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愛しい日々

あの時、僕は嬉しくて嬉しくて周囲なんて見えてなかったんだ。
それどころか目の前にいる君が纏う気配も表情も、気持ちも。何も見えてなかった。
僕は僕が感じている喜びばかりに夢中になって、君の身を削るような悲しくも激しい拒絶と、その意味を推し量ってあげられなかった。

懐かしいなぁ、とふと空を見上げる。

出会ったばかりの頃の僕らは、今思い出しても失笑するしかないくらい見事にすれ違ってばかりだった。
僕は君と出会った喜びに夢中で、君は僕と出会ってしまったことによって起こるだろう影響について思い悩んでいた。
僕らの間にどっかりと居座ったずれはいつまで経ってもなかなか改善されることがなくて、…多分、未だに認識にずれがあるままだろうと思う。
あの頃よりはマシとは言え、多分君は未だに僕と出会ったことを悔やんでいたりするんだろう。
僕と君とが出会ったことによって、様々なものが変化した。君が危惧していたことよりももっと大きなものが壊れ、それと同等の大きなものが生まれたのだから。

それでもほんの少しだけ近寄れたと思った時、僕は君の瞳のきらめきの意味を知って愕然とした。
僕にとって君の瞳のきらめきは、ひたすらとても奇麗に。純粋なもののように見えていて、だからこそ心惹かれ君との距離を縮めたいと躍起になったのだけど、そのきらめきの正体は瑞々しい生命力だとかふくよかな心の余裕だとかそういうものではなく、逆に人を傷つけることでしか身を守れない抜き身の刀のようなものだったのだ。
しかも、諸刃の。

君は僕を拒絶するその手で、自分すら傷つけていたのだ。
無意識に。

なんてことだ!
僕は何故か焦ってしまった。
僕がどうにかしてあげたいと勝手に思ったのだ。
そうすることで余計に君に負担をかけることなんて考えもせずに。ただ、君から離れればそれでいいなんてこと、欠片も思いつくこともできずに。

僕にはきっと想像力が足りなかったんだと思う。
君を思いやりたい気持ちばかりが先走って、本当の意味で君を思いやってあげられなかった。
だから君はいつも僕と会うたびしかめ面をしていたし、なかなか僕と目を合わせようともしてくれなかった。
僕が君の名を呼ぶたび、君は冷ややかな声で僕の名を吐き捨てた。

だけどやっと僕が君の心の一部を知ることができて、やっと君の目の前から離れることが最善策だと知った時、…君はどうして僕を引き止めてくれたのだろう。
あのまま君の言うまま甘えてしまいたかった。
だって僕はやっぱり君に惹かれてやまなかった。
君が好きだったんだ。

諸刃の剣でも、抜き身の刀でも、僕がどれだけ切りつけられてもいいと思ったんだ。
僕を切りつける刃が君をも傷つけるのなら、僕はその刀を抱きしめてあげようとすら思ったんだ。
そうすれば君に刃が当たることなんてない。
そうすれば僕は君のそばにいつまでもいられる。君とずっと一緒にいられる。
でも君は僕のその案も許してはくれなかった。
それどころか烈火のごとく怒り狂った。そんなのは絶対に許さないと厳しく言い切った。
それは、君なりの僕への思いやりだと気づいた。

気づいた時の喜びったらまたなかったのだけれど、でもだからこそ離れるしかなかった。
なのに君はそれすら止めた。

分からないのは多分、君もだと思う。…今なら。

懐かしいなぁ、と目を細める。

青空には薄い雲が途切れ途切れ揺らめき、太陽の光も夏ほど厳しいものではなくなってきた。
今頃君はどこで何をしているだろう。
僕と同じようにして空を見上げてくれているのだろうか。
君が見ている空は、僕が見ている空と同じように晴れているだろうか。それとも曇り?雨?
もしかしたら、君がいるところは夜かもしれないね。

僕は今、どこにいるんだろう。
分かったところで君に知らせるわけにはいかないし、分かったところで君との距離を思い知りたくもないし。
分かったところで、君とまた出会えるわけでもないし。
まぁ、いいか。

ここがどこであろうと、君がいないのなら同じだものね。

それでも僕は時々思い出す。
君と出会ったばかりの頃の、あの、周囲も何もかも見えなくなるほどの喜びを。
そして痛々しいほど冷たく張り詰めた君の、美しい瞳のきらめきを。

好きだよ。と僕は小さく小さく言葉にして空に放った。
君に直接伝えたことのない想いの欠片を、ひとつひとつ空に千切っては放っていればいつか。

いつか、
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仮定として

「大人気ないよね」

僕は心底呆れ返った溜め息を隠しもせず、どちらかというとわざとらしさまで追加して深々と吐いた。
猫背になりテーブルに行儀悪く両肘をついて、頬杖までついて。
ちくちくとマチ針みたいな微妙さを意識した視線で彼の横顔を刺す。もちろん薄目で。
我ながらみみっちい。

しかし彼は僕のみみっちさも性根の悪さも全く気にしない。
ついでに言うなら大人気ないと呆れ非難した僕の言葉すらちゃんと聞いていない。
多分また何か(彼にとって)楽しいことを考えているのだろう。表面上は無表情を繕ってはいるが、鋭い両目の奥が笑っているのだ。
僕が目の前にいるっていうのに、僕なんて眼中にないみたい。
緩く握ったこぶしを口元に当て、もう何年も何十年も同じ場所にかかったままの、昔の有名な画家の贋作を眺めるふりして黙りこくったままだ。

目の前に退屈をもてあました僕がいるというのに。
僕は何のためにここにいると思っているの。
僕の鬱々とした粘っこい視線に、彼はいつまで経っても気づかない。

彼は本当に大人気ない。
渋い大人の男を気取っているつもりだろうが、僕から言わせれば全然気取りきれていないのだ。
すぐ熱くなるしムキになるし、空腹だ睡魔だにとことん弱い性質だし、自分が面白いと一度でも思ったら他のことなんて全く見えなくなる。僕のことさえ見なくなる。
彼がそうなるツボとやらは彼にしか分からない。もしかしたら彼自身思いもよらないきっかけでそうなる時があるのかもしれないけれど。
とにかく、彼の琴線がどんなものに震わされ、意識ごと僕から奪ってしまうのか。僕には全く予測不可能だのだ。
そうなったが最後。彼は本当にのめり込む。
僕を含め、他のことは全部放り出して日がな一日そのことばっかり考える。
彼は結果よりも過程を重視するから、そうなった時僕ら彼の周囲の人間にも多大なる迷惑がかかることも、…ままある。

「なんでもいいけど、今度は最後まできっちり責任もってやってよね。僕らを巻き込むのだけは勘弁してよ」

僕は唇を尖らせ彼の気を少しでもこちらに向けようと努力するも、無駄なことくらい学習済みだ。

「本当、大人気ないよね」

僕は頬杖をといてテーブルに突っ伏し、横目に彼を見上げる。
彼はやはり口元にこぶしを軽く当てたままのポーズで考え事をしている。
鬱々とした僕とは正反対に、妙に浮き足立った気配を滲ませて。
こうなったが最後。結局僕は餌を前に待てをされたまま放置された飼い犬のように、どこか従順に。だけど不信感丸出しの目で彼を見つめ続けるしかないのだ。
彼が今まさに目の前に僕というリアルがあることに気づくまでずっと。
その視線を大げさにごてごてと飾られた額縁に収まった贋作からこちらに取り戻すまでずっと。

名前を探して。

あなたは奇麗だ。君は笑った。
見た目もそうだけど、今俺が言う奇麗はそういうことではなくて。
あなたの体内潜む、だけどどんな医療機器を使っても見つけられないし数値化できない核の話。心の話。
打ち付けた手首が赤黒く染まり、見た目だけで十二分に痛むそれをもう片手のひらで覆い隠しながら君は笑った。

僕は君と同じくらいの強さで打ち付けたわき腹の軋むような痛みを溜め息で覆い隠し、君を真似て笑う。
知ってた?僕と君はよく似てるんだ。
だからこそ、僕のそばにいつも君がいてくれると信じれば信じるほど、僕はどんなことも平気になっていく。
痛みも迷いも吹っ切れてしまう。
まるで魔法のように。

ずっと一緒だと幸福な勘違いをさせてくれるほどに。

あてどない旅路を行く君の隣、僕は僕と君の名前を探して歩いてみたかった。
あまりに似すぎている僕と君の、ふたり旅。
きっととても、幸せにまみれた苦しい旅路だ。

だって僕らには、最初から名前などないのだから。
どこにも。

「退屈」は死に至る毒だ

退屈で退屈でたまらなかったんだ。
たったそれだけで?と君は憤るかもしれないけれど、僕にとってはそれだけで十分な理由だったんだよ。
今、そのままでいられなかったその瞬き一度分ほどの刹那を僕に頂戴。

僕はただ、大声上げて笑いたかっただけ。
寂しかったんじゃない。
ただ、退屈で退屈でならなかっただけなんだ。

ねぇ、遊んでよ。僕と。
もっともっと。一緒に。

だってそうしないと、いつか君も同じ想いをすることになるよ。
平気だなんて嘘つかないで。

朝がくるよ。

今でも時々、この思い出しか残っていない部屋に確かな君の気配を探してしまう癖が抜けない。
もう絶対にいないことくらい分かっているのに。
絶対に。
絶望的なほど、断言できる。

もはや時間の経過と共に残酷なまでに薄れていく君の自室だった部屋の中、だけど君はどこにもいないのだ。

今でも鮮明に覚えている。
君の、栗色の柔らかな髪が額や薄い耳朶にはらりと零れ落ちる過程も。
伏せた睫毛の濃さが作り上げる、頬に零れた深い影の密やかさも。
内側からにじみ出る微笑を耐える時、頬の内側を噛む癖も。
強く硬く拳を握り締めた時、その肉薄な手の甲に浮かび上がる痛々しいほど白い骨の気配も。
こちらに向けた背中、肩先のラインの儚さも。
逐一数え上げたらきりがないその君の一々を、僕はこんなにも鮮明に覚えているというのに。

確かな君はもうどこにもいない。
新たな君はもうどこにもないのだ。
僕はこの部屋に来るたび、君を探しては思い知る。

この部屋の壁にかかったままの時計を見上げた。
元々不精な君のせいで電池が切れ掛かっていたそれは、少しずつ時間がずれ遅れ、それでも随分耐えたものだと思う。
カチ、カチ、スローテンポに時を刻むそれが、ふと、止まった。

「…あぁ、」

悲しむ資格なんて僕にはない。
寂しいなんて決して言えない。

あぁ、だけど僕はこんなにも。
こんなにも未だ君を探してうろたえる。
この部屋の時計と同じく僕の中の時間はあの日から止まったままだというのに、外の世界は淡々と正しく時を刻んでしまう。
君と離れたことで生じた隙間を、ますます引き裂き広げていく。

現状維持なんてできなかった。
だけど君と真正面から向かい合おうなんてしなかったら。
あのまま背中合わせのぬくもりと安心感だけで全てを許せていたら、今頃僕らはどうなっていたのだろうか。
あの時の僕の判断は正しかったのだろうか。誰も犠牲にならずに済む方法は、本当になかったのだろうか。あの時君ではなく僕がその道を選択すればよかったのではないだろうか、…なんて。
君が聞いたら本気で怒られてしまいそうなことを考え急いで首を振った。
今更迷ったところで何も変わらない。
そんな簡単なものだったなら、僕らは最初からそうしていた。
それが本当に叶わなかったから、他の方法が見つからなかったから、そのことを僕よりずっと分かっていた君は僕の苦渋の選択を無言で飲み、抗うふりして僕を煽り、この結果を呼んだのだ。

明かりもつけずに佇むこの部屋は、闇夜に塗り潰されたまま。
その暗闇にすっかり目が慣れた頃、不意に闇がぐぅと濃くなった。
僕は逐一君を思い出す。

『夜が明ける直前、夜の闇は最後の足掻きのようにぐっと濃密になるんだ。そして、あっけなく光に散らされる。俺は、その一瞬だけを頼りに生きてきたのかもしれない』

君はいつも朝焼けを悔いるように見つめていた。
噛み締められ白くなった唇のその歪さを真似るように僕もまた、きつく唇を噛み締めた。

あぁ、朝がくるよ。
君だけがいない静かな朝が。
君の気配がすっかり失せてしまったこの部屋佇む僕の頭上に。
また。

「決定的な違い」から生まれるもの

始めは、ただただ噛み合わない会話へのもどかしさだけだった。
僕と彼との間、どうしたって埋まりきらない「決定的な違い」は、大きく底なしに深い溝となって揺るぎなくそこにあり続けていたから。

僕はその溝を少しでも埋めようと足元にある土を蹴り落としてみたりしていたけれど、どこかで、どんなに頑張ったって決して埋まらないのだと理解してもいた。
それでも僕は、僕の想いの欠片少しでも、彼の心に真っ直ぐ届いてくれたらいいのにと願い続けた。
それは恋や愛という名前の感情と言うよりは、嫉妬や苛立ちに近い、酷く乱暴であり自分勝手なただの衝動だったように思う。

僕が必死に叫ぶ声にならない感情をいくらぶつけたとしても、彼はそのたびへらへらと笑い続けて受け流し、決して真面目に受け取ろうとしない。
僕はそんな彼を弱虫だの卑怯者だの散々罵倒し、そのたびいちいち失望感を味わった。
すぐに視線を外してしまう僕を、微笑みという名の仮面の下、それでも真っ直ぐ見つめ続けていてくれた彼のことなんて、ちっとも知らずに。

彼は同じ場所にいつもいた。
僕が僕を取り囲むありとあらゆるものに簡単に流され翻弄されている間も、彼は頑なに己の立ち位置に両足を押し付け、立っていた。
僕はそのことを知っていたはずだ。
彼は、僕との間にあり続ける溝の向こうから、一歩も動かず僕を見つめてくれていたことを。
僕は知っていたのだ。

どんなことがあろうと起ころうと、彼だけは決してそこからいなくなったりしない。
僕が溝のこちら側に戻ってきさえすれば、必ず彼とまた向かい合える。
ただただ噛み合わない会話にもどかしく思ったとしても、それでも彼に向かって言葉を投げかけることはできる。
何度受け流そうとも、彼は決して僕を拒否したりしなかったのだから。
僕はその疑いようもない事実に嫉妬し苛立ちながら、それでもどこかで安堵し甘えていたのだ。

僕が彼に対して持つのは、恋情や情愛という類の感情ではない。
多分今後も決して、そういった感情を彼に向けることはないだろう。
だけどもしかしたら、と時々思う。

もしかしたら彼が僕に向けて注ぎ続ける当たり障りない微笑みと視線には、そういった感情が含まれていたのかもしれない。と。
僕はその彼の想いを無意識理解していながら、応えることもせず甘えるだけ甘え、利用していたのではないか。と。

彼と過ごした季節よりも、彼と離れてから繰り返した季節の数が増えるたび、僕は溝を挟んで彼と向かい合って立ち尽くした日々を思い出しては、今更オドオドとうろたえる。

始めは本当に、ただただ噛み合わない会話へのもどかしさだけだったのだ。

今頃彼はまだ、あの場所にいるのだろうか。

夜が来るよ。

人々が行き交う喧騒の中。
無数のそれら人間が発する言葉をいちいち拾い上げるほど人間を愛せず、だけどそれらを完全に遮断できるほど人間を嫌えない僕はただ、ざわざわとただのノイズに成り下がった騒音をすり抜け歩いていた。

胸に抱いた甘く華やかな香りのする花束やリボンのついたプレゼントはきっと、胸にぽっかりと口を開けたまま埋まることない穴と交換条件に手に入れた幸福だ。
あの子の誕生日を共に過ごすこの喜びはきっと、あの日彼に穿たれ胸に開いたこの穴と引き換えに与えられ守られ続けている。

この空虚が埋まる日なんてきっとこない。
彼が僕の前に戻ってきてくれる日がこない代わりに。

『--- 
   ----
      -- 』

家路を急ぐ僕の周囲、ただのノイズだったそれらの合間、この耳が拾い上げてしまった声の欠片は、僕の名前を呼ぶ彼の声に変換されて脳内虚しく木霊した。

「…あぁ、」

思わず立ち止まり、雑踏の中彼の背中を探してしまった僕は、溜め息に似せて密やかに声を零す。

あぁ、僕はこんなにも。
こんなにも彼を探して未だ迷う。
こうして胸に花束やプレゼントを抱え、それを渡す相手がいて、そして僕の帰りをただ待ってくれる人がいる。
僕はその帰路に迷わずつけるこのつま先を持っているというのに。

胸にぽっかりと口を開け、閉じる気配もないそれを抱え、その身代わりに抱く幸福のなんと悲しく愛しいことか。
噛み合わない空虚と幸福でこの両腕はいっぱいだ。
大切にしなければ、大切にしなければと強く思えば思うほど、どこかで僕は、彼が僕の前に戻ってきてくれるのなら何でも捨てて行ける、…なんて。
彼が聞いたら本気で怒られてしまいそうなことを考え急いで首を振った。
そう簡単に捨てられるものではない。
そんな軽いものだったなら、僕は最初からここにはいない。
それが本当に大切だったから、捨てられなかったから、そのことを僕よりずっと分かっていた彼は僕の目の前から姿を消し、無茶苦茶だと言うしかないくらいの力技で無理やりにでもと僕をここに留めたのだ。

人々が行き交う喧騒の中。
俯いていた顔をめいっぱい上に持ち上げて、短い期間にあっという間に乱立したビル群のせいで、昔に比べて随分と狭くなった空を見上げる。
夕暮れ近づく空はそれでもまだ青々とそこにあり、この空が続くどこかに彼もまたいることを。そして時々は僕のように僕を思って空を見上げてくれていることを、情けないほど切実に願う。
もうそうすることでしか、僕は彼を想う言い訳を考え出すことができないのだ。

家路を急ぐ人々と同じように、僕は僕の帰るべき場所を知っている。
だけど迷う。
だけど立ち止まる。
彼が家路をなくし地図を放棄した身代わりに手に入れた幸福を、僕は抱え切れずに途方に暮れる。

『-- 
    -----
       --- 』

声の欠片にすら彼の断片を見出してしまう喧騒の中。
僕はひとり、家路に迷わずつけるつま先を持っているはずなのに。その場から一歩も動けずに、ただ呆然と夕暮れを見守った。

あぁ、夜が来るよ。
彼だけがいない幸福な夜が。
花束と、プレゼントと、埋まることない穴を抱えたままの僕の頭上に。
また。

とりかえしのつかない瞬間

その瞬間はいつも突然やってくる。

洗濯したてのシーツを広げたベッドに倒れ込みうとうとまどろみ始めた刹那だったり、手に馴染んだカメラのファインダー越しに真夏の空を見上げた刹那だったり、熱したフライパンの上に卵をひとつ割り落とした刹那だったり。

その瞬間はいつもその時僕が行動していたことと全く関係なく降ってくる。

カラカラに乾いたパイル地の心地よさも、生命力に満ち満ちた眩しさに眼球が痛むことも、ふるふると不安定な半透明が白く固まっていくことも、僕には少し遠い世界の出来事のよう。

『   』

初めて名前を呼び捨てられた瞬間は、今でもよく覚えている。
驚きと、戸惑いと、ほんの少しの照れくささ。
そしてあらゆるものを犠牲にしてまで頑丈に構築したはずの壁を意図も簡単に破壊されたことに対する、腹の奥底から湧き上がる激しい怒りと嫉妬心。
あの瞬間から僕は、それまで全く知らず、想像することすらなかった感情や、景色の色彩、風の気配、そして今思い浮かべて指折り数えることもできないくらいの沢山の見目珍しいキラキラしたものたちを知った。
それらは今まで僕の手のひらの上になかったものばかりだったのに、手に入れた次の瞬間から、まるで最初から僕の手の上にあったもののようにごく自然に僕に馴染んだ。
この指の隙間すり抜け、また僕から離れていくなんて思えないくらい、それは僕にすっかり馴染んでしまったのだ。

『   』

何度名前を呼び捨てられたかは、もう数え切れない。
そのたびいちいち初めて呼び捨てられた瞬間を思い出してしまっていたくせに、何度呼び捨てられたか。そしてその時折その僕を呼ぶ声に一体どんな感情が込められていたか思い出せない。

僕は手のひらの上に新たに手に入れたキラキラしたものたちを、ある日突然またなくして呆然とした。
僕は手のひらの上のキラキラしたものをなくす日がくるなんて夢にも思わず、脳裏反芻するでもなく、フィルムに焼き付けるでもなく、何かに記すでもなく、ただ凡庸とぬるま湯に浸かり日々を過ごした自分を少しだけ恨んだ。
いつかこうしてなくしてしまうことが最初から分かっていたら、僕はそれらキラキラしたものたちを手に入れないようにしていただろうか。
君が僕を呼び捨てる声すら、耳を塞いで拒否できていただろうか。
それとも、手に入れた瞬間からなくしてしまう瞬間までの間に、それ相当の覚悟くらいできていただろうか。
すっかりなくしてしまった今ではそんな「もしも」なんてどうでもいいことだけれど。

だけどその瞬間はいつも突然僕の元へとやってきた。
僕は何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないのだろうか。と思って顔を上げるのだけれど、

『   』

初めて僕の名前を呼び捨てた時の君の声が脳裏過ぎるだけで、最後に僕の名前を呼び捨てた時の君の声や、それに含まれた感情の欠片すら、僕は思い出せなくてまた顔を伏せる。

つま先一歩分のオーバー・ラン

限界まで引き絞った弓と矢。
胸中募り溢れ返りそうな感情全てを一点に集め、貫こうとするのは愛情か憎しみか。
それともそんなものたちとは全く違うものなのだろうか。

胸が反る。腕が戦慄く。引きつる喉に力を込めて、狙うは一点。
君のこめかみ。

中途半端に君を知ってしまったこの手が。この身が。この心が。
時々今をすら怖がって、前進しようとしたつま先を竦ませる。
全く何も知らずに生きていたら、君と出会うことなくまた違う今を迎えていたら、僕らは今以上に幸せだったのだろうか。
それともやっぱり、僕らが信じたいと願った通り、不幸せな結果に終わってくれていたのだろうか。
もう僕は、君がいない今なんてうまく想像することもできないほどの場所まできてしまっている。

君はいつだって半端な意思表示じゃ納得してくれない。
ただ「頷く」という行為すら、いちいち命がけとも取れるほどの全力の覚悟でもって行わなければならない。
少しでも気を抜けば、それはすぐに君に見破られる。
僕の両目を貫き、内側全てを抉り出すかのような鋭利な視線は、徹底的に曖昧さを許さない。

それならば、君に向けた弓矢を今、絶対に狙いを外さない覚悟を持って本気で放とう。

瞬きの一瞬すら惜しい。
その僅かな瞬間すら逃したくない。
最後の最後まで、君から目を離すまいと頬に力を入れる。

奇跡みたいだと思ったんだ。
奇跡のきらめきみたいだと。
中途半端に君を知ってしまったこの手が。この身が。この心が。
君の存在そのものを奇跡のきらめきと認知した。

矢よりも鋭く行き来する視線は、悪戯に触れれば瞬時に火傷してしまいそうなほど酷く冷たく張り詰めていた。
呼吸をするのも困難なほどの緊張感は、途切れた刹那に意識も魂もことごとく持っていってしまいそうだと思う。

ギリギリのラインで踏みとどまる僕と君の間。
僅か震えそうなこの手を離したら、限界まで引き絞られた矢はどのくらいの速さで君のこめかみに辿り着くだろうか。

ひとり、素足で立ち尽くす「今」。

あなたは酷い。
優しい瞳のまま、僕に迷うなと言う。迷わず殺せと言う。
一度では飽き足らず、二度も殺せというのか。
あの痛みを、苦しみを、悲しみを、もう一度味わえというのか。
僕に、またあなたを殺せというのか。

あなたは酷い。
目をそらさず、僕に早くと言う。早く殺してくれと言う。
一体どれほど僕に残酷な願いを投げつければ気が済むのだ。
僕の中から息づくあなた全てを抹消しろというのか。
僕に、またあなたを殺せというのか。

完全なる忘却が死とイコールで結ばれるとしても、たったそれだけのことさえ僕にはできない。
全細胞の崩壊を死とイコールで結ぶとしても、単に存在を確かめられなくなることを死とイコールで結ぶとしても。
僕にはもう、どんな死もあなたに捧げることはできない。
あなたを殺すことなんてできない。
僕はあなたが思うほど、強くなんかない。

人は死ねばそれまでだ。
死んだ者にとって天国も地獄もない。
それらは残された、生きている人間のためだけにあるものだ。
いつもどこかで見守っているだと?
きっと今頃天国で幸せに暮らしているだと?
そんなもの、生きてる人間が自分たちを慰めるためだけにつく嘘のようなものだ。
残された者たちが生きていくためだけに想像する幻のようなものだ。
僕にそんな嘘をつけというのか。
僕にそんな幻に縋れというのか。
あなたは全て知っている。
知っているのに。

あなたは酷い。
また僕にあなたを殺せと言う。僕の中からあなた全てを消せと言う。
僕に、俺の望みを叶えてくれと懇願する。
そうしてあなたが求めていた完全なる死を手に入れたとして、その次の瞬間から僕は一体どうして生きていけばいい。
あなたを一度ならず二度も手にかけた僕は、あなたの血液、肉片で穢れた両手をぶら下げて、一体どこに行けばいい。
あなたは問い詰める僕に答えもくれずただ、殺せと繰り返した。

あなたは酷い。
言葉にせずとも伝わる感情全てで、僕に愛してると囁く。愛していたと呟く。
だけどその言葉を絶対に口にし言霊として僕に伝えようとしなかったのは。最後の最後までしようとしないのは。
そして過去形にしてしまおうとすらするのは、今この瞬間につつがなく僕に殺されるためだ。たったそれだけのために、あなたは僕どころか自分すら騙して傷つける。
この手をまたあなたで汚せと。そしてあなたがいない世界にたったひとり、生きろというのか。
僕はあなたを愛することさえ許されないのか。

あなたは酷い。酷すぎる。
僕にはもう、どんな死もあなたに捧げることはできない。
あなたを殺すことなんてできない。
僕はあなたが思うほど、強くなんかない。
僕はただ、一生懸命ひたすらに、あなたを愛したいだけなのに。

今でも愛してるよ。
あなたの言葉は言霊になることもなく、だけど確かに、僕の胸を締め付けた。

ひとり、素足で歩く「今」。

ただ、「今」に慣れていくのが悲しい。
どんなものであれ繰り返し繰り返せば、この心もこの身も、こんなにも簡単に慣れていく。
あの頃僕はいつも「今」が壊れるその時に怯え息を殺していたけれど、どんなに残酷でいて痛々しい瞬間が僕らを覆い尽くしたとしても、「今」にさえこんな風に慣れてしまえるのだから、いつかその悲しみにも慣れてしまいそうで怖いと思っていた。
ただ、「今」に慣れていくのが酷く寂しいことのように思えていたんだ。

『大丈夫だよ』

君の声が優しく、木霊する。

懐かしい夢を見て、目が覚めた。
ふ、あまりの懐かしさにただ、笑おうとして失敗してしまった。
まだ薄暗い部屋にひとり。
君がいなくなって久しい、君の記憶残るベッドはあまりに。
君が残したぬるま湯に守られ浸かり続ける僕にはあまりに冷たい。

大丈夫だよ。
そこここに。君の記憶はちゃんと残ってる。
君を忘れることなんて、僕にはきっと一生無理なんだ。
君が僕の目の前から姿を消したことで、君は余計に僕の心の中に住み着いた。
分かっててやったんじゃないかと疑う瞬間もあるけれど、だけど君はどこまでも真っ直ぐだってこと、ちゃんと分かってるから。
だから大丈夫。

不安に飲まれることを必死で否定するために、確証のない祈りと共に君の口癖を口にして、僕は急いで微笑んで見せるけれど。
夢からふわり、蘇った儚い君の残像は、緩くかぶりを振って僕から目をそらしてしまった。

大丈夫だよ。
僕は君が好きだから。すごくすごく、好きだから。
いつでも僕は僕を君に預けるよ。そしていつでも僕は君を受け止める。
君は僕を守るって言ってくれたじゃない。
すごくすごく嬉しかったから、君が僕を守ってくれる代わりに、僕は君を守るよ。
どんなことが起こっても、何があっても、どれほど時間が経ったとしても、僕は君を完全に思い出なんかにしない。
だから大丈夫。

震える指先をとにかく黙らせるために、かたちもない願いと共に何度も君の口癖を口にして、僕はもう一度急いで微笑んで見せるけれど。
儚いまま確かな姿を現してくれない君はやっぱり、緩くかぶりを振って僕の目を見ようとしなかった。

君なしには生きてなどいけないと。
君がいない世界になど僕にはもう住めないと。
そう脇目も振らず盲目的に叫べたらどんなにいいかと。
君がいなくなっても尚、君が残したぬるま湯に守られ浸かり生き続ける僕は、時々無性に思うのだ。

大丈夫だよ。
僕は、大丈夫だから。安心して。心配しないで。
君がいたっていなくったって、ちゃんとこうして生きている。
笑えてる。ご飯も食べてる。移り行く日本の四季を感じ、君の記憶を手繰っては、決して薄れさせないよう夢に見る。
だから大丈夫。大丈夫なんだ。

気を抜くとすぐに溢れ出しそうになる激しい愛しさをぶつける場所がないことを知りつつも、僕はもう一度急いで微笑もうとして失敗してしまった。
ゆらり、夢のままの君は僕から目をそらしたまま儚く揺らいだ。

強ければいいと思ってた。
強くなれば全部が解決すると。
強くなろう、強くあろうと。ただがむしゃらに。
そうすれば君といられると思ってたんだ。
君に守られ、君を守り一緒に生きていけると。

…信じたかったんだ。

懐かしい夢を繰り返し繰り返し見る。
君の残像を追いかけて、まだ薄暗い部屋にひとり蹲る。
大丈夫。僕は生きてる。だから大丈夫だよ。
揺らいでしまった君の残像が消える前に、急いで目をそらして膝を抱えて呟く。
君の口癖を何度も何度も。
今にすら君を恋しがる我侭を、許してくれなんて請うつもりはないけれど。

ただ、「君がいない今」にさえ慣れていく自分が怖いんだ。

魔法の3つの数字

数字だけの組み合わせで、成立するならそれもいい。
その数を選ぶ時折の感情の揺れなんて、全部無視してくれる機械的なものならば尚更だ。

絶対的にかち合わない視線と視線。
その理由は、互いに背中を預けているから。
重ねようともがく手と手。
その理由は、互いの想いを知りたがるから。

揺れるのは、視線だけでも、手だけでもないから。

数を数えましょう、君のために。
数を重ねましょう、僕のために。

互いにカウントを繰り返すその唇は、どれほど繰り返せば揃えることができるようになるだろうか。

3つの魔法の数字を当てましょう。
なぞなぞでも、クイズでもない。
本当は、それほど難しい問題でもない。
正解は、きっと互いの口から零れ落ちたそれ。

無機質な羅列だけで、成立するならそれでもよかった。

それはすでに成されたもの

木々の合間、まるで雨の雫のように降り注ぐ清廉な木漏れ日。
彼は焦点の合わない視線を中空に留めたままで微かに口角を歪ませた。

「愛せ。もっと愛せ。そして悼め。痛め。苦しみが募る分だけまた愛せ」

もっと。もっとだ。

彼は木漏れ日のきらめきすら見えないかのように。

「愛せ。憎むほどにもっと。愛して、愛して、愛しつくせ。骨の髄まで」

途中で終わらせることは可能だが、続けようと思えば終わりなどない。

彼には光が届かないのだろうか。
だらりと両脇に垂らしたままの両腕に、再び力が篭ることはあるのだろうか。
その瞳が再びどこかに焦点を合わせることはあるのだろうか。
この次一体何を視ると言うのだろう。
僕はただの好奇心のような感情だけで、彼をじっと辛抱強く見つめ続ける。

「苦しめ」

彼が自嘲するように笑ったように見えたのは、降り注ぐ木漏れ日が風で揺れたせいだろうか。

手と手

暑くてたまらないのはきっと、君が僕の手を掴んで離してくれないからだ。

寒くてたまらないのはきっと、君が僕の隣で遠くを指差すからだ。

だけど僕は、ちっとも不安になんて思わないよ。
君がいるせいで僕は、ここに立っているしかないのだから。
…立っていられるのだから。

置いてけぼりをくらってしまった僕たちはただ、一陣の風だけを待つ。
抑え切れない胸騒ぎばかりを噛み殺して。
ただ、ただひたすらに。
ひたすらに。

うまく言葉を見つけられない分だけ、僕は君の手を握り返して頷く。
一緒に行こ。一緒にいるよ。の代わりに。

僕は君の手を離してあげないし、君の側で君の指差す方から視線を外さない。
そのせいで君が暑がり凍えても、せめて不安に思わないでいてくれたらいい。
立っているしかない、立っていられる理由になれるといい。

下手に言葉を紡げない君が、一緒に行こ。一緒にいるよ。の代わりに、短い吐息をくれるなら。
僕はこうして、君の側に立ち続けるよ。

不意に大声で叫び、考えなしに全力で走り出したい衝動を抱えたまま、ただひたすらに、一陣の風だけを待つ僕ら。

繋いだ手と手が、僕らをここに立たせてる。
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