や莉世たちの役目だけれど、ドアを開けたそこに立つ真墨兄の、口端をぐいっと真横に引き伸ばすような悪戯っ子地味た笑顔が微かに柔和なものになるのは、すっかり真墨兄より成長したはずの俺の頭をそれでも変わらずわしわしと撫で(俺はそれについ無意識背中を丸めて撫でてもらいやすくしてしまう)、奥で小さく体躯を折り曲げたまま待つ羽流兄の前に到着してからだ。

「よぉ、羽流。起きてたのか」

「真墨、また来たの。好きだねぇ」

「別に俺が好きなんじゃない。こうやってガキ共連れてくれば遊び相手が増えて莉世たちも喜ぶだろ。百々ばっかだと飽きるだろうし?」

いつもの淡白なご挨拶に俺を巻き込まないで欲しい。
悪かったな、いっつも俺で。飽きさせて。冗談だと分かっているから、俺もわざと拗ねたふりをする。
くくく、と喉を鳴らして真墨兄が横目に俺を見て勝気に笑い、羽流兄に視線を送る。それを受けた羽流兄もまた、百々は色々工夫して遊ぶから莉世たちも飽きないよ。と呟きうっすら両目を細めて微笑んだ。
それを見た真墨兄は、今日は羽流兄がすぐには眠らなさそうだと踏んだのか、羽流兄の前に座ることにしたらしい。
俺はキッチンに回り、丁度淹れていたコーヒーを二人分、彼らの前に置く。ありがとう、と二人分の声が俺の些細な労働を労った。

彼らは饒舌に話をするわけでもなく、気まぐれにコーヒーを啜り、時々言葉だけ聞いてると喧嘩でもしてるのかと思うくらいの会話のキャッチボールを楽しみながら、向かい合って時間を過ごす。
なんだかその邪魔をしてはいけないような気がして、俺はその場から立ち去ろうとした。
そこでふと、気づく違和感。

八尋兄を抜いた本家の兄弟たちの内、ひとり足りない。

今更かもしれないが、色白通り越して青白い肌をしたあいつは、黙ってればすぐ薄暗い廊下に差し込む白い闇に簡単に溶け込んでしまうのだ。
本家分家合わせた成長しきった子供たちの中で、あいつは真墨兄の次に小柄だけど、真墨兄より多分、体重も体積も何もかもが少ないと思う。
真墨兄だって細いけれど、あいつは肉、という言葉からとことん遠い。はっきり言ってガリガリだ。
食べてないわけではないから、元々太れない体質なのだろう。
そのせいもあって、別に存在感がないわけではないが、あいつから軽口を取ったら影が薄まるのは確かだったりもする。

「…そういえば真墨兄、紫色は?」

「あぁ、紫色は来てない。家で適当にしてんだろ。あいつは兄弟でべったりしてるよりひとりでいる方が好きだからな。八尋兄さんもいるけど、あの人はあれだし」

真墨兄は本家分家ひっくるめて、自分の兄弟たちが誰より好きだ。
だけど真墨兄は好きだからと言って、無理やりそばに置いておこうと束縛したりしない。それぞれの個性をしっかり見抜いて、それぞれが好むようにさせる。
そして少しでも求められれば、すぐに飛んで行ける用意をしている。
本家の三男であり、俺より少し前に引き取られた紫色が、八尋兄とはまた違う理由でひとりを好むことも熟知しているから、多分今日分家に来る時誘いもしなかっただろうことも分かる。
だけど、ちょっと理想通りには行かない歯がゆさに、俺は少し唇を尖らせた。

「なんだ?連れて来て欲しかったか?今度首に紐でもつけて引きずってきてやるよ」

その僅かな俺の心の流れを見抜いたか、真墨兄は尖った八重歯を見せ付けるようにニィ、と笑う。
俺はつい、猫のように弓なりに薄まった真墨兄の目からそっと視線をそらした。

「…別に、そこまでしなくていいけど。ただ、羽流兄と真墨兄みたいには行かないもんだな、って思っただけ。羽流兄と真墨兄、幼馴染だか兄弟だかよく分からないって言うけど、俺と紫色は別にそうでもないから」

「それが個性というものだよ、百々。僕はそういう関係あってもいいと思う」

羽流兄が少し眠そうにゆったりと頬杖をついた。
でも。と俺は言いそうになって、ぐ、っと飲み込む。
格好悪い気がしたのだ。羽流兄と真墨兄の関係性が、ちょっと羨ましい。なんて言えないと。
だけど多分彼らは俺のそんな気持ちも見抜いているのだろう。少し困ったような、照れるような、誇らしげでいて、何故か俺を羨むような、不思議な目と目を合わせる。

「電話でもしてみたら?紫色、きっと百々からかかってきた電話なら出るよ」

時々居留守使うんだよねぇあの子。いい性格してるよ。羽流兄は微かに口端を持ち上げ、とろりと眠そうな表情に似つかわしくない言葉を繋いだ。
限界まで薄まった両目の奥が笑ってない。
羽流兄が八尋兄ほどではないにしろ、激しい感情表現をしないくせに怒ったらなんだか怖い俺は、ひく、と喉を震わせ苦笑した。
ちらりと真墨兄を盗み見ると、彼は慣れているのか元々平気なのか、どこ吹く風といった顔。
俺はひっそり溜め息をついた。


この広い家の玄関から最奥まで貫き通るようにしてある長い廊下の、丁度中腹辺り(つまり、家全体の中央付近)にある電話機の前で戸惑う。
いいから電話かけて来いと背中を押されたまではいいけれど、羽流兄も真墨兄も付き合う気はないらしく、ひとり放り出されてしまったのだ。

分家から本家に電話をすることなんて別に珍しくもないから、電話番号は空で言える。
だけど、いつも俺がかける相手は真墨兄くらいだ。
時々途中で相手が変わることはあるし、その時なら紫色とも多少話したこともあるけれど、紫色に個人的にかけたことなんてない。
どうしよう。改めてかけるとなると、何か違和感というか不自然というか。だけどこのままかけずに戻ることなんて絶対にできない感じだ。
ここで子供たちが騒ぎでも起こしてくれたら、それを言い訳に逃げることだってできるのになぁ。なんて情けないことを考えた後、なんで俺が逃げなきゃいけないんだ。と我に返った。

勢い込んで受話器を持ち上げ、慣れた番号を押す。
何度か呼び出し音が鳴った後、繋がる回線。
途端、どうしよう。がまた俺の頭の中をぐるぐるっと回った。

『…もしもし?』

声は、だけどすぐに俺の肩から力を抜いた。

「八尋兄?俺。百々だけど」

『あぁ、百々?どうしたの。真墨たちはそっちに行ってるんでしょう?』

受話器越し、妙に感情も温度もない、なのに優しい声が俺に微笑みかけたのが分かった。

「真墨兄は今、羽流兄とコーヒー飲んでる。五つ子たちも莉世たちと仲良く遊んでる」

『そう。それは良かった』

ふわふわと現実味のない柔らかで穏やかな声。
本家分家合わせて一番年上の彼は、俺たちがどんな姿、感情を持っていても弾くこともぶつかることもせず、受け止めるというより、受け入れてしまう不思議な人だ。
スポンジみたいだとなんとなく思う。
彼と対峙した時俺たちは、小さな粒子になって柔らかな彼の中に満遍なく溶け込む。
彼は誰かに何かを求めたり強要したりも決してしないし、また、自分が誰かにそうされることも好まない。
八尋兄はあの羽流兄さえも怒らせてはならない相手として認識しているし、幼い子供たちですら本能的に理解しているようだが、俺は未だに彼が怒るところを想像できない。
確かに怒らせてはならないとなんとなく思うけれど、彼は一体どういったことで、どのようにして怒るのだろう。

『…紫色に代わる?』

不意に聞こえた八尋兄の微笑を含んだ言葉に、え、と声を上げてしまった。
いるよ、代わる?八尋兄は繰り返しそう言う。
受話器の向こう、丁度良く通りがかったのだろう微かに紫色の声で、誰?と問う声がした。
百々。短く答える八尋兄の声はやはり、妙に感情も温度もないのに優しい。

『もも?』

いきなり電話口から聞こえてくる声が八尋兄から紫色に代わった。
突然のことに心の準備もできてなかった俺は、びっくりしてひゅ、と息を飲む。
それが伝わったのか、ふふ、短く笑う紫色の、丸みを帯びた滑らかで甘い声。女とはまた違う妙な高さの声だ。
俺は思わず受話器から少し耳を離し、受話器を持ってる手とは逆の手で耳たぶを擦った。

『どうした?俺の声が聴きたくなった?』

至極嬉しげに。楽しげに笑う紫色は、俺をからかえると知ってご機嫌なようだ。

「ふざけんな。誰が」

『またまた~、照れることないのに。俺は百々の声が聴けて嬉しいよ』

「気持ち悪いこと言うな」

ぐ、と顔をしかめて言い放つが、紫色はこの程度じゃ全然堪えないことくらい知っている。
案の定、くすくすと妙な高さを伴った甘い声で笑った。

奴は口から先に生まれたに違いない。軽口へらず口は紫色の十八番だ。
青白い肌と華奢な身体つきも、女顔も奇麗っちゃあ奇麗な紫色はその気になればモテる。
だけどこういった甘ったるい言葉を紫色は女に投げかけず、俺を含め兄弟たちにばかり言う。
俺はブラコンだから。が奴の口癖だ。
俺はそれをあんまり信用していない。信憑性がなさ過ぎるのだ。

『百々。眉間に皺寄ってる』

紫色は見てもいないくせにそう断言する。
そして悔しいことにまさにその通りだった俺は、見えてないのに適当なこと言うな。と少し乱暴に怒鳴って慌てて皺を伸ばした。

『分かるよ。だって百々のことだもの。一緒に育ってきた仲じゃない』

「はぁ?お前いっつもひとりであっちふらふらこっちふらふらして、ろくったいなかったくせに何言ってるんだよ」

これ以上あれこれ紫色と話しても意味がない。思うのと、それこそ口にはできないが声を聞いただけでなんとなく満足した俺は、紫色がふと黙ったそれを電話を切るタイミングにしようとし、じゃあ。と言いかけた。
が、紫色の、俺の言いかけたのとは違うニュアンスを含んだ、じゃあ。の言葉に遮られる。

『じゃあ今からそっち行くから待っててくれる?』

「はぁ?」

『百々の好きな駅前の店のレモンパイ買ってってあげるから、機嫌直してくれる?』

「いや別に俺は、」

機嫌が悪かったわけじゃない。言いかけた俺をまた遮って、

『一緒に食べてくれる?』

畳み掛けるようにして言う。
だから人の話聞けよ。俺は別に、と続けようとしても無駄だ。
紫色は受話器から顔を離し、八尋兄に「ちょっと今から分家行ってくるけど、八尋兄さんもくる?」とか言い出した。ちょっと待て。
八尋兄ののんびりと間延びした声が、じゃあレモンパイホールでふたつくらい買って行かなくちゃね。と、珍しく少し楽しげな感情を含んで受話器の向こう側から聞こえてきた。

「ちょ、ちょっと待てって。俺は別に、」

『じゃあ待っててね。八尋兄さんと俺の分のコーヒー、淹れておいて』

紫色はやっぱり俺の言葉なんてちっとも耳にかけず勝手にそう言って、電話を切った。
ツー、ツー、ツー、
俺は回線が切れた音をたっぷり両手の指分聞いてから、受話器を置いた。
溜め息。

羽流兄と真墨兄のいるリビングに戻ると、話を中断してまでふたりしてこちらを見やった。
どこか見透かしたようなニヤニヤしたふたつの笑顔に俺は憮然とした顔で、八尋兄と紫色、これからレモンパイ2ホール買って来るって。と報告した。

「そう。じゃあコーヒーたっぷり淹れなくちゃね。ちょうどふたりが着く頃がオヤツの時間だ」

「ガキ共呼んでくるか」

羽流兄と真墨兄はなんだか凄く楽しそうに笑い合い、それぞれ俺の肩を叩いたり頭を撫でたり。
なんか面白くない。俺は唇を尖らせるけれど、それでもついまた背中を丸めて撫でてもらいやすくしてしまった。

真墨と紫色

なんでこうなるんだ。

俺はほぼ毎朝の習慣となってしまった仕事をこなしながら、その有無を言わせぬ理不尽具合に深々と溜め息をついた。
すると、俺の前にある椅子に座り、床に届かない両足をぶらつかせながら手鏡なんて可愛らしいものを手にご機嫌になっていた本家分家紅一点の莉世が、「マスミ、溜め息なんてついたら幸せが逃げちゃうよ」と無邪気に笑った。

「溜め息くらいつきたくもなるだろ。なんで莉世まで俺に髪いじらせるんだよ。こっち来る前に家で百々にでもしてもらえばいいだろ」

「だってー、マスミの方が綺麗に結ってくれるんだもの」

手鏡越しに俺を見やり、にっこりと微笑んで見せる。
そうすることで俺がそれ以上反論ができなくなることを、もしかしてこの子は知っていてやっているのではないか、と俺は時々疑う。

俺は最近伸ばし始めた莉世の繊細で柔らかい薄青がかった黒髪をつげの櫛(最近奮発していいのを買った。プラスティックのだと子供たちの髪が痛むこと発覚)でそっとふたつに分け、耳の真上でツインテールにすべく丁寧に梳かしながら持ち上げた。

「このくらいの高さでいいか?」

「うん!可愛くしてね!」

「…それ、さっき伊果にも言われた…」

だからってなんでこうなるんだ。
俺の頭はまだ寝起きのままだというのに。

そう。俺はついさっき、自分の部屋で寝ていたところを五つ子どもに叩き起こされ、怒鳴る間もなくねだられるがまま髪を結ってやったのだ。
伊瑠の方はまだましだ。まずまず素直な髪質をしているから、伸びた前髪が目に入らないよう頭のてっぺんでちょんまげにでもしてやればいい。
以前戯れでやったら本人的にお気に召してしまったらしく、よくその髪型を要求される。
問題は伊果だ。
もうこれ以上ないくらいのくりんくりん。結構天然パーマのきつい八尋兄よりもっときついこしのある癖っ毛の持ち主であり、本人もそれをコンプレックスにしているもんだから、セットが大変なのだ。何気に注文も多い。なかなか満足してくれない。
ヘアアイロンでも買ってくるかな…と思わなくもないが、まだ子供である伊果の髪にあんな熱毎日当てたら痛んでしまいそうで怖い。
ていうかそこまで俺の個人的なお小遣いを弟たちに割くのもなんだか腑に落ちないし。

そういうわけで、俺はドライヤーの温風と冷風、自分のヘアワックス等を駆使してやっと伊果を黙らせた。
くりんくりんはどうしてもストレートになんてならないから、とりあえず大体抑えて可愛い可愛いと褒めて無理やり納得させた、という方が正しいかもしれないけれど。

それから他の3人もどうにか黙らせ、さぁやっと顔洗って自分の髪のセットだ。朝飯が食える。と思った矢先、羽流の馬鹿が朝っぱらから百々と莉世たちを連れて前触れなしに突撃してきやがった。
珍しいこともあるもんだ、なんて言ってる場合じゃない。
イヅたちのセットが終わった直後。まだ椅子に最後の伊音が座っていて、俺はヘアゴムだ櫛だドライヤーだを片付ける前だ。
当然、おませな莉世が「わたしもやって!」と喜ぶのなんて目に見えてる。
伊音が椅子から飛び降りると同時に莉世が目の前に座り、伊果の(なんだかメルヘンチックなデザインの)手鏡を借りたかと思えば、「ツインテール!」と一声ご注文。
目覚めてからまだ水以外何も口にしていない俺のために、慈悲なのか八尋兄さんがコーヒーを淹れてくれたけれど、ゆっくり楽しむ暇もなく、ちょっと啜っただけで作業再開だ。
なんでこうなる。

「悪い、真墨兄。俺じゃ納得してくれないんだ。どうしても一部が歪んじまってさ」

苦く笑う百々が、八尋兄さんからもらったのだろうコーヒーカップを片手にそばの椅子に背を抱くようにして座った。
それをじろりと横目に睨む。

「この不器用」

「真墨兄が器用過ぎんだよ」

「慣れだよ、こういうのは。昔紫色の髪も俺が結ってやってたからな」

紫色。その名を出すと、百々は目を丸くして顔を上げ、へぇ、と気の抜けた声を上げた。
今の紫色からは、俺に大人しく髪を結われている姿が想像できないのだろう。

「あいつも伊瑠と同じでさ、前髪伸ばしたがってたんだよ。でも目に入るだろ。だから、ある程度伸びるまでは髪を結うのを条件に伸ばすの許したんだよ。妙に見た目に拘るガキだったから大変でさ。…ていうかお前、ブラシでやってるだろ。子供の髪の毛は細くて柔らかいから櫛でやれ。お前もつげの櫛買え。椿油も買え」

「…勉強になります」

紫色が髪型にかなりの拘りを持っているのを知っている百々は、その戦いの壮絶さを想像したのか口端を歪め、少しおどけて頭を下げてきた。
じゃあこれからはお前がやれ、と最後通告をすればそれはそれ。ようやくツインテールの片一方ができあがった莉世から、「担当の美容師を指名するのはわたしよ!」と至極楽しげな駄目押し。

だからなんでこうなるんだっつの。

それからなんとかもう片方も結い上げ、動くたびふよんふよんと揺れるツインテールが満足げに俺の頬にお礼のキスをした(シスコンの百々の顔が見事に引きつった。ざまあ見ろ)のは、俺が叩き起こされて2時間近く経ってからだった。

確かに莉世のキスは嬉しいけど、なんだか割に合わない気がする。
ご苦労様。と薄く微笑む八尋兄さんからトーストとサラダを受け取りながら、後からお礼がまだだったと気づいた五つ子どもからの入れ替わり立ち代り両頬への同時キスもついでと受け取る。
子供といえど野郎からキスを貰ってもあまり嬉しくない。
ありがとうの一言、もしくは自分でセットできるようになれば俺はそれだけで満足だから。せめて叩き起こさないでくれ。俺に穏やかな朝の目覚めをくれ。
さすがに成長してきたやんちゃな五つ子の同時ジャンプ&ダイブを睡眠時に的確に受け止めきれるほど俺は頑丈でもないのだ。正直潰れる。
そういうのは百々にやれ。と言いたいが、百々も大概同じような目にあってるだろうからあえて口にはしないでおくことにした。


朝食を摂ってから洗面所に行くと、先客がいた。
少し薄暗い洗面所では、薄青い存在はどうも溶け込むからびっくりする。

「…紫色。今起きたのか?」

驚いたのを気取られないように慎重に声をかけると、なにやら髪のセット途中なのか、前髪を手で抑えたまま紫色が薄っぺらい身体を捻ってこちらを振り返る。
女みたいな顔つき(莉世と同じ人種だからだろうか。妙にませた色気があるのが困りもの)で流し目とかやめてもらいたい。わざとやってるわけでもなさそうだけど。

「おはよ」

「おう、おはよう。随分ゆっくりした朝だな。羨ましいこった」

「あぁ、五つ子に叩き起こされたんでしょ?部屋隣だから聞こえてた。俺はその後もう一回寝たけど」

「いい身分だなこの野郎」

「だって昨日夜更かししちゃったんだもの。…なに、またイヅたちの髪のセット?美容師さんは大変だねぇ」

紫色はくすくすと吐息を鼻にかけるような独特の笑い方で笑い、改めて鏡に向き合うが、どうも自分の思うようにセットができないらしい。ち、と小さく舌打ちが聞こえた。

大概、子供の頃は誰でも(伊果みたいな例外もいるが)細くて柔らかい髪質だけれど、大人になるにつれある程度はしっかりしてくるものだ。
だけど紫色は違うらしい。いつまで経っても細くて柔らかく、なのに妙に直毛だ。見ているだけでも扱いにくそうだと思う。

俺は急かす理由もないから、壁に背を預け、内心必死なのだろう、涼しいポーカーフェイスで髪のセットに挑む紫色の背中をぼんやり眺めた。
ってことはあれか、同じ人種の莉世も成長してもあの髪質のままなのかもしれないってことか。厄介だな。なんてどうでもいいことを考えていると、ふと、鏡越しにこちらを見る紫色と目が合った。

「…なに?邪魔?って、気が散るか。どっか行ってようか。それとも俺がやってやろうか?」

俺は他意もなくそう言った。
叩き起こされて五つ子の髪をいじった上に莉世までやったのだ。朝食は終わってるし、もうこうなったらもう一人くらいなんてことない。
それに、先刻百々に昔紫色が子供だった頃髪のセットをしてやっていた話をしていたから、感覚が麻痺していたのかもしれない。

紫色は俺の提案に、勢いよくこちらを振り返った。
薄青がかった不思議な色の直毛が、紫色の動きから少し遅れてさらさらと流れ、大きく見開いた釣り目気味の両目の真上に落ちていく。
まさかそんなに驚かれるとも思っていなかった俺は、紫色の反応に逆に驚き息を呑む。

そうだ、紫色は全部自分でやらないと気が済まない奴だった。
周囲は諦めの溜め息をつくしかないくらい頑固で神経質なのだ。完璧主義なのかもしれない。
ある程度成長してからこっち、紫色は大概自分でこなした。特に髪型なんて紫色にしか分からない拘りだらけだ。今更俺に頭を預けるわけもないか。

冗談だよ、と笑ってやろうと息を吸った俺は、だけど迷うように目を泳がせ、頼める?とおずおず。ものすごく小さな声で呟いた紫色の言葉に、また出しかけた息を呑んだ。

…あれ。なんでこうなるんだ?


紫色はこれで結構寂しがりの甘えん坊だと俺は思う。
どうも頑固でひとりが好きだから放っておいてくれとは言うものの、全く相手にされないならされないでつまらなさそうだし、こうして俺が何年ぶりかに髪をいじっても借りてきた猫のように大人しいし、櫛通りのいい髪を梳かしている間、気持ちよさそうに目を細めている。
それでもやはり他の兄弟たちに見られるのは嫌らしく、先刻片付けたヘアセット一式と共に紫色の私室でひっそり美容師業再開となった。
否、美容師になんてなった覚えはないけれど。

「完全に俺に任せたらどうなるか知らないぞ?」

「いいよ、今日は真墨兄さんに任せる。格好良くして」

「…難しい注文だな」

「喧嘩売ってるなら買うよ。俺だって時々は」

「冗談だよ」

ふふ、紫色は椅子に座って俺に背を向けたまま、実に楽しげに笑った。ご機嫌なようだ。
いくらか成長したとは言え、肉づきの薄い華奢な紫色の背後に立つこの視界も、その繊細な髪の感触も昔とあまり変わっていないことも手伝って、俺はなんだか懐かしい気持ちになった。

とりあえず邪魔そうな長く伸びた前髪を斜めに分け、一部をヘアピンで留めてみる。残りは耳に引っ掛けるが、妙に直毛な紫色の髪はすぐにさらさらと落ちてきてしまった。ワックスをつけてもあまり変わらない。
仕方なくヘアピンで留めた部分以外の前髪と頭頂部辺りの髪をごそっと後頭部まで持ってきて、シンプルなヘアゴムで結ってやった。

剥き出しになった紫色の血色の悪い薄い頬は、斜め後ろから見ると釣り目もあいまってちょっとした美人だと思う。
男に美人っておかしいかもしれないが、紫色は格好いいというより、やっぱり美人という言葉の方がしっくりくる。黙っていれば。の話だけれど。

「ほい、綺麗になった。たまにはこういうさっぱりしたのもいいだろ」

鏡を渡すと、角度を変えてあちこちチェックした後、満足げに喉を鳴らす。その密やかな笑みを聞いて、俺はほっとする。せっかくセットしたそれが乱れない程度に頭をぽんぽんと撫でてやった。
怒るかな、と一瞬思ったけれど、紫色はすぅと目を閉じ、大人しくしている。
それを見て、あぁ甘えるの下手になったな。それが大人になるということかもしれないけれど。と少し寂しさを覚え、こっそり苦く笑った。

紫色の今日の髪型は、思いのほか他の兄弟たちに好評だった。
綺麗な顔してるんだからどんどん出したらいいのよ。というのはおませな莉世の言葉だ。
大概顔を褒められることに慣れてしまっている紫色だったけれど、今日はなんだか嬉しげに照れたりするものだから、俺はまた時々こっそり紫色の髪のセットもしてやるか。とちょっと思う。
兄弟専属の美容師も悪くはない。これで毎朝穏やかな目覚めが手に入れば尚いいんだけれど。

手始めに、俺のそばでうとうとしている羽流の長ったらしい前髪を伊瑠と同じちょんまげにしてやり、その簡素な労働の賃金として、弟たちと妹のけたたましい笑い声を手に入れた。

羽流と百々

僕はよく眠る。
生まれたての赤子のそれとはさすがに並べられないが、でもまだ昼寝を要する園児よりもしかしたら寝ているかもしれない。
睡魔が訪れるタイミングはあまりに不意打ち。そして一度眠りにつくとなかなか起きられない。
自覚はあるが、どうも睡魔という甘い誘惑には弱い性質。

分家の長男である僕にはひとつの家を守らなければならない役目というものがあるのだけれど、僕のすぐ下の弟である百々は見た目に似合わず子煩悩で世話焼きだし、何より僕の幼馴染というか兄弟というか、本家の次男である真墨(百々にも負けぬ世話焼きのしっかり者。赤ん坊の頃から僕より真墨が百々の世話をしてきたから似たのかもしれない)がきちんと周囲に目を配ってくれるから安心だ。
一応いつでもどこにでも駆けつけられるように家の中心であり、移動しやすい廊下の壁にもたれて座っていたけれど、結局座るとほぼ同時にまた襲ってくる睡魔に負けてうとうとまどろんだ。
あぁ、これでは広い家を所狭しと走り回る子供たちの邪魔になってしまう。僕は投げ出しかけた両足を引き寄せ、縮こまって眠る。

僕は知らない間に本家分家の子供たちの中で一番でかく成長してしまった。
本家の長男である八尋さんは、子供の頃僕にとって見上げるほど大きく、揺るぎない存在に思えていたけれど、いつの間にか彼すら追い抜いた。
なんだかそのことが僕にとって酷くぎこちなく不自然なことのような気がして、僕はいつもできるだけ身体を小さく折りたたむ。
成長があまりに急激過ぎて、未だに自分で自分の大きさに慣れないのだ。

元々運動の類が好きなわけじゃないから筋肉はそんなについてはくれず、ひょろひょろ薄っぺらな身体になってしまったけれど、基本座りっぱなしの僕が立ち上がるたび、小柄なことをコンプレックスに思っているのだろう真墨なんかは「圧迫感が増すから座ってろ!」と複雑そうな顔をして怒鳴る。
とは言え、真墨は元々素直ではない性質で、大して怒っていなくとも荒い言葉使いで怒鳴るようにして言う(特に照れている時などはますます荒くなる)ので、僕も他の者も彼のそんな乱雑さなど気にしていない。
真墨は本当は細やかな気配りのできる優しい人だと皆知っているのだ。
それを証拠に、あぁごめん。と僕が座りなおすと、いや別に謝る必要は…、と目を泳がせて困り果てるのだから可愛いものだ。

きゃらきゃらと小さな鈴がぶつかり合うような笑い声が、廊下でうとうとする僕の右側から左側へと走り抜けて行く。
きゃらきゃら、きゃらきゃら、音が目に見えるとしたらきっと、小さな弟や妹たちの声は弾けるような、だけどどこか淡く優しい光を周囲全体に放っているのだろうと思う。夏の日の線香花火みたいに。
くるくると色を変え形を変える発光体。

とたとた、まだ少し危なっかしい足音が、ひとつ。ふと僕の前で止まった。

「…ハル、寝てるの?」

たどたどしい声は、幼い妹のものだ。
ハル、彼女が僕を呼ぶ時の声は、大概にして眠っている僕を起こすか起こすまいか悩むように小さく、幼いながら優しい気遣いを含んで僕に届く。
僕は彼女にそう呼びかけられるのが好きで、ぼんやり意識があってもわざと眠ったふりを続けてみたりする。

「ハル、こんなところで寝たら風邪ひくよ?」

返事を返さないままでいると、彼女の小さなもみじの手が、恐る恐る僕の髪に触れてくるのを知っているからだ。
白く、丸みを帯びた短い指はいつも内側から無限大に発生する溢れんばかりの生命力に満ち、針なんかで刺したら途端に弾けてしまいそうだと思う。
そんなことにならないよう、僕ら彼女の兄たちは、彼女を大切に大切にする。生きていることの尊さをその存在だけで証明しているかのような彼女を。女の子という、僕らとは違うきらめきを持ってうまれた彼女を。

さらり、僕の伸ばしっぱなしの髪を撫でる妹が愛しい。

「ハルはベッドの方があたたかいのに、廊下も好きなのね?髪も伸ばしっぱなしで邪魔じゃないのかしら?」

まるで童謡でも歌っているかのように微妙な節をつけて妹が独り言を呟く。
ふふ、僕はくすぐったさに笑い出しそうになるのを必死で堪え、彼女が好意半分、悪戯半分で僕の前髪を持ち上げ、ゴムか何かで結び始めるのを好きにさせた。

目を開けなくても分かる。
多分、彼女お気に入りのふわふわしたピンク色のボンボンがふたつついたヘアゴムを使って、たどたどしい手つきでちょんまげでも作ろうとしているのだろう。
彼女はいくつかそういった女の子らしいアイテムを持っているけれど、中でもそのボンボンはお気に入りだ。
そんな大事なもので悪戯してくれちゃうんだ。
生憎僕は嬉しいばかり。

まだ不器用な指が時々僕の髪を強くゴムに巻き込みちょっと痛いけれど、なんとか納得できるかたちになったらしい。
間近で僕の顔をまじまじ見つめる妹の、ふぅ、と小さくも満足げな溜め息が聞こえた。
次いで、廊下の向こうから子供たちとは違う足音が近づいてくる。

「莉世、何してんだ?イヅたちと遊んでたんじゃなかったのか。羽流兄は悪戯しても堪えないから意味ないぞ」

「モモ!悪戯じゃないよ、ほら可愛いでしょう?ハルは可愛いんだから、顔出した方がぜったいにいいと思わない?」

おませなことを言いながら自慢げに妹が笑うのを、この家の次男であり僕の弟、莉世の兄の百々は、しー、と人差し指を唇に当てているだろう声で受け止めたのが分かった。
百々だって僕が一度眠ったらこの程度の音じゃ起きないと知っているはずなのに、それでもこうして気遣ってくれている、その気持ちが優しいと思う。
多分、秘密の悪戯を共有する、共犯者のわくわくも込みなのだろうけれど。

壁にもたれて居眠りしたふりの僕の前に、僕のすぐ下の一人目の弟と妹が自然集う。
気づかれぬよう慎重に薄目を開けると、僕の前に膝をついた百々が莉世を抱きかかえ、上手にむすんだなー、と困ったような、でも楽しそうな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
百々の腕の中から莉世が手を伸ばす。
僕の頭のボンボンの具合でも見るのかと思いきや、その内側にまだミルクの気配を抱いた指は僕の頭を優しく撫でた。

「いい子、いい子」

まるで宥めるようにして。その心地よさに甘んじながら、これが母性か。僕は少し驚く。
以前、幼馴染の小袖が、女の子は生まれながらに母になることができるのよ。と言っていたのを思い出した。
あの時はさすがに僕らも年上過ぎるし、無茶だろう。と思っていたけれど、本当なのかもしれない。
僕の頭を愛しげに撫でる指は確かに、いつの間にか僕よりすっかり大人になった小袖と同質のものだ。
僕らとは違う、女、という生き物の繊細で優しい指。
誰より大きくなった僕を撫でてくれるのは、もはや小袖とこの子しかいない。
まだこんなに幼いのに。僕は妙に感動しながら、胸の奥がくすぐったくてむずむずするけど、その指に眠ったふりをすることで甘えることにした。

「ほら、モモも。いい子いい子して」

「…俺に羽流兄を撫でろって?」

「そうよ、ほら早く」

いきなりの思いつきで強請られ、心底困り果てたような百々の低い声が引きつるように半笑う。
だけど即座に促され、彼女の母性にあてられたのか、単に誰より莉世に甘い百々の弱味なのか、散々躊躇した後、おそるおそる僕の頭に手を伸ばしてきた。
触れるか触れないか、撫でられるこちらがもどかしく思うほど遠慮がちにゆるゆると撫で、これでいいだろ、と言わんばかりにすぐに離れていく。
その戸惑いを隠しもしない不器用な手を、僕は何故か無性に惜しいと思った。
だって小袖とも莉世とも違う、すっかり大きくなった僕の弟の手はそれでも、身震いしてしまいそうなくらい嬉しかったんだ。

「…撫でるならもっとちゃんと撫でてよ、百々」

思わず小さく噴き出す。
瞬間、ひゅ、と息を飲んだ百々が、腕の中に莉世を抱きかかえたまま背後に飛びのいた。
勢いづき過ぎて廊下の反対側の壁にどんっと音を立てて背中からぶつかる。

「お、おおおお起きてんならそう言えよ!心臓に悪いだろ!」

その腕に莉世をぎゅうぎゅう抱きしめたまま顔を真っ赤にして怒鳴る百々に、莉世は弾けるように大きな声でケラケラと笑った。
嬉しくて楽しくて堪らない感情を満面の笑顔で現しながら、やっと普通に目を開けた僕の眼前ではしゃいでいる。
僕は小さく折りたたんでいた身体を抱きしめ、膝頭に額を押し付けて笑った。

僕の身体は大きくなりすぎた。知らない間に、眠っている間に、誰より大きくなった。
僕はそれをもてあます。もてあまして、できるだけ自分の記憶に近いサイズに戻ろうと身体を縮めてみたりする。
だけど僕がどんなに小さくなろうとしても、肉付きが薄くてがりがりだけど、骨格だけはしっかりしてるから無駄だ。
同じ人種の本家の長男、八尋さんも似たような体格をしているから、この人種の身体的特徴なのかもしれない。
でも、それでも撫でてくれる。いつの間にか僕より小さくなった小袖も、もっともっと小さな莉世も。そして百々だってほんのちょっとだけど撫でてくれた。
僕は胸の奥がうずうずむずむずくすぐったくて仕方なくて、涙が出るほど笑った。

「…撫でてよ、百々」

強請ると、百々は複雑げに眉間に皺を寄せ、だけど仕方ねぇなぁとかぶつぶつ言いながら、莉世が一生懸命結んだボンボンを避けるようにして少し乱暴に僕の頭をかき混ぜた。
伸ばしっぱなしの髪の内側に差し込まれた指はたくましく骨ばっていたけれど、でも十二分なほど僕に優しかった。

真墨と八尋

俺が手繰れる一番古い記憶は、多分3、4歳くらいの頃のものだ。
八尋兄さんは奇跡的にも赤子の頃の記憶の断片があるらしいが、俺には全くない。
八尋兄さんの一番古い記憶がどんなものかは知らないけれど、俺の一番古い記憶には、その頃お気に入りだった玩具やお菓子より何より尚濃く、八尋兄さんがいる。

俺は幼心に何故か彼が怖かった。
怖かった、というより、分からなかった、という方が正しいのかもしれない。

八尋兄さんは何があっても平常心を保ち、いつもふんわりとした緩い微笑みを称えている人だし、淡いクリーム色の柔らかなカールが印象的な髪も、色素の薄い瞳も、骨格はそれなりにしっかりしているはずなのに肉付きの薄い身体も、威圧感の欠片もなく、むしろどこか儚げで優しいイメージがある。
彼が大笑いをしたり声を荒げて怒ったり、それどころか驚く、悲しむ喜ぶ等の感情の大きな波を表に出したところなんて見たことがない。

多分、彼の微笑みは俺にとっての無表情に近いものだのだろう。
特に笑おうとして笑っているのではなくて、多分彼の顔のつくりそのものがそういった形をしているのだと思う。

何故か妙に八尋兄さんや羽流のことがお気に入りの莉世なんか、八尋兄さんのことを西洋画の天使のようだと時々言うが、俺もそれには賛成だ。
決して大げさではない。

彼は大人になってもどこか現実離れしているというか、妙に神秘的な何かを持っているのだ。
八尋兄さんの恋人である小結さんは、一体どんな理由でそうなったのだろうか。そもそも、小結さんにしか知りえない八尋兄さんの顔とはどんなものなのだろうか。
無理だろうけど、ちょっと見てみたい。

とにかく、幼子だった俺にとって、八尋兄さんは今よりもっと不可解で不思議な存在だった。
その対象のことが分からなければ分からないほど、好奇心の塊である子供にとって印象深くなる。

お陰で一番古い記憶にあるのも、八尋兄さんのみ。
俺は八尋兄さんの膝の上に座って、絵本を読んで貰っていた。
その絵本の内容は覚えていない。
ただ、八尋兄さんのどこか線の細い、だけどふくふくとあたたかい膝の上はとても安心できたのだけは覚えている。

最初俺は八尋兄さんの膝に触れることすら躊躇した。
幼心に、血も繋がっていない、不思議な存在である兄にどう接して良いのか分からなかったのだ。

兄というもの。家族というものがどんなものなのかいまいち分かっていなかった。
…まぁ、それを言ってしまうと正直今でもよくは分かっていないけれど。

だけど八尋兄さんはゆるゆると微笑んで俺を呼んだ。

「真墨、おいで。子供の内は子供のふりをしていていいんだよ」

その言葉を聞いて、俺は心底驚いた。
子供のうちは、子供の、…ふりをしていていい?
それは一体どういうことだろうと疑問に思う。だけど、八尋兄さんはそんな俺の頭上に増産されるクウェスチョン・マークにすら微笑みかけるようにして、小さく首を傾げる。

「真墨、好きな絵本を持っておいで。一緒に読もう」

読んであげるから。ではなく、一緒に。そう言ってもらえた俺は何故か無性に嬉しくなって、おずおずとその時お気に入りだった何かの絵本を差し出す。
それを受け取る八尋兄さんの、骨の浮いた細く、ごつごつとしているのに白く儚い指先。
おいで。と再度呼ばれ、絵本を掴む手とは逆の手が、俺の肩をやんわり撫でた。
その手には全然力が篭っていないのに、有無を言わさぬ目に見えない力で俺を膝の上に導いた。

肉の薄い八尋兄さんの膝。長い両腕の間にすっぽりと収められた自分の小さな身体。目の前に広がる柔らかなパステルカラーの絵本の世界。耳元で囁くようにして絵本を読み上げる八尋兄さんの、低く、ほんの少し掠れた甘い声。
俺はすっかり彼が纏う非現実的な雰囲気に呑まれ、夢中になった。そしていつしかあまりの心地よさに何度もうとうとした。
八尋兄さんはまどろみからずれ落ちそうになる俺の頭を肩に乗せなおし、俺が完全に寝入ってしまうまでずっと俺を膝に抱いたまま絵本を繰り返し、繰り返し読み聞かせてくれた。


今ではもう絵本を読み聞かせてもらうどころか彼の膝になんて絶対に座れないけれど、でも、コンプレックスになるほどあんまり身長の伸びなかった俺は多分、今でも彼の両腕に包まれてしまうのだろうと思う。
否、彼の懐にはもう入ってなどいけないけれど。絶対に。

彼は俺にとって、今も昔も不思議な人なのだ。
分からない、ということは恐怖も呼ぶ。恐怖というより、畏怖に似ているかもしれない。
血の繋がりがないのが信じられないほど幼馴染の羽流は八尋兄さんにそっくりに育ったけれど、見た目じゃないんだ、きっと。
彼を包むオーラが、近づくたび俺の子供の頃の記憶に引きずり戻す。



「…羽流は本当によく寝る子だね」

本家に弟たちを連れて遊びに来ていた羽流が廊下でまた寝ているのを見つけた八尋兄さんは、呆れるでも哂うでもなく、ただ静かに微笑み見下ろす。
羽流は本家分家の子供たちの中で何故か一番身長がひょろひょろ伸びた体躯を折りたたむようにして眠る癖がある。
どこでもすぐ眠るのだ。

「寝る子は育つって言うけど、羽流の野郎これ以上育つ気かよ」

その隣、俺は自分にない長い手足を折り曲げ眠る羽流の裸足のつま先を軽くつつく。
熟睡した羽流はこの程度じゃ絶対に起きないことを知っているからだ。

以前、ドア付近で眠っていた羽流に、幼い弟たちが乱暴に開けた扉がすごい音を立ててぶつかったことがある。
あんまりにもすごい音だったからさすがに怪我をしたのでは、と心配するこちらを他所に、羽流は「…いたー…」とぽつり零しただけですぐまた眠ってしまった。
ぶつけた足には擦り傷と大きな痣ができていたのにも拘らず、だ。
寝汚いにもほどがある。

そのことを知っている八尋兄さんは、当然睡眠の邪魔をしてはいけないなどと俺に注意もしない。
ふ、と穏やかな溜め息をつき、幼い弟たちにするように俺の頭をそっと撫でてきた。

「夢を見るのが好きなのかな?ベッドとは違う夢が見られるのかもしれない」

「夢…ねぇ?」

「真墨も夢を見るといいよ。なんなら、また一緒に絵本でも読む?」

「…俺はもう子供じゃねぇし」

なんだか照れくさくて、八尋兄さんの手を頭からそっと外す。
邪険に振り払うなんて絶対にできない。
八尋兄さんは外された手をしばらくぼんやり眺めていたけれど、不意に俺を見やり微笑みを深めた。

「大人だって時々は子供のふりをしていいんだよ」

おいで。八尋兄さんの声が耳元で低く、どこまでも優しく、まるで使い古しても捨てられないお気に入りのタオルケットのような心地よさで俺を呼んだ。
八尋兄さんは俺にとって、天使というより悪魔に近いのかもしれない、と時々俺は思う。
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