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血迷うにもほどがあるだろうに。

「君がそう言うならそれでいいと思うよ」

僕は誰より何より無気力にそう呟いた後、だけど君はそれを信じられないくらいポジティブにしか受け止めず、自分の都合のいいように僕もろとも持っていくことに我に返った。
僕はどうも忘れっぽいからいけない。
こんな投げやりな言い方、嫌味とか拒絶とか、そういった方に君は絶対に受け止めてなんてくれないんだ。
まして、こんなやり方でしか甘えられない僕のことなんて、君からしたら本当にどうでもよく興味なんか湧きもしないことを、僕はいつだってうっかり忘れてしまう。
忘れるのはほんの一瞬のことなのに、その一瞬の後我に返るともう遅い。

他の人が相手だとこうはならない。
君以外の人間に、僕がこんな風な言い方をしたら、大体の相手は僕を根暗だとか陰湿だとかやる気がないだとか判断して捨て置いてくれたりする。
もしくは、まるで父親かとつっこみたくなるくらいの大きな心で受け止め、僕を諭したり導いたりしようとしたりする。…あの人のように。

僕はつい先刻の自分の過ちが成した結果(君がやはり自分の都合のいいように受け止めご機嫌になって僕の手を掴んでいる痛い現実)を尻目に、今ここにいないあの人の横顔を思い出した。

優しい優しい、馬鹿な人だった。
僕はもしかしたら、あの人が好きだったのかもしれない。
あの人を子供じみた感情で独り占めしたかったのかもしれない。
優しい優しい、馬鹿なあの人を。
僕だけが。

「いい、って言ったよね?」

耳元、思ったよりずっと至近距離で君が嬉しそうに、楽しそうに笑った。
僕はそのことに気付いた途端ものすごく驚いて、咄嗟に「うん?」とぼそぼそ問い返したけれど、君はその僕の返事の語尾にある疑問形を無視して許可を得たとますます喜んだ。
僕は内心舌打ちをする。
君に対しては、日本人らしくあってはならない。イエスか、ノーしか通用しないことをまた僕は一瞬忘れてしまったのだ。
君だって日本人なはずなのに、どうしてこう噛み合わないのだろう。どうしてこう僕ばかりが歯噛みすることになるのだろう。どうして僕はこんなところで君と対峙しているのだろう。どうして僕の腕は君に掴まれているのだろう。どうして掴まれた腕がこんなに痛いのだろう。
どうしてどうして。

どうして今ここに、あの人がいないのだろう。

「…あぁ、」

僕はまた大切なことを一瞬忘れてしまっていたようだ。
そのことに気付き嘆く僕の内心なんて全く気付かない君が、また。自分にとって都合のいい方に受け取って嬉しげに笑みを浮かべた。
掴まれた腕はいつの間にか投げ出され、僕はそのことに少しほっとしたと同時に、もうどうでもいいや。と目を閉じた。

だってここにあの人はいない。
それだけは確かなのだから。
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鮮やかなモノクロゥム

“…嗚呼、まただ。また失敗だ。…これは、駄目だ”

いつの間にか耳慣れた声が聞こえた。
またか。ついそう返事をしそうになって、その声はいつだって俺に向いて発せられたものではないことを思い出して、黙った。

聞こえるだけでも良しとしようと思った。
この耳がまだ機能しているということは。…もしかしたら、鼓膜が振動をキャッチし脳に伝達したのではなく、意識の内側に響いているだけ。下手をすれば単に俺の妄想なのかもしれないけれど、もしそうだとしても。
そうだとしても、少なくとも「俺」という意識がまだ、生きているということだ。
独白のようなそれは、決して俺のものではない。
俺以外の誰かのものだ。

そうか。俺はまだ生きているのか。

気づくと、ほっとすると同時に苦笑も付随する。
がっかりなんてしない。俺は別にあのまま死にたかったわけじゃないし、むしろまだ死ねないと思っていた。
とはいえ、死にたくないわけでもない。俺は別にこのまま生き永らえたいわけでもない。永遠に生きたいなどと夢にも思わない。
人はいつか死ぬ。俺にとってのその「いつか」は、今でも別にかまわなかった。死ねないと思いながらも、本当はそこまで俺に何か確固たるものがあったわけでもないのだ。
俺は何もない他人を見下しながら、同じくすっからかんな自分を自分から覆い隠し、何か持っているかのように振る舞い自分も周囲も騙して生きてきた。
それだけ。それだけだ。
だけど、この声が聞こえたということは、また生きるしかないということだと知っている。
知らないはずなのに、知っている。
知って、いる。

生きる。
生きてやる。

カラカラと。触れたことも実際見たこともないような古いタイプの映写機のフィルムを巻き戻すような、空回るような。でも確実に引き返すような音と、モノクロの世界が逆再生される。
カラカラ。カラカラ。

早い。と思う。
こんなにあっさり。こんなにも簡単に。
ゆっくりゆっくり。丁寧に。懸命に。映写機のハンドルを回してきた肉刺だらけ傷だらけの手と手が、馬鹿みたいなくらいあっけなく。
限界まで伸ばして、必死に噛みあわせた指と指、重ねた手のひらが、その順番を正しく真逆になぞるように。巻き戻されあっけなく離れていく。

“もう一度だ”

聞こえた声はやはり、耳慣れてしまった声。
否、全く知らない声。知っているけれど、「知らないはず」の声。
飽きないな、お前も。いい加減にしないか。ついそう怒鳴りそうになって、やはり黙った。

言ってもせん無いことなのだ。どうなるわけでもない。
聞こえるだけ良しとしておかないと、もし声を出そうとして、…出なかったら。俺の声帯なんてもう機能してなかったらと思うと怖かったのもあるけれど。

嗚呼もうこんなにもあっという間に。
俺たちが血反吐吐きながら這い蹲ってでも折り重ねた、目に痛いほど鮮やかだったはずの全てが、…霧散していくなんて。

これから先、望みどおりの未来を手に入れても手に入れられなくても、またこうして声が聞こえるだろう。
そのたび俺は、生きるしかないんだと。やるしかないんだと歯を食いしばって、口の中に溜まった憎らしい血液の味を唾液ごと喉の奥に押し込むしかない。
何故この味ばかりなかったことになってくれないのかと悔やみながら。

そう。俺は、他の何が消えても、他の何を失っても、この血の味だけは忘れないのだ。

リセットボタンなんて本当はない。
完全に全てを元通りに戻せるわけがない。
人はそんなに簡単なものではない。
そう信じたくもなるんだ。俺だって。

何度繰り返そうとも同じ結果になる。と言っているわけじゃない。
一度目と二度目、二度目と三度目、全て違う結果になってきた。
最終的にあの声が聞こえる瞬間までに、俺は一体どれだけのパターンを見てきたか忘れてしまったけれど、そのたび引き換えした場所でまた君と出会い、君と生き、違う君と違う俺になった。
そうやって生きた。
生きるしかないと歯噛みしてでも諦めないのは、それでも君と出会うことだけは確定要素なのだと思い知ったからだ。

「昨日」しかない俺には、「今日」も「明日」も遠すぎる。
それでも「昨日」から「今日」も「明日」も探そうと足掻く。
俺はきっと、分不相応なほど欲張りなのだと苦笑いも滲むけれど、

君もまた、生きるなら。
君とまた、生きられるなら。

“嗚呼、…もう、”

何度も何度も巻き戻し再生を繰り返す、終わりなきこの輪の中から、いつか脱却するその時まで。

否。

脱却が叶った先で、君とまた生きるために。

意趣返し

ざぁざぁと。後を引くような音を立てて窓の外を流れ落ちる雨粒をぼんやり見つめていたら、なんだか急に懐かしい思い出が蘇ってきたから、僕はそのまま玄関先に誰かが忘れていった安っぽいビニル傘を引っ掴んで外へ出た。
どこ行くの。という問いかけが僕の背中をちょんちょんと叩いたような気がしたけれど、僕は完全に懐かしい思い出で頭がいっぱいだったから。一度立ち止まって振り返って答えてたら、なんだかこの衝動も思い出も有耶無耶になってしまいそうだったから、ちょっと。とだけ辛うじて言葉にして出てしまった。

日ごろはこの家を指して、なんか、どこか嘘っぽいと思っていたけれど、とりあえず嘘でもなんでも雨粒から僕を守ってだけはいてくれたようだ。
外へ出た途端、窓の内側から眺め予想していたのよりずっと強い雨脚が、すぐに僕の膝下全部をぐっしょり濡らした。
使い古したスニーカーだってすぐぐずぐずになってしまう。あぁもう駄目かもなー。買い替え時かなー。金ないんだけどなー。なんて、どこか他人事のように思う。

だけど僕はなんだか浮き足立っていた。
頭の中が思い出でいっぱいで、他に何も考えられなかったのだ。
あめあめふれふれ、なんて懐かしい歌が口をついて出る。小さく小さく。
ばしゃり。わざと水溜りを踏んづけた。ますます楽しくなって、僕はつい口端を持ち上げ、半透明のビニル越しにどんより重たい灰色をした空を見上げた。

行き先なんて本当は、分かってなんかいなかった。
だけど家でじっと待つなんてできないと思った。
だって子供の頃、今みたいな天気予報を無視した急な雨の夕方に、傘を差して迎えに来てもらうのが嬉しかったのを思い出してしまったからだ。
傘がなくて途方に暮れる友人たちが、困った顔で立ち往生していたり、思い切って飛び出し走り去っていく様を、僕は持ってきてもらった傘の下、ほんの少しだけ胸の奥に蟠る罪悪感と一緒に並んで立つ。
だけどその罪悪感に戸惑う僕の手を握ってくれるあたたかい手のひらに、僕は思い直して帰路につくのだ。

歩き慣れた帰り道。
だけど、誰かと一緒に家路につく。同じ家に帰る。たったそれだけで全然違う視界のようにも思えた。
僕は何よりそのことが嬉しかったのだ。
しあわせというものを、きちんと認識なんてできなくたって。どんなに幼い子供だったって。ただ感じ、それだけにしておけることがまさに「しあわせ」だったのだ。

だから迎えに行こうと思った。
どこにいるかなんて知らない。もしかしたらどこかのコンビニで適当にビニル傘とか買って帰ってきているかもしれない。行き違いになったかもしれない。それか、カフェとか入って優雅に雨宿りしてるかもしれない。
僕の迎えなんて全く必要ないかもしれない。望まれてなんていないかもしれない。むしろ迷惑かもしれない。ていうか、そもそも想像だにしていないだろう。
だけど迎えに行こうと思った。
思ったからには、そうするしかない。だからする。
むしろ迎えに来た僕を見て驚く顔が目に浮かぶ。ますます僕は浮き足立った。

僕は土砂降りの街を歩き回った。
すぐにぐっしょり濡れた膝下も、べしゃべしゃのスニーカーも気にならなくなって、深々と傘の中に頭を隠して背を丸め、歩く人たちの合間をすり抜け歩く。
さりげなくすれ違う人たちの顔を確認してみたり、カフェの中を覗いてみたりしながら歩く。歩く。歩いて歩いて。

むかえにきたよ。の言葉を。
昔、もらってとても嬉しかった幸福の言葉を、今度はひとり土砂降りの街に取り残されているだろう彼にあげるため。

「……なにしてる」

低い、ものすごく不機嫌そうな。だけど本当はただびっくりしてるだけだと分かる、彼の声が僕の肩先辺りに触れ、僕は中途半端に立ち止まったままの体勢で瞬きした。
傘を差しているはずなのに、ちょっと風があるからか内側まで細かな雨が入って、僕の睫の先が湿って重たくなっていた。頬も冷たい。でもぐしょぐしょの爪先が一番冷たいとやっと気づく。

寒い。とか。おなか減った。とか。そういうのって、寂しい。に似ていると僕は時々。本当に時々思う。

「迎えに来た」

僕は思い出の中から差し出された声より、ちょっとぶっきらぼうにそう言った。
だけどその言葉を口にした途端、なんだか胸っていうか腹の奥深くから急に湧き上がってきた訳の分からない感情に押し潰されそうになって、深く息を吐くついでに笑った。

「お前を迎えに来たんだよ」

僕は、今度は笑いながらもう一度言う。
そうすることで、この土砂降りの中、彼がどこにいるかも分からないのに勢いで家を出て、自分までびしょびしょになりながら彼を探したんだと。迎えに来たんだ、と実感した。
そう、僕は彼を迎えに来た。彼と一緒に帰るために。あの嘘っぽい家に一緒に。

帰ろう。と僕が言う前に、彼は僕を心底見下すようにして、馬鹿じゃないのか。と言った。
僕はそれを聞いて、いつもなら「なんだとー!」くらい思うはずなのに、なんだかほっとした。見つけた、と思ったからだ。

見つけた。見つけられた。彼を見つけることができた。
なんの目印もヒントもなしに、それでも僕は散々歩き回ってびしょびしょになって、それでも彼を見つけることができた。
コンビニのビニル傘も持っていない、カフェでお茶してるわけでもない、少し濡れたコートを着た雨宿り中の彼を見つけられた。
さほど途方に暮れているわけでもなさそうに。だけどほんの少し困っていただろう様子の彼を。

僕が差し出したもう一本のビニル傘を、彼は屋根の下から手だけ出して掴んだ。
冷え切った白いごつごつとした指が、先刻まで僕が握り締めていた簡素な傘の柄を握る。
僕も自分の傘から少し手を出したから、僕の手の上にも彼の手の上にも、はたはた、と雨粒が落ちた。
だけど彼はそんなこと全く気にしないみたいに、傘を僕の手からひったくるようにして身に引き寄せると、ばさりと音を立てて傘を広げた。
僕のと同じ、なんの変哲もない半透明のビニル傘。

僕はその様子を立ち止まった体勢のまま眺めながら、彼が僕にありがとうなんて言わないのを知っていながら、ありがとうなんて言わないでと心の中で祈った。
僕の思い出の中、僕はありがとうなんて言わなかった。迎えに来てもらってとても嬉しかったけれど、照れくさくてありがとうなんて言えなかった。
僕を迎えに来てくれた人だって、僕にありがとうを言えと強要もしなかったし、それが当然みたいに振舞っていた。それがしあわせだった。…多分。それも。
だから、

「帰ろう」

僕は、彼が何か言い出す前に、少し急いでまた言った。
彼は少し目を細めて僕を不審そうに睨んだ後、小さく頷いて僕の隣に来た。
僕より少しだけ背の高い彼を横目に見て、僕はふと我に返って湿った瞬きをした。
僕らの帰るあの家を、僕らの住むあの家を、僕はなんで嘘っぽいと思ったのか分かった気がしたのだ。

あの家には、「ほんとう」なんてひとつもない。色々なものの寄せ集め。
だけどそのことで不具合が出てくるほど歪でもなく、だけど一般的な価値観に溶け込むほど自然でもない。
「しあわせ」はそこここにいくつもいくつも、数え切れないくらい転がっているはずなのに、どこにも「ほんとう」は見つけられない。
ぽい、じゃなくて、本当の嘘。

きゅ、と胸の奥が小さな音を立てたような気がしたけれど、ざぁざぁと降り続ける雨音に簡単に紛れて有耶無耶になってしまったから、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。
だってそれでもなんだか、僕はしあわせだったのだ。

僕の頭の中にある脳みその皴のひとつひとつ。その隙間をすり抜けるようにして通っていくいつものあの音も、今は僕にも、彼にも、届かないといい。
今くらい、雨音だけを頼りに、家路についたって。そこら辺に転がっているはずのしあわせっぽいものをひとつ拾ってみるふりをしたっていいじゃないか。
いいって言って。言わせてて。

気づいたら、彼を見つける直前まで僕の頭の中をいっぱいにしていた懐かしい思い出が、土砂降りの雨に洗い流されてどこかへ行ってしまっていた。

目を閉じておけば

先の先を見通せるような力は元々ない。
それでも経験だとか知識だとか、そういったものと、人並みな視力とが予想という形で擬似的な未来を見てしまうから。
だから竦むんだと君は目を閉じた。

見えなければいい。知らなければいい。分からないままならいいのに。
そうしたら、きっと俺はこんな風に竦みあがってしまったりしないのに。
お前を目の前にして、怖気づいたりしないのに。

俺の目には今、擬似的な未来が見える。
お前に向かって伸ばした両手はまるで縋るよう。
そんな俺の胸のど真ん中、お前の両手は俺を押し返すんだ。
俺の手は行き場なんてない。お前以外のどこにもない。だけど届かない。
決定的に届いていない。
…竦むだろう?

君は自嘲するようにして吐き捨てた。

どうしてそんなことを言うのだろう。
どうしてそんな風にしか思えないのだろう。
確かに僕だって、未来は光にのみ照らされ、薔薇色に輝いているなんてあまりに幸福すぎるほどの楽観主義ではいられない。
だけど何もそこまで。そんなに。

…そう。君はそうやって心情を吐露することで。
他の誰でもなく、僕にそうやって懺悔することで。
そうやってそうやって、僕を拒絶するんだ。

縋るように両手を伸ばすのは君じゃない。
胸の中心を押し返す手のひらは、僕のじゃない。
竦むのは君じゃない!

「アンタは馬鹿だ」

僕は恨むような気持ちで君を睨む。
だけど君は、お前にそれを言われたらおしまいだな。とまた自嘲するように呟いて、うっすら瞼を持ち上げた。
だけどすぐにまた目を閉じてしまう。
寸分の隙もなく、ぴったりと。

臆病者は夢を見ない。
目を開けて見る夢にも、目を閉じて見る夢にも見ない。
だとすれば、君は一体どうやって。僕は一体どうして生きていけばいいのさ。

目を閉じておけば。目を閉じてしまえば。
君はそう言うけれど、

「無駄だと思うよ」

僕はできるだけ君を真似るようにして冷たく吐き捨てた。
そうだな、と普段では考えられないくらい素直に君は、僕の意見を受け入れ笑った。
苦く苦く。ひたすら苦く。まるで泣いてるみたいに。

境界線

僕と君の間には、いつだってどうしたって越えられない境界線がある。
そんなこと、人として生まれ出でた瞬間から嫌というほど分かっていた。
この世に生まれる直前まで僕らは母体の中で母体と直結して生き、生まれた瞬間、母体と個体に別れてしまう。
晴れて個体となった僕らは、自分が生まれると同時に生じる他者との境界線を日々思い知りながら成長していくのだ。

境界線の最果てを探して生きるのだ。
果てなんてないのだけれど。

境界が生じることが全て悪いわけではない。
生まれた瞬間、個体となり他者と切り離されることに対して、不安と同時に喜びだって知った。
自我を持てるということ。他者と自分という立場で誰かに触れ合ったり関わり合ったりできるようになれたこと。
そうすることで、生きていけること。

だけど。
だけど、ねぇ、こんなにも思い知るなんて。
まだこの自覚を上回る知覚があるなんて。
僕は想像だにしたことなんてなかったよ。

こんな日なんて来なけりゃ良かったと心底歯がゆく思った。
だけど、それと同時に僕は、この日をこんなにも待ち侘びていたことを知った。

肉体という境界線があるお陰で僕は今、君の頬に手のひらを触れさせ、その温度差を知ることができる。
だけど、肉体という境界線があるせいで僕らは今、互いの内心を知ることもできず、互いに正しく知らせることもできずに途方に暮れる。

あぁ、どこまで行けば。どうすれば。
僕と君の間の境界線が、…完全になくなる場所なんてないけれど、それでも少しでも。ほんの少しでも薄れる瞬間までたどり着けるのだろう。

僕は、この両足で立つ。
君もまた、その両足で。

互いの正面に立ちながら、そしてこうして手のひらと頬とを触れ合わせることを望みながら、受け入れながら。
目と目を合わせる勇気もなくて、途方に暮れる。

「…分からないことが多すぎるんだ」

「そのことをお前が恐れるのか。らしくないな」

ふん、微かに鼻で笑う君が、僕の目線より僅か上で両目を細めた。
そうすることで、この至近距離でも僕と完全に目を合わせる危険を冒すことなく、僕を見やることができると知っているからだ。
臆病なのは僕より君だと僕は言いそうになって、…言ったところで何も変わらないと口を噤む。

「分からないことがあれば無理やりにでも。例えそれが知る必要のないものでも、知ることで自分の立ち位置を危うくするものでも知ろうとするのがお前じゃないのか」

だから今お前は俺の目の前にいるんじゃないのか。

君は今の僕にとって。このように途方に暮れるまでになってしまった僕にとって最も残酷な言葉を吐いて小さく笑った。
違う。なんて否定の言葉は、口にしたところで意味なんて成さない。
ここまで僕と君との間にある境界線を思い知った僕らには、もうどんな言葉だって無意味なんだ、きっと。

それでも。

「それでも僕は、僕として生まれ、生き、今ここでこうして君の目の前に立っていることを後悔したりなんかしない」

「……それでいいんじゃないのか。それがどれほどくだらなく、愚かな判断だったとしてもな」

お前がそれでいいのなら。
君は無感動を装って何もかもを僕に投げて寄越す。
ずる賢くて、臆病で、誰より優しい君はそうやって、僕から逃げる。僕を逃がす。
僕らの間に恐ろしいほど確実に存在する境界線を、僕と君とに思い知らせる。

あぁ、いつだってどうしたって。
僕がどれほど最果てを探しても、君が全てから目を逸らす。
そうすることで、僕を最果てから遠のかせ、君もまた思い知るのだ。
果てなんてないのだと。
だからこそ僕らはこうして、何度でも何度でも向かい合い続けるのだと。

綻び

あの人が持てる全てを賭けて殴りつけた頑強な鎖は、それでもその直後には綻びどころか傷ひとつつかなかったように見えた。
張り詰めたまま微動だにしない鎖は、擦れ合って音を立てる余裕もない。
全てはギリギリ。
これ以上もこれ以下もありえない。

だけど君は、あの人が全てを投げ打ってまで殴りつけ、そのことでその繊細で穏やかな手を修復不可能なまでに追いやったその行為の結果を見逃さなかった。

俺の目になど決して見ることができないほどの小さな小さな綻びの真上。あの人の全ての結果のど真ん中。
君は、自信に満ちた最上の笑顔で飛び乗り、踏み砕いたのだ。

嘘だ。

俺は驚きを通り越して呆れ返って呟いた。嘘だ。そんなわけない。そんな無茶苦茶な。
鎖と共に砕け散った緊張。その分だと言わんばかりに一気に襲ってきた脱力感に呆然としたまま、俺はそのようなことを繰り返し呟いた。
だけど一番最初。もうどんなきっかけだったかも忘れたくらい前、ピンピンに張られた時点で決して壊れることなどないと。永遠にこのまま微動だにせずあり続けそうだった鎖が、大きな破裂音を立てて千切れた瞬間を目にしてしまった以上、信じないわけにはいかない。
自分のこの両目でしかと千切れる瞬間を見たのだ。そして破片が地に落ちるのを見届け、今も尚、落ちきった残骸がそこにある。
それに、嘘であって欲しいなどと思ったわけでもない。むしろこの結果を心底望んでいた。
だけどそれはあまりに奇跡的としか言いようがなかった。絶対に無理だと信じ切っていた。それは確信に近かった。それほどまでに絶対的だった。だから嘘みたいだったんだ。
嘘みたいだったんだ!

「…は、ははは。お前、…本当に」

俺は自分の顔が変な笑いに引きつるのを抑える余裕もなくして笑った。
可笑しくて笑うというより、驚きすぎて。呆れすぎて笑うしかなかったのだ。

「本当にやっちまいやがった………。お前、…本当に馬鹿だな」

馬鹿すぎる。
俺は何度もそう繰り返し首を振った。
脳内に蟠るもったりとした疲労の塊を振り払おうとしたのだ。
だけど全然無駄だった。

「イェーイ」

無邪気に歯を剥き出して、ピースサインをこちらに向ける君の足元。
あの人が自分の人生も、運命も、思い出も、命すら投げ打って殴りつけた頑強な鎖の破片たちが散らばる。
君の使い古したスニーカーの真下に、今も。

「その意味、わかってんのか…」

未だ抜け切れない脱力感と疲労に辟易した俺に、君はそれでも満面の笑顔を崩さず頷く。
そして一度自分の足元散らばった鈍く光る破片たちを見やった後、すぅと顎を上げ俺を見る。
真っ直ぐ、見る。
自信と希望に満ち溢れた奇麗な瞳で、見る。

「行こうぜ」

声は凛と響き、俺は未だ振り払えないもったりした重りそのまま頷くしかなかった。
でも惰性とかじゃない。俺の意思だ。紛れもなく、本物の。

「…分かってる」

俺は君にも聞こえないよう小さな声でぽつりと零す。分かってる。
ちゃんと、分かっているから。
こうなったら行くしかないのだと。多分、この鎖が張られた瞬間からずっと。

「…行こうか」

「行こうぜ」

君は鎖の向こう側を真っ直ぐ指差し、俺はその破片の真上を越える。
かしゃり、ブーツの真下で破片と破片が音を立て、俺はなんとなくあの人の、真っ赤に腫れ上がった痛々しい拳を想って瞬きひとつ。
ここにはいないあの人に、またな。と言葉を落として。

鎖と共に綻んだ胸の奥を、同じように君に踏み砕かれる瞬間を知った。

手を掴むまでの長い諮詢

これ以上ないくらいめまぐるしく溢れるありとあらゆる出来事に思考が着いていけずに混乱し、無様に尻餅をついてへたり込んだ俺の眼前、差し伸べられた手を掴むには、多大なる勇気と名目が必要だと思った。
その差し伸べられた手が武者震いか凍えか小刻みに痙攣しているのが見て取れたなら余計に。

今現在、俺の目に映って見えるものだけが全てではない。
この目では見透かせなかったり、見えてるはずなのに見つけられない真実だって沢山あることくらい、俺にだって分かっている。
だけどそれでも、

「…信じたいものがあるんだ」

俺は目の前、差し出されたまま俺に握られることなく、それでも何かに(僅かな可能性に?)縋るように存在し続ける手のひらを見つめながら、心の奥底から真剣に言った。
そのことで、俺がその手を握ることはないと。
少なくとも今、その手を取ることはできないと。その手に正しく意思表示できただろうか。
きちんと伝わっただろうか。

俺は、目の前に差し出されたままだった手が、様々なものを諦めて引っ込められる瞬間なんて見たくもないから俯いた。
俺が見ていない間にならその手だって引っ込めやすいだろうしと。
一呼吸、深さを意識してから顔をあげようとしたら、同じタイミングで深呼吸の気配が頭上からした。

「…俺にも、信じたいものがある」

降り落ちたその声が思ったよりもっとずっと力強く凛として聞こえたから、俺は驚いて顔をあげる。
そこには、もうとっくに諦めがついただろうと思っていた手のひらがまだそこにあった。
何かに縋るように見えていた小刻みな痙攣は、高揚や怯えからくるものではないことだけは分かった。
寒いのか、と聞きそうになって、それは愚問だと気づいて慌てて飲み込む。
迷っているのではないのか、と聞きそうになって、それもまた愚問なのだと唇を噛んだ。
それは、愚問というよりも、自問なのかもしれないと、

「…馬鹿言え」

一瞬踏み入れそうになった思考を即座に言葉で叩きのめす。
裾を掴んで引き止める余裕も、声を出して呼び止める余裕もなかったから、乱暴に地に殴り伏せるしかなかったのだ。
焦燥に駆られ考えるより先にそうした俺の矮小な横暴さに、彼は多分気づいていない。
彼は多分、俺がどれほど内心彼に揺さぶられているか知らないのだ。
彼はただ、俺が口走った言葉としかめた顔色だけを素直に受け取り、苦く。どこまでも苦く苦く顔を歪めた。
今にも泣き出しそうに。
その顔を見て俺は舌打ちをする。

なんてことだ。俺はこうして何度も何度も何度も、

…何度も?




----


「…で、お前は結局また、その手を掴み損ねたというわけか」

目の前、全てを見透かすように。かつ、見飽きたかのように辟易とした溜め息をつく相手を睨み付ける。
なんでこいつは全て知っているような顔ができる。いつでもそうだ。
知ったような口を利くなと毒づいても、そいつの顔色は変わらない。
それもまたいつものことなのだけれど。
またとはなんだ、また、とは。こんな事態に陥ったのはあの時が最初で最後だ。苛々とテーブルを爪先で叩く俺の眼前、そいつはすぅと目を細め、なるほどな。と呟いた。

「何が『なるほど』なんだ」

「分かったんだ。次は、迷わずその手を掴め」

「次?次などともうない」

「あるさ。…否、ない方がいいのだろうか。…でも多分、ある」

そいつはまるで、あの時。
俺に手を差し伸べ引っ込めようとしなかった彼を俺の記憶から透かし見るようにして。彼と同じ苦い、苦い苦い苦い、微かな笑みを浮かべた。
今にも泣き出しそうな、だけど決して俺の前でなんて泣かないだろうそいつの両目の奥。小さな火花のようにちかちかと瞬いた景色は、未来か。過去か。
それとも、「今」とは違う現在か。

…あぁ。
俺は、こうして何度も何度も何度も何度も。

「…信じたいものが、…あるんだ」

苦々しく口にした俺に、そいつまでもが。

「俺にも信じたいものがある」

これ以上ないくらい脳裏反芻し続けたせいで聞き飽きてしまった言葉を吐いた。

無限回廊の真っ只中で

すぅわり、風が吹いた。
それは突風というよりそよ風に近い、だけど奇妙な緊張感を孕んだ空気の流れだった。

忘れてないよ。
ちゃんと覚えているから。

そう口にしそうになって、誰に対してそんな言葉を口走ろうとしたのか自分でも分からず驚き、立ち止まって振り返ってしまった。
そこには先刻すれ違った見知らぬ男。
彼もまた、僕らの間に吹いた奇妙なそよ風に戸惑ったのか、立ち止まり、肩越しこちらを振り返っていた。
けれどすぐに視線を元に戻し歩いて行ってしまう。
…気のせいだろうか。
僕も思い直して歩き出す。

何を覚えているというのだ。
何を忘れていないのだ。
誰にそれを伝えようとしたのだ、僕は。

今。

すぅわり、風が吹いた。
それは突風というよりそよ風に近い、だけど奇妙な懐かしさを孕んだ空気の流れだった。

やっとまた会えたね。
良かった、とても会いたかった。

そう口にしそうになって、誰に対してそんな言葉を口走ろうとしたのかやっぱり自分でも分からず戸惑い、また立ち止まって振り返る。
そこには先刻僕と一瞬だけ見詰め合った見知らぬ男。
彼もまた、僕らの間に気まぐれに吹き抜ける奇妙なそよ風に僅かに眉間に皴を寄せ不思議がる様子。
けれど先刻よりほんの少し長く見詰め合った後、また背を向け行ってしまった。
…気のせい、なのだろうか。
僕は首を傾げ傾げ歩き出す。

また、とはどういうことだ。
何故そんなことを思うのか。
誰にそんなに会いたがっていたのだ、僕は。

今。

すぅわり、一陣の風が吹く。
初めて見る情景、初めて体験する状況、初めて知る世界が、酷く懐かしいのは何故だ。
何故こんなにも全てがいとおしいのだ。
なのに何故こんなにも悲しいのだ。虚しいのだ。悔しいのだ。
恋しいのだ。
何故。

誰。あなたは誰だ。
何故僕は会ったこともない、頼りなく揺らめく曖昧な影を知っているのだ。その手のぬくもりや、纏う気配や、瞳の虹彩や、匂いを知っているのだ。

その影が誰なのか分からないのに、僕はただ無性に。無性に。
抑えきれず、会いたかった、と小さく呟いてしまった。

double suicide 2

お前は本当に余計なことばかりをする。
いちいち首を突っ込んで、不必要な荷物を請け負って、知らなくてもいいことまで知って、そのたび何度も傷ついて。
前ばっかり見て、人の心配ばっかりして。たまには自分の足元も確認しないと転ぶだろうに。
怪我をすればお前だって痛いだろうに。
馬鹿だ。これ以上ないくらい、今まで見てきた中で一番の愚か者だ。

どこにも行けずに立ち尽くす俺はそれでも、平気なふりして自分を棚に上げ、心の奥底から散々彼を罵る。
彼は俺の罵声にこれまたいちいち反応を示し、毎度全力で歯向かってくるからますますいけない。

「アンタには分からないんだよ」

「あぁ、分かりたくもないね。くだらない」

心底呆れ返って肩を竦めた俺に、彼は不意ににたりと笑った。
憎たらしいほど楽しげな、満ち足りた笑顔でもって、まるで俺の全部を見透かすように両目を細めて笑った。
その勝気な笑顔がゆっくりと瞬きを繰り返すのを、俺はただ呆然と見つめるしかできなかった。
だって、俺がいるのは未だ「過去」だ。
俺は俺の意思とは全く関係のない周囲の働きかけによって頓挫してしまった「過去」に縛られ、どこにも行けない。
一緒には、行けない。
お前と共に「現在」を走れない。
まして「未来」などと。
俺には途方もなく遠すぎて、透かし見ることすらできやしない。

ただ傍にあり続ければいつか分かり合えるなんて奇麗事過ぎて笑える。
俺がお前をそこから連れ出してやるだとか、大口叩くのもいい加減にしろ。現実を直視しろ。世界を知れ。
口ではそう言いつつどこかで俺は、もうこれ以上何も知らず何も見ずそのままでいてくれたらと思ってしまったりもするのだ。
自分では気づいていないのか。それほどまでにお前はすでにズタボロなんだよ。
それはもう、無残なほどに。笑いながら立っているのが不思議なくらいに。
有無を言わせず周囲全てを巻き込みながら、気が遠くなるほど連綿と続くこの頑強な鎖を引き千切るに、お前の手はあまりに繊細過ぎた。
まして、俺の自ら汚したずたずたの手でなんて不可能だ。
そしてそれを俺は、もう嫌というほど知っていた。
それだけだ。

「無理なんだよ」

ぽつり、零した俺に、彼はやはりにたりと笑う。
信じろよ。なんてあまりにあんまりな言葉を俺に紡いで見せる。
なんてひどい。あまりにむごい。
俺は衝動のまま彼の頬を両手のひらで捕まえた。
力の加減もできず掴んだ頬に指が食い込む。指の隙間、彼の柔らかな色をした髪がさわりと歪んだ。
痛いだろうに、彼は抗わず不思議そうにこちらを見つめてくる。
間近にきた彼の両目はいつだってどこまでも透き通った秋の空の色をしているから、結局目をそらし逃れてしまうのは俺の方だ。

じん、と眼球の奥が痺れるように熱を持った。
慌てて歯を食いしばる。

今。俺が、行くな。と言ったところで多分、彼は行く。
今。俺が、行かないでくれ。と言ったところで変わらないだろう。

ならせめて、最後の悪足掻きをしようじゃないか。

それでも死ぬ時は一緒だなんて言えない俺は、本願をオブラートにくるんで彼に渡す。
眼前、彼の大きく見開かれた両目はやはり、どこまでも透き通って俺の顔をまじまじと映すから。俺の、無表情を無理やり貼り付けた苦しげな顔を正しく映してしまったりするから。
俺はそれ以上の言葉を続けることもできずに歯を食いしばり、きつく目を閉じて彼の額に額を押し付けることしかできなかった。
額と額に挟まれた互いの髪がしゃらしゃらと音を立てて擦れる。
じんわりと滲むような体温と、彼の匂い。
息を呑むような、だけど次の瞬間、ふわり、緊張が解け消えていく彼の気配。

うわ、やばい泣きそう。
なんで今なんだちくしょう。なんでこんな間際に。

口惜しさと悔しさで息ができない。
ぎりりときつく奥歯を噛み合わせ、掴んだ頬をそっと。できるだけそっと離した。
言葉にできない感情が渦を巻いて胸の奥深くから溢れ、それを零してしまわぬよう唇ときっちりと閉じる。出口をなくした濁流は激しく蠢き、そのせいで熱を持って頭蓋骨の中を暴れ狂った。

「…もういいから。行けよ」

なんとか押さえ込みやっとそう言えたのは、もう彼が俺の前から走り出した後だった。
多分、届いていないだろう。

お前は本当に余計なことばかりをする。
そのせいで俺まで余計なことをしてしまったじゃないか。慈悲とか同情とか、そんなものとは程遠い、だけど自分でも何なのかよく分からない感情そのままに、本願を。オブラートに包んで。
どちらにせよ結果は変わらないというのに。
信じろよ。だなんて馬鹿馬鹿しい。
今更だろうに。

俺は先刻彼の小指に絡ませた感触残る己の小指を一瞥した後、改めて無表情を顔面に貼り付け空を仰ぐ。
そこにはもう、とっくに秋を通り冬を越え、春を目前にした鮮やかな色が広がっていた。
だから、せめてさよならは言わずにおいた。

double suicide

僕は落ち着きなく走り続ける足を急激に止め、勢いそのまま背後を振り返った。
無意識急き過ぎていたらしい。あの場所に立ち尽くす君の横顔が思ったよりずっと遠くにあることにひやりとする。

君の元から僕が駆け出したのは一体どのくらい前だっただろうか。
ものの10秒でこんなに酷く距離が開いてしまうことなんてあるのだろうか。
それとも、もう1分は経っている?
もしかして一時間経っていてまだここなのだろうか。
僕は時間が流れていく感覚すら麻痺して小さく震えた。
いきなり走ることをやめた両足の筋肉はまだ走り続けているみたいに緊張しっぱなしで、気を抜いたらまた前へ駆け出してしまいそうだ。

いつの間にか小さくなってしまった君の無表情に空を見上げる横顔は、一体どのくらい前まで僕の隣にあったのだろう。
踵を返してどのくらい走れば、僕らは元の距離に戻れるのだろうか。
ものの10秒でいとも簡単に埋められてしまうのだろうか。
それとも、1分は要するのだろうか。
もしかして1時間かけてもまだ到達できないのだろうか。
僕は君との距離感を測ることもできずに途方に暮れる。

気を抜けばまた走り出しそうになる両足の筋肉を抑えつけながら、僕は君と交わしたたったひとつの約束を想った。
その約束が無事昇華される日は来るのだろうか。
その約束が無残に引き裂かれる日は来るのだろうか。

「…ね、聞こえる?」

僕は無理やり止めていた呼吸を再開させた途端噎せそうになるのを必死で耐え、そのせいで発した自分でも驚くほど、思ったよりずっと切実な声色で君を呼んだ。
だけど君は相変わらず無表情のまま空を見るともなしに見上げるだけで、こちらを横目にも見ようともしなかった。
その見慣れすぎた横顔が、あまりに小さく遠くあることに僕は改めてショックを受け、これほど離れてしまえば僕の声なんて君にちっとも届かないのだと思い知った。

僕らの間に時間が経てば、距離が開く。
僕らの間の距離が開けば、時間はずれる。

「いつか、なんて当てもない約束、僕らはきっと守れない。だったら今がいい。今、約束果たそうよ。それができないなら、今ここで約束破ろうよ」

僕は何故か無性に泣きたくなった。
別に悲しいとか悔しいとか、まして嬉しいとか思わないのに。
ただ、この瞬間君と交わした約束を昇華させたいと思ってしまっただけだ。
ただ、それが叶わぬというならいっそ今ここで完膚なきまでに壊してしまいたいと思っただけだ。
何故か自分でもよく分からないけど、無性に焦るんだ。嫌な予感ばっかり募ってくんだ。
まるで、まるでそう、もう二度と君と会えなくなるみたいな。そんな気がして、それを打ち消そうとするたび不安が増すんだ。
悲しいとか悔しいとか、まして嬉しいとか、そういう感情全部飛び越えて無性に泣きたくなるんだ。
ついさっきまでそんなの全然思わなかったのに。

どうしてだろう。どうしてだろう。
どうして僕は今、こんなに泣きそうになっているんだろう。
どうして僕は今、こんなにも君と交わした約束に固執しているのだろう。

果たすことも破ることもできないとわかっている。
もうすでに僕と君の間にはこんなにも距離が生じ、時間がずれてしまった。
だけど、

「だけど今すぐ、……」

君はただぼぅと空を見上げ続ける。
その小さな横顔に、僕は思いの丈をぶつけることもできず、踵を返すこともできずに多分、また走り出してしまうのだろう。
僕の両足はどんなに抑えつけてもやはり前へ走り出そうとしている。

あぁ、今ならまだ叶えられるかもしれないのに。
あぁ、今ならまだ破り捨てられるかもしれないのに。なんて。
どちらにせよもう手遅れなのに性懲りもなく。

ふつり、途切れたのは、多分。
僕という存在でも、君という存在でもなく、僕と君が交わした唯一の約束事の、息吹。

「…先に、いって、…待ってるから」

僕は遂行することも破り捨てることもせずして息絶えた約束の、最期の一息を想って歯を食いしばった。
同時になんて。一緒になんて叶わないと、君は知ってて僕と約束してくれたんだね。
こうなることを知っていて、それでも僕の小指に小指を絡ませてくれたんだね。
次の瞬間、僕が走り出すしかなくなると。君はそこに立ち尽くすしかなくなると知っていて。
…知っていて。

僕は全てを承知の上で、それでも約束を口にしてくれた君のその、気持ちを。
押し付けてくれた額の確かな体温を。絡めてくれた小指の誠実さを。苦しげに歪められた真摯な瞳の色を。
全部ひっくるめて持ったまま、先にいく。



『いつか、…もしもの時がきたら、その時は一緒にいこう』


それはまるで、互いを強く想い合う恋人同士が示し合わせて共に命を絶つ、心中の約束のように。
口にするだけでも、耳にするだけでも、僕らの理性どころか意識もろとも全て乱暴に奪い去る魅惑的な言霊でした。
今まで生きてきた中で一番の、何ものにも代え難い、愛しくも短命な幸福でした。

ノン・ストップ

いつ息を吸ってるんだ、と内心どうでもいいツッコミを入れたくなるくらい、さっきから君は饒舌にあれこれ飽きもせずお喋りを続ける。
よくもまぁそんなに話すことがあるもんだ。
大概はどうでもいいことばかりなのだけれど、時々不意打ちで(俺にとって)ものすごく重要なことを、反してどうでもよさげに口にしたりするものだから、俺は右から左に適当に聞き流す、ということもできずに君の隣で深々と溜め息をつく。

君は饒舌に喋る。どうでもいいことも、(君にとって)ものすごく重要なことも全部。
思いついたものからどんどん話していくから、聞いてるこっちはいちいち丁寧に頭の中で君が喋った内容を組み立てなおして噛み砕かなければならない。
勘弁して欲しいと思う。これが結構大変なのだ。
君と対峙する折々そういうことをする癖がついてしまったせいで、いつの間にか俺は周囲の人間に「誰より君に詳しい人」に位置付けられてしまった。

俺にそんなに沢山話したって何にもなりやしないというのに。
そもそもなんで俺なんだ。
他にもっと真摯に話を聞いてくれる人間だっているだろうし、もっと的確な相槌を打ったり意見を述べてくれる人間だっているだろうに。

俺はうんざり半分、呆れ半分で君の声に耳を傾けっぱなし。
そしてそんな自分にもうんざり呆れ返る。
捨て置けばいいのに。
例え時々(俺にとって)重要なことを口にしているとしたって、(俺にとって)どうでもいいことの方が圧倒的に多いのだ。
大事なことと言ったって、多少抜かしてもまぁ大げさに言えば命に関わるわけでもない。
何を意地になってるんだか。俺も大人げないのかな。

…それにしても。俺はちらりと横目に君を見る。
君は実に楽しげに、一生懸命喋る。
君の話の区切りがいつつくか。それを見極めいい加減席を立つタイミングを探す俺の隣、君はノンストップで延々と。
話の腰を折る気力もない俺が、話の切れ目を見つけ出し席を立つのを…まるで恐れてでもいるように。

…恐れて?なんで。

「あ」

「あ?」

俺は思わず声を零した。
君は話の真っ只中。俺に話の腰を思い切りぼっきり折られたのに、怒るどころか弾かれるようにして何かを期待するような眼(キラキラうざい)で俺を真っ直ぐ射抜く。
何その若干前のめり。
俺は声を零し落としてしまったことをポーカーフェイスの内側で激しく後悔しながら、ぐぃと近づいた君と距離を取るため、顎と上体をこれでもかと引いた。
だけど君はそんな微々たる距離になんてめげない。

「あ?あ、ってなに。あ、ってなに」

そうは詰め寄られても、俺だって行き着いた思考とその衝撃の大きさについ零した自分の声のダブルパンチで相当動揺しているのだ。今君が期待しているような言葉のひとつも思い浮かばない。
ていうか一体俺にどうしろと。
どうしたら君はこちらに前のめった上体を元の位置に戻してくれるというのだ。
まずそこだろう、まず。

…殴り飛ばせばいいのか?

一瞬途方もないほど飛躍した自分の思考に自分でびっくりし、慌てて「暴力反対」などとくだらない言葉を繰り返すことでもって抑えつけながら、つい先刻行き着いてしまった考えに激しくなる一方の動悸。

「…あー……」

もう一声も零さないぞ、と決意すると同時に、決意はいとも簡単に溜め息じみた声に破られた。
なんだよその脱力溜め息。君が不満そうに唇を尖らせるけれど、俺はそれどころではない。

君が喋ることならなんでも。
君が、俺を引きとめようと必死になっているならそれで。

…とか、ありえないし。

ふつりと途切れた君の饒舌なお喋りは、その勢いだけを俺の思考にバトンタッチしてしまったかのよう。
「ノンストップ」なのは、お喋りに始まったことではなかった。
俺も、君も。

「あぁそういうこと…」

俺はへなへなとテーブルに突っ伏した。

「なんだよ、だから自分ひとりで納得するなよ」

君が不満げに、だけど前のめっていた姿勢を元に戻した気配。
俺はそれをきちんと把握している自分の神経を、今まで生きてきた中で一番疑った。

嫌いなものに会いに行こう

嫌いなものは何。と聞かれたら、僕は迷わず「夜の海」と答える。
人には様々な「嫌いなもの」があるけれど、大概この質問の答えには「人参」だの「セロリ」だの食べ物の名称が挙げられることが多い。
だけど僕は生憎食べ物で嫌いなものなんてない。何でも食べるくちなのだ。
好き嫌いはよくないよ。大きくなれないよ。子供の頃耳にタコができそうなくらい言い聞かされてきた。
僕は子供の頃から比較的素直になんでも信じてしまう方だったから、そうか、よくないんだ。大きくなれなんだ。とそのまままるっと受け入れてしまったのだ。
そのことを話すと、どこか僕を馬鹿にするように目を細めた彼が、お前本当に単純馬鹿だな。と鼻を鳴らした。
僕は足を投げ出し座った彼の隣、膝を抱え、うるさいな、と言葉だけ反抗しておいた。
なんでこんなとこでリラックスできるんだろう彼は。
百歩譲って僕が単純馬鹿だとして、彼はきっと不遜な鈍感に違いない。
僕は「そろそろ帰ろう」とか「僕もう行くね」とか切り出すタイミングを逃してしまい、抱きかかえた膝頭をそっと手のひらで払った。
別にそこまで砂で汚れているわけでもないのだけれど。

僕は食べ物を始め、人にしたって何にしたって、苦手なことはあっても嫌いになることってあまりない。
存在するものには必ず理由や意味があると思うし、良かれ悪かれ何かしら影響が起こる。埃ひとつにしたって無意味なものなんてないと思っている。
それに嫌うってこれで結構カロリーがいるのだ。同じカロリーを消費するなら、好きになった方が絶対にいい。
だけど、どうしても。夜の海だけは嫌いだ、と言い切ってしまう。
別に子供の頃溺れたとかそういうトラウマがあるわけでもない。むしろ海は夏に遊んだとか、綺麗な魚がいるとか、世界中繋がってるとか、いいイメージしかない。昼間のは。
ただ、夜のだけは駄目だ。

嫌いというより、怖いのかもしれない。
夜の海はどこまでも真っ暗で何も見えないはずなのに、ひやりと静まり返った砂浜の向こう、うねうねと強大な何かが様々なものを内部に抱いて蠢いているのだけはものすごくリアルに伝わってくる。
何も見えないのに、全てが生々しいのだ。
正体も分からないのに、何に対しても絶対的なように感じるのだ。
よせてはかえしの単調な繰り返しが沢山重なって、ありえないほどの圧倒的な厚みを持ってそこにある。
静かなはずなのに酷く騒がしい。なのに僕が無意識欲してしまう意思の欠片も聞き取れない。
うねうねうねうね。漆黒の闇が蠢く。なんだってあんなに。

聞いてるのか聞いてないのかなんて確認はしない。
いっそ僕の独り言として片付けられてもかまわないと思う。
だからこそ僕はこうして、まるで他人事みたいに自分のことを口にすることができているのだ。
相手が彼で良かったと、珍しく思って内心笑った。
膝を抱いていた手を放し、後ろについて上体を傾け空を見上げる。
曇りなのだろうか。街灯もない海岸まで来たのにあまり星が見えない。その上今夜は新月だ。月明かりもない。
正真正銘の真っ暗闇だ。
なのにどうして僕は僕の隣に座っている彼が見えるのだろう。
どうして僕は、彼が憎らしいほど僕より細長い足を海側に投げ出し、後ろ手に上体を支え睨みつけるようにしてうねる海を見ていると知っているのだろう。

僕は彼と同じポーズを取り続けるのもなんだ、と身体を起こした。
手のひらに外気と変わらぬ温度を保ち続ける砂が沢山ついてきたから、軽く叩き合わせて払い落とす。
ぱらぱらと小さな音が落ちていくのは分かるけれど、そんなの目の前蠢く波音の前では些細で微弱なものだ。目でそれを確認することもできない。

「怖いのは、見透かせないから、目で知覚することができないからだ。人間はそんなに視力がいいわけでもないのに視覚に頼り過ぎている」

不意に彼が口を開いた。
その言葉は低く重く、単調さを重ね合わせることで分厚く続く潮騒の音の中で妙に浮いて僕の耳に届いた。
なのに僕は、彼の声は気を抜いたらすぐに海の中に紛れてしまいそうだと思う。思ったことに気づいた刹那、あぁ、僕はそれほどまでに彼の声ひとつにしても気配ひとつにしても、聞き逃さないよう、見逃してしまわぬよう必死になっているのだと知覚した。
そしてその事実に改めてびっくりした。

「俺が震えていた声ごと強く抱きしめてやれなかった理由と同じだ。何も分からなくて怖かったからだ。何故声を震わせるのか。そもそも何故抱きしめてやりたいと思ったのかも分からなかった」

びっくりして硬直した僕の隣、彼は先刻の僕のように淡々と他人事みたいに独白を続ける。
何のことを言っているのか分からず戸惑う僕の存在なんてちっとも見えていないかのように、彼は一息にそう言った後、ふ、と小さくため息をついた。
でも今ならなんとなく分かる。と呟いてため息をついた。
真っ暗で何も見えないのに、その存在だけはありえないほど分かる蠢く海をずっと睨みつけていた彼が、不意にこちらを向いたのが分かって、僕は彼とは逆に息を呑む。

「お前と真正面から向き合うなんてできないからだ」

僕の隣、両足を投げ出し後ろ手に上体を支えて座っていた彼が、上半身だけこちらを向けて。
何を言っているのだろう。彼は一体何を。

「…それは僕に言ってるの。僕のことなの」

僕は質問したつもりが声に感情を込めることを忘れ、棒読みな台詞でもって彼に向かい合う。
しかし彼は半身こちらを向いていたのにまた海に気を取られ、僕から顔をも背けてしまった。
そのことで、僕と彼はほんの僅かでも向かい合っていたような気がしただけで、本当は全然そんな瞬間なんてなかったのだと分かり、彼の言葉の意味を歯がゆく思う。
僕は心もとなさを埋めるため、引き寄せた膝を両腕できつく抱きしめ顔を押し付けた。

「夜の海なんて嫌いだ」

僕は呟く。
彼の返事はやっぱり、なかった。

アズライト

これほど、今すぐ顔が見たいと思ったことはない。

不意に、その覆い隠す鋼鉄の格子の向こう。影に隠れた深い藍色の両目に、僕はちゃんと僕として映っているのか心配になった。

恐る恐る手を伸ばす。
普段なら不機嫌そうな声色で僕の行動の真意を問うてくる。もしくは会話自体を面倒くさがって適当に諌め逃げる彼が、黙ったまま大人しくしてくれているのをいいことに、僕は手を伸ばす。
チリ、と硬い金属が触れ合う音がして、僕ははっとした。
今はどんなに願っても駄目なんだ。今は。
僕は彼にも見えないそのまま、内側でくしゃりと顔を歪めた。

「…どうした。大丈夫か」

そんな低い声が僕の伸ばした手の先から響いて、そのぶっきらぼうに僕を気遣う雰囲気とか、そういうの。僕は知らないから。そんな彼知らないから。
僕が顔を歪めたのなんて彼からも見えてないはずなのにと驚いて震えた。
チリリ、硬い金属が僕の動揺を音にした。

こんな時ほど、今すぐ顔が見たいと思うことなんてない。

彼は一体どんな顔をして僕を見ているのだろう。
その藍色の瞳に映る僕は、本当に正しく僕なのだろうか。
彼はちゃんと僕を、目の前にいる僕だけをきちんと認識してくれているのだろうか。
せめて今くらいは。僕だけを。

「好き」の反対は「嫌い」ではない。と誰かが言った。
「好き」の反対は「無関心」だと。
好きだと思う強い気持ちと嫌いだと思う強い気持ちは、相手に注ぐ熱量だけで見れば等しい。
愛情、憎悪。それら感情は表裏一体。紙一重。あまりに肉薄した場所にある。
どんな形であれ、対象を強く、激しく想うことと対になるのは、興味も持たずその存在を簡単に忘れてしまうことだ。
どうでもいい相手のことなんてすぐ忘れてしまうだろう?好きだとも嫌いだとも思わない。そこまで熱量を使う必要なんて見い出せない。

ならば。
ならば僕はきっと彼のことが好きなのだろうと思う。
我ながら短絡的な思考だとも思わなくもないけれど、彼のことをどうでもいいと思ったりしないし、彼の存在を忘れたことなんて、彼と出会ってから今まで一度もない。
願わくば彼にとっての僕もまた、そういう存在でいられたらと思う。
好きとか嫌いとか、そんなの考えたこともないし、今考えてもいまいちピンとこないけれど。
友達とか恋人とか家族とか仲間とか、人と人の繋がりを言い表わす言葉はそれなりに沢山あるけど、僕と彼の関係はそのどれにも属していない気がする。
どれも違う。ピンとこない。
だけど、だけど僕らは。

「…お前、今どんな顔してる」

ぽつりと彼が呟いた言葉に僕は、それは僕の台詞だと何故か地団駄を踏んで喚きそうになった。
その覆い隠す鋼鉄の格子の向こう。影に隠れた深い藍色の両目に、どうしたら僕はちゃんと僕として映っているか否かを確認して安心することができるのだろう。
その、冴え冴えと沈み込むような深い、深い藍色に。どうやったら僕は確かな僕を見つけることができるのだろう。

こんなに、こんなに今、今すぐ顔を見たいと思うことなんて、ない。

スプーン一杯分のオーバー・フロウ

じりじりと間合いを狭めていくような追い詰め方なんてまどろっこしいと言わんばかりに、君は俺があんなに必死で抑えつけ守りに徹した距離を、大きな。それはそれは大きな跳躍一回で軽々とぶち壊してしまった。
なんてことを。俺は呆然と呟き、だけど眼前得意げに笑う君に対して怒りとか悲しみとか、そういった負の感情をぶつける気にはなれなかった。
それどころか何の感慨も浮ばなかったのだ。
多分、本当に、俺はただただ驚きすぎて頭が真っ白になっていたのだと思う。
なんてことを。俺はもう一度呟いてみたけれど、結局その後の言葉何一つ思いつかずに黙り込んだ。

君は俺にとって、その存在そのものが「想定外」だ。

「ばーか」

君は悪戯が成功した子供のような、小憎たらしい、どこか無邪気な笑顔で言った。
ニィと歯を見せ、両目を細め。パンツのポケットに両手を突っ込んだまま背中を僅かに曲げ、俺を斜め下から見上げる仕草で。

あぁもう本気で絞め殺してやりたい。と俺は思った。
不意に湧き上がった衝動だ。
嬉しいなんてもってのほかだけど、別に怒ってるわけでもない。だけど行き過ぎた愛情とか憎しみとかそういった狂気がなくとも、人は突然何の前触れもなく他人に対して殺意を抱く時があるらしい。
否、その時点で何らかの狂気なのかもしれないけれど。

俺のリーチの範囲内で、君は両手をポケットに突っ込んだ無防備な姿でニヤニヤ笑う。
俺が君に対して底知れない、出どころ不明の殺意を抱いていることなんてちっとも気づかずに。
馬鹿はどっちだ。と心の中でひっそり思う。
目の前にいる人間が自分に対して激しい殺意を覚えているか否かくらい、分かってしかるべきだと思うのに。
それとも、分かっていてそうしているのだろうか。俺が殺意を完全にコントロールできるとでも思っているのだろうか。それとも殺されていいと思っているのだろうか。…馬鹿な。それは絶対にない。
君があまりに無防備だから、信じられない俺は妙に勘ぐってしまう。

君が粉々に。ぐっちゃぐちゃに。これ以上ないくらい散々壊してくれた残骸が俺たちの足元に散らばっている。
俺はその破片の徹底的なまでの細かさ、修復不可能具合をつま先で軽く踏んで確認し、なんてことを。ともう一度呟いた。
何千、何万ピースになってしまったのだろう、この破片たちは。パズルじゃないんだから。どんな強力なボンドがあったって直せない。
一度壊れたものを完全に元に戻すことなんて、時間を巻き戻さない限り絶対に無理なのだ。
そう、正しく時間を巻き戻さない限り。

そこまで考えて、俺は自分にはそんなつもりさらさらないことに気づいてまた驚いた。
俺は、もし奇跡か何かが起こせて、今すぐ君が壊す前まで時間が戻せるとしても、戻さないだろう。
戻したくないわけじゃないけれど、そこまでして元通りになりたいとも思わない。
必死で抑えつけ守りに徹してきた理由なんてなかった。理由なんていらなかったのだ。ただそうしようと思ったからそうしていただけ。守ることをやめる理由だってなかったのだから。続ける理由もまたないのと同じように。
あぁこうして俺は結局。

「…もうどうでもいいけど」

そんな無気力な言葉ひとつで君を許してしまうのだ。
怒ってたわけでもないから、許すも何もないのかもしれないけれど。

「ばーか」

俺のリーチの範囲内で、君は無防備なままもう一度笑った。
俺は底知れない、出どころ不明の、それはそれは激しい殺意衝動を抑える理由もないことを、どう君に説明したらいいのか分からずに。
君の首にどうこの指先を食い込ませるか想像して少し笑った。

君が壊した破片たちが、それぞれまたパチリパチリと爆ぜるような小さな音を立てて崩れた。
駄目押しだと思った。
一体何万、何億ピースになってしまったのだろう、この破片たちは。

手に入れるためになくしたもの

夜の雨は時々、身体の奥深く芯の辺りを水の幻で満たし、ぶわりと膨らませて筋肉から皮膚まで圧迫する。
ぶわぶわとした圧迫感は雨が止むか夜が明けるかするまで収まらず、そういう時はどうしようもなく気だるくて、食事だとか睡眠だとか以前に呼吸すら億劫になる。
壁際に押し付けたベッドの真上、背中を壁に預けて両手足を投げ出し、カーテンも閉めず、明かりもつけずに窓の外を流れ落ちる土砂降りの雨の気配ばかりを追って時間を潰すしかない。

「…早く雨、止まないかな」

ぽつり、零した独り言。
声を出すだけでも結構肺活量がいるんだなぁ。なんて、普段の自分じゃ考えられないようなことを、だけど本気で思う。

あの時。
うなだれ地面に力なく膝をついた君の透けるような白いうなじに息を呑んだ僕は、咄嗟に駆け寄ろうとつま先で地面を踏みつけた。
だけどそのまま背後に蹴り飛ばすことができなかったのは、君の元まで全力疾走できなかったのは、顔を上げるでもなく僕の存在に気づいた君が、僕に真っ直ぐ、手のひらを向けたからだ。
その手のひらは無言で僕に、来るな、と言った。
来てくれるな、と。
それは拒絶だった。紛れもなく頑なな、拒絶だった。

その指先が僕を呼んでくれるなんて思い上がっていたわけじゃない。だけど君は誰より傷つきやすく、不器用なだけで本当は優しいから、もしかしたら許してくれるんじゃないかと思っていたんだ。
僕が、君に駆け寄ることを。君のそばにいつでも存在することを。
だけどあの時の君の手のひらは、そんなのちっとも許してはくれなかった。
僕は立ち竦んだ。
その場から遠く離れることで君をひとりにしてあげることもできず、だけど声をかけるどころか拒絶を強引に無視してそばに駆け寄ってその肩を撫でてあげることもできずに、僕は立ち竦んだ。
どうしていいのか分からなかった。
どうしたらいいのか。
君に拒絶された僕は一体これから何をどうやって。

たったひとつの願い事を祈るだけで。
まだ叶っていないけど、いつか叶えたいと願う。たったそれだけで。
僕らは大事なものをふたつもなくした。

ぶわぶわとした圧迫感に疲れ切って脱力したまま放り出していた耳に、トン、トン、階段を上る足音が聞こえた。
それは歩けてるのが奇跡みたいだと思うほど今の僕よりもっと疲弊しきって、重々しく、気だるく近づいてくる。
トン、トン、…トン。
ぴたりと止まったのは、今僕がいる部屋のドアの前だ。
目の前にあるドアノブが異常に重たいものに見えているのだろう。一度触れたらそれがどんなに重労働になったとしても絶対に開けなければならない気がして、ドアを開けるという行為を開始することに躊躇しているのが見てなくても分かる。
だって今の僕にとってもそのドアノブは途方もないものだもの。
僕は何故か億劫な呼吸を抑えて息を殺し、君がドアを開けてこの部屋に入ってくるのを待った。

あの時。
一度僕を拒絶した君は、だけど次に会った時にはもう普段通り振舞っていた。
僕と目が合っても普通に、まるで何事もなかったかのように声をかけてくる。そして僕はそんな君の態度も予想していたから、普通に。普通に返事をした。普通に。
…普通に。
だけど僕はいつもみたいに上手に笑えていただろうか。
君に拒絶されるという初めての衝撃を味わう前の、何も知らない僕のまま振舞えていただろうか。
少し自信がない。
すごくすごく遠いことのように思うけれど、今日の昼間のことだ。
君はその後すぐにどこかへ出かけてしまい、今の今まで連絡も取れなかった。

手の重さだけでドアノブは簡単に動く。力なんて込めなくていい。
さぁ開けて。僕にその姿を見せて。
夜の雨にずぶ濡れにされ凍え重たくなった身体と、全くの素である疲れ切った青白い顔を見せて。
拒絶しないで僕を。
いらないなんて。
来るななんて言わないで僕に。
欲しがってくれなんて言わないからせめて、僕を許して。

「ひとつ願っただけで、ふたつも消えた。不毛だよね。願っただけなのに」

僕は小さく、だけどドアの向こうで躊躇し続ける君にも聞こえる程度の声で言った。
声を出すだけでも結構肺活量がいる。気力もいる。勇気もいる。覚悟もいる。
僕はたったそれだけでまたへとへとになってしまい、早く雨止まないかな、とか、夜明けないかな、とかどこか暢気に思った。

「…それでも俺は願う。自分の願いを叶えるためにお前の願いを潰してでも」

ドアの向こうから小さく、だけど僕にだけ届く低い声で君が言った。
僕は雨が止むか夜が明けるまでぴくりとも動かせないだろうと思うくらい重たく気だるい身体を無理やり引きずり、ドアの前に立った。
だけど立ち続けていられなくて、すぐにその場にしゃがみ込む。
顔を上げてるもの億劫で、僕は俯き両膝に顎を預けて暗い床の擦り切れた木目を眺めた。
それは僕らと同じく水の幻に満たされて、ぶわぶわ圧迫されてるみたいで苦しそうだと思う。
そこにある、というだけのことさえなんて気だるく辛いことなんだろうと思う。

ひとつ願っただけでふたつも消えた。
もし願いを叶えたら、一体どれほど消えるんだろう。
君の願いの中に僕の存在は許されないのだろうか。
僕の願いの中に君は必要不可欠だというのに。

「雨、早く止んで欲しいよね。夜、早く明けて欲しい。…ね、ドア、早く開けてよ」

もう、尻餅ついてしまいそうなんだ。
そうなったらきっと、もうベッドの上にすら戻れなくなってしまうから。
君が部屋に入ってくるのすら阻んでしまう。
それでは意味がないのだ。

「せめておかえりくらい言わせて。平和そうな言葉のひとつ、口にしてみたいんだ」

どうせ濡れて帰ってきたんでしょ。風邪ひくよ、とか、風呂入ってきなよ、とか、もう飯食った?とかさ、色々あるじゃない。言わせてよ。手放しに平和そうな、どこにでもありふれた言葉をさ。僕にもさ。今くらいいいじゃない。外は雨だし。夜だし。ねぇ。
気を抜いたら泣きたくなるくらいの、どうでもいいのに大切な言葉たちをさ。
言わせてくれよ。
もうこれ以上ないんだ。なくしちゃったから。ふたつも。
アンタだってそうでしょう?
だから帰ってきたんでしょ、ここに。
遠くまで。行けるとこまで行って、でも結局帰ってきちゃったんでしょ、ここに。

僕はひくひくと痙攣する頬を必死で笑みの形に歪め、背後の窓、止む気配も、明ける気配もしない真夜中の長雨が君のあの真白なうなじをも覆い尽くし強張らせたのだろうことをぼんやり想像した。
きっと今も尚、痛々しいほど鳥肌を立てて震えているのだろうことも。
それでもドアの向こうにいる僕の、へんてこに歪んだ笑顔と対面する気力も勇気も覚悟もなかなかつけられず、躊躇し続けていることも。
なのにまた立ち去ることもできずにいることも。
…分かってるから。大丈夫。

窓の外、あらゆるものを叩く雨音以外、何も聞こえない静かな真夜中。
ドア一枚挟んで立ち尽くす君と、しゃがみ込んだ僕。
たったひとつの願いを叶えたいと祈る。たったそれだけで大切なものをふたつもなくした君と僕には。
今の僕らには、雨が止むのも、夜が明けるのも、あまりに遠い。
あまりに、遠すぎるんだ。

見えすぎる彼の目を眩ませるために

シャ、と勢いのついた音がして、分厚いカーテンがレールの上を滑る。
その不意打ちに驚いて閉じていた瞼を開けた途端、目に酷く激しい痛みが走り、視界が一気に真っ白になった。
遮光カーテンに守られた暗闇に甘え切っていた眼球が、いきなり差し込んだ強い光に眩んだのだ。
視界を塗り潰し何も見えなくさせる、ということだけに関しては、光も闇も同じだと思った。
張り付いた結露が白く凍った窓越しに、いつの間にか朝日が昇っている。
すり硝子のように不鮮明な視界はだけど、ひっそりと静まり返った闇を絶対的な力でもって押しのけていく光を十分俺に知覚させた。

もう二度と目覚めないのではないか、と思うほど昏々と眠り続けていても、結局こうして目が覚める。
彼の手によって目覚めさせられる。
俺が、望んでいようといなかろうとそれは同じだ。
こんな目覚めの朝を迎える羽目になったのは、一体いつからだっただろう。

「夜はいつも昼をゆっくり覆っていくのに、朝はいつも夜を無理やりぎゅうぎゅうと隅に押しやっていく。随分乱暴だな。お前にそっくりだと思わないか?」

まだ光に慣れない目を強く瞑って耐える俺の頭上、勝手にカーテンを開けた犯人の声が、皮肉めいた笑みを含んで降り注ぐ。
どっちがだ。心の中でひっそり毒づきつつも、その皮膚や鼓膜に触れる音声の振動からなんとなく自分と相手の距離感を測り、今目を開けるのは止そうと判断した。
目が慣れたとしても、せめてもう少し顔と顔の距離が離れてからだと。

「おはよう。分かってるとは思うが、二度寝は許されないからな」

「分かってる」

俺はわざとらしいほどに憮然とした口調で取り繕う。
距離はまだ、近い。
腕で庇うには少し足りない気がして毛布を引き上げ顔を覆うも、軽く引き剥がされた。
ち、と舌打ちし、無理やりにでも距離を作ろうと闇雲に腕を振るが、くつくつと喉を鳴らして笑うそいつはその腕を簡単に避け、また同じ距離に戻ってくる。
俺が目を閉じているせいで何も見えないのをいいことに、からかっているのだ。
だけど寝起き一発そいつのドアップから一日を始める気には到底なれなかった俺は、頑なに目を開けない。開けさせようとするそいつとの攻防戦は、これまた毎朝のことだったりするから不快極まりない。

「いい加減に、」

しろ、と怒鳴ろうとして、ふと気配が遠のいたのが分かった。
からかうような笑みがぴたりと止まり、不思議に思って目を開けた途端、俺もまたその意味を知る。
彼の鋭い視線は窓の向こう側。
冬の透き通るような朝日の中を真っ直ぐ貫いている。

「…行くぞ」

どこに、とはあえて聞かない。
寝起きだとか朝飯がまだだとかそういったことは彼を止める理由になどならないことも分かっているから。

何の意味もない。
もしかしたらこのまま明けることなく永遠に続くのではないか、と疑うほど夜が深く全てを飲み込んでも、結局こうして朝がくるように。
人ひとりが日々全力で行ってきた働きかけを不意にさぼったとしても、なんの影響も起こらない。
もちろん歯車がひとつ止まるわけだからどこかで小さな綻びが出るかもしれないが、表向きなんてことない。
大したことない。
せめてと願うのはいつも同じで、些細な揺れにいちいち動揺したって変わらない。
全ては単に些細なことの積み重ねなのだ。

俺は着ていた寝巻き代わりのくたくたのシャツをベッドに脱ぎ捨て、慌しく適当な衣類に着替えてコートを引っ掴む。
靴下が左右違っていてもこの際気にしないことにしよう。靴を履いてしまえば誰からも見えまい。
開けっ放しになっていたドアの向こう。彼は一瞬立ち止まってこちらを振り返った。
その目はつい先刻の戯れが嘘か夢みたいに、殺意地味た物騒な光を灯して俺を射抜く。
朝日とも夜の闇とも似た彼の深い深い両目は、やはり俺の視界をそれだけで塗り潰してしまうものだ。
それに魅入られるなんて絶対にごめんだと思う。
この距離でこれなのだ。俺は至近距離で目を開けるなんて馬鹿な真似はしないと決めている。

俺が床を蹴り上げるとほぼ同時に彼もまた俺から視線を前方に素早く投げ打ち、走り出した。
置いて行かれてなるものか。
俺は、ただそれだけを思って彼の背中を追いかける。

彼だけが知っていて、俺が知らないことが多すぎる今は、まだ。
俺だけが知っていて、彼が知らないことを彼に伝える義務なんて、多分俺にもない。

飛び出した下界。未だ闇に凍らされた気配残る空気が頬をきゅうと冷やした。
首に引っ掛けたマフラーを巻きつけようと手を上げた俺の肩を、彼の手がぽんと叩いて行く。
耳元、微かに聞こえた低く、真剣な声が俺の名前を呼ぶ。
俺はつい顔を上げ、するりと俺の隣をすり抜け先を行く彼の背中を見た。
慣れたはずの目がまた眩むのは、俺を覆い尽くし守ってくれる暗幕が彼の手によって乱暴に、一気に引き剥がされたからだ。
きっとそうだ。
だから俺はそう遠くない未来、彼の暗幕を引き剥がさなければならない。
彼にもまた、目が眩むほどの眩い朝日を当ててやらなければ。彼が俺の目をそうやって塞いだように、彼の見えすぎる目を塞いでやらかなければならない。
それができるのは、多分俺しかいないから。

俺はまた、俺の少し先を行く彼の背中を追いかけた。
あわよくば追い抜いてやろう。口端歪めてそう思う。

オレンジ・ペコー

沢山のものを守ろうと、正面からぶつかる風に抵抗もせずただただ切りつけられ傷つくことを繰り返す君は、誰より馬鹿で愚かで、愛しい。
そんな君の絆創膏だらけの指先が、あたたかなティーカップの淵をゆるゆるとなぞっていくのを、俺は君に興味なんてちっともないふりをして隣に座ったまま、横目にひっそり眺めた。
ゆるゆる、ゆるゆる、君の傷だらけの指が。お世辞にも奇麗とは言えない無様な指が、だけど何より誰より優しくそっと、華奢なティーカップの淵を辿っていく。
同じ辺りを何度か撫でて、くるりと一周したら、もう一回。
多分、君はまた考え事をしているのだろう。
また、君に不相応なほど答えのない迷路みたいな小難しいことを延々思い悩んでいるのだろう。
君のそういうところもまた、馬鹿で愚かで、愛しいと思う。
俺は、思う。

以前、お前の信じるものは何なんだ。と俺が問うた時、君は真っ直ぐ俺を見つめるだけで答えを口にしてくれなかったことがある。
負う必要のない傷まで負って、なんでそこまでできるのか、何のためにそこまでするのか、俺にはちっとも分からなかった。
人は何か最終目的があってこそ、頑張れるものだと思う。
それが例え独り善がりな欲望であれ理想論であれ、自分が信じて疑わない目標があり、それを叶えるためになら傷をもまた厭わないものだと。
俺には確固たる目標がある。だからそのためだけに生きることができる。走ることができる。夢中になれる。それ以外の全てを冷淡に投げ打つことができる。
だけど、どうしても君の目標が見えない。分からない。言ってることが全て真実だとも思えない。俺が知りたいのはそんな表向きなものではなく、君本人の剥き出しの真実だ。
だから聞いたのに、君は揺らぎもしない真っ直ぐな目で俺の両目を見詰めるだけで、うんともすんとも言わなかった。
いつまで待っても、何も言おうとしなかった。

君のささくれ立ち痛み切った無残な指が、少し有名な銘柄のティーカップの薄く美しい淵をなぞる。
優雅な柄が焼きこまれたティーカップに触れる指の歪さとか虚しさとか、そういったものとカップの存在のあまりのアンバランスさに、何故か俺の方がいたたまれなさを感じてしまった。
丁寧に淹れた紅茶から湯気は立ち上り続け、満たされたままのカップの中からあたたかみだとか、旨みだとか、香りだとか、そういった大切なものがどんどん抜けていくのが見ていて分かった。
それら紅茶の紅茶たる魅力を、今後君が自らの身体で知ることはない。
多分もうない。
そう思い知るだけ俺は何故かいてもたってもいられなくなる。

「…紅茶飲めよ。冷めたらまずい」

俺はできるだけ静かに、さりげなく、だけど急いでそう言った。
そこでようやく君はカップの中の液体の存在理由(紅茶は飲み物だ、という基本中の基本)に気づいたかのようにはっと顔を上げ、あぁ、と苦く笑ってティーカップの細っこい、優美な曲線を描くラインを指先で捕らえた。
持ち上がるカップ。その薄く開かれた唇に触れる、先刻まで痛々しい指先になぞられ続けるだけだった淵。
湯気の格段に減ってしまった透明度の高い鼈甲色の液体が、

…だけど君の唇に触れる頃にはもう。

「あぁもう冷えちゃってる。苦い」

君の苦笑を濃くするだけで、君の中に凝った冷たい何かをあたため解す作用なんてないんだ。

「…なぁ、もう一度聞くが」

俺が以前投げかけた問いをもう一度しようとした刹那、君は不意にぐぃっと苦いだけの冷えた液体を呷った。
ごくり、喉を鳴らすことで俺の言葉を遮った君は、やっぱり苦いと僅か疲れたように笑い、横目に。今日初めて俺を視界に見つけたみたいにそっと、どこか申し訳なさそうにぎこちなく、俺を見た。

「人ってね、何もなくても生きていけるんだって。独りでは生きていけないけど、意味とか意義とか目的とか、そういった頑なではっきりしたものがなくても、それなりに生きていけちゃうんだって。知ってた?」

いきなりそんなことを言い出す君に、俺は大いに戸惑った。
なんて返せばいいのか分からず黙っていると、君は小さく首を振り、僕にはそんなの信じられない。何もなくなってしまったら、どうしていいか分からなくなるじゃない。と悲しげに呟く。

「僕が特別弱いだけかもしれないけど、僕は何かのためとか、誰かのせいにしないと、一度座ってしまった椅子から立ち上がることもできない」

君は眉間に皺を寄せた切実そうな表情裏腹、淡々と独白した。
そう、独白なのだそれは。俺に向かって言葉を投げかけ、俺からの返事を待つ会話のキャッチボールなんかじゃない。単なる独り言。
俺はそれが分かってしまった以上(元々なんて返事を返せばいいのか分からなかったけど)、君に渡すべきものは何一つないと諦めるしかなかった。
君が何故いきなりそんなことを言い出したのか分からない。だけどそのことで、以前信じるものが何か一切口にしなかった君に、多分俺にだけ言わなかったのではなく単に誰にも言わないというだけで、確固たる何かがあることが分かった。
そしてそのことが、なんだか妙に俺を安心させた。
ふ、と溜め息が零れる。
そこでようやく、俺の前に置かれたままのティーカップに満たされたそれが、君の喉奥に消えたものよりもっとずっと冷え切って、紅茶の紅茶たる魅力の欠片もなくなっていることに気づいた。
俺もまた、君と同じなのだ。
全く違う身体と心を持った、だけど同じく馬鹿で愚かな人間なのだ。

「…俺も多分、どうしていいか分からない」

俺は胸の奥からぶわりと湧き上がった酷く寒々しい何かを必死で押さえ込んで小さく呟いた。
喉の奥がくっついていたみたいにうまく喋ることができなかったけれど、そうだと思ってた。と僅かに嬉しそうに微笑んでくれた君を見て、少しだけほっとした。

痛々しく傷ついた君の、ボロボロの指がこちらに伸ばされる。
俺は素直に届くまで待つこともできずに、いつの間にか君と全く同じようにズタボロの雑巾みたいになった汚い指でもって、そっとその傷口ごと迎えに行った。

こんな時くらい、素直になればいいのに

こめかみを伝い落ちる冷たい汗の気配に頬が痙攣し、そのことで我知らず、自分の顔が皮肉めいた笑みを模っていたことにようやく気づいた。
ばくばくと落ち着きなく鳴り続ける心臓がうるさい。
酸欠のせいでか、頭の中がぐらぐら揺れている。
冬の冷たい空気を必死に取り込んだ肺がその気温のあまりの低さに驚いて、油が切れた歯車みたいにきちきちと痛々しい音を立てて軋んだ。

目の前ぶら下がる自分の限界をも無視して走ったのは、別に君のためじゃない。
走りたかったから走った。
走らなければと思ったから、走っただけだ。
行き着いた場所にたまたま君がいただけだ。

そんな、子供にすら通用しなさそうな愚直な言い訳を口にしそうになって、目の前へたり込んだまま驚いた顔でこちらを見上げる君の、まん丸な瞳があまりに澄んでいるのに我に返り、慌てて飲み込んだ。
その瞳を目の前にして、くだらない言い訳を口にするにはあまりに無粋だと思ったのだ。
顔に張り付いたろくでもない笑みを、ぎゅう、と抑え込む。
冷たい風を振り抜いてきたせいで、凍りついたみたいにぎこちなく、ぱりぱりと頬が音を立てた気がした。

「… 、」

震えた声が空気を通して俺の鼓膜までも震わせる。
その何かに怯えるかのような表情から紡ぎ出された言葉が、怖いだとか嫌だとか無理だとかそういった悲しいものではなく、単純に俺のファーストネームのみだったことに、俺は何故かその場にへなへなと脱力しそうなくらい安堵した。
走ってる最中、がちがちに強張っていた肩からほんの少しだけ力が抜け落ちた。
落ちた欠片は粉々に砕けた硝子の破片のように俺の肩先から腕を掠め、着ていたコートの裾にぶつかって地面に散らばる。
俺はさりげなくそれをつま先で踏みにじり、土の中に隠そうと無駄な抵抗を試みた。
だけど君は多分そんな俺の虚勢なんて自然に見抜いていて、抱え込みすぎて歩けなくなるほど膨れ上がった荷物の上にまた、破片すら拾い集めて乗せてしまうのだろうと思う。
そんなこと、しなくていいのに。

「…ばか」

俺は小さく呟いた。

「ど、うして」

くしゃり、君の顔が歪む。
今にも泣き出しそうに、溢れ返りそうな感情を一生懸命抑えるみたいに、君の顔が歪んだ。

「どうして、どうしてどうしてどうして!」

途方に暮れた声が、何かを乱暴に振り払おうと暴れた。
だけどそんな程度の暴動じゃ、君や俺を取り巻く様々な悲しみを振り払うことなんてできない。
君がその荷物の、せめて一部だけでも諦めない限り、君も、君を連れ戻そうと走ってきた俺も、ここから動けやしない。
簡素でぬるく薄っぺらい俺たちの家になど、帰れないのだ。

「…分かってる。分かってるから」

俺はそんな安っぽい言葉ばかりを繰り返し、未だ鳴り止まない耳鳴りと、荒いままの呼吸を唾液ごと喉の奥に無理やり飲み下し、深く、息を吐いた。
君がどれひとつ諦めないことくらい分かっている。
だから迎えに来たんだ、本当は。
無理やり君の腕から荷物を剥ぎ取ることもできない俺には、だけどせめて分担すればもしかしたら、とか、それでも駄目ならもういっそこのままここで君といればいいだとか、何の解決にもならない慰めすらも口にできないけれど。

「どうして!」

君は取り乱し、へたり込んだ周囲の土を両手でなぎ払う。
だけどそれでも乾いた土煙が僅かに上がるだけで、それすら君の両目から零れ落ちた透明な雫の言い訳には使えそうもなかった。
はたり、はたはた、後から後から零れ落ちる雫は、乾いた土の表を点々と湿らせていく。
俺はそれを、今にも君の目の前座り込んでしまいそうな己の両足に怯えながら、でもどこか他人事のように見下ろした。
俺はまだ、へたり込んでしまうわけにはいかないのだ。
俺まで立ち続けることを諦めたら、一体他の誰が君の腕を掴んで引き上げてくれるというのだろう。
一度へたり込んだら最後、多分俺も君も二度と立ち上がれない。
だから駄目なんだ、君がどんなに疲れ果てても、俺だけは立ち続けていないと。
例えどれほど君の涙が奇麗でも、触れたいと心の奥底から願っても、今、君の目の前膝をつくわけにはいかないんだ。

「分かってる。もういいんだ。…行こう」

悪かった、ありがとな。力なく呟く俺に、君は固く目を閉じ、小さく頷いた。
俺はこめかみから顎先を滴り落ちた冷たい汗を無視して、君の土で汚れた手を掴む。
いくら分担しようとも君の大荷物を持ち上げることなどできないかもしれない。
でも、せめて引きずることくらいはできるかもしれないだろう?
もしそれでも駄目なら、いっそここで君とふたり、春を待てばいいんだ、きっと。

「一緒に帰ろう」

今すぐは無理でも、いつかあの、どこまでも嘘っぽく殺風景で優しい、俺たちの家へ。
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