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それは大したことではないのだ

意外とそれは大したことではないんだ。と君が笑った。
あなたや他の人たちがどう思うかなんて僕には分からないけれど、そこまで大げさに考えるほど重大な出来事ではないんだと。

夜空いっぱいに広がる星たちが一斉に地球に降り注いでくる世界の終わりや、睫毛の先どころか眼球すら凍りつきそうな極寒の時代の終わりや、反対に全てを焼き尽くし黒い炭と白い灰だけになってしまう灼熱の愛の終わりだって、あなたたちが思うほど大変なことじゃない。

まるでカラフルで無邪気な子供歌を歌うようにして君は笑った。

今僕らが立っている地面がひび割れ砕け散って、様々なものが壊れ、全てのものが空に堕ちていったとしても、だからって僕らに何ができる?
もしかしたら終わりって、感動するほど美しいかもしれない。
純粋に心が震えるかもしれない。
それともそういうのも無視してありがちに絶望してみる?
全て幻だと誰か言ってくれと縋ってみる?
どれにせよ、僕らにはその場に立ち尽くしただただ終わりを眺めてることくらいしかできやしないよ。
終わりが終わって、また始まるまで。
それまで自分がまだ自我というものを持っていられたら、の話だけれど。

だから、それらに比べたらこんなの大したことないんだ。と君が笑った。
まるであたたかで残酷な子守唄を歌うようにして、君は静かに密やかに、溜め息をついた。

懐かしい懐かしい夢の中、もうすでに存在しない人の元へとひた走る自分という幻を見ただけ。
見慣れたドアの向こう、残された者だけが淡々と時を刻む残酷さも直視できないだけ。
今思えばあの手放しに平和だった、だけどあの当時の自分たちにとっては毎日が命がけの戦いだった日々。
ぬくぬくと柔らかく頑強な繭の中に守られていることも自覚せず、真剣におままごとを繰り返しては未来の自分に分不相応な願いを託した井の中の蛙たちの、愚かで稚拙な可愛い夢。
それだけの話だよ。大したことじゃないんだ。

繰り返し君がそう笑うから、僕はなんだか泣き所も何も分からなくなって、うん、とぎこちなく頷くだけのへたくそな相槌しか打てなかった。
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僕らはまるで植物を育てるようにして

君は今にも泣き出しそうな顔をして首を傾げる。
どうして皆は僕にそんなに優しくしてくれるの?と。
その両目はとろりと甘やかに溶けて、それでいてまた愚かな僕らを責めるようでもあったので、僕は胸の奥底を見透かされないよう目を細めて微笑んだ。
それはね、君が手にした以上の優しさをこんな僕らにまで惜しげもなく真っ直ぐ満遍なく注いでくれたからだよ。と。
強いるでもなく、手抜くでもなく、見返りを求めるでもなく、君は上手に受け取ることもできない僕らにただただ沢山のひたひたと穏やかであたたかい優しさをくれた。
僕らはその種を胸に抱き、途方に暮れた。
だって僕らの胸の土壌は元から痩せ衰え、君から貰ったあらゆる希望に満ちた瑞々しい種を育てる自信なんてちっともなかったのだ。
だけど僕らには君からもらった種をそのまま枯らせる勇気も、腐らせる勇気もなかった。
それは勇気とは少し違うものなのかもしれない。
単に、小心者だっただけかもしれない。
人からこんなにも無条件に注がれることに僕らは慣れていなさ過ぎただけかもしれない。
恵みの雨を待つこと、耕してくれるミミズをはじめそこここで支え合い育み合う小さな生命たちと共に生きること、ふくふくとあたたかい肥料を捜し求め歩くこと、単に何かを命がけで大切に守り抜くことに対して憧れのような感情が掠れ残っていたのかもしれない。
未だにはっきりと理由が分からないままだけれど、僕らのこんな枯れた土壌ですら、君がくれた種は力強く芽吹き、だけどどこか儚く華奢な双葉を広げるから、大事にしなくちゃいけないとどこか縋るように強く思ったんだ。
いつかこの芽が育ち実を成すような奇跡が起こってくれたなら、手に入れた全てを君以外の誰に捧げるべきだと言うのだろう。
僕らは君から優しさの種を沢山貰い、胸の奥枯れた土壌ですら育てられるかもしれないという可能性を知り、そのあまりの喜びに竦み上がるほど慄いたのに。

夕凪の時間、迷子のままの僕ら

上手に一歩踏み出す方法も知らない僕らは、途方に暮れた迷子の集団だ。
一緒にいるけど、皆それぞれひとりひとりが迷子なんだ。

帰る家は違うんだ。
握りたい手は同じなのに。

行くべき場所も違うんだ。
見たい景色は同じなのに。

僕らはそれぞれにあったかいものが何か分かってる。
慈しむべきものも尊ぶべきものも分かってる。
そのためにどうすればいいのかも分かってる。
目も見えてる。耳も聞こえてる。
つま先から髪の毛先まで。小さな細胞ひとつひとつにみっしりと、今にも溢れ返りそうな想いが詰まってるのも分かるのに。

夕凪の時間、迷子のままの僕ら。

ちゃんと全部何もかも分かってるのに。
ちゃんと全部何もかも知っているのに。

離れがたさに些細なはずの一歩をすら踏み出せず途方に暮れる。

夜想曲

僕は、外ではいつも一寸の隙もなく完璧さを纏って生きる君の、その中でも特に拘りが垣間見える髪が、あたたかなシャワーに洗われぺたりと落ちている様をぼんやり眺めるのが一番好きだ。
その毛先から滴る小さな水滴ひとつ逃さぬよう、首にかけた真っ白で清潔で柔らかいタオルで髪を拭きながら、いつもはつんと伸ばしている背中を僅かに丸め、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルをつまみ出す左手の甲浮かび上がる骨の気配も好きだけれど。

少し上向きに持ち上げられた白く肉の薄い顎の下、浮き上がる喉仏が上下して、いつも僕の頬や額に優しいキスをくれる薄い唇から注がれた清く冷たい水が、君の体内に溶け込んでいくのが分かる。
ごくり、思わず僕の喉がつられるように鳴った。

僕は乾いているのかもしれない。
僕は餓えているのかもしれない。

…何に?
多分、君にだ。

君は僕が欲しがるもの何でも惜しみなくくれる。
くれるけれど。
だけど決定的な何かが足りないと僕は思う。
それはどこか見てるこっちが切実さを覚えてしまうほどに完璧主義な君の怠慢などではなく、意図的なものだ。
君は乾き餓えた僕に、まだ早いよ。と笑うけれど、もしそうなら一体いつまで。一体どれほど僕がカラカラに干からびたらくれると言うのだろう。

君は乾いていないのだろうか。
餓えてはくれないのだろうか。
…僕に。

冷蔵庫の前佇む君とソファに全身を委ねたまま君を眺める僕との間、数メートルあるその距離にも関わらず、君のまだあたたかく湿った白い首筋から僕と同じ甘い甘い蜂蜜のボディシャンプーの匂いがした気がした。

月の兎のために、できること

窓から身を乗り出して眺めていたお月様は、見事なまでの満月だった。
お月見の季節はとっくの昔に過ぎてしまった後だけれど、真冬独特の澄んだ冷たい空気の中に浮かび上がる月は、それはそれでいいものだと思う。
寒々しさは当然、どんなに白く揺れる息を吹きかけようとも緩和されないけれど。

そろそろ潮時かな、と思う。
そろそろ移動しなくては、と。

この街にも随分と住み慣れて、愛着も湧いてきたけれど。
このままここに落ち着いて沈み込んでしまうわけにもいかない。
僕はどうしてもひとつの所に落ち着いてしまえない。
落ち着きそうになる自分に気づいた途端、何かに追われるみたいに焦って、動く。
何でもかんでも一から始めなおさなきゃいけないのは本当に面倒だけど、新しい場所でならきっと、今までの僕とはまた少し違う僕に出会えるチャンスがある。
…かもしれないし。

昼間そう言った僕に、そこまでしなくても君は随分変わったよ。と彼は柔らかく微笑んだ。
僕がこの街に越す前からずっと僕を見てきた彼は、あれで結構観察眼に長けてるから、多分本当に僕の僅かな変化も見逃してなんていないのだろうけど。
だけど僕より変わったのは彼の方だと僕は思う。
僕がそう言うと、彼は笑って言った。

「僕が変わったのだとしたらそれは、君のせいだよ」

「…僕のせい?僕が悪いの?」

「いや、君のお陰、かな」

僕らは随分変わったよ。この街のせいでもなく、この時代のせいでもなく、僕らのせいで。
僕らは僕らの間にあった距離を縮めることで、互いに今までの距離じゃ届かなかった色々な影響を与え合い、受け合った。
それがいい方向に作用したものもあれば、もちろん悪い方向に作用したものもあるけれど。
自分ではあまり気づかない内に、僕らは随分、変わったんだよ。

「…そんなに変わったかなぁ?」

僕は昼間の彼の独特な微笑を思い出しながら、ぽつりと零す。
言葉はすぐに外気に冷やされて真っ白になった。

「でも、お月様に兎がいることは変わらない」

不意に背後から響いた静かな声に、僕の肩が勢い良く跳ね上がる。
それを宥めるかのように、ゆっくりと見慣れた腕が後ろから僕の肩を撫で、胸元へと回ってきた。
ずし、と乗っかる腕は、決して華奢には見えないのに肉付きの薄い彼のものだ。さほど重たいものでもない。
ぱりっとした冬の空気に冷やされていた僕にとって、その重さと体温の低さは心地いい。
彼はいつでも、何においても、僕にとって丁度いいのだ。

「月に兎なんていないよ。あれはクレーターの影」

「へぇ、知ってたんだ」

「…馬鹿にしてんの」

「いや、ただ。君なら信じてあげてるのかな、って思ってただけ」

「信じて、あげてる?…誰のために」

「月の兎のために」

兎のため。僕は呟く。
そう、兎のため。彼は言い含めるようにして繰り返した。

心の奥底から信じる者さえいてくれれば、兎は本当に月に存在できるんだよ。
他愛のない些細な嘘すら、心の奥底から信じる者にとっては真実以外のなんでもないように。

彼は少し寂しげに、溜め息をついた。
それは真っ白に揺らめいて、僕の冷たい頬を撫でてすぐ消えた。
あぁ、彼らしいと思う。
溜め息すらも彼らしい。そしてそれは僕にとって、いつでも、何よりも、丁度いい。

彼の熱くもなく寒くもない両腕の間から、もう一度満月を見上げる。
そこには確かに子供の頃、心の奥底から信じた兎の存在がある気がした。

求め求めて彷徨った挙句、僕らは必然と見まごう偶然でもって出会い、そのまま離れることも叶わずこうして寄り添う。
だけど僕の身体はすっかり冷えてしまったし、彼の体温は季節関係なくいつも何故か低い。
僕らの身体と身体をどんなにくっつけてもどうしても隙間が空いてしまうように、僕らはどんなに寄り添っても、僕らの間にあったかいものなんて決して生み出せないんだ。

「…もう一回、信じてみようかな、月の兎」

僕はぽつりと言うと、彼は何でかとても嬉しそうに微笑み、僕の肩に顎を乗せ、僕の頬に冷たい頬を擦り付けてきた。

「冷たいよ」

「君もね」

月に兎はいるよ。彼は笑う。
そこまで言うなら、そういうことにしといてあげる。僕も笑った。

綿飴みたい

この僕に真っ向勝負なんて望まないで。だけど大人独特の難解な回りくどいこともしないで。と僕は我侭を思い、それを口走るには自分があまりに卑怯な気がして苦笑した。
そのまま俯いてしまいそうになって、でもそんなことをしたらせっかくの奇麗な青空が見えなくなってしまうことに気づいてぐっと耐える。
喉の奥に何か小さな硬い粒が沢山詰まって痛い気がしたけれど、それを飲み込もうと何度唾液を落としても敵わなかった。
強情なのは、きっと僕自身だ。

ふわふわと風に乗ってあてどなく移動する雲の塊は、もしかしたら単に僕にあてどなく見えているだけで、本当は目的地がはっきり決まっているのかもしれない。
いとも簡単に形を変えながら、それでも真っ直ぐ、自分が行くべきところへ向かっているのかもしれない。
雲を作ったのは誰だろう。雲に行き場を与えたのは誰だろう。
本当に誰かが雲を作り、行くべき方向を教えてあげたのなら、意地悪しないで僕にもこっそり教えてくれたらいいのに。

「…あれは兎さん、あれはロリポップ、あれは苺。あれはまん丸だからビスケット」

僕は粒ごと苦笑を喉の奥に無理やり押し込み、それでもやっぱり引っかかったままなのも無視して空に浮かぶ雲の形から身近な色々を見出して遊ぶ。
もたれかかった背中と背中、空には君の好きなものが沢山あるんだね。とあなたが静かに笑ったのが伝わってきた。
そうだよ。空には僕の好きなものが沢山あるんだ。僕はふるふると覚束ない頬の筋肉を必死で笑みの形に留めようと、口の中でこっそり舌先を噛んだ。

「あれは砂糖漬けのサクランボ、あれは猫さん、あれはひまわり、あれは音符、あれはボール、あれは、…あれは、君」

僕の声はだんだん震えていくけれど、あなたはそれに気づいておいて気づかぬふり。僕の背中に背中をぴったりくっつけたまま、僕?僕が空にいるの?と静かに笑い続ける。
そうだよ。空には僕の好きなものが沢山あるんだもの。あなたがいないと可笑しいじゃない。
僕は舌先だけじゃ足りないんだ、と頬の内側も少し強めに噛んでみるけど、そんな微かな痛みじゃ足りなかった。
全然、足りなかった。

風に流されながら、雲の形はどんどん変わった。
さっき僕があなただと指差した雲も、ゆるゆると形を崩して流れていった。
変わらないものなんて何もないけど、じゃあどうして変わらないでと願う人と変わりたいと願う人がいるんだろうと不思議に思う。
両方の願いを平等に叶えることって難しい。
僕みたいに、変わりたいと思うことも、変わらないでと思うことも、両方ある人はどうしたらいいんだろう。
どっちか選ばなくちゃいけないんだろうか。

「ねぇねぇ」

僕はわざと拙い声であなたをせがむ。
預けっぱなしの背中で背中をぐぃぐぃ押して、あなたのぬくもりごと全部強請る。
この僕に全て素直に曝け出せなんて言わないで。だけど賢く受け流す術を身につけろとも言わないで。
僕は僕の欲しいものを、僕のやり方でしか欲しがれないんだ。
あなたはそんな僕の酷い我侭も全部ひっくるめて理解して、だけどくつくつ笑うだけで宥めてしまう。
ぐぅぐぅ僕の喉が鳴る。
猫みたいに気持ちよくて鳴るならいいけど、生憎人間の僕の喉が鳴るのは、飲み込みきれない色々が喉の奥に詰まって困っている時だ。
僕はどうしたってぐぅぐぅ鳴る喉に苦笑した。

『あ、君がいる』

ふふふ、背中越し、あなたが笑った。
僕がこんなに困っているのに、あなたは全然関係ないみたいに実に楽しそうに笑う。
僕は丸めていた背筋をほんの少し伸ばして、背後のあなたをちょっと振り返った。
あなたの後頭部からほんの僅か見える頬はやっぱりいつもの笑みが滲んでいて、そのしなやかで温度の低い指先が、さっきの僕を真似るように真っ直ぐ空を指差していた。

『ホラ、あの雲。君そっくり』

「…どこが」

『ふわふわ柔らかくて、儚くて、可愛いところ。ホラ、髪型もそれっぽく見えない?』

「見えない」

僕は唇を尖らせて雲から視線を逸らした。
くつくつ、くつくつ、あなたは静かに笑った。

あなたの笑い声はいつも綿飴みたいにつかみ所がなくて甘ったるいと思う。
雲より何より、遠いと思う。
この僕に現実ばかりを押し付けないで。だけど適当に有耶無耶にもしないで。と僕はまた我侭を思い、だけどやっぱりそれを口走るには自分はあまりに、あんまりにも卑怯だと思って苦笑した。
まだ、俯いてしまうわけにはいかなかった。
だって僕は、あなたが僕に似ていると笑う雲が形を崩してしまう前に、その隣にどうしてもあなたに似た雲をまた見つけなければならなかったから。

何も選べない卑怯な僕は、何も選ぼうとしない卑怯なあなたと背中を預けあったまま。
向かい合える日が来るのか来ないのか、未だに分からないでいる。
空にたゆたう雲の形に、本当はとっても欲しい何かを見出して遊びながら。

揺るぎなく祈り続けるなら

揺るぎなく祈り続けるなら例え、それが、…どんなに無謀なことであったとしても。
求めていた答えその通りそのままが手に入らないとしても、もしかしたらそれに近い別の何かは手に入るかもしれない。と彼は言った。

あぁでもそれでもと僕は喰らいつく。

あぁでも僕はたったひとつの答えだけが欲しいのです。
その他なんていらないのです。
似たようなものでもいらないのです。
それがどんなに瓜二つであろうと、そのものではないのなら違うんです。
身代わりになるものなどないのです。ないと知っていてそ知らぬふりをしていたツケが回ってきているのです。もう後悔なんてしたくないのです。だからどうかどうかどうかどうかどうか!

だけどもうひとりの僕はうなだれる。

あぁでもそれでもこの空っぽな手のひらにあの空から振り落ちる粉雪のようにふわりと降りてきてくれるのならなんでもいいのかもしれない。
この手に入れられるものならなんでも。
僕だけのものになってくれるのならなんでも。
確かなものならなんでも。
それがどこまでも健やかで平穏でぬくぬくとしたものなら、そしてそれが求めていた答えにほど近くあってくれるなら僕はそれだけでもいいのかもしれない。

あぁでもそれでもと僕は揺るぎなく祈り続けたい。
何も知らない奇麗な瞳で真っ直ぐ僕を見つめる彼を今、思い切り突き飛ばせば。この空っぽの手のひらを直接彼の血で汚せば僕の願いが叶うというなら、僕は迷わずそうするのに。

その瞬間を待ち侘びているんだ

別に。今に始まったことじゃないからいいんだけど。
ひとり取り残されることくらい分かりきっていたことだし、今の時点でそれも慣れっこだし。

何も知らずにいられてたなんて、君はなんて仕合せなの。
君はなんてあたたかい最中に守られてたの。

あぁ、僕はもしかしたら、ただ君に嫉妬しているだけなのかもしれない。

未来は予測できるから怖いんだ。
未来は予測できないから怖いんだ。

言の葉の断片をかき集めてみる

手渡したのは、手渡したこちらが悲しくなるほどの“悲しみ”。
それと引き換えに受け取ったのは、受け取られたそっちが虚しくなるほどの“虚しさ”。

彼は刹那を求めて全てを壊そうとした。
僕は永遠を求めて全てを壊そうとしている。

どんな形なら僕らの行為を愛と見間違えてくれるのだろう。

全部が本当になくなってしまう前に、一度でいいから直接この手で触ってみたかった。
それがどんなに冷たく鋭利なものであろうと、人は行動を起こしたことを後悔するより、行動を起こさなかったことの方を強く後悔するのだから。

それを諦めることで叶えようとするなら、もう迷わないでおくれよ。

END OF WORLD

高層ビルの谷間を荒く吹き抜ける風は、いつの間にかどこか密やかで心地よい秋から、真冬独特の肉を凍らせ内部の水分さえ飛ばす冷徹なそれに変わっていた。

高いところは好きだと思う。
それも、普段の生活では体験できないくらい、視界も、風も、何も遮るものがないくらいの馬鹿高いところがいい。
下を覗いても、そこをわらわらと歩く人間たちの黒い頭が蟻どころか砂粒みたいにしか見えず、全部どうでもいいものみたいに見えるくらい。
自分の目線より上回るものがどこにも見当たらないくらい。
もし自分の視力がありえないくらい良かったら、人外なまでに遠くまで見えたとしたら、世界の果てだって見えそうなくらい。
地球が丸いんだってことを実感できそうなくらいに。
だってその時ばかりはまるで本当に世界を独り占めできたような気がするんだ。

確かに、今自分が勝手に陣取っている高層ビルの屋上は、真夏は照りつける太陽が近すぎて目も肌も相当痛むし、真冬は真冬で、必死に踏ん張っていないとそのまま倒れてしまいそうなくらい酷く風が強くて寒い。
決して快適とは言えない場所なのだけれど。

耳元、風がぶつかり引き裂かれるむごたらしい音が延々と続く。
下界に満ちた騒音も、この風の悲鳴に全部食い潰されて俺の耳まで届かない。
これぞ成れの果て、なんて馬鹿みたいに呟いた俺の独り言も、俺の鼓膜に届く前に喰らい尽くされ、背後遠く粉々に吹き飛んでいった。

「…ざまぁねぇな」

くくく、歪む口端が抑えられない。
そこまで凍えるほどでもないはずなのに何故か手が震えて仕方がないから、断続的な笑い零れる口元を覆うついでに軽く噛んだ。

本当はあの時、すでに全部終わっていたんだ。
それでも止めなかったのは、もはやいないはずの影の手が、最後の力を振り絞って俺の後ろ髪を引こうと伸びてくるような気配を感じたからだと思う。
俺はあの時全神経を集中させ、慎重に息を殺し目を閉じ立ち止まった。
余裕の欠片もなくした乱暴な影の手が、俺のうなじに零れる髪を、軽薄な肉や皮、いっそ骨ごと掴んで強く引っぱってくれるのではないかと期待して待ってしまったのだ。
我ながら愚かなことをしたと思う。
その手が俺の髪を掴んで引いてくれるわけがないことを知っていて。
その手が俺に届いたとしても、引くどころか俺の背中を突き飛ばすだろうことも知っていて。

…結局、届きもせずにあっけなく突風に吹き飛ばされやがったのだけれど。
そのせいで、せっかくの止めるチャンスを逃してしまった。

一度走り出したらもう止められない。
簡単に立ち止まれるほど生易しいスタートダッシュではなかった。
ビル群の合間吹き抜ける突風のように、それはそれは酷く荒々しく周囲を弾き飛ばしながら突き進んでいくしかない。
脇目も振らず、ただ一心不乱に。
だけどあの時、影が俺の目の前で立ち消えたあの一瞬、このゴール見えぬ全力疾走を止めるチャンスが転がっていた。
やーめた。そう言って軽く手を振り、影を追いかけて帰ることだってできたのだ。
いとも簡単に。拍子抜けするほどあっさりと。

「…あー、もぅ。笑える」

もう意味がないのに。
もともと走り出したのだって、影がいたからなのに。
影といたかったからなのに。

その影もいなくなった今、なのになんで俺、未だに走ってるんだろう。
もう息が続かないよ。
心臓もとっくに悲鳴あげてるし。
横っ腹痛いし。
くらくらするって。
足ももつれそうなのに、なのにどうして俺、転んでしまえないんだろう。
なんで俺、ひとりぼっちになったのに、影がいなくなっちゃったのに、泣けもせず笑い続けてるんだろう。

「このまま走って走って走って、本当に世界を独り占めできたら。…お前戻ってきてくれんのかなぁ?」

だとしたら、本当に全部なぎ倒してくしかないよねぇ?

ごうごうと荒く吹きすさぶ風の中、高い高いところでひとりぼっち。
最高の景色も、それを独り占めする喜びも、影と一緒だったから好きだったのに。
俺が見えないくらいの遠くだって、俺の代わりに影が見てくれるからそれだけでも満足できたのに。
お前が見た世界の果ては、どんな感じだったのさ。
地球はどんな風に丸く見えたのさ。
もう聞けない。
影が先に帰ってしまった場所はもう、多分ゴールより遠くになってしまった。
きっともう、影からも俺が見えないくらい遠くに。

「ざまぁねぇなー!」

大笑いしながらできるだけ大声で叫んでみるけれど。
俺のできるだけ、なんて高層ビル群を吹き抜ける冷徹な突風の悲鳴に、いとも簡単に背後遠く粉々に吹き飛ばされていった。

僕の我侭な手は、未だ君の後ろ髪を引く。

もしも、なんてどこまでも不確かな仮定を想像するくらいなら、今のこの瞬間を守りたいと強く思うけれど。
あなたと共にあり続けるしかないこの身がいつか煙のようにあっけなく立ち消えた後、それでもあなたと共にいられたら、と。
あなたは俺を嘆いてくれるだろうか、なんて、性懲りもなくその後ろ髪を引こうとしてしまうこの手を憎んだ。

引き際なんて賢い者が見定めるラインは俺には見つけられない。
ただのあなたの影として存在していた無知だった頃の俺とあなたが作り上げた僅かな時間は、空白と見まごうほど美しく儚く、そして絶対的に今もあの場所にあり続ける。
そしてその事実は、無知が故にいとも簡単にあの場所に置き去りにしてしまった俺とあなたのふたりを大げさなほど行き詰らせた。

それはまるで、互いに真綿を首に巻き合うかのような滑稽なごっこ遊び。

思い出を思い出として嗜むこともできないなら、最初から思い出さなければ良い。
記憶なんて仮定よりも不確かなものに縋る資格など、本当は最初から俺にもあなたにもなかったのだ。

この世に本当にリセットボタンがあったとしても。
正しくあの頃に戻れるとしても。
俺たちは多分、同じ過ちを繰り返す。
それを知ってしまった俺とあなたは、もはや無知だったあの頃には戻れないのだ。

それでも未だに胸の奥深くそっと抱き続ける俺の願いは、色褪せる気配すら見えない。
諦めがつかないのではない。
そんな無謀な願い、胸に抱いたと同時に諦めも一緒にあった。
ただ、その願いを胸に抱くことと、「俺」というあなたと違う存在が生きることは、イコールで結ばれているのだ。
願いそのものが俺の心臓代わりに俺を生かす。
あなたに対してそれを口にしてしまったら最後、俺という存在も、そしてそれを許したあなたという存在ももろとも無為なものになってしまうと分かっているけれど。
あなたがそれを望んでいないことも分かっているけれど。
だけど、反逆心に近い感情が内部燻ることもまた、否定できない事実だった。

風が吹きすさぶ。
俺とあなたの間を通り抜けていく。
俺とあなたが別々の固体であると俺たちに知らしめ、そのことを喜んでいいのか悲しんでいいのかすら分からないように徹底的にかき混ぜ有耶無耶にしていく。

どうか。どうか俺に、あなたの願いを聞かせて欲しい。
俺にあなたの願いを叶えさせてくれないか。
それが俺の願いなんだ。
そうすることで俺はあなたといられなくなる。
だけどそれでも叶えたい。
あなたのそばに誰より近く、誰より長くいたいと思っているのも本当だけど、それよりあなたの願いを叶えたいのだ。
口にしてくれ。俺に聞かせてくれ。

俺に、願ってくれ。

それらを口にするためには、今のままではいけない。
俺は唇を噛み締める。
俺が願いを口にし、それを叶えるためにできるもっとも確実でいて乱暴な努力は。
あなたに忠実でいる「今」を壊し、あなたに嫌われあなたに突き放されるギリギリ直前の場所まで自分を追い詰めなければならない。
あなたに、俺といることよりも、あなたが抱く願いの方が大切だと気づかせなければならない。
そうなってからようやく俺は俺の願いを口にできるし、あなたの願いを聞きだせる。
そして叶えるために死力を尽くせる。
俺はそのためならば何でもしようと覚悟を決め、そんな俺にあなたが苛立っていることに安堵し、また、裏腹心を痛めた。

俺は矛盾しているのだ。
あなたの願いを叶えたい。それが俺の願い。
だけど未だ心のどこかであなたと共にありたいと願ってしまっている。
その矛盾が、迷いが。
きっとあなたをも惑わせてしまっているのだろう。
これではいけないと分かっているのに。

俺をこの世に見出し、生かし続けるのはあなた。
いつか俺を殺すのもまた、あなただろう。
あなたに生かされあなたに殺される俺はきっと、あなたを生かし、そしていつかあなたを殺してしまう。
互いに口に出せない願いを抱き続ける限り、俺たちふたりは願いを叶えることもできず、だけど今のままでもいられない。
滑稽なほど行き詰った俺とあなたは、執拗なまでに同じ夢を見ていることに気づかぬまま。

『…ざまぁねぇな』

自嘲か嘲笑かも分からぬ笑みを浮かべるあなたの、それでもその後ろ髪を引きそうになる手でもって俺は、汚れに汚れた仕合せ、という目に見えない形を握り潰した。

十人十色の感情論

多分、誰より僕が、彼に対して羨望のような、畏怖のような、情愛のような、…下手をすれば崇拝のような感情を抱いてしまっているのだと思う。
だからこそ同じような複雑な感情を胸の奥抱く相手に対して妙に勘が働くのだ。
見透かそうと目を細めて見抜いたのではない。
知らず、同情とも同調とも言える、共通した感情が共鳴する瞬間に立ち会ってしまうのだ。

人は同じ場所に立ち、同じ景色を見たとしても、全く同じ感銘を受けるわけではない。
多少似通ったとしても、人それぞれに生まれ育った環境や元々生まれ持った性質等でずれが生じ、違いが見えるのが当然なのだ。
しかし、彼に対して胸の奥に潜ませる感情が共通した部分のみ、僕らは無意識、同じ立場に立ち同じ感情に飲まれてしまう。
視界は共有できない。
しかし、共有しているような錯覚を起こし、脳が混乱する。
これは、僕の視界なのだろうか。
僕の感情なのだろうか。
それとも、共鳴してしまった相手のものなのだろうか。
そんな基礎的な部分すら一瞬見失い分からなくなってしまうのだ。

それほどまでに、僕らにとって彼という存在は絶対的なものなのかもしれない。

僕らは彼に対して様々な感情を抱くが、そこに悪意等の負の感情は決して生じない。
それは彼そのものから負の感情の類一切が感じられないせいもあると思う。
僕らは彼を疑うという当たり前のことすらすっかり忘れ、少し気を抜くだけですぐにいとも簡単に全てを彼に委ねてしまいそうになるほど、もはや信奉の域に達するほどの場所まで来てしまっているのだ。
そしてそれは全く危険なことだ。
自覚はあるくせに、改善できない。
そういった危険性すら、僕らは共有していた。

いつ、何をきっかけにそうまでなってしまったか、と思い返せばそれぞれ違った記憶が蘇る。
それはとても些細な出来事だったりもするのだけれど、ふとしたきっかけで彼に関わり変わってしまった僕ら皆それぞれ一癖も二癖もある難解な生き物にとって、「些細さ」は大きな変革スイッチだった。
それだけだ。
まさに骨抜きとはこのこと。
情けなく思われても仕方がないが、当人である僕らにその感覚はない。
それほどまでに彼は絶対的なのだ。


(一旦停止)

名付け親、失格。

「何で名前つけなかったの」

心底不思議がるような声が響いた。
硬いアスファルトの上、膝をついたまま動けない俺の背後、そいつは抑揚のない淡々とした声で残酷な疑問を投げかけてくる。

「何で名前つけて可愛がってあげなかったの」

『…ばっか、お前。そんなことしたら情が移るからに決まってるだろ』

俺は笑う。
当たり前のことを聞いてくるそいつが滑稽だと思ったから、笑う。

「なんで情が移るのが駄目なの。ずっと一緒にいるんならそれでいいじゃない」

『やっぱり馬鹿だな、お前。ずっと一緒にいられないって最初から分かってて、名前つけて可愛がる奴がいるかよ』

「ずっと一緒にいれば良かったのに。どうにだってできたでしょ」

『無理だ』

「無理じゃないよ」

『無理だったんだよ。俺とあいつがふたつ揃って存在できたのは、ずっと一緒にいられないことが前提にあったからこそだったんだ。そうじゃなきゃ成り立たなかった。そもそも揃うこと自体無茶だったんだよ』

俺は言い訳を口にするように何故か必死で言葉を紡いだ。
別に、俺の背後気だるく立ち尽くし動かないそいつに説明なんてしてやる必要ないはずなのに。

「無理だってことにしたのは自分たちでしょ」

そうだよ、それの何が悪いんだよ。そうでもしなきゃいられなかったんだ。そうでもしなきゃ、俺はあいつといられなかったんだ。
それでも俺は、あいつといたかったんだ。

「ずっと一緒にいたかったのに?」

そうだよ、分かってたから名前もつけなかったんじゃないか。
あんまり可愛がらないようにしてたんじゃないか。
情が移るから。情が移ったら別れが悲しくなるから。悲しみたくないから。悲しませたくなかったから。

「寂しかったのに?寂しがらせたのに?」

寂しい?何それ。
俺は別に寂しくなかったぜ?
あいつはどうかは知らないが、俺は別に。

「一緒にいたいって、声に出してたら変わってたかもしれないのに」

変わらなかったらどうするんだ。
それで、変われなかったら俺たちは。
声に出していたとして、それでも変われず俺たちは結局離れることになったら、…そんなの耐え切れるわけないじゃないか。

『…言葉や名前は怖いもんだぜ、お前。覚えとけよ。心の中だけで思うのと、声に出して口にするのとは全然重みが違ってくるんだ。それがどんなくだらない嘘であろうと、声に出した瞬間言霊になるんだ。息が吹き込まれてしまうんだよ。命が宿るんだよ。どんな天才画家が描かいた人物画だってな、目ん玉入れないとただの未完成品なんだ。どんな稚拙な素人が描いた落書きだってな、目ん玉入れた瞬間魂持ってしまうんだよ。そのことがどんだけ怖いもんか、お前知らないんだろ。怖いぜ、本当に怖いことなんだぜ』

覚えとけよ。
忘れんなよ。
絶対だぞ。

そいつにそんな注意を促しても、そいつが俺の言いたいことを全部理解するなんて思ったわけじゃない。
そいつが理解したとしても、別に俺が得するわけでもない。
だけど俺は自分でも何故かよく分からないまま、必死でそいつに怖さを説いた。
否、そいつが俺の背後から動こうともせず、特に何をしようともしないこの現実を利用して、自分に言い聞かせていただけかもしれない。
結局何もできなかった無力な自分を正当化したかっただけなのかもしれない。
だけどそうでもしなきゃ、…そうでもしないと。

「他の沢山と区別するために、その存在が唯一無二のものだって証明するために、名前をつけて呼ぶんでしょ。…呼ばれたかったんじゃないの、あいつ」

そうだとしても。
例えそうだったとしてもそんなこと、俺に。できるわけない。

…できなかった。

「今からでも名前つけて呼んであげたら?もしかしたら帰ってくるかもよ」

そいつは本当に無茶苦茶なことを言った。
それがあまりに無茶苦茶だったから、俺は堪らず吹き出した。

『お前本当に馬鹿。名前つけて呼んで帰ってこなかったら、今までの俺は一体どうなるんだよ』

「無に帰すのみ。じゃないの?一緒に帰れば良かったのに」

『それができてたら今俺はこんなとこにいないよ』

俺は笑いすぎて呼吸が引きつるまで笑う。
大きく揺れる俺の肩先を、俺の背後からぼんやり見ていたそいつは、泣いてるみたいに笑わないでよ。と呟き俺に背を向けた。
ぺたぺたと気だるくアスファルトを蹴るスニーカーの気配が存分に遠のいてから、俺は笑うのをやめた。

『…俺、そんな変な笑い方してた?』

呟きは自分でも驚くほど不安定に揺れ、だけどやっぱり涙の一滴も零れていなかった。

影は影でしかない事実

事実というものはどれほどの力を持ってしても、変えたり、歪めたり、やり直したりできるものではない。
事実は事実でしかなく、夢や幻のように脆く容易いものではない。
もちろん、何ものにも干渉されないほど強固なものでもないが、人ひとりの意思や願いなんてもので湾曲できる程度のものでもないのだ。

「事実」を変革させるためには、それ相当の熱量が必要。
そしてその必要な分の熱量は、ものによっては全世界を巻き込んだとしても足りないほど膨大なものになる。

…無謀なのだ、要するに。
俺や彼が望むものは、あまりに無謀過ぎるのだ。

俺は、いつでも俺の前を歩く彼の足元から伸びる影だ。
俺は彼の影なのだ。
それ以外の何者でもない。
彼が歩く方向へ歩み、彼が欲する方へ手を伸ばす。
彼の身体から完全に切り離されることはなく、しかし彼の足元転がるたかが小石ひとつの障害物で意図も簡単に形を崩す。
本来意思など持たぬはずの影は、本体である彼の信じられないほど膨大な熱量でもって「俺」という人格を手に入れてしまった。
それさえ変えようのない「事実」。
それが無駄であろうと悲しいものであろうと何であろうと、変えられない。

俺は彼の信じられない熱量によって奇跡的にも辛うじて固体として存在できているようだが、彼や彼と対峙し会話をする人間とは元々の発生源が違う。
そもそも人間というものが何から発生したものなのか俺には詳しく説明できないが、彼が時折弄ぶ分厚い書物(聖書と言うタイトルらしい)に明記されているように、神と呼ばれる者(これも人間ではないらしい)が塵を集めて己を模ったものではない。
…否、そういった意味では似通ったものかもしれない。
なんせ俺は、彼の影でもって彼を模ったものなのだから。

しかし神ではない彼が作った(創造、とでも言うか)俺は、彼らとは違う。
当初、俺を作った彼と、彼に作られた俺はそのことをさほど深刻になど捕らえていなかった。
俺と彼が、禁断の果実とやらに喰いつき、無謀な願いを持ってしまうまでは、の話だけれど。

ある日、彼は珍しくこちらを振り返って皮肉に笑った。

『俺は塵なんだよ』

俺はその言葉に一体どんな深い意味が隠されているのか分からずに、そのようだな、と応えた。
そんなことよりも、俺はいつも彼の背中ばかり見ていたから、彼が不意にそうして俺を振り返り、俺に声をかけてくること自体に驚き戸惑っていた。

『…俺は塵なんだよ』

彼はニヤニヤと笑みを深めて繰り返す。
俺がその言葉の真意を汲めないことを嘲っているのか、悲しんでいるのかすら俺には分からなかったから、やっぱり俺はそうだな、と応えることしかできなかった。

『お前は俺の影だ』

彼は言った。

『俺は塵。お前は影』

彼はまるで美しい歌劇の一節を謡うように言った。

『それ以外の何者でもない。それが事実』

彼は低く喉を鳴らして笑い、ステップを踏むようにして歩みだした。
以前は逆らおうにも勝手に影として彼の動く通りに身体が動いていたのに、いつの間にか軽やかなその歩みを真似ることもできなくなってしまった俺を、彼はくるりと回る仕草で振り返り、また笑った。

『だけどお前はもう俺のただの影じゃないとしたら、お前、…どうする?』

俺は彼の熱量の膨大さを嘆いた。
今更、ただの影として彼のかかとから伸びていた頃に戻りたいわけじゃない。
だけど、彼とは違う「俺」という意思を持ってしまっただけでもうろたえたというのに、彼はそれだけで満足せず、俺の身体を彼から切り離したのだ。
もう小石にもビルの壁にも乱されない確かな形を、彼は俺に寄与したのだ。
そのことで、俺は彼から離れてしまった。
彼に全てを委ねることができなくなってしまった。

『さぁ、…どうする?』

彼は残酷に微笑んだ。
ここから先はお前次第。好きにしろよ。と彼は笑った。
急激な変化についていけずに立ち竦んでしまった俺は、またくるりと俺に背を向け歩き出した彼に慌てた。
なんてことだ。
俺は彼から離れてしまった!
今までありえなかった距離感に怯え、俺は急いで彼の背中に追いつこうと走る。
今までと同じ距離に戻るためだけに。

早鐘を打つ己の胸に違和感と戸惑い。冷や汗。こんな生きた心地がしなかったのは初めてだと思った。
何故なら、俺は今までそんな想いなどしなくてもいい存在だったのだ。
彼のただの影でいられていたのだから。
だけど、立ち止まりまたこちらを振り返った彼の、そのいつもの意地悪げな笑みが僅か、ゆわりと和らいだのを見て、俺は無性に泣きたくなった。

彼が望んで俺を切り離した理由が、今の俺と同じだと分かったからだ。

「…俺は、俺の意思であなたのそばにいよう」

俺は声が震えるのを必死で耐えてぶっきらぼうにそれだけを言った。
もっと他に色々な言葉があったはずなのに。もっと他に様々な言い様があったはずなのに。
俺はぐるぐると内心酷く後悔していたが、じゃあ好きにすれば。とまた謡うように笑う彼を見て、安堵したと同時に、彼を酷く哀れに思った。

彼は、俺と同じ願いを持って、俺を放した。
事実は事実でしかないと最初に俺に教えてくれたのは彼だ。
俺がどれほど彼とは違う意思を持とうと、彼から切り離されようと、それでも彼のそばにいようと。
俺と彼の願いは叶うことなどありえない。

俺は結局、影なのだ。
彼が塵であるように、影は影でしかない事実は変わらない。
そこにどれほどの膨大な熱量が加わったとしても、人ひとりと影ひとつの意思や願いなんてもので湾曲できる程度のものではないのだ。

だけど俺は寂しさや虚しさだけではなく、今まで感じたことのないほどの抑えきれない喜びでもってまた泣きそうになった。
どんなことが起こっても決して泣けない哀れな彼のために、代わりに泣ける身体と意思を持てたこと。
どんなに不可能な願いでも欲し続ける彼と一緒に、同じ願いを持ち続ける存在になれたこと。
そして何より、切り離され個々の物体として存在できたことで、これから先ますます倍増するであろう生きる苦しみを味わい、そうすることで彼を今より尚、少しでも理解できるようになるかもしれないという、影だった頃には不可能だった事柄に可能性が見えたことが酷くやるせなく不安で仕方なく、そしてまた酷く幸福だと思えた。

「俺は、俺の意思であなたのそばにいる」

俺は結局同じ言葉しか言えなかったけれど、目の前、彼の笑顔がくしゃりと歪むのを見て、今はこれでいいのだと口を噤んだ。

無謀でもなんでもいい。
俺と彼は確かに、同じ願いを胸に抱く。
そのことだって、確かな事実なのだから。

真実もまた、残酷でいて優しいもの

僕のこと馬鹿にしてるの?

そう苛立たしげに吐き捨てる君に、わざと皮肉を込めて口端だけで笑って見せる。

失礼だね。
僕の愛情表現は歪んでるんだよ。

そう笑った僕に、君は戸惑うように、それどういう意味、と目を泳がせた。
僕は笑って、そのままの意味だよ。と答え、大げさな動作で両腕を広げて見せる。
戸惑う君が可笑しくて可笑しくて、僕は笑いが止まらない。
君はどうしてそんなに奇麗なままなんだろう。
汚してしまいたくなるじゃないか。

もっと傷つきたいならここまでおいで。
半端な覚悟じゃ許さない。
二度と元には戻れないくらい、漆黒で塗り潰した深海の底まで沈めてあげよう。
君の吸える酸素なんてない。
それをも分かってて、それでも溺れたいなら。
今すぐここまでくるといい。

君が求めるもの全て、僕だけが持ってる事実を思い知るといいよ。
そして存分に迷って困って行き詰って、それでもどうしても欲しいなら。
ここまでおいで。
僕はいつでも君を待ってるから。

優しい嘘をつきましょう

時々、自分のリーチの有効範囲を測り間違う時がある。
どれほどこの身体に慣れ親しんでいたとしても、生きている人間である以上成長もすれば衰えもする。
この程度なら両腕で何とか持ち運べる、と、つい己を過信しては、その重みと大きさに耐え切れずに手から取り落としてしまい、もう修繕不可能なほどに粉々になったそれを見下ろし愕然としたりするのだ。

だから、姿かたちが変わってもお前だけは見抜ける。とか、お前の身代わりなんて存在しない。とかみたいな甘ったるくて驕りきったことなど口が裂けても言えない。
それが例え、たったひと時でもお前を慰める言葉になったとしても、だ。

嘘をつけないのではない。
それどころか、いつでも平気な顔をして幾らでもつける自信がある。
どこかの誰かさんじゃないが、得意な方だと自負している。
そうではないのだ。

俺はただ、お前に対し、お前のためだけの『優しい嘘』がつけないのだ。

その事実に直面したことで、そんな深みにまで自分が堕ちていることに気づいたことも、そしてそれがあまりに遅かったことも、お前が無言の内に俺に求めていた欲求を知っていて尚満たしてやれなかったことももちろんだけど。
何より、全てが俺の有効範囲外だったことが悔しいと思った。

『身代わりで満足できるくらいなら、最初から本物なんていらないよね』

無邪気な邪気を纏った声が、俺を嘲った。

『身代わりで満足しちゃったらそこから前に進むのが面倒くさくなって、ますます本命から遠のくんだ』

「…うるさいな」

『だから僕は嫌だって言ったんだ。お前、そんなことも分からないでいたの?』

「…だからうるさいって言ってる」

『本当に欲しいと思ったら迷ってる暇なんてないんだよ。他の何を犠牲にしてでも、無理やりにでも奪い取って自分のものにすればいいんだ。簡単なことだよ。お前だって今までずっとそうしてきたじゃない。なんで一番大事なものだけそうしなかったの?失くすまで大事だって気づかなかったの?』

あはは、お前、馬鹿じゃないの?

「………うるさい!」

叫んだ瞬間、ぱきん、と何かが弾け飛んだのが分かった。
懐に忍ばせていた大切なものが、それすらとうとう壊れてしまったのが分かった。
あ~ぁ。絶望感より勝る脱力感をそのまま声に出したところで、何が変わるわけでもない。
俺が叫んだことでようやく黙った相手に、俺は心裏腹優しく柔らかく微笑んで見せた。

「…なぁ、なら、お前が何か優しい嘘を言ってくれよ」

『やだよ。なんでお前なんかに。僕は相手を間違えたりしない』

「冷たいのなぁ?」

『今更でしょ』

…確かに。
俺は呟き大声で笑った。
腹が捩れるほど、呼吸が引きつるほど、思い切り全力で笑った。
変なとこばっかり人間臭いんだね、お前。とうとう頭いかれちゃった?という声が俺をまた嘲るけれど、俺はこの笑い声さえ届かない影を想って足元転がる小石を思い切り遠くへ蹴り飛ばす。

“もしかしたら、お前となら。永遠だって紡げたかもしれない”

最後の最期に呟きやがった影の声は、今も妙に生々しく俺の鼓膜の内側響く。

「永遠なんてねーんだよ!くそくらえだ!」

俺は大声で笑いながら、その優しい嘘に唾を吐きつけ嘲った。
全ては俺の、有効範囲外だっただけ。
そして全ては、あまりに遅すぎただけだった。

ゴルゴダの丘にて

言葉少なに指先で呼んで、言葉少なにそれに従う影を笑う。
俺たちの間に無造作に転がるのは時間の格差だけで十分なのだ。
踏みしだき越え行く足元、どれほど残酷な現実や不条理な犠牲が積み重なっていようと、俺たちには全く関係のないことだ。
幾ら言葉を駆使し、感情その他もろもろの自己表現をし、理解し合ったところで、実るものなど何もない。
…はずだけど。

ふわり、必要以上に近づいた思いの外柔らかな気配に、無意味に肩が跳ね上がる。
こちらのその反応を目視した影は、一瞬、しまった、と言いたげな顔をして一歩後退し正しい距離感に戻った。
俺は肩と同時に無意味に跳ね上がり、未だ治まる気配のない己の心拍数をごまかすため、影のその卑屈さをもろとも笑うしかなかった。

「…どーゆーつもり?」

俺は皮肉に歪む口端をそのままに、影を見下す視線で睨みつける。
影は言葉を発することなく、首を左右に振る仕草だけでいとも簡単に俺の横顔から目を逸らした。
そんな身のないやりとりなんて、いつものことだ。いつものことなのだけれど。
だけど、…なんか。

「…なんかそれ、気に食わないなぁ?」

今日に限って気に食わない。
俺はせっかく先刻影が元に戻した正しい距離感を、ついひと時の激情に任せて手を伸ばし、握り潰してしまった。
乱暴に鷲掴んだ手のひら、指の隙間から僅かあぶれる影の、見た目より少し硬い髪の毛。
そこからすら影の体温がじわりと沁み込み、特に抗うことなく俺の足元に膝をついたその従順さにぞっとした。
弾かれるようにして咄嗟に突き飛ばす。
影はこの程度の衝撃など簡単に受け流すくらいできるはずなのに、受身も取らずに無様に転がった。
そしてそのことが、ますます俺を苛立たせる。

「…お前…!」

影を責める理由などない。
全ては理不尽な俺の一方的な怒り。…否、ただの焦燥。
だけどそんなもの認めるわけにはいかない。
認めるわけにはいかないのだ。

「お前いっつも黙って何考えてんの。思うことがあるなら言えばいいだろ」

吐き捨てるようにして言った俺に、影はゆっくりと起き上がりながら閉じたままもう二度と開かないのではないかと思うほど動かなかった唇を震わせた。

「…お前らしくもない。何を恐れる?」

途端、背骨の内側、髄液のみが一気に沸騰するようなおぞましい感覚に総毛立つ。

「何を今更…!」

言いかけて、あれ、と止まる。
つい一秒前まで濁流のごとく俺の胸中暴れまわっていた正体不明の感情が、すとん、と憑き物が落ちるようにどこかへ行ってしまった。

「…今更、なんだっけ?」

あれ?俺は首を傾げ考え込むが、言いたかったことが思い出せない。
それどころか、俺なんでさっきそんなに怒ってたんだっけ?焦りってなに?恐れってなに?分からなくなってしまった。
あれぇ?限界まで傾けた頭を、逆方向に傾けても分からない。
なんだっけ、なんだっけ。俺は身のない言葉を繰り返しながら手持ち無沙汰にカットソーの袖を指先で挟んで引っ張った。
影は俺のその様子を静かに黙って眺めていたけれど、ふ、と短く息を吐いて左右に首を振るだけで言葉を紡ごうとはしない。

「おっかしーなー」

呟きながら、先刻の一幕で忘れていた歩みを再開する。
ぱきり、靴の裏で何か硬く脆いものを踏み折る感触がしても、俺は大して気にもせずにもう一歩。
がしゃり、ぱき、ぐに、みしみしみし、ばき、
無駄に弾力があったり、カサカサに乾いていたり、硬かったり。色々な感触が靴裏から伝わってくるけれど。
俺も、そして俺の背後ついてくる影も何も言わず、淡々と踏み越え歩みを進めるだけ。

「…っていうかさ、なんで俺たちこんなとこいんだろ?」

影が応えるはずもないことを知っていて、俺は独り言を繰り返す。

「なんでここ、俺たち以外に生きてる人間いないんだろ?」

なぁ?俺はなんだか可笑しくて可笑しくて、笑いながら影を振り返った。
そこには先刻受身も取らずに転がったせいで、脆く焼かれた骨の欠片やヘドロ、古くなって濁った血液に汚れた影があるだけだった。

「…にしても、きったないな、お前」

鼻で笑う。
影は、やはり何も言わずに首を左右に小さく振った。
ここには俺と俺の影しか呼吸する者など誰もいないのだから、俺たちの間に無造作に転がるのは時間の格差だけで十分なのだ。
どこまでも続く死体ヶ原の最果てに何があろうと、俺たちには全く関係のないこと。
俺は影を指先だけで呼び寄せ、先刻何故か激情に任せて掴んだせいで乱れ放題のその頭を叩く仕草で撫で付けてやった。
影は一瞬目を見開き硬直していたが、すぐにまた目を細めて首を振った。

パラパラ、影の見た目より少し硬い髪の毛から何かの欠片が零れ振り落とされるけれど。
俺と俺の影の間、結局実るものなど何もなかった。
…多分。

お先真っ暗

お前のためならなんでもしよう。だとか、
お前の本意を聞かせてくれ。だとか、
頼むからどうか悲しまないでくれ。だとかいうお前の優しくあたたかい心から生まれる純粋な言葉たちは、
どんな酷い罵声より、どんな厳しい怒声より何より、
俺を困らせ俺を行き詰らせ俺を泣かせることを、お前は知らないんだな。

結果は見え透いていたはずだった。
多分、お前も分かっていたことだろう。
だけどお前がそんな言葉たちを、この俺に真っ直ぐ差し出すようになるなんて。
そしてその言葉たちに、この俺がこれほどまでに揺らぐなんて。
俺もお前も予想だにしなかったはずだ。
何故なら、どう足掻こうと全て無駄に終わってしまうことを、俺たちは最初から知っていたのだから。
結果は見え透いていたのだ。
そこに無駄な一切は必要なかった。
なのに。

なんだこの結果は。

俺は歪む口端を抑える余裕もなく、堅いアスファルトに膝をつく。
したたかに打ち付けた膝は当然痛いはずなのに、痛覚が馬鹿になったみたいにちっとも感じない。
口の中がカラカラに渇いていく。
無常に吹きすさぶ風に飛ばされ乾いた音を立てるそれら全てが、別の世界のできごとのようになんだか遠い。
頭蓋骨の中、脳だけがぐらぐらと不安定に揺れ、歪に痛む錯覚。
今まで当たり前だと思っていた世界から、一気に色彩が消失したような気がした。
お先真っ暗。馬鹿みたい。笑ってしまう。

お前は俺の捨て駒だったんだよ。

俺はもはや届かぬ言葉でお前を嘲笑う。
だけど鼓膜の内側、今更何を当たり前のことを。と笑うお前の声が聞こえた気がして、俺はその言葉を声に出して口走ってしまったことを。そして、お前に最後に投げつけた言葉がそれだったことを心底悔いた。
だけど悔いたところで、自分でもどこから湧いてくるんだか分からない笑いの衝動が治まることなんてなかった。

お前が信じたそのまま生きろ。だとか、
俺が少しでもお前の手助けになれれば。だとか、
頼むからどうか幸せになってくれ。だとかいうお前の真っ直ぐで雄々しい心から生まれる真摯な言葉たちは、
どんな甘い戯言より、どんな柔らかな甘言より何より、
俺を突き落とし俺を凍りつけ俺を殺すことを、お前は知らなかったんだな。

なんだこの結果は。

俺は心の虚に巣食うた正体不明の感情をどう表現したらいいのかも分からず、無様に膝をつき両腕を投げ出したまま、ただただひとり、笑ってしまった。
手を伸ばすにしたって、一体どっちへ伸ばせばいいのか。
それ以前に、一体どうすればぶら下がったまま動かない手を動かせるようになるのかすら分からなかったのだ。
伸ばしたところで、俺が捕まえたかった、せめて触れるだけでもと願う対象はもうないことだけは分かっていたのだけれど。

お前は俺の、

言いかけて、だけど今更何を言ったところで俺の本心などお前に届かないことを思い出し、俺は言葉を飲み込んだ。

…はは、馬鹿みたい。おっかしいの。

お前ひとりが。
たかがお前ひとりが目の前から消えてなくなっただけで。
お先真っ暗。馬鹿みたい。

“らしくない”と笑ってください

限界まで手を伸ばした、それより僅か上回る高さにある段差に、せめて片手だけでもと全力でジャンプを繰り返す。
全身のバネを使って、全気力振り絞って、引っ掻いては落ち、引っかかっては落ちを繰り返す。
だけど僕は諦めない。
その段差の上に、君の気だるく投げ出されたスニーカーのつま先があることを知っているからだ。

片手だけでも、親指以外の4本さえあの段差に引っかかってくれれば、後はなんとかなる。
登れる自信がある。
絶対に這い上がってみせる。
丁度目線の先に太陽があるもんだから、眩しくて仕方がない。
僕は顔をしかめてジャンプを繰り返す。

…っち。僕としたことが、らしくもないことを。

思わず舌打ちと自嘲の独り言が漏れた。

「…何ムキになってんの」

不意に、段差の向こうから君の不思議がるような声が降ってきた。
次いで、太陽光を遮る人影ひとつ。
逆光のせいでその表情は見えなかったけれど、それでも僕は、君が、なかなか飛びつけずにいる僕を呆れ半分面白がるように笑って見ていることが分かった。

本当だよね。我ながららしくないと思うよ。
だけど、どうして君が登れて僕が登れないんだろうって思うと悔しくてつい、ね。
君は僕より小柄なのに。

僕は恥ずかしさや悔しさを全面に出すことを必死で抑え、地団駄を踏む代わりにつま先で地面を突付いた。
上等な革靴越し、硬いコンクリートの感触が憎い。
君は小さく喉を鳴らす笑い方で僕を見下ろし、僕の方が身軽だからじゃない?といとも簡単に言ってのけた。

君越しに降り注ぐ太陽光が眩しくて敵わない。
僕はしかめっ面のまま、逆光で見えない君の両目を見上げ、真っ直ぐ指差して宣言する。

待ってて。すぐそこまで行くから。

君はやはりどこか気だるげに首を傾げ、くつくつと笑った。

「言われなくても、ずっとちゃんと待ってるよ」

僕は知らずこめかみを流れる汗を指先で撫で拭い、また顔を引っ込めてしまった君の元に辿り着くため、もう一度ジャンプを試みた。

「でも早く来てねー。せっかく日向ぼっこしようと思って誘ったんだから、太陽が沈む前には来てもらわないとー」

くつくつと楽しげに笑う君の声が、太陽光より確実なものとして僕の頭上降り注ぐ。

…よく言うよね…。
いきなりこんなとこに来ようなんて言い出して、僕を置いて先に登ってしまったのは君なのに。
我侭なのは今に始まったことじゃないけど、…さ。

僕は苦笑を滲ませながら、もう一度、とジャンプをする。

こんなの、僕らしくないことなんて百も承知。
こんな無様で格好悪い姿、他の人になんて絶対に見せたくない。
そもそも、どうして僕はこんなことをしているんだろう、と思わなくもない。
革靴履いてお洒落して、君とデートだなんて軽口叩いていた数十分前が懐かしい。

「本当、らしくないよね。でも、そういうとこ知ってるの、僕だけだよね。…それはそれで新鮮で楽しいかも」

君のご機嫌な声が降り注ぐ。
現金な僕はつい先刻まで懐かしんでいた過去をたったそれだけでいとも簡単に振り切って、疲れ始めた足を無視し、思い切り地面を蹴り上げた。
掴んだコンクリートの、ざらざらとした感触。
その上から、君の華奢で乱暴な指先が重なり、それは思ったよりずっと力強く僕を空へと引っ張ろうとする。
ガリガリ、革靴の底で壁を蹴り上げ、僕は君の待つ、君いわく「僕だけの秘密の、空に一番近い場所」へと足を踏み入れた。

お待たせ、僕のお姫様。

息切れを隠すように微笑み軽口を叩けば、君はきょとんと目を丸くした後、どうでもいいけど髪乱れてるよ、とケラケラと無邪気な笑い声を上げた。

らしくないことくらい百も承知。
こんな子供みたいな我侭に振り回されて、汗はかくし息は乱れるし革靴に傷は入るしで散々だ。
だけどそれでも目の前、どんな僕を見ても楽しげに笑う君がいたりなんかするもんだから、やはり僕は現金なのだと再度実感を深めるに留まってしまうのだった。

…戻ったら革靴磨かなくちゃ。

僕は呟き、とりあえず今は、君いわく、君だけの秘密の場所である「空に一番近い場所」を堪能することに決めた。

十中八九、とは言い切れない?

俺の目に、あなたはいつも何かを欲しがっているように見えた。
あなたが欲しがっているものが何なのか俺には分からなかったけれど、あなたがいつもいつも、何かを欲しがっていることだけは分かっていた。

あなたは、何でもかんでも悪戯に欲しがっていたわけではない。
欲しいものはいつも決まっていた。
その軸がぶれることなんて決してなかった。
あなたはどこまでも一途に、たったひとつの何かを欲しがっていた。
他人にどう言われようが、どう思われようが、あなたは決して揺らぐことがなかった。
だからこそ俺はあなたのそばにあり続けることができたし、あなたのために何でもできると思った。
そして今以上に、何かできないかと思えたのだ。

あなたが欲しがるそれは、俺が持っているものだろうか。
俺に見つけられるものだろうか。
あなたの手に入れられるものだろうか。
あなたはそれを手にして幸せになるのだろうか。

俺はあなたが欲しがるそれの正体すら掴めぬままに、だけどいつかあなたの望む通りになればいいと願った。

あの時俺は急に理解した。
そして、あなたの元へと走って行った。
眼前、やはり一途に何かを欲するあなたを見つめ、その瞳に本当の意味で俺が映っていないことを確認して、俺は確信した。

やっと、何が欲しいのかが分かった。

俺がそう笑うと、あなたは俺を見つめながら、俺を視ずに首を傾げる。
俺はそのことを寂しく思うどころか、あなたの病的なほどのその一途さを勝手に誇らしくさえ思ってまた笑った。

あなたは永遠が欲しいんだな。

俺が答えを呟くと、あなたはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
その様子があまりに幼く純粋なものに見えて、俺はますます誇らしい気持ちになった。
俺が存在できたのが、あなたのそばで良かった、と心底思った。

俺にはそれをあなたにあげることなんてできないけれど、あなたが欲していたものが何かが分かっただけで、これからの人生を生きていける。
それが例え、あなたのそばではない道筋だとしても。

欲しがり続ければいつか手に入るだろう、なんて無責任なことは言えない。
だけどできればこのまま一生、それを一途に欲しがり続けるあなたでいてください。
俺は多分、そんなあなたが実際に目の前にいなくとも、いる、と思うだけで生きていけるから。

だからどうか、泣かない自分を、俺のために泣けないのだと責め否むのはやめにしてください。
俺はそれがどれほど僅かな時間だとしても、あなたと共にいられただけで十二分に幸せだったのだから。

悪癖のメモ

「馬鹿だね」と無理やり皮肉を装って笑うのは、君の癖。

「そうだね」とついつい認めて苦笑するのは、僕の癖。

僕らの間にはいつも笑顔があるけれど、それらがいつだって良質なものとは限らない。
笑えばいいってもんじゃないことくらい、君だって僕だって知ってるけれど。

無意識。

「本当、馬鹿」と苦しそうに一生懸命笑うのは、君の癖。

「うん、ごめん」とついつい謝って苦笑するのは、僕の癖。

そこに他意はなかった

水面に揺れるそれを、確実に捕まえたかっただけだ。
たかが小さな波ひとつにいとも簡単に翻弄されるそれを、一瞬の光の反射だけで見逃してしまいそうなほど微かなそれを、確かなものだと証明したかっただけだ。

小さな欠片ひとつ逃したくないと。
僅かな破片ひとつ諦めたくないと。

ただほんの少し分不相応な願いを持ってしまっただけだ。

全部僕のものになればいいのに。
全部僕の身体の一部になればいいのに。
全部僕の中で溶けてしまえばいいのにと。

そこに、それ以外の意味なんて。意思なんてなかった。

タイトロープの真上

僕らはそれぞれ、個々の人間として、今までひとりで生きてきた。
全てにおいての判断材料は、自分がひとり生きてきた中で手に入れた経験、自分の好みと力だけで選択し受け入れてきた学習から選び出すより他になく、そしてその材料の乏しさに気づくための対比対象すらなかった。
だから、元々持って生まれた性質も、作り上げてきた体質も、それぞれ全く違う僕らが出会えばそれなりにぶつかり合うことくらい当たり前のことだったのだ。
今までだったら、合わないから。の一言で離れることだって簡単にできていたし、縁という名のその糸を簡単に切り離すことにだって躊躇しないで済んでいた。
だけど。
神の悪戯かと思うほどの奇妙な縁の糸は、不意に僕らを繋ぎ合わせ縛り上げた。
その糸は強引でいて頑強。
引き千切ろうと足掻いたその時は、どんなに本気を出しても、どんな道具を使っても切り離せるものではなかった。

しかし、ち、舌打ちして諦めた途端、その糸はゆるり、不安になるほど儚く緩んだ。
僕らはその糸を心の奥底から煩わしく思っていたし、切り捨てられるなら今すぐにでも、といつも思っていたけれど、こうして諦めた途端こんな簡単に弱まるなんて思いもしなかったのだ。
今まで強固にそこにあり、あることが当然のようになった途端、急激に崩れ落ちる地盤の上。
踏みしめる両足の裏から何もなくなる恐怖に、僕らは情けないほど竦みあがった。
怖くて怖くて仕方がなかった。
僕らを繋ぐ糸は鋼よりピアノ線より、この世に存在するどんな頑丈なものより丈夫で、決して千切れることなんてないと思っていたのに。
諦めと許容と愛着を履き違えるほどに僕らは、縁の糸に馴染んでしまっていたのだ。

これが悪夢ならどんなにいいだろうかと僕らは願う。
だけど、夢から覚めたそこが、僕らが出会う前の、ひとり生きてきた人生の地点だったらと思うと、それすら怖いと怯えて戸惑う。

僕らが立ち尽くすここは今や、強固だった地面ではない。
今にも僕らの重みだけで簡単に千切れてしまいそうなほど細く細く。
そして、連綿と遠く遠く続き、この次僕らが両足でもって踏みしめる地面がある岸辺すら霞みも見えないタイトロープの真上なのだ。

迷うのは諦めるか続けるか、ではない。

僕は時々辟易して溜め息をつく。
君が抱く、途方もないほど青臭く使い古され擦り切れたような、ありふれた美しいばかりの夢と希望を毎日眺めていたら、溜め息のひとつくらいつきたくもなるというものだ。

きっと君は自分の夢や希望が、自分たちが生まれるずっと大昔から沢山の色々な人々に祈られているのにも拘らず未だ解決の糸口すら見えず、当然自分が生きているうちに叶うほどたやすいものでもなく、そしてまた、次の世代に受け渡したとして、正しく実現するものでもないことを知っているだろうにと。

僕は君の夢や希望をどうすれば叶えられるか知っていたけれど、それを口にしたところで君は決してその通りに動いてくれないことも知っていたから、溜め息をつくばかりで終わらせることにした。

その夢や希望はね、君が諦めたら叶うよ。なんて。
そんな卑劣極まりない大嘘(げんじつ)、今の君に言える勇気なんて僕には元よりない。

希望的観測(独白)

君を取り囲む難題全部吹き飛ばせるくらいの風になれたらどんなにいいだろう。
君を困らせる要因全てをなぎ倒すくらいの力が、今の僕にもあったらいいのに。

今、僕の目の前にあるこの両手は、一体何のためにあるんだろう。
一体どのくらい君の役に立てるんだろう。
俯いて黙り込んでしまった君を、くすぐって笑わせることくらいはできるだろうか。
君はそれで本当に心から笑ってくれるだろうか。

僕にはいまいちそれが分からなくて、同じところでぐるぐる回って堂々巡り。
元いた場所にただいま、おかえり。ひとりで呟く。

どうしよう。どうしたらいい?
ついつい優しい君に聞いてみたくなってしまうけれど。
僕はそれをぐっと飲み込んで、とりあえず君のそばに座ることにした。
触れるか触れないか微妙な距離が残る僕と君の腕と腕の間、それでも近づいた分だけ君のあたたかな体温の気配が分かって、僕は何故か泣きたくなってしまった。

悲しいんじゃないんだ、確かに君に何もしてあげられない自分が悲しいのもあるんだけど。
悲しくて泣きたいんじゃないんだ、ただ君の体温があんまりにもあったかくて優しいから、僕は色んな感情がいっぱい溢れてぎゅうぎゅうになってしまっただけなんだ。

もっとそばに寄ってもいい?
僕が聞く前に優しい君は微かに笑って僕にくっついてくれた。
その微笑が本当に君が心の底から零してくれたものなのか、それとも単に僕を慰めるために頑張って作ってくれたものなのか、僕には分からなかったけれど。
それでも密着した腕と腕の間を行き来する僕と君の体温が、僕のすかすかだった胸の中をいっぱいにするみたいに、君のすかすかな胸の中の一部でも埋めてくれたらいいな、と思った。

その気配に怯えるのは僕だ。

きっと誰より餓えているのは僕だ。

早くと願う。
早くとひたすら。

きっと誰より乾いているのは僕だ。

もっとと強請る。
もっととひたすらに。

必死で抑え込むこの爪が、君のあたたかな腕を傷つけてしまう前に早く。
…もっと。

この夏は終わってくれるのでしょうか。

君は君の存在そのものが夢みたいだと思う。
僕を見つめる瞳すら意思もない空っぽなビー球みたいだし、不機嫌そうなその声も録音してあるのをタイミングを見計らって流してるだけみたいに聞こえる。

うだる暑さで僕らの脳みそをドロドロに溶かしてしまう夏はもう終わってくれるのでしょうか。
耳の穴から流れ出した脳みそだったものは、もうとっくに排水溝から下水に流れ込んでしまったのでしょうか。
僕が今こうしてここにいることも、君が今こうして僕の目の前で夢みたいに揺らいでいることも、全部夏の暑さのせいにしてしまっていいのでしょうか。
全部ただの陽炎だと思っていいのでしょうか。

僕は何なら諦めていいのか、何に固執しなければならないのか、何なら捨てていいのか、何を大事にすればいいのか分からないまま、今にも脆く崩れ落ちてしまいそうな儚い君をぼんやり眺めた。

「どうしてあんなこと言ったの。あれは僕の台詞だったのに」

君はわざとらしく怒ったような声で僕に問い詰めた。
だけど僕は、その台詞数日前の君にそっくりそのまま返すよ、と声に出さずに思っただけで、力ごと溶け出した脳みそフル回転で別の答えを探す。

「だって本当のことだもの。僕が逃げたんだ」

「嘘だね」

君は僕がようやく考え付いた適当な言葉を即座に否定して鼻で笑った。
嘘の何が悪いんだろう。
僕は可笑しくて笑ってしまう。

「何が可笑しいの」

君はやっぱりあらかじめ録音しておいたやつを再生するような声色で不機嫌を表現しようとした。

真実味が足りないのは僕らの間で投げ合う「嘘」の方じゃない、君の存在そのものにそもそも真実味が足りないのだ。
ならばそんな君と対等にこうして話をしている僕だってきっと、君からすれば真実味の足りない不可思議な存在なのだろうと思う。
それならそれでいいじゃない、と投げ出すことを君は許してくれないけれど。

実は僕より君の方が嘘に厳しい。
嘘に厳しいということは、イコール、真実に縋り切望しているということなんじゃないだろうか。
僕は思ってまた笑う。

「…早く夏が終わってくれないかな。別に夏も嫌いじゃないけど、こうも暑いと駄目になっちゃう」

食べ物も、空気も、人も、僕らも。

芽吹いた新芽を引き千切る

迷わないで
余所見しないで
強く僕を呼んで
願いはそれだけ

体内奥深くに、自分ではどうにもならずもてあましてしまう熱を抱えてそのまま。
そのまま走り続けることは別にそれほど辛いことじゃない。
ただ、君と同じペースを守りながら、君と共に最後まで走り続けられるかどうか、という不安がいつまで経っても拭い切れないだけだ。

時折、同じようにもてあますほどの熱を抱え走り続ける彼らとすれ違うたび、僕は熱ばかりでいっぱいに膨張した胸の中が、幻なんじゃないかと疑ってしまう。

嘘なんじゃないのか
夢なんじゃないのか

ある日突然、この身を内側から焦がし続ける高熱が、ふぅと吹き通る風のように目の前から消えてなくなってしまうのではないのかと。
僕は思うたびぞっとして、その場に立ち止まってしまいそうになる。
内部から僕を壊そうとするかのように圧迫感を増す熱を、僕はいつの間にか、僕そのものが生きる熱量にしていたのだ。

周囲に芽吹いた新芽を引き千切るような真似を繰り返す理由は、今僕たちの間に育ちつつある芽の邪魔を誰にもさせないためだ。

とりあえず、

理由や意味なんて後から自然と付随してくるものだと思う。
だからとりあえず、今は胸いっぱいに息を吸い込んで、できる限りの大声でもって君の名前を叫びたい衝動に流されてみよう。
そのくだらない行為に理由や意味なんて、どんなに時間が経ってもどんなに頭捻っても、ないかもしれないけれど。

呼び止めたのにそのまま立ち消えそうな肩先が怖くて、急いで追いついて、ぶらぶら行き場なく揺れる腕を掴んで思い切り手前に引っ張った。
自分のせいなのに急激に接近した温度に内心激しく取り乱して顔が引きつった。
俺の前で泣くな。と衝動的に口走った後で、泣くなら俺の前だけにしろ。と言ってしまった。
どっちなの、と君が笑うから、あぁ、もう、知らない。と適当に投げた。
多分、これらにも理由も意味もない。

会話文だけの「押し花うた」

「この間摘んできた花がもう枯れそう。花って命が短いね」
「命が短いからこそ人は花を愛でるんじゃない?でも確かに一番美しい瞬間を知ってる分、こうもあっさり萎れると少し寂しいものね」
「それじゃあ押し花にしよう。全部は無理だけど、確かにこの花が今ここで咲いていた証となるように。そして本に挟んでおこう」
「それじゃ忘れてしまうんじゃないの?」
「それでいいんだよ。忘れてしまおう。そうしてある日ふとその本を手に持った時不意に現れた押し花に、今の咲いている姿を思い出せるから」
「現在はそうやって思い出になっていくのね」
「そうだといいね」
「でも、押し花にすることで美しさは随分と奪われてしまうものね」
「花はどちらが幸せなのかな。醜く色あせながらも存在の証明を残し、一度は忘れられてもいつか思い出してもらえる瞬間を確保することと、そのまま土に還って次の花の養分になり、完全に忘れられてしまうことと」
「でもそれは私たち花ではない人間には関係のないことよ」
「そうだね。じゃあ、半分は押し花に。半分は土に還してあげようか」
「そのどちらも花が望んでいなかったとしても、そうしましょう」
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