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乱暴なまでの優しい忘却

早くしないと、早くしないと。気ばかり焦る。

早くしないと忘れてしまう。

忘れたいものも、忘れたくないものも、全部忘れてしまう。

忘れたかったものも、忘れたくなかったものも、忘れてしまったように。全部。

早くしないと、早くしないと。忘れてしまう。


なにひとつわすれてはならないものなのに、

わすれてしまう。

わすれてしまうのだ。


早く早く。気持ちだけが先走る。

忘れたいものも、忘れたくないものも、忘れてしまうその前に。
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意識、無意識、ひっくるめて全部だと言えるのか。

きちんと丸まって眠れば腹側は寒くない、と君は言う。
それは口外に「背中は寒い」と言っているのだろうと僕は思った。
それなら僕がその背中に張り付いて眠ってあげようかと提案したら、そうするとお前の背中は誰があたためるんだと何故か怒られた。

背中合わせに立つのが僕らの常だったのは、そんなどうしようもない理由からだ。
眠る時、起きている時、関係なく僕らは背中合わせで反対方向を見つめる。そのどちらにも死角など発生しようもないほどしんみりと。
完全には噛み合わないごつごつと骨ばった背中と丸まった背中は、それでもあたたかかった。
少なくとも、寒さに凍えることはなかった。

腹側は己の両腕で守れる。守れない背中を預け切るほどの信頼感に似た何か。
二人で一人だなんてきれいごとなど決して言えない僕らが、結局どこにも行けなかったのは当然のこと。

お互いの顔すら忘れてしまっても、それでも多分僕らは幸せだった。

僕らはどこにも「到達」しない。

真っ青な大空の真っただ中、くるくると螺旋を描くふたつの影は、急上昇しているのか急下降しているのかすら分からなかった。
それは多分、見る人がそれぞれに判断すればいいことだと思った。
どちらが正解でどちらが不正解かが重要なのではなく、ただ、俺は知っていた、という事実が問題だと思った。
そう、知っていたのだ俺は。

嗚呼、ここは海の底だろうか。それとも青空の最中だろうか。と君はぼんやりと呟いた。

今ここにいるのは俺と君だけだったけれど、結局君のそれは俺に対する問いというよりただの独白。
極論海でも空でも構わないのかもしれない。と俺は勝手に判断し、聞き流す姿勢に徹した。今更変えることなんて出来やしないしと。

耳の奥、ごぼごぼと大きな気泡の塊が弾ける音がした。

嗚呼、確かに分からない。と思った。口にはしないけれど。
俺はずっとここを空だと思っていたけれど、確かに君の言う通り、海の底かも空の最中かも分からない。
何をもってして空だと思っていたのだろう俺は。君より何もかもを知っているつもりでいて、結局俺は君と同じだったのかもしれないね。
だけど分からないならそれでもいい。独白すら俺は口にしない。


その手はあたたかいのだろうか。俺は時々思う。
その冷たく頑ななものをひっしと握りしめ強張ったその手は、あたたかいのだろうかと。
だけどそれを確かめたりなんてしない。
その手に手を伸ばしたりなんて愚行は絶対にしない。

だってもしあたたかかったりなんかしたらきっと俺は、「知っていた」事実も何もかもいとも簡単にかなぐり捨ててしまいそうだ。






俺たちに、正しい意味での「ゴール」なんてないのに。

切片からして

大切に抱いて走れるものはいつもたったひとつだった。
目の前に選択肢がいくつあろうと、結局この腕に抱けるものはひとつだけなのだ。
その他のもの全てを捨てるしか、守る方法がなかった。
例えそれを守るがためにこの身の端を破片が飛び交おうとも、一度このひとつだけと決めてしまったものは覆さない。
唯一と胸に抱いたそれが、もはや僕そのもの。もしくはそれ以上のものだと信じている。信じるしかない。
僕は結局そういう「存在」なのだ。

だけどせめてと願うくらいは許して欲しい。
僕が他の全てを投げ打って強く、壊さぬよう大切に、この身を削ってでもと守るたったひとつよ。
せめて僕の両腕の真下、その腕を伸ばして僕をしっかと抱き返していておくれ。
どれほど突風が吹こうとも、どれだけ大雨が降りかかろうとも、決して離さず強く強く抱いていておくれ。
唯一の君を抱きしめる僕の胸はいつだって凍える暇なく温かいけれど、君がそうして僕の背に両腕を回していてくれないと、僕の背中はこんなにも寒い。

切れ端、または断片的なもの

スーパーに積み上げてある安価なブレンドコーヒー豆から抽出したブラックコーヒーは、その値段と全く相応しくすさまじくまずかった。

お前の欲しいものは、決してお前のその手には届かないんだよ。
何故なら、お前は自分のその手に届かないものばかりを欲しているからだ。
わざと選んでいるのではないのか。それとも無意識選んできたのか。
そもそもの出発点からお前は間違えた。否、分かっていて外したんだ。だってまずそれを諦めるとを決めたのはお前自身だろう。無理だと決めたのはお前だろう。
お前が本当に欲しかったのは、その出発点であったたったひとつだけだったのに。
そしてそれはもう、二度とお前の手など届かない場所にある。

嗚呼可哀想に可哀想に。
どれほど他の誰が、何が、お前を慰め満たそうと足掻いたところで、お前は決して慰められやしないし、満たされやしない。
正しく時間を巻き戻したとしても、きっとお前はまた同じように諦め満たされない道を選んでしまうのだろうな。

嗚呼お前は多分、誰より何より優し過ぎたんだよ。
自分にも、他人にも。分け隔てなく万遍なく。ひたすらに、ひたすらに。
そんなコーヒーとも認めたくもないようなこげ茶色の泥水なんて、さっさと見切りをつけて排水溝に流してしまえばいい。
豆らしきものがまだ沢山入っている袋もそれごと捨てろ。
そしてもういくらか値段の高い、せめて日にマグカップ一杯飲めるくらいの味のものを買え。

安物買いの銭使い。
だが、石橋なんて壊れるまで叩けばいいんだ。
お前を臆病者と罵る奴らを笑ってやれ。

「それの何が悪い」と。

例えば、こんな世界。

最初に言い訳を言わせてもらうとすれば、俺は別に神様とかそういうものなど信じちゃいないし、まして自分がそういったものの皮を被って真似ごとめいたことがしたいわけでもない。
畏怖されようが祈られようが信仰されようが迷惑以外のなにものでもないし、かといって勝手に無闇に俺を神格化した結果俺がその信じたことと違うことをしたというだけで憎まれたり恨まれたり絶望とかされても困る。
誰かの理想通りに生きるなんてまっぴらごめんだ。俺は、俺がしたいように勝手にして生きて、いつか勝手に死んでやる。
ずっとそう思っていたし、多分これからもそういった基本的なところは変わらないだろう。

だけど目の前に。
何も知らない、何も持ってない、何もない君が。
まっさらな君が、酷く脆弱な状態で存在してたから。

あんなに願ってあんなに口にしてあんなに努力しつくした俺の願望とか欲望とかそういった形なき状態に、あっけないほど簡単に君がなっていたから。
目の前に、俺の目の前にゆらり、いたから。

別に君を救済しようなんて欠片も思わなかった。
むしろ俺をすら忘れたまっさらな君に対してできる、唯一の嫌がらせみたいなもんだって。最初は。
だって俺はもう、君に相対した時、君の眉間に深い深い皺を刻むのが使命みたいになってしまっていたから、いつの間にか。もう覚えていないくらい昔から。いいや、もしかしたらつい最近。昨日?それはないか。
とりあえず、きっと君と俺とが出会う前から、出会った時から、別れた時から、何度も出会う日々に、何度も別れる日々に。そしてこれからもずっと。生きて、死ぬまで。死んでもずっと。
君の眉間に皺を刻むのが、俺の使命みたいなもの。俺の生きがい?そう思うとまた複雑だけれど。どっちかっていうと楽しみ、とか趣味くらいにしておきたい。
悪趣味だと笑われるのは慣れているし。
俺の長年の?努力の結果、君はもう俺の顔を見るだけで、むしろ、俺の名前を耳にしただけで眉間に皺を寄せてくれるようになっていたのに、そういうのも含め、正しく全部脱ぎ棄ててしまっていたから、それなら今できることをしようと思った。
今の俺が、まっさらな君にできる嫌がらせめいたものを。と。

俺は、君が願うものを知っていた。
俺は、多分、その使命?趣味?と同じくらいいつの間にか。ずっと、知っていた。
だから、ひとつひとつ差し出した。嫌がらせのつもりでひとつひとつ。

『これが欲しかったんでしょう?』

あぁそうそう、これも。あとこれも。欲しかったでしょう?あげるよ。と。

だけど余計なものを全部ぜーんぶなくした(捨てた?)君は、無垢な子供のような大きな目でこちらをまっすぐ見つめながら、俺の思惑など全く知らずにどこか申し訳なさそうに首を振る。
俺についぞ見せたことのない表情で首を振る。

「いいえ。僕は確かにそれらを欲しがったけれど、それは手になかったから欲しがっただけです」と。

誰より強い身体も、誰より知っている脳も、誰より見渡せる目も、誰より聞きとれる耳も、確かに欲しいけれど、すごくすごく欲しかったけれど、僕はそれより、誰かに優しく触れられる指先と、誰かを思いやる優しい心が欲しいんですと。君は言った。

『じゃあこれは?』

俺はそれがなんだか面白くなくて、なにそれつまんない。と声には出さずに心の中で吐き捨てる。
そして、そんなことはおくびにも出さず、内心妙にムキになってさまざまなものを君に差し出した。まるで神のように。
俺が差し出したさまざまなものを、君は、君だけの価値観で、どこまでも無垢でまっさらな君で、受け取ったり受け取らなかったり。
時間をかけ、吟味を繰り返しそれら君がチョイスしたものたちを改めて目の前に並べて見て、俺は呆れた。心底呆れた。

『それでは全くの普通だ』

だけどそう口にした瞬間俺ははっとした。
そう、何より君が欲し、その手にないことをまるで獣のように嘆き叫んだものはそれだと。
嗚呼、俺は知っていたのに。

別に俺は神様とかそういうものの真似ごとがしたかったわけじゃないし、君を救済したかったわけでもない。むしろ嫌がらせをしようとしただけだ。
沢山のものを背負い生きる過程で欲したもの全てを手にした君が、一体どのようになるのか知りたかった。どのように考え、どのように生きどのように死ぬのか見てみたかっただけだ。
これ以上ないくらいの最高の一揃えを持ってして、満足しきった人生を閉じようとした君に、その死に際それを与えたのは俺だと知らしめて突き落としてやろうと思っただけだ。
きっと。そうだ。

俺は君が本当に欲しがったそれを、知っていて。
本当に本当に欲しがったそれだけは、渡したくなかったのに。多分、渡したくなかったのに。
他の全てを与えても、それだけは。

だって君が、それを手にしてしまったら、




君はなんだか申し訳なさそうにはにかむように、俺にはついぞ見せなかった表情で頭を下げた。
そんな君が見たかった。…見たくなかったような気もする。いや、…どうだろう。
俺は内心ぐるぐると巡る自分でも不可解な矛盾した思いをおくびにも出さず、ありがとうございました。なんてありえないセリフを吐く君をどこか脱力して眺めた。
この場合、俺の負けなんだろうか。なんてわけのわからない敗北感とともに。

君のそんなくすぐったげな嬉しげな微笑みなんて、反吐が出る。俺はやはりそんな思いもおくびに出さず君を見つめるしかできなかった。呆然と。

すると、今の今まで俺の質問に答える以外の何のリアクションもしなかった君が、嬉しげな、どこか照れたような表情をふと暗くして僅かに眉間に皺を寄せた。
だけど、俺が使命?趣味?にしたそれとはまた違う皺だった。
どちらかというと不安げな。何かを探ろうとするような。俺についぞ見せたことのない種類の皺だった。
どうしたんだろう、何か不満でも?これ以上ないくらい君の希望通りなのに?と不思議に思っていると、君はふと大きな両目を俺に向けた。
先刻までずっと、俺の方を向いてはいたけど、俺の両目にはっきりと焦点を合わせられなかった君が、俺の両目をまっすぐ見た。
ぎゅう、と焦点が引き絞られるのが分かった。

どこか申し訳なさそうに、無垢な子供のように、
本当に本当に欲しかったものだけを手にしたまっさらな君が、

「…どこかでお会いしたこと、ありましたか?」

きゅ、と喉の奥が軋んだことに驚いたけれど、やはり俺はそんな些細なものもおくびに出さずに微笑んだ。
小さな子供にするように、優しく優しく微笑んだ。
声が震えそうだった。何故か知らないけど泣いてしまいそうだった。君の両肩を掴んで何か叫んでしまいそうだった。
だけど頬に力を込めて、


『ないよ』


それだけ、ようやくそれだけ言った。





それを手にした君となんて、会ったことない。
きっと、今までも、これからも、ずっと。

それを手にした君はもう、俺という存在なんて必要ない。
それを手にした君なんてもう、俺には必要ないのだから。


嗚呼、その手から今すぐそれを毟り取りたい、なんて。
俺は別に神様とかそういうものでもないくせに。

遠くへ。できるだけ遠くへ。

伝わらないのなら、他の何でも手段として利用してしまえばいいと思っていたし、正直今でも思っている。
それが例え、神様だとか母なる大地だとかそういう、たかがひとりの人間では太刀打ちできやしない、大まかで強大なものだったとしても、それでも利用できるなら全力でしてやる。

たかがひとりの人間がもちうる知識も力も総動員して、それで君に少しでも伝わるのなら。
それで君が少しでも笑ってくれるのなら。
生きて、くれるのならと、…反省なんてしてない。今でも思ってる。

人であろうが物であろうが神であろうが地球そのものであろうが、君のためなら僕はすべて利用してやる。
すでに汚れた僕の手は、僕の心は、もはや多少のことでは揺らいだり壊れたりしないんだ。

全く無傷だなんて嘘でも言えないけれど、それでも。
未だ寒さに凍える君の肩先くらい、吹きすさぶ強い風からかばいたい。
他の正しい使い道を知っている強い人より劣っているのかもしれないけれど、それでも僕の強さはきっと、そのためだけにあると思うんだ。
信じているんだ。

どこまでも真っ白な世界の真ん中で。

その、君のたった一回のためだけに、俺は、何万回でも叫んでみせる。



血反吐はいても泥にまみれても立ち上がれなくなっても。

この胸を引き裂くことで、君の眼前に全て晒せるのなら、いっそそうしたってかまわない。

どれほど、どれほど俺が、その、君のたった一回を切望しているか。

一度だけでも君にまっすぐ、伝わるのなら。

手段なんて選ばないし、プライドだってかなぐり捨てるし、そのあとどうなったってかまわないのに!

聖人君子は遠すぎる。

なにそれ。俺はなんでもおおらかに許しちゃうとでも思ってたの?
俺だってあの頃はガキだったよ。負けず嫌いで流されやすくて、一個に集中しちゃうと他の物何も見えなくなってたし。遠い遠い将来なんて考えてもいなかった。例えば、自分がジジィになった時とか。考えられるわけないだろ?あの頃の俺は、成長期を終えたばかりの、人生の中でも一番生命力に満ちた精力的な時期だったんだから。
別に刹那主義だったわけでもないけれど。
君が思うほど俺は、大人なんかじゃなかったんだ。

今でもそう。今でも、あいつさえいなければ、あんなことさえ起こらなければ、なんて思う時がある。
誰かひとりのせいにして、何かのせいにして、その時自分ができたかもしれない最善策をとれなかったことを悔やみ苦しむことから逃げようとしてしまう。
自分の過ちだとか失敗だとか、そういうものとまっすぐ向き合えば合うほど胸だのなんだのが酷く痛んで、苦しくて、辛くて、目をそらしたくなるんだ。
特に疲れてる時なんてさ、…そうだろう?俺だって人間だもの。
酷い男なんだって。君が思うよりもっとずっとすごく。

余裕ぶることはできる。誰にでも、しようと思えばできることだよ。
ただ、余裕があるように「演じる」ことと、実際余裕が「ある」ことは違う。
俺はその演技がすこーしだけうまかった、ってだけだな。

可哀想に可哀想にといくら憐れんでもどうにもならない。
起こったことはなかったことにならないし、なくしたものは元には戻らない。
せめてと祈ることくらいしかできない歯がゆさったらないけど、これは上位にある者の優越感から出る同情じゃない。同等、もしくはそれ以下の位置で味わったことのある、同じ…でもないな、似たようなものを知る者の同調だ。
勝手な想像ですり合わせ、似ていると勝手に判断した痛みのシンクロ。

どろどろとした汚い感情も、ぐっちゃぐちゃに汚れた身体も、全部。
結局自分のものでしかないんだって、…それだけは知ってるから、俺。

未だに許せないものだってあるよ。自分を含め、さまざまなものを恨んだり妬んだりする。
俺、短気だよ?知ってるだろ?

だからここにいるんだよ。
だからまだここで、…ここに留まってる。
だけど心配するなよ、俺がここにいても、別に君の後ろ髪を引きたいからじゃないんだから。

…否、嘘だな。

本当は、ほんとうは、今すぐにでも君をそこから掻っ攫って逃げたい。…とか思ってる辺り、本当にほんとうに酷い男なんだ。
ごめんなー。

あの時の君の必死の祈りを無視した俺が、…今更何も言えないけど。
でも無視してくれていいから。俺がそうしたように、君もそうしていいから、せめてと祈らせてくれ。
あの時の君の必死さにかなうか負けるか知らないが、負けないくらいの必死さで。

先には行かせまい。

君はいつもその場所を探し探して走っているようなものだと思う。
「生き急ぐ」という言葉を体現するようにして、その走るスピードは落ちるどころか上がる一方。

君はいつもその場所を探し探してきょろきょろ周囲を見回すけれど、その場所以外に君の興味をひくものなんてないから、すぐそばにいるはずの僕も、すぐそばにあるはずの温かかったり冷たかったり柔らかかったり硬かったりするさまざまなものになんて目もくれない。

僕はまだいいとしても、それらさまざまなものは、子供だった頃の君の目にはそれはそれは鮮やかに映し出され、その透き通るような深い深い色の瞳を輝かせていたはずなのに。
一体いつから君は「その場所」にそんなにもとりつかれてしまったのだろうか。

少なくとも、僕と君が出会う前だったのが正直口惜しい。
だってさまざまなものに対して好奇心旺盛な、君本来の輝きを放つその両目を僕は見ることができなかった。
その両目に僕が映し出されることなんて、今後永遠にない。

君は僕の名を呼ぶし、僕も君の名を呼ぶけれど、僕と君の名前を口にするその声の質感の違いは歴然だ。
僕はいつだって君を探し探して走っているし、君はいつだって「その場所」を探し探して走っている。
どちらも一方通行だし、そもそも僕と君とでは走るスピードが全然違うのだから。

君はいつもその場所を、「切迫」とか「切実」とかいう言葉がぴったりなくらいの勢いで必死に探し求めている。
たったひとりでそこに到達しようとしているのが分かるから、僕はその邪魔ばかりしたくなる。

君が、君自身の人生全てを賭けて見つけ出そうとしているその場所に、君がたったひとりで到達してしまわないよう僕は君を探す。探して探して走る。

君をたったひとりそこへは行かせない。
僕は、僕自身の人生全てを賭けてそう勝手に思っている。


深い深い海の青。
広い広い空の青。

似ているようで全く違う青い世界に、僕と君はそれぞればらばらに落ちていくけれど。


君をたったひとり先へはいかせない。
僕は、どんどん走るスピードを上げる君に追いつく俊足も、誰より力強くたくましい肩先を掴む腕力も、どんなに離れても君の耳まで届かせるほどの声量ももっていないのに心底思う。

たとえ、こんなにも大切で愛しい「今」をなくしても。
たとえ、切望するほどの「光」の息が途絶えても。

君を、たったひとりこの先へはいかせない。

彼は言った、

彼は言った。

お前にはその義務がある。


僕は問うた。

義務?権利ではなく?


彼は頷いた。

そうだ。もはやそれは権利ではない。義務だ。
その他どのような重要な事柄も全て破棄してでも遂行しなければならない義務だ。
いっそ職務だと思ってくれてもかまわない。
命の次に大切にしなければならないものだと思え。
これはもはや命令だ。


僕は驚いた。

そんな、いくらなんでもそれは暴論ではないのか。
あなたはいつだってそういった言葉の選び方をしながら、僕にそういった効果だけを狙ってわざとそうする。
そんな命令は聞けない。


彼は笑った。

相変わらずだな。
だが、これは決定事項だ。命令を無視するならそれはすなわち、規定違反になる。
罰則ももちろん発生するだろう。


僕は震えた。

罰則なら甘んじて受ける。
僕はそんな命令、聞けない。
知っているでしょう。僕が、その命令を聞くことができないことくらい。
それなのにあなたはそう言う。なんて無茶苦茶な。


彼は繰り返し言った。

お前にはその義務がある。


僕は途方に暮れて、僕の目の前に立つ彼の眼前に立ち尽くした。
ここからどうやって、彼の目の前から離れる一歩を踏み出せるのか、足を動かせるのか、目をそらせるのか。その些細な行動ひとつ取る方法を忘れてしまった。


彼は言った。

お前は誰より、その義務を遂行しなければならない。


僕は言った。

あなたが僕と同じ義務を背負うと約束してくれない限り。
あなたが僕と同じ場所にあると誓ってくれない限り。
僕はその義務すら果たすことなんてできやしないんだ。
知っていたでしょう。知っているでしょう。


彼はゆっくりと首を振って言った。

お前は誰より、しあわせにならなければならない。
俺が、いないどこかで。
俺の分まで。
お前にはその義務がある。









僕は溢れそうになる想いを飲み込んだ。



そうやってあなたは僕に、その命令を破らせるんだ。

そうやってあなたは僕を、誰より不幸せにするんだ。

君想う故に。

君はもう何も知らなくていい。
君はもう何も見なくていいんだ。

そんな醜く寂しいものなど何一つ。
君の元へ降りかからなければいい。

何も知らない。何も見ていない。
そんな君を作り上げるためなら僕は、どんな代償も厭わない。
もしもそんな自分が悲しいというのなら、君の周囲に鮮やかな光を撒き散らそう。
君がもういいと無邪気に笑い声をあげるまでずっと。いくらでも。
だから君は安心して。
そっと眠りにつくといい。

おやすみ愛しい君。
子供のままの、甘い夢を。

馬鹿で成り立つ世界の最中。消えないのは罪だけじゃない。

違う、そうじゃない。
俺たちは君にそんな風に苦しんだり悲しんだりしてほしいわけじゃないんだ。
確かに罪は消えないけれど、だからってそんな、そこまで完璧にあろうとし続けなくたっていいじゃないか。
もういいじゃないか。十分じゃないのか。
まだ足りないとでも言うのか。どれほど君は貪欲なんだ。笑ってしまう。

皆馬鹿ばっかりなんだ。
この世界は馬鹿ばかりで成り立っているだけだ。
君だけが馬鹿なんじゃない。
罪を独り占めしないでくれよ。それは君だけのものじゃない。

また会えたね、と笑いあいたいだけなんだ。
今すぐなんて多分俺もあの子も君も無理だろうけれど、それでも。
いつか、また会えた時、それをただ単純に喜びあいたいだけなんだ。
それの何が悪い?何が可笑しい?どうせ笑うなら楽しく笑いたい。
だってそうだろう?俺の性格知ってるじゃないか。
君のことだ。俺が何を考え、何を言い、どうするかなんて全部お見通しなんじゃないのか。
だから驚かなかったんじゃないのか。
本当は分かっているんだろう?

君は俺たちの目にいつだって完璧に見えた。
だけど君だって人間だっただけだ。完璧じゃないのが人間の証明のようなもの。それなら君は、誰より人間だった。ヒトだったというだけじゃないか。
同じだよ。俺たちと同じ、不完全な人間だった。
なら、並べるよ。同じ場所に立てる。立っていいんだ、俺も、あの子も、君も。
もう遅いなんて言うなよ。これからがあるじゃないか。
何度だってかまいやしないさ。平気だよ。全然問題ない。

君はいつだって孤独だった。
完璧を求め完璧に生きようとして、でも君の周囲は全く不完全な人間ばかりだったから、君はいつだって孤独だった。たったひとりだった。
だけど同じだったじゃないか。孤独なんかじゃなかったじゃないか。
そんなに悔いるなよ。完璧に見えた君はそれはそれで凄く格好良かったし、だからこそ俺もあの子も君が好きで、君に憧れ君に少しでも近づこうと頑張れたのだから。
だからこそ今の俺たちがここにいる。ここにある。
感謝すれこそ、君を恨む気持ちなんて欠片もない。
本当だよ。

違う、そうじゃない。
俺たちはただ、ただ、ひたすらに馬鹿だっただけだ。
そしてその馬鹿がこの世を回す。この世を作り上げる。この世には馬鹿しかいない。
馬鹿で成り立つ世界の最中。消えないのは罪だけじゃない。

俺たちに、いつか。おかえりなさいを言わせておくれよ。

この身は、そのためだけにある

何度も何度も声に出す。
何度も何度も君の名ばかり。
僕の声は、僕の唇は、僕の喉は、僕の肺は、僕の腹筋は、…僕の全ては、君の名を紡ぐためだけにあるのだと言わんばかりに何度も何度も。

そうして飽きることなく、もう数え切れないほどに君の名を口にして、だけど君を呼ぶことなんてできなかった。

何度も何度も君の名をかたどり。
何度も何度も君の名を言霊にする。
髪の先から爪の先に至るまで全て。全身全霊でもって君の名ばかりを口にする。何度も何度も何度も何度も。
何度でも。

ただ、そのままそうしていたかったんだ。


「駄目だ、待て!」

君の焦った声が僕を引きとめようとしたから、僕はどのくらいぶりかも分からないほど久しく、君の名以外の言葉を口にしたけれど。
それすら君を呼ぶものとなってくれたかどうかは分からないままだった。


生々しく生きてくれ。
剥き出しの様々なものを抱いて。
例えそれが鋭利な刃物だったとしても、そうすることでどれほど傷つき血を流したとしても。
それでも生々しく。生きてくれと願っている。今も。


何度も何度も声に出すは、やはり君の名だけ。
僕はいつか君の名以外の言葉全てを忘れてしまいそうだとふと思い、もしそうなったらどれほどしあわせなのだろうと浅はかにも想像して小さく笑った。

君に全部あげるよ。
とっくの昔に、僕の全ては君のものだけれど、改めて。
君がそれをどんなに嫌がったとしても、僕の全部を君にあげよう。
だから、どうか。生々しく、生きてくれ。

言い訳なんて全部無駄だ。

「……だから、」

口答えのようにも聞こえる自分の言葉は、だけど心の奥底からの本心だった。

「そんな言葉じゃ納得できない」

彼は僕の本気の気持ちすら、あっさりと切り捨てた。

「本当に、」

僕は言い募るけれど。

「その程度で頷けるわけがない」

彼はやはり簡単に払いのける。


嘘だね。本当だ。安易だ。なら他に何て言えばいい。自分で考えろ。だから考えて言ってる。嘘をか。本当なんだってば。
僕らは不毛なほど行き違う言葉の応酬を、…それでもやめられないのだ。

無題。7464。

眠いなぁ、と思う。思うけれど、眠れない。
むしろ眠ろうとすればするほど眠れなくて、ただただ眠いなぁと思う。
眠いなぁ眠いなぁ。
どうして眠れないのだろう。どうしてこんなに眠いのだろう。

寒いなぁ、と思う。おなか空いたなぁ、と思う。
寂しいなぁ、と思う。静かだなぁ、と思う。

全部嘘だ。とも思う。

どうしてこんなことになったんだっけ?
僕は膝を両腕で包むようにして抱いて、目を閉じる。

眠いなぁ眠いなぁ。それが嘘だったとしても思う。



コンコン、とドアをノックするような音がして、僕は少しだけ顔を上げる。
膝頭に顎を乗せて、上目に見る。
どこから音がしているのか分からなくて、目だけできょろきょろする。

コンコン、コンコン、

あぁ君か。と思う。姿は確認できないけれど、きっと君だと僕は願う。

眠いなぁ眠いなぁと僕は思う。
ノックをし続けてくれているのはきっと君だと僕は思う。
君以外の誰もいらないと僕は願ったから、きっと君だと僕は思う。

全部嘘だったとしても。願うんだ。

歌うように

まるで幼子のようね、おちびちゃん。
私は胸の奥深くが妙にくすぐったくて、ふ、ふふ、笑みを零し落としながら彼を見やる。
彼はどこか恨めしげにこちらを横目に睨み、唇の先を尖らせた。

するり、すり抜けるならそのままに。
だって僕にはそれを止め、無理やり引き戻すだけの長くたくましい腕も、掴む手のひらもない。
例えそれらがあったとしても、そうする権利の欠片もない。

あら。もう諦めたの。早いのね。
私は「仕方ない」なんて使い古された、全ての物事を一刀両断してしまう残酷な言葉を吐かずに済んだことに、内心少しだけほっとしながら笑った。
だけど彼はかぶりを振る。

そんなにすんなり諦められるものではない。
だけど、それ以外に方法がない場合、諦めがつくまでひたすら息を殺すしかないじゃないか。

「仕方ない。のだろう?」

ひゅ、

途端、か細く鳴った情けない喉は、私のと彼の両方だ。
彼の内側に凝っていたとてもとても寂しい何かが、彼の喉を鳴らし、私の喉を鳴らしたのだと思った。

両手を伸ばせば簡単に届く距離に彼の身体はあるのに、それでも私は両手を伸ばして彼を抱いてあげられなかった。
こんなにそばにあって、これほどまでに遠く離れることへの耐性がまだ私には備わっていなかったからだ。

まるで迷子のようね、私たち。
私は胸の奥深くが妙に痛くて、ふ、ふふ、笑みを零し落としながら彼から目を逸らした。

声が聞こえたら

この耳に呼び声が聞こえてしまったからには、それを無視し続けることなんてできない。
その声に対して聞こえないふりを続けることには想像以上に忍耐力と冷酷さが必要なのだ。
そして、そんなもの僕にはない。
君に呼ばれていることに気づき、咄嗟に顔を上げてしまった僕にはないんだ。

僕はその声のありかを探してさ迷い歩く。
僕を呼ぶ声に大声で応え、もっと僕を呼んでくれと祈る。
その声で僕を君の元まで導いてくれと。

ねぇ、僕の声は君に届いているだろうか。
君が僕を呼ぶ声に応え、君を呼ぶ僕の声が。

僕は君と出会えるだろうか。
君は僕に笑ってくれるだろうか。
盲しいた僕が君の元まで辿りつくまで、君は僕を呼び続けてくれるだろうか。

真っ暗闇の中を手探りで歩く。
君の呼び声だけを頼りに、まるで僕の方が縋るようにして。

いつかこの両手のひらの中、君を優しく包み込む日が、僕らの間に訪れますように。

先を予測することで、何かから逃れられるのだろうか

「多分ね、彼はきっとあなたの鏡になるよ」

君は何故かどこか嬉しげに、それを心から待ち遠しく想うかのように目を細めて言った。
両手を口元に当て、抑えきれずにくつくつと肩を揺らして笑う。
笑みを隠すふりをして、実はそんな気全くないのだろう。

僕はそれどころではない。
どういうことだと真剣に焦る。
だって彼が僕の鏡になるなんて冗談じゃない。僕を正しく左右逆に映してしまうなんて笑えない。
なんで笑えるんだ君は。なんでそう振舞える。なんでそんなに嬉しげに楽しげに。
サンタからのプレゼントを心待ちにする無垢な子供のように。

「多分ね、彼はきっとあなたを映す」

冗談じゃない。僕は慌てて言うけれど。
心底それを期待するようなきらきらとした瞳でこちらを見やる君を見て、それから先を続けられなくなってしまった。
気づいた瞬間、愕然としたのだ。

『その結果』を作り成すのは君じゃない。僕だ。
君が望むから。
君が、心の奥底から『その結果』を僕に所望するから。

君は、僕の鏡だから。

突き落とす

柔らかなコットンに包まれた君の、無防備な背中を両手で押す。
その力は強すぎてもいけないし、弱すぎてもいけない。
トン、と押す。
君の爪先から向こうにぽかりと口を開けた奈落の底に、君を突き落とす。

君は背中を押され、バランスを崩しても尚悲鳴ひとつあげなかった。
それどころか、まるで僕にこのタイミングで突き飛ばされることを知っていたかのように。むしろ待っていたかのように、素直に従順に、君は身体全てを宙に委ねた。
こちらを振り返りもしない。

君の髪と君が着ている衣服が風を受けてふわりと膨らみ、手のひらは緩く開いたまま、両腕は自然広がる。

小鳥が飛び立つみたいだと僕は思う。
ふわり、宙に身を投げ出した君の背中を見て、思う。
翼が現実にないのが不思議なくらいに真剣に。
僕は脳内で作り上げたイメージの翼を、落下していく君の、真っ白な背中に重ね見た。

物語が始まるならきっと、こんな風なんだろう。
そして物語の終わりもきっと、こんな感じなのだろう。
そのくらい君は潔く、何の迷いも見せずそのまま、落下していった。

沢山の世界の色を内部に抱いた、真っ暗な奈落の底へ。

君がそこに無事に着いたら、きっと僕も行く。
君に背中を突き落とされて。

これこそ、全く至上の幸福ではないか。

待ち遠しいんだ、本当に。本当に。とどれだけ念を押したところで、多分君は信用してくれやしないだろうけれど。
君のためならなんでもしようなんて、ありきたりな「いつか嘘になる誓い」を、うっかり心底口走ってしまいそうなくらいなんだ。

まず前もって何から揃えておこう。
君の目の前、これ以上ないくらい完璧に?
それは君を呆れ返らせるだろうか。
それとも笑わせるだろうか。
もとより、全面的に喜び受け入れてもらおうなんて思っていない。
生意気然と見下し、鼻を鳴らして蹴散らしてくれてもかまわないのだ。
何故なら、全て結果的に「君のため」という名目上で揃えた「僕の自己満足」なのだから。

君を包む柔らかな毛布と、君を守る頑強な盾と剣。
君の退屈を紛らわせる玩具と、君の目を彩る様々な花たち。
君が存在するべき居場所と、君が纏うべき清浄な光と闇。

もしそれぞれの命や存在に理由や意味や価値の違いがあるとすれば、その横暴なモノサシの上に君を座らせてあげよう。
そして君よりも理由や意味や価値が格段に上にあるものを、君にあげる。
君はそれを君の好きにすればいい。
それこそ、全く至上の贅沢ではないか。

窒息しそうなくらいの全てを惜しげもなく積み上げ差し出し、いつか君がそのせいで潰えてしまったとしても、多分僕は後悔の欠片も抱かないだろう。
そして逆に君より僕が先に潰えてしまったとしても、多分君も後悔の欠片も感じない。
どこまでも自分勝手な僕たちにとって、それこそ、全く至上の幸福ではないか。

僕らのための袋小路をあつらえよう

どんな壁も乗り越えていくなんていう固い決意も一瞬で粉々になるくらいの、一目で明らかに不可能を理解してしまうほどの、目の前立ちはだかる圧倒的な壁を。
君が迷い込んだ薄暗い路地裏の最奥にあつらえて待っていよう。

なかなか荒い呼吸治まらない君が、頬を伝う汗も忘れて呆然とそれを見上げるのを見てみたいから。

僕は君が胸に抱く希望の、その大小に関わらず全てひとつひとつ丁寧に砕いてしまおう。
僕が今いる抜け道を塞いでしまおう。
そうすることで、僕の逃走経路すらどうしようもないくらい潰してしまおう。

世の中にはどう足掻いたってどうしようもないことだってあるんだと、君と僕に知らしめよう。

「…なんて底意地が悪い」

ぽつり、苦々しく零したのは君ではなく、僕だったりするけれど。
ふは、僕は笑う。心底苦々しく呟いたあとで噴き出して笑う。なんて可笑しい。これ以上滑稽で可笑しいことなんてない。

だって僕らはまだ、出会ってもいないんだよ。

君の冷たく湿った、血管が収縮した真白な手のひらはどんな感触だろう。
君のまん丸に見開かれた、絶望色映る眼球はどんな動きをするだろう。
君のカラカラに乾いた、柔らかな唇はどんな風に、どんな言葉を紡ぐのだろう。

未だに性懲りもなく大小さまざまな希望に縋る僕らのために。
徹底的なまでに目の前立ちはだかる壁をあつらえよう。
一目で明らかに不可能を理解してしまうほどの、どうしようもなく圧倒的なやつを。

レースカーテンの波間から

ぶわりぶわり、風に揺られるレースカーテンの白が時折、頬をひたひた叩いては遠のく午後。
ゆらりゆらり、遊ぶように穏やかな波間、歌を紡ぐ、君が微笑んだ。
ひたすらひたすら幸せそうに。
ひたすらひたすら無償の愛を注ぐように。

直射日光は君には乱暴すぎて、
土砂降りの雨は君にはあまりに残酷。
どんより曇りは君には重たすぎて、
吹きすさぶ嵐は君にはあまりに不釣合い。

例えるならそう、水彩画。
どこまでも淡い淡い、幸福な光の粒。

ぶわり、また翻った柔らかなレースカーテンが君の頬を撫で上げ、君はくすぐったげに。ほんの少し困ったように首を竦めて微笑んだ。

一緒がいいね。一緒がいいよ。多分ね。
あの日僕らは戯れを心底本気で成し遂げようと心に決めた。多分ね。くらいの気さくさで。
映画や小説ほど劇的じゃなかったけれど、でも僕らにとってはあの日を境に人生が180度反転したようなもの。
目の前用意された全ては僕らにとってこれ以上ないくらいの最高の玩具だった。

きらめく陽の光も。
さやめく風の音も。
伸ばした手のひら、ぺたり。重なる。
なんでもそう。感じられればそこにいなくたって十分楽しい。
だから一緒がいいね。一緒がいいよ。多分ね。

夢見るように

見たこともない世界を見に行こう。
きっと大丈夫だよと僕は心を込めて、本当にそう思うがまま言って君に手を伸ばした。
だって君はすでにその存在だけで、こんなにも僕を揺さぶる。
僕が知らなかったものを沢山君は知っていて、そしてその上僕にも沢山教えてくれた。
だから大丈夫だよ、きっと大丈夫。
君も僕もまだ見たこともない世界を見に行こう。
一緒に。

伸ばした手のひら、君の思わずと言った風に零れ落ちた笑みと、あたたかい手のひらが重なれば、きっとそうなると信じて手を伸ばした僕はそれだけで救われる。
報われる。
生かされるんだ。

怖いことも、悲しいことも、憎しみあうことも、痛いことも、ない世界ってないのかな。
もしそれが君の言う「見たこともない世界」なのなら、俺は行ってみたい。見てみたい。
君はそう言って少しだけ寂しそうに笑った。

好奇心を最大限に生かそう。僕らは多分、元々はそういう生き物なんだから。
僕は言う。
案ずるより生むが易し。とも言うしね。
君は笑う。

重なった手と手。かちりと組み合わせる指と指。
僕と君はこの手とこの指で一体今までどれほど怖がり、悲しみ、憎しみあい、痛んだことだろう。

「叶うといいね」

まるで叶わぬことを儚むように君は寂しげに、笑った。

一度重ねあったこの手と手、かたく組み合わせた指と指が、この夜が明けるのすら待たずまた離れることを。そしてまた怖がり、悲しみ、憎しみあい、痛むことを僕と君は承知の上で。

だけど。

きっと大丈夫だよと僕は心を込めて、本当にそう思うがまま言う。
そうだね、きっと大丈夫と君も意思の篭った強いまなざしで笑う。

見たこともない世界を見に行こう。
一緒なら大丈夫だよ。

夢見るように、僕と君の世界を見よう。
一緒に。

嘘みたいな本当だ

お前が俺に対して投げかける言葉のどこからどこまでを真実と信じていいのか。
それとも、いっそ全て嘘なんだろうと笑い飛ばし続けてしまえばよかったのか。
あの頃は当然、今になっても分からない。

お前は饒舌だ。
だけど、お前が俺にくれた沢山の言葉の最中に、お前だけの真実がどれだけあった?
手のひらの上、お前がくれた言葉のパーツを並べては、俺はお前のことをまだこれっぽっちしか知らないんだと何度も愕然とする。
次こそは。次こそはと思いながらいつも、お前に直接対面するたびお前の巧みな饒舌さに巻き込まれ、俺の決意なんてあっけなく曖昧になってしまう。
煙に撒かれるのだ。
お前にとって、俺ほど扱いやすい対象なんてきっといない。

毎朝太陽の光が俺の部屋の遮光カーテンの隙間をすり抜けるたび、俺はお前を欲しがり目を覚ます。
毎日あの場所に行けばお前に会える現実も、明日も叶うか分からないから、俺はお前を探して歩くんだ。

お前はまるで真夏の陽炎みたい。
急な坂を登りきった頂上、かんかんに照り付けるアスファルトの上にゆらゆらしている。
俺はお前に会いたいがためだけに、その坂道を毎日踏みしめ息を切らす。
辿りつく頃にはきっと、太陽は傾いていると知っていて尚。

宵闇が俺たちの世界を覆えば、お前は簡単に俺の目に見えなくなってしまうから、俺は飽きもせず毎日焦るんだ。
焦って焦って、お前の影を追う。
お前の、足跡を必死で辿るんだ。

「日暮れが早すぎるんだ」

俺は密閉された蒸し暑い部屋に辟易して、少し焦って窓を開け放ち風を呼び込みながら呟いた。

「夏は日が長いから、これでも遅い方だよ」

何も知らないお前はそう言ってふわりと微笑んだ。
焦った俺の指先が、窓の簡易な鍵すらうまく捕まえられずにカチカチと侘しい音を立てたことを笑ったのかもしれないと少しむっとする。
その笑顔が胡散臭いんだよ、と眉間に皴を寄せればそれはそれ。酷いなぁなんてさほどショックも受けていないお前がまた笑うだけ。

毎晩夢の中だけででも確実にお前に会う方法はないだろうか。なんて、時々俺は思うんだ。
明日またお前と会える確証なんてどこにもないから、会うたびへたり込みそうになるほどに。
陽炎のようなお前はいつか光の粒になって空に還ってしまいそうだから、お前を捕まえることができる方法を知りたい。
切実に、知りたいと思う。

「…虫網とか大きなビニル袋とか?」

俺は小さく独り言を呟く。
だけど俺の思考回路の幼稚さも込みで、いつの間にか俺を俺より理解してしまったお前は、閉じ込められたら死んでしまうかも。と俺を脅して微笑んだ。

「お前はずるすぎるよな」

「そう?どちらかというと君の方が僕よりずっとずるいと思うけど」

お前は何もかも知った上で、何も知らないふり。
じゃあまた明日。という不安定な言葉を俺に投げかけて、お前はまた宵闇の中に溶け消える。
毎朝お前を欲して目を覚まし、必死になってお前を探してこの坂道を登りきった俺のことなんて、まるで全く知らないみたいにするりとあっけなく。
背中越し、ひらひらと振られた手の甲が、俺の瞼の裏に焼きつく。
その残像が完全に消えてしまう前にまた、…明日。があればいい。俺は心の奥底からそう願って目を閉じる。

嘘みたいな本当だ。
嘘だったらいいのに、本当だ。

目を閉じて目を閉じて。目を、

目を閉じて目を閉じて。

彼はふわりと微笑んでそう言った。

目を閉じて目を閉じて。

彼は僕だけにしか分からないだろう僕の、あまりに切実な悩みを。それでも黙ってにこにこしたまま全部聞き終えてから、ふんわり微笑んでそれだけ言った。
まるで呪文を唱えるように。
まるで優しく言い含めるように。
目を閉じて、それからどうしたらいいのかとか、目を閉じることでどうなるのかとか、そういった説明は一切なされなかった。
だから僕は彼の言う言葉の一切を信じることができず、薄く瞼を細めるだけで閉じてあげなかった。
目を閉じてしまったら見えなくなってしまう。
見えなくなったら、怖いじゃないか。

僕は目を閉じたふりで薄く薄く目を開けたまま。
彼はそれに気づかず満足そうに微笑んでいる。
僕は心の中でひっそり、そんな純朴でいてお馬鹿な彼をちょっとだけ哂った。

目を閉じて目を閉じて。

彼は繰り返す。
僕が素直に目を閉じていると信じ切って、それでも繰り返す。

目を閉じて目を閉じて、…それから、

彼の繰り返しに続きがあるなんて思っていなかった僕は、驚いてひゅ、と息を呑む。
それから?聞き返して目を開けてしまいそうになって、慌てて元の薄目に戻ろうとしてついぎゅうと目を閉じた。

耳を澄まして。深呼吸をして。

彼の言葉は柔らかく。微笑みと同じぬるい体温を帯びて僕の耳を撫でる。

目を閉じて目を閉じて。…目を開けて。

閉じたのに。閉じたのにまた開けろというの。僕はまだ何も分かっていない。彼の言わんとしていることの何一つ、分かっていないのにもう開けろというの。
それとも、目を閉じてと言われてすぐ、本当に目を閉じていれば。彼の言い回しのタイミングに素直に全てを委ねていれば分かったとでもいうの。
僕の切実な悩みが、それで解決するとでもいうの。

「目を開けて」

「いやだ」

僕は首を振る。
先刻まで薄目でごまかしていたのに、今度はぎゅうと目を閉じたまま頑なに開かず首を振る。
これではまるで大人の言うこと全てに反抗する子供のようだと我ながら思うけれど、だけどどうしても彼の言うことそのまま鵜呑みにすることなんてできなかった。

駄目なんだ、彼だけは。
彼の純真さに当てられっぱなしの僕は駄目なんだ。
まるで自分だけがドロドロと汚れて捻くれてしまったみたいに思えてしまうんだもの。
悔しいような、憎々しいような。妬むような。羨むような。

…恋しがるような。

「  」

彼は少し困ったように。だけどふんわりとした微笑みそのまま声に乗せて僕を呼ぶ。
僕はそれに応えることもできずにぎゅうと目を閉じたまま、耳も澄ませず深呼吸もせず、ひたすら首を横に振り続けた。

今の僕にはどうしようもないのだ。
見えないことよりもっと怖いものが、目の前で僕に向かって優しく優しく微笑んでいることに、本当に目を閉じた瞬間気づいてしまったのだから。

言葉は簡単に裏切るから

「こっち見て」と言葉にする代わりに、君の視線をこちらに向けるためなら僕は、何でもする覚悟なのだ。
想いを声に託す以外のことなら何でも。
何だってしてやると。

口端持ち上げにたりと笑った僕に君は、深い溜め息をついた。
忘れたの?僕はますますにやにや笑う。
横目にほんの僅かこちらを見た君のその視線を、いつだって僕のものにし続けるために僕は、今までだって何でもしてきたじゃないか。

手段なんて選んでられない。
それだけ僕は真剣だということだ。
覚えておいで。
「今度」や「次」はない。
だけどきっと僕は今に君の視線を独占してみせるよ。

さぁ、始まりだ。
長い長い、気が遠くなるほど長い年月が流れた今。
待ちわびたこの瞬間から、僕と君の静かでいて何より騒がしい戦いが始まるんだ。

何のためにって、そりゃ決まってるじゃないか。
「こっち見て」なんて言わずして、君の視線をこちらに向けさせ続けるためだよ。
それだけかって?
僕にとって十分過ぎる理由なんだけどな。

立ち塞がるのは、壁だけじゃない

僕らの間に立ち塞がるは、てっぺんがどこまで伸びているのかも分からないくらい高い高い、途方もなく高い壁だ。
それはとても頑丈で一寸の隙もなく、悲しいくらい分厚くどっしりと僕らの間に立ちはだかっているから、僕は壁の向こう側で君が一体どんな顔して壁にもたれ掛かって座り込んでいるのか分からないし、多分君も壁のこちら側で僕がどんな顔して突っ立っているか分からないのだと思う。

時々僕は壁を蹴る。
硬く握り締めたこぶしで必死になって殴り続ける日もあるけれど、壁はびくともしないから、どんなに張り詰めていたって僕も疲れてしまうのだ。
軽くつま先で蹴った壁はやっぱり何の変化も見せずに僕らの間にあって、いつかこれを壊す日がきたら、壁の向こう側の君に会うことができたら、僕は一体どんな顔して君に笑いかければいいのか分からなくなってしまう。
どんなにそれを望んでいたとしても、叶った途端途方に暮れるみたいに。

願いが叶うということは、それまで生きる糧になっていた支えがなくなるということだ。
それを絶望と呼ぶことはあながち間違いではないと僕は思う。
もちろん、願いが途中で潰えることの方が正しい意味だと知っているけれど。
それでも、願いが完全に。これ以上ないくらい完璧に叶ってしまうこともまた、途中で潰えることと同レベルの絶望だと僕は思うのだ。
僕はそんな取りとめもないことをつらつらと考えながら、こんな風に考えてしまうのは、きっと考える時間がありすぎるからだ。この壁がなくなってくれないからだと決め付けた。
そして、壁の向こうにいるだろう君もまた、取りとめもないことをつらつらと考えては時間を潰しているのだろうかと想像する。

嗚呼、僕の声はそれすらこの壁に阻まれ君に届かないのだろうか。
僕は試しに声を張り上げる。
だけど壁にぶつかり反射した僕の音声は空高くどこまでも飛んで行ってしまい、壁の向こう側まで届いているのか否か確認する術もない僕には心もとないばかりだった。

僕はもしかしたらこの壁が取り払われ、君と真正面から対峙することが怖いのかもしれない。
それはあまりに完璧な至上の絶望だからだ。
だけどそれでも届けたいものがあって、伝えたいことがあって、…僕は諦めることなんてできない。
僕は未だ、君の名すら呼べないのだから。

嗚呼、もう少しだろうか。あとどのくらいだろうか。
僕と君の間、これ以上ないくらいの至上の絶望がこの壁を打ち壊してしまう日が来るのは。

“彼”に関する考察レポート2

彼について?
いや、別に俺に言えることなんて何もないと思うけど。
だって俺とあいつどのくらい歳離れてると思ってんだよ。俺の息子だって言っても特に問題ないくらい離れてんだよ?
若い。若いさ。とにかく若いっていう印象。
だけどそうだな、その若さに完全に甘え切ってはいないな。
日本って国は、妙にロリコンショタコン大国なんだな。昭和の初期なんてまださすがに俺も生まれちゃいないが、あの当時だと嫁に行くのも十代前半だろ?二十歳超えたら行き遅れだ。早いよなぁ。
そういう意識がどこかで残ってるせいか、若い内はどうもなんでも許されやすい。ちょっとした失敗や間違い、頭の悪さも総括して。
それに無意識甘えるのが若さだ。それもいい。
俺も若い奴ら色々見てきたしな。
時々、そのキャラは二十歳までだろ。って言いたいくらいの奴もいたけど。
自惚れが多いんだよ。今までろくに怒鳴られてこなかったんだろ。あたたかい繭の中に守られて、褒められて、大事に大事にされて育ってきたんだから。それも仕方ないかな。そういう時代だし。
柔軟とかそういうのじゃない。ただ、そういう簡素で無茶な言い訳で自分を無理やりにでも納得させないと俺みたいな仕事は続かないんだよ。
どうしたって若いの相手にすることが多いからな。教育係りってやつ?迷惑な話だよなぁ。いつの間にそういうことになったんだろう。それも慣れだけど。
そのせいか色んな若者が怒鳴られて走らされて痛い目にあって、長かった鼻っ柱へし折られる瞬間もたくさん見てきたさ。
俺?俺は別に?いやいや嘘じゃないって。俺はそんなに優しくないし。
だってそうだろ、叱るって体力いるし、よほどそいつのこと育ててやりたい、伸ばしてやりたい、悪いところを直してやりたい、って思わなきゃできないことじゃないか。
遠巻きに可愛いね綺麗だねいい子だねって褒めて放置しとくことほど楽なことはないさ。
けど、あいつはたっぷり甘やかされてるだろうに妙に冷めた目してたな。あの年頃の若者にしては比較的繭に耽溺しきってない感じだった。
若さという免罪符にはそう長くはない寿命があることをちゃんと知ってる感じ。
若さに甘んじなければならないところは甘んじてたけどな。ちゃんと。
多分、賢い部類なんだろ。勉強うんぬんではなく、したたかに生き抜いていく上で。
俺はあいつのそういうところは好きだよ。

時々あいつは無邪気さを装って大はしゃぎに俺を巻き込もうとしてきた。
もちろん俺だって完璧な大人でもないし、どっちかって言うと大人になりきれてないおっさんだからな、乗る時もあるさ。
乗るとな、あいつ。それはそれは嬉しそうに笑うんだ。どこか冷めた目で俺の目を覗き込んで何かを確認して。だけど次の瞬間本当に嬉しそうに。あれだ、限界まで膨れ上がった花の蕾がぶわっと開く感じ。詩人だって?年寄りからかうんじゃねぇよ。
行きましょう。っつって俺の手を掴むんだ。ぐいぐい引っ張る。結構強引なところがあるんだよな。
だけど俺が忙しい時、手が離せないとか、意識がまるまるそっちに行ってる時はすぐに気づいて、ふ、と手を離す。
その放し方がもう本当にあっさりしたもんなんだ。ついさっきまでの強引さも無邪気さも全部嘘だったみたいに。幻だったみたいに。ふ、っとさ。
その瞬間、あぁこいつには分かってしまうんだな、と思う。
見極めちまうんだ。俺はそのたびガキのくせして妙に擦れてるなこいつ。と思う。思って、なんか妙に後悔に似た苦みを口の中に感じる。若い内はそのまま空気なんて読めずに突っ走ればいいのにと言いそうになる。
言ったところで多分、何言ってるんですか。っつって笑われるだけなんだろうがな。

あいつの目は何でも写してしまう鏡みたいなもんだと思う。
だけど全てを正しく左右逆に写すんじゃなくて、時々さ、…なんていうかな、ミラーハウスとかちょっとしょぼいお化け屋敷とかにあるさ、歪んで映る鏡あるだろ。妙に手足が長くなったり、短くなったり。変な顔になったりするあれ。あれみたいにさ、完璧には行かないんだけど、酷く核心に近い、だけど何か圧倒的に遠い、映るもの全て写してしまう鏡みたいだ。
綺麗な目ぇしてるぜ。若さに溢れたきらきらした目。好奇心とか向上心とか野心とか、そういうの全部内包した目。
赤ん坊ほど底なしに透き通ってないんだけど、まだ大人ほど汚れてもない。
正直俺は最初あの目が苦手だった。だってあまりに真っ直ぐ俺の目を覗き込んでくるんだから。勘弁してくれよと思ってさ。
だけどあのこげ茶色というか栗色というか、真っ黒ではない黒目の中央に俺のさ、大人ぶったちょっと困った顔が映ってるの見るとさ、なんか笑えてくるんだよな。
なんかおっかしくて。
なんか滑稽で。全部馬鹿馬鹿しくて。
そう思わせる何かがあるんだろうな、あいつには。

あいつを「彼」と呼ぶのはなんだか妙な感じがするが、一緒に仕事している間は「彼」でも良かったかもしれない。
仕事に向き合う姿勢だけは一人前以上だったんじゃないかな。あれで結構根性あるぜ、あいつ。
その気持ちの強さに関しては、俺はあいつを高く評価してる。偉そうに言えばな。
もちろんまだまだ足りないものもあった。
でもそれは俺にだって言えることだ。一生勉強。って本当だな。完全とか完璧とか、人間には当てはまらない。どんなに凄くなったってな。
俺は今の職場ではまずまずいい位置にいるけど、今でも知らないことが多いし、日々発見、反省、勉強の繰り返しだ。
あいつに気づかされたことももちろん沢山ある。あいつはどうも俺を「完璧な仕事人間」とか思ってるみたいだけど、俺もまだまだだ。
あいつのひたむきさだとか、そういうの。忘れたつもりないけど、時々思い出すことで忘れてたことに気づく。はっとする。
若者の文化だとか流行だとかももちろんな。
そういう意味では、若者の教育係りも悪くないかもしれない。うん、それはあいつが思わせてくれた。ありがたいことだ。
これから先、あいつが巣立っても、俺はまた別の若者相手に頑張れる気がする。そいつがどんなに使えない天狗野郎であってもな。

あいつとは今でも時々メールとかするぜ?
俺にメールとか似合わないとか言うなよ。俺だって携帯メールくらいするって。写真添付したりさ。
仕事の話ばっかりだけどな。だって他に何話せって言うんだよ。それでもあいつが喜ぶんだからいいじゃないか。
一緒に仕事した証みたいで嬉しいらしいぜ。まだ時間もそう経ってないし、昔話になりきってもいないからな。
俺もあいつに気に入られたらしい。誇らしいことだと思ってる。
いつかあいつの中で俺と仕事した時間が完全に過去の話になったとしてもだ、そういう事実は消えないだろ。記録も残ったし、記憶も残った。
それで俺は十分だ。
やりがい感じる瞬間かもしれない。

あいつのこと好きかって?
あぁ好きだな。なんか、今まで相手してきた奴の中でも結構気に入ってる。
また一緒に仕事できないかなーと思わなくもない。大変だったけど、やっぱりそれなりに楽しかったし。
けどま、それは難しいことだよな。あいつはこれから俺とは違う現場で。最前線で頑張ってもらわないと。
ここに引き戻すなんて俺にはできねぇよ。あいつの人生だ。俺が茶々入れるわけにはいかない。あいつが望んでくるならいいけど、俺は手出ししない。
だってあいつの人生、俺が揺さぶるわけにはいかないじゃないか。俺はいい歳こいたおっさんだ。あいつは若い。責任の一旦担うみたいで怖いしさ。何より面倒だ。
俺は荷物は少ない方がいいと思ってる人間だからな。大事なもん沢山抱えてたら敏捷に動き回れないだろ。俺の仕事は身軽さにかかってんだ。少なくとも俺はそう思ってる。
このまま一生会えないとしても、間接的にでもあいつが頑張ってるのが分かればいい。
俺は俺だし。あいつはあいつだ。

彼について?
いやだから、俺に言えることなんてないって。
ただ、若い。ひたすら若い。俺がもう持ってないものをまだしっかとあの華奢で汚れてない手に握ってやがる。
俺は時々それが無性に羨ましい。

なんだろうな、別にそういう意味じゃないんだが、時々無性にあいつに捕まってみたくなる。
鬼ごっこの鬼に捕まるみたいに。
あいつは多分きっと、俺を捕まえようと真っ先にこちらに来る。
どこか冷めた目して俺の目を覗き込んで何か…俺にも分からない何かを確認した後、花のように笑ってさ。俺を捕まえてしまうんじゃないだろうか。その後、だけど鬼を俺に押し付けたりせずまたそっと手を離してな、笑うんじゃないかって。
そう、彼は多分、そんな人。

うそからでたまこと

ただ静かな凪のような平穏な日々を求めていただけだ。なんて言ったらあなたはきっと、ふわりと笑うのだろう。
「嘘つき」と、その言葉裏腹優しくあたたかい声色で、笑って言うのだろう。

背中合わせにあなたのぬくもりを感じることくらいはできるけれど、これ以上ないほどぴたりとくっついたとしても、互いの間着ている衣類と皮膚が邪魔をする。纏う血肉が邪魔をする。
軽くぶつけた後頭部と後頭部すら、しゃらしゃらと擦れる髪と、硬い頭蓋骨の存在が僕らの間に立ちはだかるよう。
そこまで思った途端、僕は一体どれほどあなたに近づければ安心できるのか分からなくなる。
急激にどうしていいのか。どころか、どうしたいのかすら分からなくなってしまう。

そんな時僕はひたすら。
ひたすらにあの子が羨ましいと歯噛みしそうになるのだ。

それも嘘だと笑ってくれないだろうかと僕はひっそり期待するのだけれど、あなたは何も言わずにただ微笑むだけで、こんな時に限って僕が求める言葉を口になどしてくれなかった。

どうして僕らは別々の身体を持って生まれてしまったのだろう。
別々の身体を持ち、別々の心を持つからこそこれほどまでに焦がれるのだと理解しているはずなのに、僕は何度も心の奥底からそう疑問に思い、対象も分からず激しく悔やんで爪を噛む。
本当に本当に。
なのにあなたはそういう時に限って、僕に「嘘つき」と言葉裏腹酷く柔らかく穏やかな声色で、言って笑った。
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