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どこまで行けば満たされるだろう

もう君をひとりになんてしないと。決してひとりになんてしないと。
何度心に固く誓えば、君は安心して眠ってくれるんだろう。

君が生きるために纏うた孤独から君を奪って逃げたいと。攫ってしまいたいと。
何度心に強く願えば、君は僕の無謀な手を笑ってくれるんだろう。

ねぇ泣かないで。鳴かないで。
僕がいるよ。

僕らは何のために生きてるんだろう。
そんな途方もない疑問を抱いてしまうのは、若さ故のことなのだろうか。
全く同じ構造をしたふたつの迷路にそれぞれひとりぼっちで途方に暮れて立ち尽くす僕らは、毎日見つかりもしないゴールと相手を探して呆然とする。
だけどだからこそ、一緒に生きられると思ってたんだ。
思ってるんだ。

もう大丈夫だよ。君はひとりなんかじゃない。
僕がいる。
今、君の目の前にいるじゃないか。僕の姿が見えないの?
もっとそばにおいでよ。
もう寂しくなんかないよ。

それでもそこで君がひとり立ち尽くし寂しがるなら、僕が君のそばに行ってあげる。
力の加減もできない僕が、待ち侘びた分だけ一気に縮めようとする距離に君が怯えようとも、僕はもう君に遠慮なんてしないから。

待ってて。
あと少し。
もう少し。

…ホラ、追いついた。追い越した。

孤独から君を奪うことができないのなら、僕は君から孤独を奪って逃げる。
君の代わりに、その孤独を背負って走る。
今度は君が、僕を捕まえる番だよ。

だから君が纏って生きてきた孤独に僕が押し潰されてしまいそうになる前に、君は僕を捕まえてね。
つい先刻までの僕のように。
つい先刻までの君のように。

孤独なしに生きてなどいけない僕らは、孤独から互いを奪い攫うこともできない。
それならせめて、生きる糧である孤独でもって、命のバトンリレーでもしようじゃないか。

これからどこ行こう。
どのくらい走ったら僕らは満ち足りるんだろう。
ゴールは。孤独から完全に逃れた君と僕は、一体どこにいるんだろう。

ねぇ泣かないで。鳴かないで。
僕がいるから。
こんな僕でいいのなら、君に全部あげるから。
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探す。

どくり、どく、どく、
自分の鼓動の音と振動に呼ばれるように目が覚める。
生きている証であるそれはいつも、僕を夜から朝へ誘い、また夢でさえあなたに会えなかった寂しさを思い出させる。
あなたに会えずに目が覚めたそこはもうすっかり朝になってしまっていて。
僕がひとり生きるべき時間を思い知る。
その時間に、あなたの気配ひとつ、僅か感じることすら叶わない。
あなたを探すには、窓の外はあまりに眩しすぎる。

毎夜毎夜、夜の闇に紛れてしまえば、こんな僕でもあなたに会いに行ってもいいような錯覚を覚える。
今の僕には、あなただけを欲しがって夜を彷徨うことなんてできないと分かっていて尚、それでも僕は夜を探す。
あなたを探す。

気だるさに投げ出していた腕を、ベッドの上、ずるずる引き寄せ噛み付いた。
肉を引き裂く獣ほどの鋭利さも持ち合わせられなかった糸切り歯では、この腕だって食い千切れない。
せいぜい皮膚の一枚を切り裂き、溢れた僅かな血液を舐めるくらいだ。
この程度の痛みなんかじゃ駄目だ、と思う。
あなたを見つけるにはまだ足りない、と思う。
無残に食い散らかされた獲物の破片よりもっとずっとそれは、無様な苦味を口内に残すだけだった。

まだ。
まだだ。
まだ夜には。あなたには果てしなく程遠い。

醜く爛れるような胸の内側。
朝日を嫌う夜の闇に似たそこに、切実に焼き付けたあなたの残像を探す。

僕は、あなたがいない朝なんて、簡単に捨てられるはずなのに。

あなたを知ってしまった指先が、こんなにもあなたを探しているのに。

本当に切実なのだ。僕は本当に切実に、あなたを探している。
なのに、この切実さをどう言葉や態度に表せればいいのか、僕は分からず途方に暮れる。
毎朝、毎夜。
どくり、どく、どく、
自分の鼓動の音と振動に呼ばれ、僕はそのたびあなたを探す。

一体いつになればあなたを見つけられるだろう。

ギザギザ

可哀相に可哀相に。
切り刻まれたのが過去の夢だけだったら良かったのにね。

一生懸命抗って、喘ぐ呼吸のようにギリギリのところ。
織り上げた縦糸と横糸の目を指先で辿り確認するように。
ただの薄っぺらい一枚の布はそれでも、目を凝らせば一本の細い糸の重なりだけでできているという、その途方のなさに慄く。
例え同じ糸、同じ色をチョイスしていても、織り方ひとつ変えるだけで全く違うものになってしまうことにも。

幾ら織っても重ねても、広げることをしなければそれはただの糸の重なり。
草木を搾って染めたとて、淡いグラデーションを知ることもできない。

今も変わらずひたすら僕と同じものを求め続けているはずなのに。
君はまた、見当違いな方向へと手を伸ばす。

そんなに必死に凍え震える指先を伸ばしたって、そっちに僕の、君へ精一杯伸ばした手はない。

そっちじゃないよ、こっちだよ。
呼ぶ僕の声はまだ、ギザギザのそれを抱く君にはきっと届いていない。

可哀相に可哀相に。
切り刻まれたのが今の世界じゃなければ良かったのにね。

泡沫の色を纏うには

真紅にそれを染め抜くには。
きっと強い意思が何より不可欠なのだ。
覚悟にも希望にも似た、諦めが必要なのだ。

漆黒をそれに焼き付けるには。
きっと優しい祈りが何より不可欠なのだ。
融和にも信仰にも似た、反逆が必要なのだ。

何色を選択するにも、その折必ず必要不可欠なものが生じる。
そして必ず犠牲も生じる。
でもだからと言って、選択することをやめるわけにはいかないのは、彼も僕も同じ。

あの時、僕らの足元に転がっていたものが何だったか。
何があろうと忘れたなんて言えないし、何をもってしても忘れたなんて言わせない。
絶対に。
絶対にだ。

僕らはそれぞれ色を選択し、そうすることで多大な犠牲を払って生きてきた。
それら犠牲の上に成り立つ生を、ただひたすらに。

夢は現実を走るためだけにしかなかった。
どこまでも無様で貪欲で滑稽な生。
でもだからと言って、死を想う暇なんてなかったのは、彼も僕も同じだった。

もしかして僕らは誰より何よりずっと、その分幸福だったのかもしれない。
泡沫のような幸福の代償に払った犠牲はいかほどか。
途方もなさすぎて、もはや指折り数えることもできないけれど。

双子ごっこ

もういいかい。
まだだよ。
もういいかい。
まだだよ。

一体いつまで待てばいい?
僕はもう、隠れ鬼なんてこりごりだよ。
待って待って、待つだけで。
君はちっとも、「もういいよ」って笑ってくれやしないんだ。
君は今、一体どこに隠れてる?
僕の視界から身を隠し、どこで息を潜めているの。
せめて笑ってくれてれば良かったのに。
せめて怯えないでいてくれてれば良かったのに。

もういいよ。そう言って笑って。
僕に、君を探し当てさせて。
どんなに難しい場所に隠れてたって、僕はきっと君を見つけてあげられるのに。

かくれんぼはもうお終い。
おいで僕の片割れ。
僕のアナザーサイド。
僕のダークサイド。
出ておいで。
ひとり両目を塞ぎ、しゃがみ込んだまま君の「もういいよ」を待ち続け、「もういいかい」しか言えなかった僕の叫びは。
ちゃんと君に届くだろうか。
届く範囲に、君はいてくれているだろうか。

愛しい臆病な暗闇さん。
もう十分君は僕から離れた。
僕をひとり待たせた時間分、君はひとり息を殺した。
随分長い間、たったひとりでさぞかし寂しかったことでしょう。
もう出ておいで。
僕のそばに来て。

君が、寂しくて寂しくて死んでしまいそうになる前に。
僕が、寂しくて寂しくて死んでしまうそうになる前に。

僕が君を許しましょう。
許しを求めて孤独に震え、息を殺し続けた君を。
僕だけが君を呼び請い求め、見つけ出して抱いてあげる。
もう怖がらなくってもいいんだよ。
もうひとりを怯えなくてもいい。
君が振り払ったこの手の痛みは未だに忘れられないけれど、それを憎めるのも許せるのも、僕しかいないと分かっているでしょう。
ひとり凍える君がぬくもりに救われるには、熱くてたまらない僕の体温と半分こすればいいことくらい、君だって分かっているはずだよ。
そうすることで僕も救われることだって。

もういいかい。
まだだよ。
もういいかい。
まだだよ。

…もう、いいよ。
だから笑って。見つけてあげよう。
双子ごっこの続きといこう。

共食い

これではまるで、共倒れだ。

く、喉奥痛むような吐息が零れ落ちる。
それは見下ろした地の表、シトシトと濡れた感触のまま淡くぶつかり弾けていった。



全てを投げ出し走り寄ろうとしたのだろう、その足が。
一瞬の躊躇を見せたことを、俺は見逃せなかった。
その全てを欲してその名を呼ぶぼうとした喉をきつく戒め、伸ばした手のひらでそれを制した。
目の前立ち尽くすそれは、誰より何より、傷ついた顔をしてその場に留まることを余儀なくされた。
途方に暮れた迷子の目が、俺だけを映していた。

それは酷く懐かしい、瞳の色だった。

その懐かしさは、ひたすら遠い過去に埋没させていたあらゆるものを容赦なく眼前に抉り出し、光の下に晒してしまった痛みと同等。
あのまま胸の奥深く眠らせていた方が、もしかしたら互いにとって幸福な唯一だったのではないのか。と、思い出してしまった相手を。そして思い出させてしまった己を詰りたくなるほどの、ただその場に立ち尽くすことすら難しくする、激痛と同等のものだった。

押し留めることしかできない手のひら。
置き去りにすることしかできなかったつま先。
向けることしかできなかった背中。
逸らすことしかできないこの目で、俺は、何度それを突き放し、傷つけるのだろうか。

過去の罪を問い詰められ、責められても仕方がなかったはずなのに。
それはどこまでも、俺に対して謝罪の言葉を口にするだけだった。
遠い過去、ひとりにならないでと懇願する声は、ひたすら俺を呼び続けていた。
呼ばれているのは分かっていた。
それがどれほど切実なものだったのかも。
けれど俺は、両耳を塞ぐことでその声を捨て、唇を噛み締めることで涙をも捨てた。
完全に、全てを捨てた。

…はずだったのに。

それを想って離れた俺と、俺を想って添いたがるそれ。
懐かしい痛みを抱いて、ただ、必死に立ち尽くす。
伸ばしたがる手を拳に。呼びたがる喉を戒めて。ただ立つ俺が。
途方に暮れ、そこに留まることしかできなくされたそれの目に、一体どのように映って見えているのだろうか。

俺は一体何度、眼前のそれを捨てればいいのだろう。
それは一体何度、目前の俺に捨てられればいいのだろう。
何度繰り返せば俺たちは。
どれほど傷つけ合えば、どれほどのものを犠牲にすれば、俺たちは。
ささやかで小さなはずのたったひとつの願いを、叶えることができるのだろうか。

…こんなにも。
こんなにも、気が遠くなるほど長く願い続ける、たったひとつの願いを。
ひたすら抱いているだけなのに。
どうして俺たちは添えないのだろうか。
ただ、

「…ただ、一緒に生きたかっただけなのに」

ぽつり、口端零れ落ちた言霊を、おずおず拾い上げてしまったそれが、不安げにこちらを見つめる。

『…  ?…泣いてるの?』

誰より何より傷つき孤独に生きたそれ。
なのに、俺の孤独を嘆き呼ぶ。
何度俺に捨てられようとも、傷つけられようとも。
頬を伝うはずもない涙の雫を視る目を持ったそれは、俺の手のひらに制された場所で、激痛すら抱き込んで立ち尽くす。
制した俺の手がどれほど痛むか、俺たちが抱き込む痛みが似すぎているせいで理解できてしまう、悲しみに歪んだ瞳のままで。

そして俺はまた、それに首を振り背を向ける。

『待って!ひとりにならないで!』

あの時と同じ、悲痛な叫びが呼ぶ声を置き去りに。



これではまるで、共食いだ。

ふ、嘲笑のような吐息が零れ落ちる。
それは両脇に投げ出した拳の表、カサカサと乾いた感触のまま脆く砕けて散っていった。

嘘使い

一日の内、夜明け前が一番、嘘がつけない寂しい時間だと思う。
さらさらした手触りの夜の闇が透明な光に溶け、白々と薄められていく様を、僕はよくひとりで眺めていた。
逆に一日の内、黄昏時が一番、嘘がつきやすい重たい時間だと思う。
ゆらゆら揺れるどこか危なっかしい光が、じわじわと夜に塗り潰されていく様を、僕はやっぱりひとりで眺めていた。

夜行性の肉食動物にも、昼行性の草食動物にもなりきれなかったどっち付かずの僕は、夜明け前と黄昏時だけを手にひとりになった。

負けてたまるか、死んでたまるか、生きてやる、生き抜いてやるんだ。
…なんて、さほど深刻に考えてたわけじゃなかったけれど、僕は無意識、そうやって気を張っていたのかもしれない、と今なら思う。
あの頃の僕の手のひらの上に残されていたものは、夜明け前と黄昏時だけだった。
だから僕はそれがどんなに寂しく重たい時間でも、夜明け前と黄昏時をひとり生きることを自分に課していたし、それ以外選択肢さえなかった。
寂しさも重たさも、僕にとってなくてはならない必要不可欠な生きる糧だった。
上手に嘘をつけてもつけなくても、ひとりなら関係なかった。
その時間帯は、胸いっぱいに吸い込んだ空気をそのまま、深く深く。限界まで吐ききってしまえば、上手だろうか下手だろうが嘘は結局嘘でしかなく、他の余計な何にもならないでいてくれた。
そうやって嘘を溶かし、嘘を抱いて生きた。

何のためにそこまでして生きていようと思っていたのか、いつしか僕は忘れていた。
目的のために生きていたはずが、いつの間にか生きるために目的を忘れてしまったのだ。
これでは本末転倒はなはだしい。
彼と再会することでそのことに気づいた僕は、自分の弱さと浅はかさを詰った。

彼が、僕の生きる意味そのものだったのに。




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「…ごめんね」

僕は謝る。
目の前佇む彼を、途方に暮れた子供みたいと悲しみ、同時に懐かしく思ってしまうのは、きっと僕だけなんだろうけれど。

「  、ごめんね」

僕は謝る。
僕は今までひとりだった。
夜行性の肉食動物にも、昼行性の草食動物にもなりきれなかったどっち付かずの僕は、夜明け前と黄昏時だけを手に、必死に生きてきた。
何より大切に守ってきた。
それしか、守るものがなかったくらいに。
その唯一だった時間をなくせばきっと、自分は死んでしまうと全神経を張り詰めてたくらいに。
だけど必死になりすぎたが故にすっかりそもそもの目的を忘れ、いつしかただがむしゃらに生きるだけになっていた僕は、彼に会うことで彼という目的を思い出した。
忘れることで、僕が彼を完全にひとりにしていたことを思い知った。
結局、彼を孤独にさせたのも、本当の意味で孤立させたのも僕だったのだ。

だから彼に謝らなければならないと思った。
謝罪を口にした僕の目の前、ただ佇む彼が迷子みたいな目で揺らいだから、僕は後先考えず、今自分の手のひらの上にあるもの全てを。夜明け前も黄昏時も、全部彼にあげたいと思ってしまう。
それが寂しさや重たさばかりを伴うものだと分かっていてそれでも尚、僕は僕よりずっとひとりだった彼に、受け取ってもらいたいと思う。
切実に。

「  」

呼ぶと、彼は僅か、目を細めた。
返事の声がなくたって、僕はそれだけで十分だ。

「…あげるよ、全部あげるから」

だから、ひとりにしないで。
ひとりにならないで。
もうひとりにさせないで。

お願いだからお願いだから、今にも膝をつき全身全霊で君を呼び請い求めてしまいそうになる僕を、哂ってください。
お願いだからお願いだから、今にもその胸に積もりに積もった不安や悲しみで泣き出しそうな目を、しないでください。

お願いだからお願いだから。
君に再び出会うまでは死ねないと。そう思いながらいつしか死なないことばかりに夢中になって忘れ、ただ必死に生きてきた僕を。
君をひとりにさせた僕を。
大切なものを全部投げ打ってでも、なくしたらもう生きてかれないと思うくらい大切な、寂しく重たいものを全部君に差し出してでも。
そうしてでも君を「ひとり」から解放し、君に添いたいと希う僕を、許してください。

矛盾と知りつつ強く強く思う。
ただがむしゃらに想う。

だけど想えば想うほど。
彼は確かに今、僕の目の前にいるのに。
それでもつい、会いたい、と呟きそうになる。
僕も彼もまだ、ひとりなのだと身に染みる。

僕はずっと嘘をつき続けて生きてきた。
自分自身にも嘘をついて、騙して生きてきたのだ。
だから夜明け前という嘘がつけない寂しい時間と、黄昏時という嘘をつきやすい重たい時間を、ひとりで過ごしてただの溜め息にしてごまかしてきたのだ。
他の何にもならないように。
なってしまわないように。

全ては、彼に再び出会わんがために。
その刹那のためだけに。
夜行性の肉食動物にも、昼行性の草食動物にもなりきらず、夜明け前と黄昏時にひとりになる。
そう生きることを自ら選んだのだ。
嘘が鮮明になる時を溶かして、嘘が儚くなる時を抱いて。

「…全部あげる。あげるから」

寂しく重たい嘘を使ってでも、僕に。君をもう二度と「ひとり」にさせないで。

偶発的な事故

それは、単なる事故だった。…はずだった。
否、起こった直後は本当にその一言で済ませられたのだ。
事故とも言い難い、どちらかと言うと無意識のルール違反。
そんな程度のものだった。
少なくとも、当初は。

それが、どうしてこんなことになっているんだろう。

僕は、きっと彼も同じように内心首を傾げているんだろう疑問を思った。
思った後、彼が実際首を傾げ、不思議そうな顔をしたらどんな感じなのかな、と少しばかり思考を脱線させた。
ふ、少し笑ってしまう。


事の発端は、空から降って来たような、僕を呼ぶ彼の声からだった。
僕は彼の気配一切に気づけずにいたことに驚いたし、それを当然知っていて、そのまま黙って帰ることもできただろう彼が、わざわざ声を出して僕にその存在を知らせてきたことにも相当驚いた。

見上げれば、思いも寄らない場所に彼が立っていた。
真っ直ぐこちらを見下ろす瞳に、迷いも戸惑いも見えなかった。
否、単に僕には離れた距離からそれを見抜く力がなかっただけだったんだろう。
彼が僕と同じ高さまで降りてきて、手を伸ばせば本当に触れられる位置まできてくれるなんてカケラも思っていなかったから、僕はまた驚いた。
だけどそこまではまだ、ルール違反ですらない、単なる気まぐれだ。
ほんの、片足一歩分。

それが、どうしてこんなことに。


ふ、僕はまた少し笑ってしまった。
一度零してしまうと、それは後から後から僕の頬を滲み、口端からこぼれていった。
くつくつ、ころころ、まるで猫が喉を鳴らすようにそれは、不思議と弾むような心地よさばかりを表していた。
多分それに気づいたのだろう、微かに彼が吐息を零した。
胸いっぱいに詰まらせて、呼吸をするたび膨張して。だけどそのまま抱えて一生を終えようとしていた大きな大きな塊が、いやにあっけなく口から零れたことに口惜しさと安堵を感じているようだった。
軟弱な自分を詰りたいような、愚行を後悔するような、だけど重くのしかかっていた肩の荷が降りたような。

“互いにあんなに頑なに守ってきたのに。”

そう呟いて、今にもへなへな、へたり込んでしまいそうになるような脱力感と共に。

「  」

複雑そうな彼をよそに、僕は彼の名を呼んだ。
いつもいつもつい口にしてしまう彼のその名を、まさかこんな間近で呼べるなんて。
願ってやまなかったそれが、まさかこんな形で叶えられるなんて。

「これは、夢?」

「…さぁな」

僕は自分の顔にとめどなく溢れる笑みに戸惑いながらそれでも、思わず呟いた言葉に彼が僅か彼らしくもなく目を泳がせ曖昧に。だけど確かな返事をくれたことが嬉しくて嬉しくて。
ぎゅ、ますます握り締めた手に力を入れた。
夢でもいい。
だけど、夢なんかじゃない。
だって握った手の感触が、こんなにも心地いい。


もちろん僕だって、いきなり互いのリーチ内まで距離を縮めることに戸惑わなかったわけじゃない。
パーソナルスペースが人より狭いと見せかけ、実は人よりずっと広い僕と。見せかけも何も、実際人よりずっと広い彼とが、こんな近くに対峙しているのだ。
戸惑わないわけがない。
当然すでに互いのスペースは重なってしまっている。
今まで何度互いの距離感を目測しては、片足一歩すら躊躇してきただろう。
なのにこんないきなり距離感を無視して近づいてしまった。
次にどうしたらいいのか分からなかった。
多分、目の前、表情を変えない彼もまた、自分から寄ってきておいて戸惑っていたのだろう。

無意識伸ばした指先が、彼の両脇に落ちたままの手に触れたのは、まだ単なる事故、で済ませられる範囲内だった。
事故とも言い難い、単なる無意識のルール違反。
最初は僕が、口火を切ってしまっただけだ。
彼は普通に、今まで通り、それを無視して僕に背を向け、帰ればよかったんだ。
なのに彼の手が、僅か僕の指先に触れ返してくるなんて、誰が想像できるだろう。

僕は驚いた。
猫が尻尾をこれ以上ないくらいぼわぼわに膨らませ、背中を丸めて縦に飛び上がり、その場から脱兎のごとく逃げ出してしまいそうになるくらい、驚いた。
だけど僕は飛び上がらなかったし、逃げなかった。
僕から口火を切ってしまった偶発的なルール違反に、彼がこんな形で乗ってくれるなんて夢にも思ってなかったから、驚きの後にいてもたってもいられないくらいの喜びが溢れて溢れて、どうしようもなくなった。
その分、指先僅かに触れたままの彼の手を、ぎゅ、と強く握り締めた。
彼は表情ひとつ変えなかったけれど、間近で見る艶やかな瞳の奥が困惑に揺れているのが分かった。
きっと彼も僕と同じ疑問を抱いているのだろう。

どうしてこんなことになっているんだろう。って。

僕と彼は今までにありえないくらいの至近距離で対峙しながら、どうにもうずうずする自分を抑え、相手の真意を欲しがって、じっと目を覗き込む。
ただ、握手、というにはあまりに滑稽に、手を触れ合うだけで立ち尽くす。
自分の行動の意味も、相手の行動の意味も分からず、途方に暮れて。

…抱きついてもいい?
聞いたら、彼は一体どんな顔するだろう。
何となく、今なら彼は内心困惑しつつも静かに淡々と頷いてくれそうな気がして、僕はその問いを口にしようと、思い切って胸いっぱいに息を吸い込んだ。

呼び声

お願いだから、もう少し。ここまで来て。もっとそばに。
この手を怖がらないで。怖いのは一緒。怖いのは同じだから。
この手を拒絶しないで。
…どうか。

そう、懇願されたような気がした。
そしてそれに引きずられた気がしたのだ。

『待って。行かないで。ひとりにしないで』

胸の奥深く、眠っていた僅かな光が瞬く。

『ひとりにならないで!』

血を吐くような幼い叫び声に、はっと我に返る。



「…  ?」

瞬きを繰り返し、曖昧だった視界を正せばすぐにおずおずとこちらを覗きこむ瞳とかち合った。
不安がるような、怯えるような。だけど、擦り寄るような甘さを伴ってそこにあった。
すぐ、そばに。

ひたり、汗ばむほど熱い手のひらが、冷たく冷えた手の甲に触れた。
張り付くようにそれはただ心地よく、また、その手が握り返してほしいと願っていることも分かる。
触れ合わずただ手を伸ばし合っていた時は見えなかった感情が、僅かでも触れた刹那濁流のように流れ込んでくるのがありありと分かった。
だけどその生々しさはあまりに慣れない感触を生み過ぎて、俺は戸惑う。
空から降り落ちる雨水が、地の表に溜まり溢れ、高いところから低い方へと流れ落ちるような自然さで、相手に触れたり、触れられたりする方法が分からない。
戸惑いばかりが募り、結局どうすることもできない。

むごいことをしている自覚はある。
確かにそれは、相手にとってあまりにむごいのだろう。
こんなにそばにあるというのに、添うことができない。
呼吸を繰り返す、たったそれだけのことがうまくできなくなってしまう。
触れた手でもって甘え強請るその行為自体、強者にしか勤まらぬものだと思う。
そしてその強さを、俺はどこかで恐れている。

目の前に差し出された手を取ることは、とても、とても勇気の必要なことだ。
今まで積み重ね、それだけのために全て捨ててきた自分を、まるごと否定、もしくは改変せねばならない。
その手を取るためとは言え、そう易々と投げ捨てられるほど軽いものではない。
生きてきた証明。生きる理由そのものなのだ。
それを投げ捨てた時、自分たちがどうなるのか分からないことが酷く怖い。
だけど、俺の目の前に手を差し出すその者の目は、手を取るか否かを迷う俺よりずっと、不安げに揺らいでいた。
そっと掴まれた指先を、僅か。握り返すことで精一杯だった。
だけど、眼前不安げに揺れていた瞳が、その刹那ゆわりと安堵する過程を見て、やっと気づく。

差し出された手を握ることより、手を差し出し、握り返してもらえるか否かを。最後の審判を受けることと同等の刹那を待つことの方が、もっとずっと、勇気のいることだと。

ひとり、生きていた者が、ひとり、生きてきた者に手を差し伸べる。
そして、ひとり、生きてきた者が、ひとり、生きていた者の手を握る。

それは奇跡に近い。



「…お前も怖いのか」

こちらを覗き込む大きな瞳に問う。
キラキラと光を抱いたそれが、微かに細まった。

「…そうか」

俺たちは、怯えながら怯えながら、恐る恐る。それでも手を取り合いたいと願うのか。
今まで培った全てを無に帰してでも、それでもと言うのか。

『…多分、…多分だけど、…全部無駄にはならないと思う』

ぽつり、目の前の者が言った。

『ずっとひとりだったけど、またふたりでも生きていけるんじゃないか、って思う。だから俺は手を伸ばす。握り返してもらいたいから、一緒に生きたいから、手を伸ばすんだ』

だから、お願いだから、もう少し。ここまで来て。もっとそばに。
この手を怖がらないで。怖いのは一緒。怖いのは俺も同じだから。

今にも泣き出しそうに顔を歪め、目の前の者は微かに微笑む。

…本当に?
過去に一度、背を向け、走り出してしまった俺でも?
ひとり分の冷たい風を纏い、全てを遮断してきた俺でも、ひとり分の熱風を纏い、ひたすら生きてきたお前と添えるというのだろうか。
その手を握り締める、たったそれだけのことをするために、一体どれほどの代償を求められるかも分からないというのに。

『  の手は冷たいね。俺はずっと熱くて苦しかった。今すぐは無理かもしれないけど、ふたり分の冷気と熱を合わせたら、きっといつか、丁度いい温度になるよ』

…この、俺と  の手と手の接点みたいに。

全身に回る毒のように、じわじわと侵食されてしまうのだろうか。
それは、俺たちにとって、…幸せなことなのだろうか。

俺は未だ戸惑い、迷う。躊躇する。
むごいことをしている、という自覚はある。
あるが、自分のことを。そして相手のことを考えれば考えるほど、そう易々と投げ出すわけにはいかない、と思う。
それだけが生きる糧だったのだ。己が選んだ道なのだ。
だけど確かに僅か触れ合った手と手の合間、本来生きる人間の人肌の温度が生まれていくのを知った。

「…生きて、いけるのだろうか」

ぽつり、零す。
それは目の前の相手に対して、というよりも、己自身に問う不安。
そのことを分かっているのだろう、それはただ無言で微かに、寂しげに微笑むだけだった。

『…あの時、ひとりにさせてごめんね』

自らひとりになることを選択し、同時に目の前、佇む者をひとりにさせたのは俺だと言うのに。

…俺はお前に許しを請うても、いいのだろうか。
目の前差し出された手を、思ったまま望むがまま、掴んで引いてもいいのだろうか。



『  』

切なげに俺の名を呼ぶ声が、聞こえる。

互いに向かって伸ばした手と手

互いに向かって伸ばした手と手。
だけど自分に向かって伸ばされた手に、一体どんな感情や願いが篭っているのか、触れられないから分からなかった。

互いに向かって伸ばした手と手。
だけど相手に向けて伸ばした指先に、一体どんな祈りや欲求が篭っているのか、届かないから分からなかった。

その名を呼べばその時相応に反応を返してくるし、時折こちらの名を呼んでくるのだけれど。
自分の声にも相手の声にも、一体どんな想いが込められているのか、それをどう言葉に言い表せればいいのか未だ分からない。
ただ、手を伸ばし合い、ただ、名を呼び合う。
たったそれだけ。他には何もない。
だけどそのことが、例え重なり合わずに擦れ違おうとも不毛だなんてとても思えなかった。

まるで睨み合いとも取れそうな、相手の一切を見逃さないよう必死で目を凝らす自分と相手の間。
限界まできつくふり絞り放たれる矢のようなスピードで行き交い、身の中心に突き刺さるように。突き刺すように。
痛みを伴うほどの容赦ない視線はしかし、互いに届かせられる唯一だった。

さほど切実だったり、切羽詰っていたりしていないはずなのに、もどかしさに時々泣きそうになる。
子供のように聞き分けなく、泣いて喚いて、走り出してしまいそうになる。
それをぐ、っと喉の奥に押し込むことに、自分も相手も必死になる。
必死になって、だけどそんな素振りひとつ見せないように、平然さを装ってただそこに立つ。

互いに互いの間、触れられないからその大きさを測ることなんて決してできないけれど、何故か目に見えると錯覚を起こしそうなくらい、確固たる存在感を放ってそこにある距離。
距離、という名の、透明で触れられない大きくて頑なな獣がいるみたいだ、と思う。
それを横にどかすなんて今のところできないし、してはいけない気がする。
そんなことをしたら、何もかもが壊れて二度と元に戻らなくなりそうだった。
多分、互いの間、均整を保つように動かないそれはきっと、互いにとって今は必要不可欠なものなのだろう。
いつか、不必要になってくれるのだろうか。

あてどなくそんなことを思いながら、その日がくることをどこかで望み、どこかでまた怯えては。
ただ互いに向かって手を伸ばし、互いの名を呼ぶ。
自分の手と声に。相手の手と声に、一体どんなものが潜んでいるのか分からないままに。



…きっと。

僕は思う。

今、僕が彼に駆け寄ったとしても、彼はきっと無意識、弾くことを忘れて受け止めてしまうのだろうと。



…きっと。

俺は思う。

今、俺が相手を求めてしまったとしても、彼はきっと無意識、躊躇を忘れて駆け寄ってきてしまうのだろうと。



間にあるべき距離という名の大きく頑なな獣を弾き、それが崩壊の悲鳴を上げたとしても。
その叫びに胸を痛めながらそれでも、相手以外の全てを思う気持ちすら投げ打ち、行動に出てしまうのだろう。
だからきっと、今は互いに向かい合って立ち尽くし、手を伸ばし、その名を呼び合うことしかできないのだろうと。

…あぁ。

僕は、俺は、思う。

自分と相手は寂しいくらい正反対なはずなのに、皮肉なくらい、全く似すぎている。

風の中で唯一、生きる者

走って走って。誰より早く。
走って走って。己を限界まで研ぎ澄ませるために。

それだけのために全て捨ててきた。
少しでも邪魔なものはことごとく手放し、時には容赦なく踏みにじりもしたし、必要とあらば迷うことなく生贄代わりに差し出しもした。
過去に置き去りにした遺物たちが、どこでどのように腐り果てていったか。
塵になったか化石になったか、何の糧になったか。その後にもはや興味などなく、どうでもよかった。
そんなもの、いちいち気にしている暇などない。

ひとり疾走するその過程で、頬にぶつかる風はあまりに冷たく、鋭かった。
手を伸ばし、目に見えぬ抵抗感に爪を立て、引き裂くように風を切った。
それでも次から次へとぶつかってくる風に、牙を剥き、喰らい付いて引き千切る。
邪魔なものは全て、そうやってわざと無残な形に変えて、後ろへ、後ろへ。
使えるものなら何でも虐げ、足下へ足下へ。
がむしゃらに走って走って走って。
気づけば、自分ひとり分の周囲を冷たく鋭利な風だけで固めていた。

ふ、と己の手のひらを見下ろす。
微かに震えるそれを見て、まさか、と思う。
まさか、凍えているとでも言うのか?今更?こうして生きることを自ら選択した自分が?
この風の中、ずっとひとり生きてきたというのに?
…馬鹿な。

ぐ、強く目を閉じた。

冷たく鋭利な風は、強固な鉄壁と同等だった。
だから纏うことを選んだではないか。
だからひとり生きるのではないか。生き延びてこられたのではないか。

あの日。あの場から目を逸らし、この背を向けた刹那から。

ふ、自嘲にも似た吐息が零れる。
微かに震える手を強く握り締め、そうすることで震えを止めた。
そう、止まるのだ。震えなんてこうもたやすく。

俺は閉じていた目を開く。





-----

次の一歩目。
踏み出せばきっと、「今」が変わる。
そう思った。
どう変わるのか、何故変わるのか。そんなものちっとも分からないけれど。
分からないなら分からないで、一歩踏み出してしまえばいい。
そうすれば分かる。否が応でも。

眼前、瞬きをも忘れたかのようにこちらを睨みつける者の強い気配を感じながら思う。

己が選択した道をひた走るためだけに全て捨ててきた。…はずだった。
なのに不可思議なものだ。
全て捨てたはずの己の心の虚の闇奥深く。刹那瞬く微かな光を哂う。
未だこんなものが残っていたのか。
皮肉にもこんな、一番不必要であり一番邪魔なものが。
主である自分の視線から逃れるように、ひっそりと息を殺しこんなところに。

ひとり分の冷たく鋭利な風を纏うて周囲からこの身を孤立させる自分と正反対のように、内部から溢れんばかりの熱風を纏う者。
だが、その熱風もまた、ひとり分でしかない。
その者もまた、己を孤立させている。
ひとり孤高に生きてきた、その半生を何より明確に証明するように。

全くの正反対なはずなのに、自分達はあまりに似すぎている。

そう、だから。
次の一歩目。踏み出せば。
本当に何かが変わるのだろう。

巡り会うべくして巡り会った。
再会とも取れる運命地味た瞬間。
そうとしか思えないほどの緊迫感。明らかな変化を目前にした高揚感と僅かな恐怖。見通せぬが故の期待と不安。
それは多分、自分だけではなく相手も感じ取っているのだろう。
く、相手と自分の喉が鳴ったのが分かった。
それは、獣が獲物を飲み下す刹那の音によく似ているように思えた。
飲まれるのは。飲み下すのは。
己か相手か。
そんなもの、踏み出してみなければ分からない。

無意識の内、俺は手を伸ばしていた。
その指先に何が触れるか、分からないまま。

手の震えは正面から受ける熱風に晒され、もはやどこにもいなかった。

懐慕の始まり

彼は、不思議と懐かしさを覚える人だ。
初めて会った時、再会だ、と思ったくらい懐かしいばかりの人だった。
覚えていないだけで、実は小さい頃とかに本当に会ったことがあるんじゃないか、と真剣に記憶を手繰ろうとしてしまうほど。
もっとも、手繰るほど僕に古い記憶はないのだけれど。
ただ生きることに必死だったから、生きていくために必要不可欠な情報をひとつでも多く覚えるのに必死だったから、あんまり遠いことは覚えていられなかったのだ。

僕は彼を凝視する。
片時も見逃してはいけない気がして、瞬きすらもったいない気がして、必死に彼を見つめ続ける。
と、それまでそっぽを向いていた彼が、不意に、いきなり、視線をこちらに寄越した。
流れるような、曲線を描くような、思わず見惚れるような。
とにかく、見事、と言いたくなるような視線の滑らかな動きときらめきだった。
しかしその視線はまるで野獣がむき出した爪のようにあまりに鋭利なものだった。
ざくり、胸の奥を抉るような爪の視線。
だけどその艶やかな黒目の向こうに、やはり不思議と懐かしさを覚えてしまうのだ。

懐かしさは見知らぬ者同士間の単なる愛情の芽生えよりも尚強く、少しばかり乱暴に僕を引きずり下ろした。
突然前触れなく叩きつけられた地面の上、一瞬詰まった呼吸を取り戻すように、僕は必死で酸素を欲して喘がなければならなかった。
痛みより、驚きより、愛しさにも望郷の念にも似た想いで苦しかったからだ。

肺が萎縮してしまったのように、上手に酸素が吸えなかった。
僕はあまりのもどかしさに、地の上でのた打ち回らなくてはならなかった。
それだけ彼は容赦なかったのだ。

彼の視線はどこまでも正確に、僕の中心を抉る。
身体には各箇所に急所というものが点在するけれど、彼はそのどれかひとつではなく、そのどれも逃さず全部見ているように思えた。
先刻、彼の気配に僕だけが気づけたのもきっと、偶然でも僕の実力でもなんでもなく、彼が故意に僕だけに自分の存在を知らせてきたからなのだろう。
そうやって、僕に僕の矮小さを思い知らせる。

彼は本当に容赦ない。

最初は不思議な懐かしさだけ。
そこを上塗りするように、じわり増える恐れ。
と共に、奇妙な高揚感が胸を焼く。
僕は思わず少し笑った。
何故か無性に無防備に両手を広げ、彼に抱きついてしまいたい衝動に駆られた。

僕が笑っても、彼はにこりともしなかった。

懐かしい人。
僕を覚えてくれていますか。
僕はきっと、記憶の奥底未だにあなたを覚えている。
懐かしい人。懐かしい人。懐かしい人。

「…ぁ、」

思わず口から零れそうになった聞き慣れない言葉に、自分で驚き息を飲んだ。
元より浅かった呼吸が止まった刹那。
彼のしなやかな指先が、僕の中心を寸分たがわず真っ直ぐ指す。
僕は思わず一度だけ、瞬きをした。
途端、見たこともないはずなのに不思議と懐かしさを覚える映像が急激に。目まぐるしく脳裏を過ぎった。
今にも気が狂ったように叫びをあげ、苦しみのた打ち回って死ぬんじゃないかと思うくらいの、胸中激しい何かが暴れ出す。
それらに翻弄されながら、それでも何故かまたも口から勝手に零れそうになる言葉を、僕は必死で飲み下さなければならなかった。
どうにかこうにか平静を装い、その場に立っていなければならなかった。

「…ぁ、」

“    ”

何それ。そんな言葉、僕は知らない。

秘密のメッセージ

彼から届いた秘密のメッセージは、万が一他の人間に見られても内容がバレてしまわないように、と慎重に慎重をきしたのか、僕にはあまりに難解な暗号だった。
解読するのにどれほど時間がかかっただろう。
未だに解読しきれない部分だって正直あるのだけれど。
ようやく解読できた一部(解読、というよりもほぼ勘だけれど)、そこに隠された文章にあった日時の指定は、その時とっくに過ぎていた。
あまりの取っ掛かりのなさに途方に暮れて、だけど何となく身に着けて過ごしていたのだ。
部分の解読だって、何気なしに眺める癖がついてしまっていたお陰みたいなもの。
はっきり言って偶然だ。
僕は未だに完全に解読しきれない暗号文を握り締めたまま、真っ青になって飛び出した。
僕を呼び止める声も何もかも全部、無視して。

正直そんな余裕なんて欠片もなかった。
内容以前に、彼からだ、と分かった瞬間からとっくに余裕なんてなかったのだ。
彼からだ。そう気づいた瞬間、後から後から、日付やら場所やらの解読ができた。
まるで空から頭上に降ってきたように。
そう。情けないことに僕は、誰からきたメッセージなのかすらなかなか気づかなかったのだ。
なんとなく予感はしていて、だから手放せなかった。
彼からだ。そう気づいた瞬間、信じられない、と思ったと同時にどこかで、やっぱり、と思った自分がいたのも正直なところ。

ゼェゼェ、息を切らして走る。
とっくに過ぎた約束の時間。だけど、彼が僕を呼んでくれた場所は消えてなくなるわけもなく、当然そこにある。

彼が僕を呼んでくれた。
僕だけを。
それが例え何かの罠だったとしても、僕にとってその事実だけで十分、その場所に走る理由になった。
彼が僕を呼んでくれた。
僕に会いに来いと言ってくれた。
ひとりで来いと。ふたりだけで会おうと。
他でもない、僕だけに。
そこにどんな意図があろうとも、僕は彼に会いに行かなくちゃいけない、と思った。
行かなくちゃいけない行かなくちゃいけない。
とっくに過ぎた約束の期日。当然彼はもういないだろう。行っても会えないだろう。
だけど僕は、それでもその場所に行かなくちゃいけない。

ざざざ、ざわざわ、
去年の秋に枝から舞い落ち、地の上からからに乾いて積みあがった枯れ葉が足の下で荒い音を立てた。
ゼェゼェ、息を切らして周囲を見回す。

…当然、誰の気配もしないのだけれど。

「…  、」

ぽつり、呼ぶ。
ざわざわ、風に揺れる木々だけが返事のように身を震わせ音を立てた。

このメッセージを僕に送ってくれた彼は一体、何を思って暗号を作ったのだろう。
僕に何を伝えようと、僕を呼んだのだろう。
どんな顔をして?どんな気持ちで?
約束の期日、彼はどのくらいここで僕を待ったのだろう。
たったひとりで。何を想って?
イライラしてた?それとも、すぐに帰ってしまった?
僕の顔を何度、思い出してくれただろう。

未だ若葉を固い蕾の中に抱いたままの、裸の木々が覆う森の中。
僕はここでひとり、約束の日に僕が来ることを欠片も疑わずに僕を待ったのだろう彼を想う。
当然だ。解読できてたらその日その時間に、僕は絶対にここに来ていた。
彼に会いに。たったそれだけのために。
もし僕が、指定された期日に間に合っていたならどうなっていただろう。
彼とふたり、正面から向かい合って。一体どんな話をしたのだろう。

手のひら、加減も忘れて力いっぱい握り締めていたせいでぐしゃぐしゃになってしまった、彼からの暗号文を開く。
皺くちゃなそれを申し訳程度に伸ばしながら、未だ解読できない部分を見おろす。
ここには一体、何が書かれているんだろう。
彼から僕へのメッセージ。

僕はいつも彼と対峙しても、うまく喋れない。
本音をぶつけ合うには僕らはまだまだ遠いし、僕らの足場はさほど強固なものでもない。…と、どこかで思っている。
だけど僕は彼に会って、話をしたい。
ふたりだけで、沢山沢山話をしたい。
こうしてメッセージをくれたということは、内容は分からないけれど、彼にも少なからず同じ想いがあった、ということだ。
そして彼はきっと、今までの中で一番勇気を振り絞ってくれたんだと思う。
その事実だけでも少し、嬉しかった。
そして、間に合わずに彼を待たせ、彼をひとり帰らせてしまった自分が、彼の勇気を台無しにした自分が、悔しくて悔しくてならなかった。

「…ごめんなさい」

彼がいただろう場所に、頭を下げる。
だけど僕のこの、彼への気持ちは彼に届いていない。
会って、ちゃんと謝りたい。
そして、今度はもっと早く暗号解くからまた手紙ちょうだい、と強請りたい。
彼の話をいっぱい聞きたいし、僕の話もいっぱい聞いて欲しい。
周囲に降り積もり、風に流されがさがさ音を立てる枯れ葉よりももっともっと沢山。

「  、ごめんね」

もう一度、誰も居ないそこに、心を込めて頭を下げた。

「…会いたい」

ぽつり、零した本音はまだ、彼に届いていない。
まだ完全には解読しきれていない暗号文を、ぎゅ、もう一度握り締めた。
解読できないなら、彼に直接聞けばいい。

「…会いに行くよ、今度は僕が」

ざざざ、がさがさ、枯れ葉が風に舞う。
僕は若葉芽吹く前の裸の木々の枝の合間、広がる白く青い空を見上げた。
春はきっと、僕らの間近に迫っている。

畏怖か恐怖か、切望か。

あの時、僕の戸惑いが君に面して露呈してしまうのを心の奥底から恐れた。
胸の内に押し隠してきた今まで体験した覚えがない不可思議な感情を白日の下に晒され、そうすることで僕自身の目の前にも明らかなかたちで確固たるものに形成されるのが怖くて仕方なかったのだ。
お陰で僕は、君と対峙することすら怯えそうになってしまう。
会いたくない、会ってしまえば次どうなるか分からない、という恐怖と、それでも会いたい、その姿を、顔を見たい、という焦がれる気持ちとが、胸の奥の方で頼りなげに。
だけどごとごとと大げさな音を立てて揺れ動くのを感じた。

思えばあの時が訪れるもう少し前から、一度道を完全に別ったはずの僕らの運命は、またも交差してしまっていたのかもしれない。
否、もしかしたら、道を別つ以前から決まっていたことなのかもしれないけれど。

僕が生まれて初めて「怖い」という感情を知ったのは、君と対峙することで不意に濁流のごとく蘇った記憶たちの、一番古いものがそれだと思う。
もしかしたらそれ以前にも感じたことがあったのかもしれないけれど、今のところ、長い間すっかり忘れてたのに対峙した途端いきなり思い出すほどの強烈なものは他に見当たらない。
君は結局どんな形を取ったとしても、良くも悪くも僕の人生そのものを揺るがす大きな、唯一の存在だということに変わりなんてないのだ。

君と道を別った後、当然のことのように僕は孤独だったけれど、君ほどではない。
僕らは元々、それぞれの形で孤独に生きることしかできない類の生き物だったけれど、君はその中でもひたすら孤高に生きることしかできなかったのだろうと思う。
そうすることでしか、生きていけなかったのだろう。
だけど僕はそれを哀れと同情することなんてしない。
君が望まないことくらい分かっているし、程度は違えど僕だって同じようなものだったのだからだ。
別ちそれぞれ選んだ道は、全く違う正反対のものでいて、かつ、ありえないくらい酷似していた。
まるで鏡の内と外。コインの表と裏のように、両者揃った状態が当然の背中合わせで。
だから、君がいなければ絶対に今の僕はいなかっただろうし、その逆もそうだろう。
今はそう言い切るしかない。
そしてきっと、それが真理なのだろう。
今更蘇った遠い過去、僕らがそれぞれ選択したものが間違いだったか否かなどにも興味はない。
きっと君だって、そんなことちっとも考えていない。
今となってはもはやどうでもいいことなのだ。
とうの昔に終わったことを悔いるほど、僕も君も時間が余っているわけではない。
別とうが交差しようが、一度選んだ己の道をひた走るしかないのだ。
戻り道などない。
分かれ道も、きっともうない。

だけどあの時、僕は蘇った遠い過去と同じような恐怖を味わい、硬直していた。
遠い記憶の中のまだ幼く頼りない自分と、今の自分が入れ替わった…否、寸分違わず重なり合って同調してしまったかのような不可思議な感情を抱き、そしてそれを君の目に欠片も触れさせたくない、と慎重に息を殺した。
そのことだけが僕にとって、どのくらいぶりかも数えられないくらい懐かしい「恐怖」だったのだ。

あの時から、情けないながらも僕にとって何より怖いのは、君だけだ。
僕は君が怖いのだ。
そしてとても厄介なことに、誰より…会いたいと膝をつき精一杯手を伸ばし、その存在を丸ごと切望してしまいそうになるのも、君以外に考えられなかった。

君と対峙したことで蘇った、しばらく使う必要のなかった感情。
きっとそれに付随するように、過去の記憶が蘇ったのだろうと思う。

僕は君が怖い。
そして、僕は君を求めている。
その両者どちらとも、認めたくないと首を振る暇も、疑う余地もないほど、残酷なほどリアルなものだった。

僕は閉じていた目を開ける。





-----

君は静かに、寸分の狂いなく僕の中心を見つめる。
僕に投げかける言葉など持ち合わせていない、とでも言いたげに、どこか冷ややかに僕を突き放す。
その艶やかで冷徹な黒目の奥深くで、だけど君が僕を呼んでいるような気がしてならなかった。
突き放されながら、引き寄せられるようだった。
懐かしい過去。僕が、君を呼んだように。
君が、僕を呼んだように。
そしてその互いを呼ぶ声はあの日道を別った刹那から、聞こえなくなってしまっていた。

「…今なら聞こえる」

僕は呟く。
君が、訝しげに片眉歪めるのを。どんな刹那も見逃さないよう真っ直ぐ見つめながら。

“会いたかった”

その言葉はまだ、僕の口からも、当然君の口からも、不用意に零し落とすわけにはいかない。
僕らのそれぞれの道は、まだ。一本に重なり合ってなどいないのだ。

…いつか、重なり合うだろうか。

黙秘権

知っているのは僕だけでいいと思ったんだ。
だからあの時気づいた事実全部、くしゃくしゃに小さく丸めて飲み込んだ。
こくり、喉が鳴るのが自分でも分かった。

刹那、過ぎった記憶の光。
もうずっと昔に埋没させていたはずのそれが、ありえないくらいの鮮やかさで目の前を覆うから、僕は目が眩んで足を竦ませてしまった。
いきなり暗いところから明るいところに放り出されたみたいだった。
鮮やかさも限度を越えると太陽の強い光に似てるくらい、痛みを伴って真っ白に視力を奪う。
息を殺して、目が慣れるまで待つしかない。
ぐぅ、瞳孔が縮むのが自分でも分かった。

『待って』

記憶の奥底から、誰かが誰かを呼び止めた。

もしかして、彼も覚えているのだろうか。
そんな考えが浮かんだ直後、嘘だ、ありえない。僕は即座に否定した。

僕は呆然と、飲み下したはずの小さな、だけど頑固に心のどこかに引っかかっている、くしゃくしゃなそれを想った。

嘘だ。
彼が覚えているなんてそんなの嘘だ。
知ってるのは僕だけでいいと思ったんだ。
それを思い出すには冬の空は冷たすぎるし、遠すぎるから。
あまりに残酷すぎるから。

『待って。行かないで。ひとりにしないで。…ひとりにならないで!』

誰が誰を呼び止めたんだろう。

暗いところからいきなり明るいところに放り出されたような目の眩みだけじゃない。
明るいところからいきなり暗いところに突き落とされたような不安感や絶望感を伴って、真っ黒に視力を奪われる。
夜目を酷使して凝らすしかない。
そう思うと今度は、くぁ、瞳孔が開くのが自分でも分かった。

ピリ、痛む肌の表面。

「黙れ!」

何かを口にしようとした彼に、僕は思わず叫んだ。
その意図に気づいたのかそうでないのか、ふん、鼻で笑う彼がそこにいた。
その喉が、こくり、鳴ったのを聞いた。

嘘だ。
何も知らないくせに。

僕は苛立ち、総毛立った。

知らない方がいいことなんて、思い出さない方がいいことなんて、ごまんとある。
そんなことくらい彼は知ってるはずなのに。
痛いくらい、知ってるはずなのに。

否。
本当はどこかで、彼が覚えていてくれていることを願ってしまっている勝手な自分がいることを、肯定したくなかっただけだ。
彼のために。
そう思って小さく丸めて飲み込んだ行為自体があまりに偽善的で汚いものに見えてしまうのを、ごかましたいだけだ。
否。
そうではない。
ただ、自分のために飲み込んだんだ。偽善というより、単に自己中心的なものだ。
だけど飲み込んだはずのそれが、心のどこかに引っかかってしまっていることに戸惑っているだけ?
否。…否。

混乱の濁流に飲まれそうになる。
もしかしたら、もうとっくに飲まれているのかもしれないけれど。
僕も、…そしてもしかしたら、彼も。

対峙すればするほど目まぐるしく蘇る過去。
鮮やか過ぎて、僕の胸中溢れ出すそれがあまりに怖くて、僕はしばらく足が竦んで動けなかった。

僕と彼に等しくある黙秘権。
それは、互いが事実を知っているのか否かを確かめる術をすら殺してしまう、獰猛で残酷な鋭い爪以外の何ものでもなかった。

彼の発言を止めてしまった僕はなす術もなく立ち尽くす。
眼前、僕だけにどこか置いてけぼりを食らった子供のように立ち尽くすように見えてしまう彼と対峙したまま。

夢の余韻

君の膝の上、まるで猫のように丸まって眠る夢を見た。

警戒心も、猜疑心も、全部忘れて弛緩する。

君の膝の上うとうとまどろむ合間、ふと君の顔が見たくなって、気まぐれに薄く目を開いた。
寸分たがわず、探す必要もなく、真っ直ぐこちらを見下ろす君の顔が見えた。

闘争心も、敵対心も、全部忘れた君の顔。

「  」

その名を呼ぶ。
眠くて眠くて仕方ないから、もこもこ、口の中で篭る。
君はそれでも僕の呼びかけにちゃんと気づいて、薄く。どこまでも薄く水に溶かした絵の具みたいな透明さで微かに微笑んだ。

その微笑は、心もとないくらい優しく、見たこともない不思議な宝石みたいに奇麗だった。

不意にその、見たこともないくらい奇麗に微笑む君に触れたくなって、もったりと重たい睡魔に抗って、投げ出していた手を伸ばす。
君の頬に零れた艶やかな髪の先をそっと掴む。
さらり、指先からそれが逃れるのを追って、また捕まえる。
君は何を言うでもなく、するでもなく、僕の好きなようにさせてくれる。
そんな他愛ないことがうずうずするほど楽しくて、我慢できなくて、くつくつ、ころころ、まるで猫のように喉が鳴った。
君の、微かな微笑が僅か、ほんの僅かだけ滲みを増した。
たったそれだけのことが酷く嬉しくて、僕は切なくすらなる。
泣きたくなる。

なんて平和なのだろう。
なんて幸福なのだろう。

僕はあまりのことに信じられなくて、あぁ、夢なんだな、と気づいてしまう。

奇麗な奇麗な微笑を零す君。
何故か逆に寂しさを感じてしまうほど満たされた夢。
そう、夢。
夢だから。
ならせめて夢でもいいから、僕の心を君だけで満たして。
じゃなきゃ僕は今にも死んでしまいそうだ。
ただ平和であればあるほど、ただ幸福であればあるほど、何故か募る切なさや寂しさで、今にも死んでしまいそうなんだ。

「  、寂しいよ」

僕は泣きたくなってしまう。
こんなにそばにいるのに、夢だって気づいてしまった。
だけど夢は夢らしく不規則に。無情に霧散してしまうこともなく、君は僕を見つめては薄く、どこまでも薄く水に溶かした絵の具みたいな透明さで微笑みかけてくれている。
なのに、救いがない、と思ってしまう。
いっそ醒めてくれ、と思ってしまう。

「  、寂しい」

口にすればするほど募る切なさで、胸がいっぱいになってしまった。
そんなものでいっぱいになんてしたくないのに。

『   』

君の声が滲んだ。
まるで水面上にいる君の声を水中から聞くみたいな、圧倒的な隔たりを感じてしまう声の滲み方だった。
僕の願いをそのまま映しているようでいて、それは結局鏡の世界なのだと思い知ってしまう。
そこに映るのは、悲しいだけの真逆な世界なのだと。

「  、…寂しいよ」

僕はとうとう泣き出してしまった。
君は変わらず奇麗なまま、僕の髪を優しく撫でてくれた。
気持ちよくて気持ちよくて、僕はまた目を細める。
両目から、ぼろぼろとめどなく涙の粒が零れ落ちてしまう。
君の膝に頭を摺り寄せてしまう。
ひく、ひく、喉をひくつかせながら泣き続ける僕を、君はゆっくりゆっくり、まるで猫を撫でるように撫で続けてくれた。
その手つきがますます信じられなくて、それよりもまずこんな泣き方をする自分が信じられなくて、あぁやっぱり夢なんだ、と僕は気づいてしまう。

ひく、ひく、えっえっ、僕は君の膝の上、子供みたいに声を上げて泣いた。
こんな無茶苦茶な泣き方するの、どれくらいぶりか分からないくらいに。
これ以上ないくらいきゅうきゅうに身を縮めて泣いた。

『   』

君の声が滲む。
奇麗に微笑んだ君の、せっかくの微笑が涙で歪んでしまう。

安心感と、信頼感とを君と共有して寄り添い丸まる。
寂しいほど、悲しいほど、苦しいほど、切ないほど、ひたすら君と、寄り添い続ける。

離れる刹那なんていらない。離れようなんて思わない。
もしも本当にこうして君といられるなら、僕は二度と君と離れないと宣言できるのに。
君の手を握って、絶対に離さないと誓えるのに。
募るばかりの寂しさなんかに負けないって、大声で叫べるのに。

僕は僕の髪を撫で続ける君の手に、頬を摺り寄せ無理やり目を閉じた。
つぅ、頬を流れる涙に君の指先が触れた刹那、その感触のあまりの儚さにますます夢を実感してしまって、僕はもっと身を縮めて君に寄り添う。
ふ、微かに耳に届いた君の吐息は、途方もないくらい上空高いところを飛ぶ鳥が空を切る一瞬巻き起こす風が、地上にいる僕にようやく届いたみたいな、小さな、小さな空気の揺れみたいだった。

なんて平和なのだろう。
なんて幸福なのだろう。
そしてなんて寂しいのだろう。

この夢がいつか現実になるのだろうか。そう思った刹那、僕は目覚めてしまった。
そしてどこかで夢から醒めたことにほっとしている自分を、これ以上ないくらい詰りたくなった。

君の膝の上、まるで猫のように丸まって眠る夢を見た。
君もこんな、平和で幸福で寂しい夢を見て死んでしまいそうになってしまったことがあるのだろうか。…なんて、僕は容赦なく掠れ残る夢の余韻に声を殺して泣きながら、今も孤独に生きる君を想うのだった。

瞼の痙攣を抑えたら。

揺れる視界と瞼の痙攣を抑えたら。

無邪気さを装って両腕を広げて飛び込みましょう。
それが例え、嘘まやかしの類だったとしても。
得意の「見て見ぬふり」をしてでも。
「気づかないふり」「馬鹿なふり」「何も知らないふり」、君の腕の中に飛び込むためなら、それが例えどんな卑怯な行為だったとしても。
僕は、なんでもする。

きっと本当は、君と僕は近かったはずなんだ。
隣同士、並んで笑い合えてたはずなんだ。
こんなに距離をとって、しかもそれを保つことが世界の均整を保つことのように必死にならなくてもよかったはずなんだ。

いつか言ってやろう。
「世界なんて関係ない」って。
子供みたいに聞き分けなく、声高らかに、宣言しよう。
一緒に。
「全部知らない」って。
手を繋いで、心の奥底から滲み出る笑いを包み隠さず曝け出して。
僕らを阻むものを壊すためなら、無知も稚拙さも、何でも武器にして利用してしまったっていいんだ。

『ただ一緒に生きたかっただけなのに』

噛み殺すように君が呟くから、僕は攻撃するもの全てに加減を忘れて牙を剥いてしまう。
絡みつく糸の引き剥ぐ方法も忘れ、無我夢中で全身全霊、全てを威嚇して弾いてしまう。
そのたび君が、一体どんな気持ちになって、どんな顔をするのかすら確認できずに。

揺れる視界と瞼の痙攣を抑えたら。

僕は迷わず君の元へと走りましょう。
それが例え、本当に世界の均整を崩してしまう罪深いことだったとしても。
君の手を掴んで引けるなら。君の首筋に鼻先を埋めても許されるなら。その願いを叶えるためなら、それがどんな無茶なことでも。
残酷で非情で最低なことでも。
僕は、なんだって。
なんだって、するんだ。

気が遠くなるほど長い間。
それはもしかしたら世界時間で言えばほんの僅かな時間だったかもしれないけれど、僕らにとって寂しさをヘドロの澱のように沈殿させ、その内で溺れるに十分な間。
君を、たったひとり孤独にした僕を。
君と同じくしてたったひとり孤独に生きた僕を。
君は、許してくれるだろうか。
僕は、許せるだろうか。

胸の真ん中、奥の方

どくどく脈打つそれは、自分にとってただうるさいだけで、今更何の証明になるのか分からなかった。
どくりどくりと内部で騒ぐだけの証なんて、いらなかったのに。
爪を立てて捕まえて、今すぐ引きずり出して床に叩き付けたいのに。
踏みにじってやりたいくらいなのに。

…憎んで、いたのに。

何を?誰を。

対象なんて、何でも、誰でもよかった。
いつしか混入してしまった怖がりな粒子をごかませるならそれで。

空いた場所を埋められるのが怖かった。
いつかまた空っぽになるのが、何より怖かったから。

満ち満ちているくせに空っぽなそれ。
満ち満ちたくせに空っぽになるそれ。

どくどく、どくり。

どこにある?

胸の真ん中、奥の方。
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