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千夜一夜4

せめて空っぽになったんだったら良かったのにね
今まで意識無意識関係なく
その身に詰め込んだ記録も記憶も全部全部
ゲームのリセットボタンを押したかのようにただゼロに戻るなら

だけどもしそうできてしまったら君は今頃どこで何をしているのだろう
たったひとりで生きていくことだって余裕でできるほどの強さと
ヒトという存在の恐ろしさだけを手に
もうたったひとりでなんて生きていけないほどの儚い弱さも
ヒトという存在のあたたかさも知らず
今どこでどうやって
自分を覆いつくす孤独の寒さに気づかずひたすら生きているのだろうか
そう思うと僕は何故か
僕までひとりこの場に残されたかのような喪失感を覚え
そんな愚考に囚われた自分を詰った

君は後悔していないと言う
君はそれなくして生きていけないとまで言う
それは嘘偽りなく真実そう思っていることなのだろうと思う
疑う余地なんて欠片もなかった
ならば僕はただ
それを糧に生きる君の背中を見つめるしかない
想像するだに喪失感すら覚える愚考を投げ打って
先へ先へと走る君の背中を無心で追うことしかできないのだ

彼の眼前広がるは
今まで意識無意識関係なく
その身に詰め込んだ記録も記憶も全部全部
粉々に砕け散った破片だけ
それを必死でかき集めては
鋭利なそれらを恐れずむしろ愛しげに胸に抱き
僕らに見えないところでひっそり口付けすら落とす彼
そのせいで彼の指も手も胸も首も唇も
直視も適わぬほどの傷だらけ
彼は自分の傷に気づかずそのまま傷だらけの姿顔で
それでも僕らに無理やり笑う
僕らはそれに応えようと足掻いては
へらり
先日彼にするなと言われた困り笑いを零してしまう
そんな日々をぎりぎりで生き抜く

だから幻でもいいと思ってしまったんだ
だから夢でもいいと思ってしまったんだ
だから
だから
嘘でも罠でも騙されたいと
どうか彼もろとも騙されてくれと
切実に思ったんだ

迎えにきたよと
一緒に行こうと

願ってやまなかった光が
傷だらけになってまで笑う彼の
その
手に

届いた時は



その子のために紡ぎ続ける千夜一夜の物語がようやく終わった刹那
これが僕の最終話だよ
僕は笑った
その子は微笑み首を振り
あなたのお話はこれからまだまだ続くよ
僕の癖を真似るようにして言った
その笑顔はどこまでもどこまでも幸福そうで
僕は頷き
彼らの背中を追う決心を再度固めなおし
全身全霊を込めてつま先で思い切り地面を蹴った

幸福そうに笑う彼らと一緒なら僕は何度でも
千夜一夜を乗り越えて
どこへでも
どこまでも
いつまでも
走っていける
追っていける

生きて
いけるから

夢じゃないんだよね
僕は呟く
何を言ってるんだ寝ぼけてるのか
そう言って彼が笑った
その笑顔は懐かしく愛しいばかりの柔らかさで
どこまでもどこまでもしあわせそうで
何故か僕の涙腺を悪戯に緩めるのだった

新しい千夜一夜物語の始まりの時
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失くした指輪を探す旅

例えば君が俺の目の前から煙のように
ゆらり
ある日突然儚く消えてしまったら
正直なところそんな想いに駆られ怯える暇すらなかった
それだけ俺は脇目も振らず
ただ
ただ生きることができていたということだろう

ある日突然君は
君を失くすことをすら考える暇なく生きていた俺の目の前から生々しい気配だけを残して
幻と疑う隙が僅かでもあればどれほどいいかと思うくらいありありと痕を残して
揺らぎようのないほど強く鮮明な記憶を残して
行ってしまった

それはあまりに突然過ぎて
ただ生きることだけに精一杯になっていた俺には
どうしてこうなったのか
こんな結果をのみ俺たちの間に呼び込んだものの正体がどんなものだったのか
今どう振舞えばいいのか
これからどう生きていけばいいのか
ちっとも
欠片も分からず途方に暮れた

せめて心の準備をさせてくれたら良かったのにと残酷なことを平気でする君を恨んだりもしたけれど
どんなに前から知らされていたとしてもきっと俺はこの結果に対して
俺が
そして君が望むような振る舞いなどできなかったのだろうと思い直し
自分自身を含め
様々な状況に追い詰められ
こうするしかもう手立てがなかった君の悲しいまでの優しさに気づいてまた
呆然とするだけだった

優しい君はもう俺の目の前にはいないというのに
あとからあとから溢れ出しそうになるほど込み上げる感情いちいちの
責める言葉も謝罪の言葉も
そして感謝の言葉も何ももう
俺よりきっともっと傷つき孤独に震える君に届ける術もない

君とはもう会えない

もうひとりの俺が置いてけぼりをくらった子供のように
呆然と立ち尽くして悲しいだけの言葉を呟く

君とはもう会えない

もうひとりの俺が帰り道もなくした迷子のように
絶望感ばかりでその場から動けず寂しいだけの言葉を繰り返す

分かってる
分かってるんだ
分かってるから頼むから
頼むから黙ってくれ

君とはもう
会えないんだ

千夜君を夢見て必死で越えても
一夜一夜辛うじて息を殺し眠ったふりをしても
君とはもう会えないことを知ってる
分かってるから

『待っていろ。いつかまたお前の元に戻ってくる』

君が俺に残した言葉が結果的に嘘になろうとも
俺はどこかで信じ続けて生きていく
それがどれほど叶う見込みも足掻く手立てもなく
途方もなく続くばかりの旅路となろうとも
いつか君が残していった道筋を辿り続けて
君を見つけ出す

「…待ってろ。いつか絶対に追いついてみせる」

低く唸る呟きはもう
眩暈がするほど遠く離れた君には届かない
そんなことくらい分かっているけれど

もはや君すらをも失くした俺にとって
君という存在そのものだけが
唯一
俺の生きる意味



Another side of “千夜一夜”

千夜一夜3

なんて顔してるの
今初めて気づいたかのように
僕の隣立つその子が言った
その声はどこまでも戸惑いと悲しみに満ち
彼をきつく責めるようにも
優しく宥めるようにも聞こえた
言われた彼は刹那目をしばたかせ
俺は今どんな顔してる?そんなに酷い顔してるか?
自嘲的に微かに笑んだ
思わず僕は彼に後悔してるのと愚問を投げかけた
彼が肯定してくれるわけないと知っているけれどそれでも
肯定してくれることを祈りながら問うた
僕の不相応な切実さが滲んだ質問に彼は微かに目を見開いた後
また自嘲的な微笑でもって否定した

後悔なんかするものか
全力疾走の先に残った答えが今なのだから
あいつが残した唯一が今なら
これだけはどうしても後悔するわけにはいかないだろう
そんなことしたら全部が無駄になってしまう
無駄にするわけにはいかない
それなくしてもう俺は
生きることすらかなわないのだから

自分をも騙し騙し
彼は笑った
もう無理して笑わなくていいのにと僕の隣立つその子が呟けど
じゃあお前らもそんな困ったように笑うな
と一蹴されて終わってしまった

あの人は笑うだろうか
彼が心の奥底から幸せそうに笑っていたあの頃をどうしても懐かしく思っては祈る僕らを
そして今にすら願う僕らを
ひとりこの場に残されて
広げた手のひらの上にあったものだけを後悔しないよう
必死で自分に言い聞かせる彼を
蘇る幸福の記憶を払い捨てることも抱きしめることもできずただ
無防備に素足のままで歩く彼の肩先を
そしてそれを見つめては
毎回今初めて気づいたかのように僕の隣立つその子が丁寧に慎重に彼を責め宥め
それ以上に寂しさを募らせることを
その寂しさがあまりに透き通った痛みだからと
僕は毎回その子のために
あてどなく終わりの見えない千夜一夜の物語を毎晩語り聞かせて半ば無理やり眠りを呼ぶことを

いっそ笑ってくれたらどんなにいいかと
不相応な寂しさを抱く僕を

追求を許さない彼の頑なな背中が
僕らを置いて先へ先へと進もうとする
彼の目にだけ見える愛しく恋しい面影だけを
彼は追いかけ走り続ける
悲しいくらい正しくなぞるようなその道の先
いつか彼とも会えなくなりそうで
僕は
呼べない名前を飲み込んだ

いっそ最初から何も知らなかったら良かったのだろうかとふと空しい想いに駆られるけれど
あの時確かに彼は幸福そうだったと
それこそ後悔してはならないことだったと
僕は我に返って悔やむのだった

『あいつのことを頼む。もしあいつが間違えた時は、お前が正してやってくれ』

そう僕に言い残して行ったあの人に
僕では不相応だと
あなた以外は不相応だと
あの時どうして言えなかったのだろう

千夜一夜2

ものすごく久しぶりに彼が眠っている姿を目にした時
僕は
あぁやっと眠ってくれたと少しばかり安堵した
あの日から彼は僕らの前で一切寝顔を見せなくなっていた
それは彼らしい不器用な強がりの表れ
時折陰る横顔に
僕らが気づく前に彼は隠そうとする
疲弊や睡魔は僕らの視界の端でちらちらと見え隠れを繰り返し
ただ
強くあること
笑うことを努める痛々しさだけを微かに苦く残した

以前彼は時折不満げに口にしていた
痛みや疲れや睡魔をあいつはいつも俺たちから器用に隠してしまう
俺はあいつのそういうところが嫌いだと
その時僕は僕も同感だと笑った
そしてその彼の台詞を今できることなら彼にぶつけてしまいたいと思う
彼はあの人が残した軌跡を丁寧に辿るようにして僕らの視界の端でひっそり溜め息を吐く
あの時彼が感じた切ないもどかしさを等しく正しく僕らにオーバーラップさせる
彼はそうやって生きることしかできない
彼の情愛はそんな形でしか発露されない
どこまで不器用で天邪鬼なのだろう
そしてどこまで一途で一生懸命なのだろう
僕はひっそり苦笑する

ものすごく久しぶりに彼は今
僕の目の前で眠っている
完全に力が抜け切れていない不器用なままの彼の寝顔は
眉間に寄ったままの皺の寂しさばかりを僕に知らせてしまう
もう彼はあの人がいないとただ穏やかに休息を貪ることすらできないのだと

どうして
どうしてあの時彼はあの人を引き止めなかったんだろう
愚問と分かっていて尚僕は思う
何度も何度も何度も何度も
答えなんて返ってこないと知っていて尚
もしもあの時
あの時彼が全力であの人を引き止めていたら
あの時彼が自分も連れて行ってくれと懇願していたら
…今頃一体どうなっていただろう
きっとそれでも結果は変わらなかったのだろう
彼はそのことを知っていたからあの時引き止めることも懇願することもしなかった
見ている僕すら痛むほどの彼らしからぬ物分りの良さで
だけどもしもと僕は何度も思う
僕らしさを見失うほどの物分りの悪さを無理やり押し出して

あの子のために繰り返す千夜一夜の物語と同じくらい丁寧に
慎重に息を殺して僕は祈る
せめて彼が見る夢が
どこまでも満ち足りた幸福に抱かれて
このまま目覚めなければいいのにと思うほど温かいものであればいいのにと
せめてものすごく久しぶりに僕の目の前で眠るなら
彼の眉間に刻み込まれた深い寂しさがほんの少しでも安らいでくれたらいいのにと

深いコーラルブルーの海の底
投げ入れた華奢な指輪を探すように
彼はあの人を探す
眠りの最中にあっても
求める手は彼の両脇に力なくぶら下がることを知らないまま
必死に呼ぶ声は音となって響き渡ることも知らないまま
募るばかりの恋しさを
僅か伝える術も知らないままで
探せど探せど見つけられず
いつしか帰る道すらなくしてもかまわないと言い出しそうなくらいに

『あ、迷子発見』

いつの間にか僕の肩越し
眠る彼を覗き込んでいたあの子が微かに笑った
僕はその言葉の徹底的なまでの儚さに無性に泣きそうになってしまい
それを我慢するためには
くくく
喉を必死で震わせ笑って頷くくらいしか手立てがなかった

どうか
どうか今すぐ彼を迎えに来てください
あなたを探してたったひとり
真っ暗闇の眠りの底すら彷徨い歩く彼を早く
あなたの光で照らしてください
迎えにきたよと
一緒に行こうと
その手を彼に伸ばしてください
きっと届く
あなたの手が彼に届かなかったことなんて今まで一度だってなかったのだから
あなたが伸ばした手を彼が取らなかったことなんて
その間にどのような紆余曲折があろうとも
結局今まで一度だってなかったじゃありませんか

寂しい苦しい悲しい愛しい
こんなにもただひたすら直向きに恋しいというのに
彼は決して弱音を吐かずに前を向く
そのことが余計に僕らの胸を切なさばかりで締め付ける
こんな酷いことがあっていいのだろうか

彼は僕らの目の前ひと時の休息にもならない眠りを貪る
彼が誰より何より求めるものを
あの人は誰より何より知っていることを
僕と
僕の隣にただ立つこの子に未だありありと知らしめながら

千夜一夜を乗り越えて
いつか暗闇の中あてどなく伸ばし続ける彼の手に
あの人の光溢れるあたたかな指先が触れますように

本当に泣きたいのは彼の方だっていうのに
それでも彼は一切僕らに涙なんて見せないでいるっていうのに
僕は
どこまでも自分勝手にまた不覚にも泣きそうになっては慌てて唇を強く噛んだ

千夜一夜

彼は誰より何より孤独を愛していて
誰より何より孤独に怯えている

たったひとりで生きていくことだって余裕でできるくらいの強さを持っているのに
もうたったひとりでなんて生きていけないほど儚い弱さも持っているのだ

相反するそれらは限りなく平等な数値でもって
彼の心の中で危ういバランスを保ち続けて呼吸をする

ヒトという存在の恐ろしさも
あたたかさも
彼は誰より敏感に
そして正しく
知識としてだけではなくきちんとその身を持って理解している

僕にだってそのくらいは分かるのだから
きっと天邪鬼な彼がそれでも真っ直ぐに手を伸ばすしかないほど激しく求めたあの人は
とっくの昔にそんなことくらい見抜いていたはずだった
あの人は彼をひとりの孤独から救い上げ
そしてまた
彼をひとりにして行ってしまった
その行為に一体どんな理由や意味があったのか
彼とあの人の間に一体どんな感情のやりとりが成立していたのか
彼の心とあの人の心がどのように離れることを選択せざるをえない方向に向いたのか
僕は未だに何一つ知りえないままだけれど
両者が離れることを望んで離れたわけではないことだけは
僕にも分かってた

僕は時々口を滑らせてしまいそうになる
気づいたもの全てを言葉にしてしまうことがどれほど幼稚で愚かなことか
誰より何より知ってるはずの僕はそれでも
寂しさや辛さを無理やり飲み下し平気な顔を装って生きる彼に
余計な言葉をかけてしまいそうになる

僕は彼を真似て無理やり飲み下し平気な顔を装う
誰より何より孤独を愛し
誰より何より孤独に怯える彼が
ひたすらに生きるその背中を眺めながら

彼はいつかあの人に再び会えるのだろうか
彼とあの人が同じ血を吐くような想いで馳せる祈りは
千の夜を越えても叶わないのか
それともあと一夜で叶うのか
誰より何より答えを欲して生きるのは
もしかしたら僕より彼より
彼をひとりの孤独から救い上げ
そしてまたひとり孤独にして行ってしまった
あの人なのかもしれない

知ってるよ
君が
あなたが
どれほど何を糧に必死で生きているのかを
喉が潰れてしまいそうなくらい大声を張り上げて呼びたいその名も
腕が引き攣れて痛んでも尚求めてしまうほど触れたいその手も
行き場のなさに悶え苦しみ噛み締めた唇から溢れた血液の苦味も
息を止めてなければ今にも零れてしまいそうな涙の気配だって

だけど僕は飲み下す
平気な顔を装って
何も知らないふりをする
そのことが賢く正しいことかどうかなんて
きっと彼にもあの人にも僕にも
分からないままなのだけれど

『孤独は空腹や寒さに似てると思わない?』

僕の隣
同じように彼の背中を見つめていた子が不意に呟いた
その言葉はあまりに無邪気で
かつあまりに辛辣すぎて
僕は苦笑してはその子のための新しい千夜一夜の物語を口ずさむ

せめて彼とあの人と
この子と僕が
一夜一夜を無事に生き抜けるようにと

力の加減が分からない。

今にも。
濡れた指先をつるりと滑り落ちるようにして行ってしまいそうな感覚の意図を、いっそ握り潰してでも、と咄嗟に強く掴む。
ずっとずっと大切に守ってきたそれ。
守るという大義名分を冠に、触れもせず近づきもせず見守ることしかできなかったそれ。
力の加減がいつも分からなくて、少しでも触れてしまったら。
それどころか、近づこうとした時の空気の揺れだけでいとも簡単に潰れてしまいそうで怖かった。
完熟した桃のような儚さと、眩暈がするほどの甘い香りに怯えたのだ。

守りたかっただけなのに。
ただ、この目に映すことだけでも許されるならそれで良かったはずなのに。
ずっとずっとそれだけで生きていけると思っていたのに。
この愚手は滑り落ちるようにして行ってしまいそうなそれを恐れ、その恐怖は潰れる恐怖を刹那凌駕した。
瞬間的にでも「いっそ握り潰してでも行かせたくない」と思い、我を忘れて手に力を込めてしまった自分が、何より誰より恐ろしく、おぞましく、悲しかった。
臆病者の手は結局、大切に手のひらに包むことを夢見ながら叶えられず、潰すことしかできなかった。

今にも。
どこまでも薄く脆く粉々に割れるようにして行ってしまいそうな感情の城壁を、いっそ決壊させてでも、とわざと強く払う。
ずっとずっと大切に守ってきたそれ。
だけどそれよりももっと守りたかった感覚の意図を強く握り締めてしまった罪を断罪しようと、握り潰してしまった残骸残る愚手で城壁すら強く払う。
そんなことで贖罪がかなうような罪などないというのに。
力の加減が分からなかったんだ。
そう言い訳を口にしたところで。
血を血で洗うように、罪で罪を洗おうとしたって。
愚手に絡みつくものは元には戻らないのに。

へたり込む。
へたり込んだそこには、もうずっとずっと触れるどころか近づきもできなかったくらい大切に守ってきた感覚の意図も、感情の城壁も、何も残らなかった。

守りたかっただけなのに。
呟けど。

『…馬鹿だな。見くびるなよ。俺はそんなに柔じゃない』

笑う声がただ、汚れた愚手の表に舞い降り落ちる。
ただそれだけは潰してしまわぬよう、無様な手のひらはそのまま開いておくことにした。
例えこの手が彼にとって、見るに耐えられぬほど穢れた恥だったとしても。

守りたかっただけなのに。
だけど何も残らなかったここに、せめて彼の笑う声だけでも舞い降り落ちてくれるなら。
へたり込んだそのまま。残骸に汚れた愚手を垂らしてそれでも、まだもう少し、生きていけそうな気がした。

『あ~ぁ~、そんな汚しやがって。お前何やってんだよ』

力の加減が分からないんだ。
呟くと、彼はただ、笑った。

ツール

山よりうず高く積み上げた言葉だけじゃ心全部が通い合うわけないことくらい、知っているけれど。
それでも知りたくて。
それでも知ってほしくて。
持ってる限りの「言葉」を総動員して、必死に受け止めようと、必死に伝えようと。
繰り返し繰り返し足掻いて足掻いて、理解で距離を縮めては、見落としていた距離に気づいて呆然とすることを繰り返す。

僕達はいつもいつも、僕達の間を埋めるツールが「言葉」だけではないことを忘れてしまう。

水浸しの子守歌

水浸しの床の上。
裸足の足の裏に、冷たくも、温かくもないぬるい水が滑る。
指と指の隙間を濡らし、だけど沁み込み這い上がってなんかくるはずもない、それだけでしかない。
怖くない。
怖いものなんて何一つ。
そう、口に出して自分に言い聞かせる。

シャワーコックを捻る前。
自分より先にここを使ったのだろう微かな湿度と水浸しの床。
ぴしゃり、水音が鼓膜の内側に篭った。

“蒼い蒼い夜でした。”

歌声が蘇る。

“蒼い蒼い夜でした。ゆぅらりゆらゆら赤い月。きらきら雪原銀世界。
どこにも行けない闇の子は。いついつどこで眠るだろう。
どこにも生けない闇の子は。いついつどこに眠るだろう。
蒼い蒼い夜の内?ゆらゆら赤い月の上?きらきら積もった雪の中?
ふぅらりふらふら揺らいでは、寝床を探す闇の申し子。
ぼぅやはお眠り。光の子。眠る居場所はここにある。
悲しい夢が覆う前。怖い夢が襲う前。ぼぅやはお眠り。今の間に。
どこにも往けない闇の子が、ぼぅやに寄り添い眠るまで。
蒼い蒼い夜でした。ゆぅらりゆらゆら赤い月。きらきら雪原銀世界。
どこにも行けない闇の子は。いついつどこで眠るだろう。
どこにも生けない闇の子は。いついつどこに眠りだろう。
すやすや眠るぼぅやの隣。闇は光のすぐそばに。眠る居場所は同じ場所。”

…蒼い蒼い夜でした。ゆぅらりゆらゆら赤い月。きらきら雪原銀世界。

思いの他すらすらと脳裏過ぎるそれを口に出せば、水浸しの床の上、それは微かに跳ねた。
ぴしゃり、水音。

“ぼぅやが眠って目覚めたら。蒼い夜は明けるでしょう。赤い月は沈むでしょう。冷たい雪も溶け消えて、淡い花が咲くでしょう。
それまでお眠り。光の子。寄り添う闇の子抱きしめて。
お眠りぼぅや。いい子だね。
春待ち桜と菜の花がぼぅやの夢に咲くでしょう。”

どこで覚えたかも忘れそうな、淡い記憶そのままに。
濡れた床の上、水浸しの子守歌を呟く。
怖くない。
怖いものなんて何一つ。
今度は口に出してまで自分に言い聞かせることができなかった。

…どこにもいけない闇の子は、いついつどこで眠るだろう。
…どこにもいけない闇の子は。いついつどこに眠るだろう。

ぴしゃり、
踏みしめた素足の裏。
水浸しの子守歌。

よるべない肩甲骨

『毎晩、明日への希望を抱くことで次の絶望が約束されることが、怖いんだ』

どこまでもよるべない君の、肩甲骨がそう言ったのを。
ぼんやり、寝起きみたいな霧がかった脳裏、聞いた気がした。

それはどこまでも孤独感ばかりで途方もなくて、可哀相に。なんて簡素で無慈悲な言葉を君と、自分にひっそり呟くしかなくなってしまう。
可哀相に。なんて言葉、僕も君も欲しがってなんかなくて、むしろ不快でしかないことも分かっていて尚だ。
そう言うと決まって君は、骨が喋るわけないじゃないか。と笑う。
俺はそんなこと一言も言ってないよ。と。

言葉はいつも僕らを呼んで、そのこと自体ちっとも罪に問われないことのように簡単に、当然のように僕らを裏切る。
手を伸ばして捕まえたかと思えばすぐに指の隙間をするりと逃れ、僕らが呆然としている間に舌なんか出してはどこかへ行ってしまう。
何度も何度も、僕らは言葉を信じ、疑い、愛して憎しみを募らせる。
僕らは言葉を愛しているだけではない。
同時に、これ以上ないくらい、憎んでもいるのだ。

『愛は憎しみに変わりやすいと言ったのは、誰だっけかな』

どこまでもよるべない君の、頚骨がそう言ったのを。
ありきたりだなぁ、なんて思いながら聞いた気がした。

違うよ、僕らが言う言葉への愛と憎しみは、元々あった愛が憎しみに変化したのではなく、両者が奇跡的なほど同じ分量で元々体内に存在していただけだよ。と教えてあげたくなる。
そう言うと決まって君は、何の話をしてるんだ。と笑う。
俺は何も言ってないよ。また骨の話?と。
俺の骨は俺の知らないところで、俺の思いもしないことを勝手にお前にあれこれ言ってるんだな。男にしてはお喋りが過ぎるから、どうにかその口、塞ぐ手立てはないだろうか。なんて、君はふざけて笑うのだ。
そういうことにしておきましょう。
僕は淡々と答える。

『…ふん。臆病者め。そんなんだから言葉にすら逃げられるんだ。吟味して胸に抱く暇も与えてもらえずに』

どこまでもよるべない君の、大腿骨が僕らを鼻で笑ったような気がした。

結局一番手に入れたい言葉はどれほど足掻いても手に入らないのだと、何より誰より言葉を信じ疑い、愛し憎しむ僕らは、元々知っていただけだった。
そしてだからこそ、孤独感ばかりでも尚、僕らはいつまでもいつまでも足掻くのだということも。

朝に君を奪われる。

「…都合がいいんだな」
僅か苦く笑った相手に対して、
「そうだよ。知らなかった?」
どこまでも強気に笑い返すことに。
無意識、できるだけ相手より自分が優位に立とうとすることに、縋っているつもりはないのだけれど。

大したことはないと思ってる。
それは言うほど問題ではないのだろうと。
もっと時間と脳みそを使わないといけないことは、他に沢山あると思ってる。
だから、今はさほど深刻なものとして考える必要なんてないんだと。
…そう、自分に言い聞かせていることにも気づかないふりをする。

冬の夜風はどこまでも遠く透き通って、痛いほど冷たい。
全部凍らせて地面に釘付けにするみたいに、何もないように“見せかける”。
塗り潰したような、こってりと濃い漆黒の中。
星すら伴わずに独り怖いくらいくっきりと浮かび上がる月だって、もしかしたらまやかしなんじゃないかって、思ってしまうくらい。
…そのくらい、奇麗、ってだけなんだろうけど。

君と毛布にくるまればきっと、全部忘れて安心して眠れるのだろうと思う。
だけど眠ってしまえばいつか朝がきてしまうことを知っている僕は、素直にそのあたたかいだけの毛布にくるまれることを躊躇してしまう。
朝になれば、君は僕だけのものではなくなることを、知っている僕は。

どうか朝がきませんように。
そんな馬鹿げた願いを空の中央から無情にも傾き始めた月に願ったって、叶わないことも知っているけれど。

朝が君を僕から奪う。
いつもいつも、非情なまでに、容赦なく。

朝なんてこなきゃいいのに。
眠ったら朝がきてしまうのなら、眠らなきゃいいのかな。
なら、僕は君と毛布にくるまれるわけにはいかない。
そこにくるまれてしまったら、僕は何もかも忘れて安心して目を閉じてしまうから。
だけど、どんなに頑張って起きてたって朝はくる。
毛布にくるまれようがくるまれなかろうが、それでも朝はきて、僕から君を奪う。

ぐるぐると頭の中を駆け巡る、我ながら子供地味た思考。
いとも簡単に、どうしたらいいのか分からなくなってしまうんだ。
どうやったら君を奪われないようにすればいいかなんて、夜の闇に紛れてしまうことしかできない僕には分からないんだ。

「…寒い」
ぽつり、零した僕の言葉は白く揺れて、声に感情なんて込められない僕の不器用さを補足してくれた。
「  」
君が僕の名前を呼び、躊躇し続けた毛布の中に僕を巻き込んでしまった。
相変わらずの有無を言わせない強引さに、僕はいつもこうして負けてしまう。
「次は、一緒に星空を見に行こう」
君はなんでもないようにそう言って笑った。
「月見草が見たい」
毛布の中、もごもご、僕は言う。
「それは季節が違うな。…あぁ、じゃあ月見草の季節にも、こうして一緒に出かけよう」
君は簡単に約束をする。

うそつき。

僕は内心毒づいた。
月見草なんて植物、本当はどこにもないのに。それを知ってて君は嘘の約束を簡単にしてくれる。
だけど内心毒づくだけで何も言わない僕に、君は僅か苦く笑った。

「…都合がいいんだな」
「そうだよ。知らなかった?」

甘いだけの嘘で塗り固めた約束でも、君を独占できるなら僕は、いくらでも、と思う。
それほど深刻さもなく、よくも考えずにさらりと。

「…もうすぐ夜明けだ」

ぽつり、君が言う。
大したこともなさげに、君の声は月以外何もない夜空に溶けていった。
ふわり、白く。
暁を呼び込む強さを伴って。

だから朝なんて嫌いなんだ。
僕は光を求めながらそれでも、朝を厭う。

僕から君を奪う朝を。
あまりに君に似た、憎みたいほど愛しい朝を。

新月の夜に逢いましょう

それは、等しく暗闇。
何もない空っぽの空間を、べったりとした濃厚な漆黒で塗り潰したような、埋め尽くしたような、そんな暗闇。
他に何もないでしょう?
何も感じない、何も聞こえない、何も見えない、何も、

吸える酸素すら、ないでしょう?

漆黒を引き裂くような光。
すぐに、雷鳴。
容赦ない雨音が全てを叩き伏せ、激しい風が全てを揺さぶる。


---


ぼぅ、とした頭を抱えて目が覚める。
ぐったりと重たい身体に、冷え切った汗、筋肉も関節も全て、遠すぎて扱えない。
ゆっくりと目に映る、間近の肌色と、薄い灰色のシーツ。
「…ぁ」
ぽつり、声を出せば。
それは発した俺がぎくりとするほど掠れ、痛んで萎んだ。
少し視線を上にすればたやすく見つかる、俺を抱き込み眠る彼の寝顔。
どこか幼く、柔らかなそれを見て、あぁ、また悪夢を見たんだ、とぼんやり思う。


新月の夜は駄目だ。
特に、酷い嵐が重なった日なんて、朝から食欲もないし、まるでずっと眠いみたいに、身体も重いし頭がぼーっとしてちっとも役に立たない。
その時の俺を初めて見た仲間曰く、『一日中夢の中を漂ってるみたいな顔』をしているらしい。
記憶も曖昧になるんだ、確かにそうなのかもしれない。
ある人は慣れてしまって放っておいてくれるが、そうともなればさすがに仕事にも支障をきたす。
でもこればっかりは持病みたいなもんだから、新月の嵐の日だけは休むようにしている。
両方が重なるなんて本当に稀なことだからか、彼も他の仲間たちも、それに関しては何も言わなかった。

こんな状態がいつから始まったのかは分からない。
ただ、気づけば暦など見なくとも、新月だけは身体が先に感知した。
ちなみに、他は満月すら分からない。

新月の嵐の日は、日がな一日自分の部屋に閉じ篭り、息を殺してベッドの上で過ごす。
当然食事なんて摂らないが、一日抜いたところでさほど問題はない。
ただ、身体も何もかも全部投げ出して眠る。
『手負いの獣が傷を癒すためにじっと丸まって寝てるみたい』
慣れたある人は笑った。
一体どんな傷があるんだか知らないが、俺はただただ眠り続ける。
淡々と、延々と。
月が姿を現すまで。

次の新月の夜に、嵐が訪れないことをひたすら願いながら。




(一旦停止)

ヒトヒラの青葉を、手に。

たやすく言葉になんてできない感情を、めいっぱい。
めいっぱい伝えようと足掻いて、足掻いて。
少しでも、少しずつでもと伝えれば伝えるほど、それは後から後から溢れて、一体今までどこにこんなにいたんだ、と思うほどあって、どうしたって伝え切れなかったけれど。

全てを完膚なきまでに覆い隠して、見えなくしてしまうくらい降り積もった切なさは、もどかしいくらいの『好き』のせい。
泣きながら、喚きながら、それでも絶対に大嫌いと言えなかったのもきっと、どうにもならないくらいの『好き』のせい。
それならいっそと、硬いアスファルトに力いっぱい投げつけて壊してしまうことができなかったのも。
未だ「離せ」と、その手を振り払えないのもきっとそう。

時々、『悲しい』が何より沢山になってしまうのは、何故だろう。
なのに不意にまた、『好き』がとめどなく溢れるのは何故だろう。

言葉にすればこんなに薄っぺらいのに、どうしてこんなに、息ができなくなるくらい胸が満杯になってしまうのだろう。

ひとつ、伝えればふたつに増える。
ふたつ、伝えればよっつに増えた。

泉のように滾々と湧き上がる、たやすくなんて言葉にできない感情が、めいっぱい。
どうしたって伝えきれない『好き』で、この身はもう満杯だ。

暗黙的な静寂

足音を立てないでください。
無駄な物音の一切を排除してください。
あくまで、忍び足で。
ひたり、
靴音すらうるさいから、いっそ素足で。
気配を隠し、息を殺して。
眩しさすら煩わしいから、暗闇に紛れて。
誰にも気づかれることなく。
誰にも悟られることなく。
まるで僅かな隙間、するりと滑り込むかのように。
ひっそり忍び込むかのように。
そうやって、ここまできてください。
そうした上で、ここにきてください。

あなたに向かって閉ざした扉は、あなたが暗黙の了解を守ることによってのみ、開くことができるようになると。
あなたの手でしか開くことができないということすら。
あなたはきっと、嫌というほど知っているのでしょうから。

暗黙的な静寂の元でのみ、あなたを待つ人間の存在を。
あなたよりも酷く慎重に全てを隠している人間の存在を。
あなたはきっと、いつものように笑むしかないほど知っているのでしょうから。

距離感の相違

互いに立つ位置の違いをまざまざと他者にまで見せ付ける必要なんてないけれど。
今日に限ってどうしたって目立ってしまうその距離感を、きっと周囲の人間は痛いほど感じて辟易しているのだろうと思う。
故意で示しているわけではないのだと、相手不在で言い訳を口にしそうになる。
それを口内零れる直前どうにか押し留め、暖かな湯気が揺れるコーヒーもろとも飲み下した。
多分、静かに隣に立つ彼女にはそんなものとっくに見通されているのだろうけれど。

「皆が皆、アナタのようにできるわけではありません」

言葉だけを捕らえると相当きつい台詞を突きつけてくる印象だが、そんなもの、日頃の彼女の人となりを知っているこちらにとって、彼女なりの優しさと気遣いが滲んで意図も簡単に相殺される。

「忘れないでください。アナタもまた、今まで間違えたことが一度もないとは言わせませんよ」

否、俺はむしろ間違いを繰り返し繰り返してきた。
誰よりも過ちを犯し、経験してきたからこそ今の自分がいることくらい、身に染み入り痛むほどに感じている。
もちろん、その時々己で判断してきたことは、正しいと信じて行ってきたことばかりだけれど。

間違いと気づく刹那はいつも、後悔と共に自分の残した足跡から生まれ、背後爪を立てるようにしてやってくる。

「なら、今日の俺は間違っているということか?」

思わず自嘲が零れる。
それを受けても尚、彼女はどこまでも平静を保ち、いつもの表情を崩さない。

「間違いかどうかはアナタが判断することです」

そう言って、自分のコーヒーカップに口をつけた。
そうしてしばらく黙り、何かを思案していた彼女が、ふとこちらを向いた。

「…いえ、アナタの場合、たまには他者に判断を委ねる時があってもいいのかもしれません」

とは言え、明らかに自分に判断を委ねろと彼女が言っているわけではないことくらい、俺にもたやすく知れた。

「委ねる相手は」

「アナタはすでに分かっているはずです」

「…だな」

分かりきっていた返答に満足しきれない複雑さは、彼女をも辟易させている距離感だ。
今、彼女に謝罪と感謝の言葉を口にしたとしても、彼女からの返答は目に見えて分かっている。
彼女とは無駄な一切を排除した会話のみで構成できて尚余るほど、互いの間、恋愛感情等とはまた異質な、ひたすらに静かで強固な糸で繋がっているように思う。

「悪かった。ありがとう」

「いえ。それは判断を委ねるべき相手に言ってあげてください」

想像通りの返答に、今度は素直に満足する。
静かで強固な糸を時折こうして手繰り、確認しているだけだ。

いつの間にかぬるくなったコーヒーを飲み干せば、もうここにいる理由はない。
俺が間違っているか否か。判断を委ねるべき相手は、このまま放置すればどんどん俺との距離を広げようと足掻くだろう。
俺たちの距離感に、周囲が辟易していることにも気づかずに。

「…行ってくる」

空になったカップをテーブルに置き、席を立つ。

ふ、

静かな彼女の唇、零れたのは溜め息ではないことくらい、わざわざ振り返り確認せずとも分かった。

饒舌なオニキスを黙らせるには

饒舌なオニキスを黙らせるには

「静かにしろ」と怒鳴るより

「いい子だから」と宥めるより

「愛してる」とごまかすより

黒く艶やかなそれから決して目を逸らさないこと

ただそれだけが一番効果的

それでも饒舌なオニキスが黙る素振りも見せなかったら

ここは諦め、気長に耳を傾け続けるか

「シー、」伸ばし触れた人差し指でもって、微笑んでやるしか手立てはない

手を変え品を変え、そのたびいちいち黙らせど

オニキスは今日も、饒舌

饒舌なオニキスが、自分を黙らせようと試行錯誤を繰り返す俺を眺めては楽しんでいることくらい、俺だって知ってる上で楽しんでいるのだからそれもいい

スピード

君はいつも、誰より早く走る。
並走する者がいれば、負けず嫌いだからますます早く走る。
誰もついていけないくらい、誰より早く走って走って。
だけど決して置いてけぼりになんてしないで、途中で立ち止まって追いつくのを待っている。
「遅いぞ」
そう言って笑う君は、とても嬉しげ。
そしてまた、誰より早く走り出す。
時々、背後ついてくるのを確認しながら、君は走る。
走って走って走って、
嬉しげに笑う。

…子供っぽいなぁ。なんて、言ったら言ったで怒るんだろうけれど。

走り続ける君を誰も邪魔しないのは、僕らの先を走る君が、そのスピードで風を切り、気持ちよさげに微笑んでいると、皆知っているからだと思う。

君は、君より早く走る人が現れた時、どうするんだろう。
昔少しだけ、そう思っていた。


------


ぜぃぜぃと肩で息を乱し、悔しげに前方を睨みつける君の隣。
誰より早かった君の先、走るその背中を見つけた。
「…どうする?」
問うと、君は前方の背中から目をそらさず、深く、深く息を吐いた。
こちらの声なんて聞こえてないみたいだった。

あぁ、

ふと気づく。

あぁ、きっと君はもう。
背後ついてくるのを確認したり、途中立ち止まって追いつくのを待ったりする余裕をも、乱暴にかなぐり捨てるくらいの覚悟がついたんだ。と。
ならば。
ならば僕らは。

君の先を走る背中を追って、君と並走するしかないよね。
今までのスピードなんかじゃ許されない。
君に待ってもらえること、確認してもらえることに甘えてられない。
僕らは君と、ますますスピードを上げて並走しよう。

誰より早く走っていた君の、前を走るその背中を追って。

くすぐったい

君の笑い声は、聞いているこっちがくすぐったくなるほどだ。
まるで猫が喉を鳴らすように、くつくつと笑う。
それを間近で聞いているだけで、胸元がもぞもぞ、くすぐったくなってしまう。
くすぐったさに負けてこっちまで笑って、それでも足りなくて。
ぎゅう、強く抱きついてしまう。
「痛いって」
さほど痛そうでもなく、君はくつくつ笑う。
くすぐったさが余計に募る。

君は月の匂いのする毛布みたいだと思う。
抱かれてると、心があったかくなってよく眠れる。
ずっと一緒だ、と、心のどこかで本気で信じている。
彼はカーテンの隙間から吹き込む、透き通った風みたいだと思う。
そばにいてふんわり笑顔を見ていると、すぅ、鼻から胸いっぱいに息を吸い込んでみたくなる。
もちろん、いつもいい匂いがするし、気持ちがいい。
あの人はどこまでも照らすぽかぽかした太陽だと思う。
どこにいてもあの人は皆を優しく包んで、でも間違ったことをすると厳しく全部照らし出す。
どんな時でも真っ直ぐ、あの瞳は何も裏切らない。
あの子はふかふかのベッドみたいだと思う。
くすくす、笑ってじゃれると君はいつも怒るけど、あの子はちっとも気にせずこちらの好きなようにさせてくれる。
子供の振りしてだっこをせがむと、寝そべった上に抱き上げてくれた。
少し離れた場所、しかめっ面した君を見つけてまた笑う。

あったかい。
あったかいなぁ。
くすくす。くつくつ。
くすぐったい。

深き深き土の下より、呼ぶ声は

その刹那、踏みしめたスニーカーも靴下も何もかもを透かし、素足の裏を伝い、真っ直ぐ昇りあがるように、それは聞こえた気がした。

気のせいだと笑えば、それまでだった。
気の迷いだと吐き捨てれば、そこで終わるはずだった。

「…誰だ?」

俺を呼ぶのは?

刹那、耳を澄ませ返事を返してしまった時点で、全て台無しにしてしまったのは俺自身だ。

俺はそれが一体どこから聞こえたのか分かっていて尚、どこかで信じたくなくて、ついきょろきょろと周囲を探した。

「どうしました?」
彼女がこちらを訝しげに見やる。
今の声が聞こえなかったのか?
そう問うことすら躊躇するほど、彼女の視線はいつも通り過ぎた。
それに、俺はその声がどこから聞こえたのか、以前に、その声が音声として空気を伝い、俺の鼓膜を震わせたものではないことくらい、とっくに気づいていた。
彼女に聞こえるはずもないのだ。

声は直接、全てを透かすように俺の素足の裏から、骨よりもっと内部の体液を伝い脳へ昇りあがってきたものだ。

他の者には届かぬその声は、確かに俺を呼んでいた。
…俺だけを。

ふつと、踏みしめたまま動かせない足を見下ろした。

「…この真下だ」

ぽつり零したそれを、彼は聞き逃さなかった。
俺を押しのけ真剣なまなざしで見下ろし、
「…本当だ。ここだ、間違いない」
そう確認する声が、俺の足元しゃがみ込んだ背中から聞こえた。
「お前、よく分かったな」
褒められているとうよりは、その理由を不思議がる響きだ。
肩越し見上げられても、どう返せばいいのか分からない。

呼ばれた気がして。
そんなことを言っても、信じてなどもらえないだろう。

この真下。眠っていたそれが、俺だけを呼ぶ。
その意味は、どこにあるのだろう。



(一旦停止)

どっちかなんて選べないことも

「正解」と「間違い」どっちでもないことだって山盛りだ。

伸ばした指先が強請るのは、いつだって同じだった。
どうしたって埋められない隙間を嘆いたって始まらない。
どうせなら一緒に埋めていきましょう。
どうかそう言って笑うことを許してください。

「分かるよ」と「分からない」どっちでもないことだって、山盛りだった。

強請る前に手を伸ばしてくれた人は、いつだって同じだった。
どうしたって変えられない過去を嘆いたって終わらない。
ねぇ、終わりと始まりのあの日を一緒に見に行こう。
どうかそう言って笑うことを許してください。

どっちか一つを選ぶことなんてできないことだって山盛りだ。

ランナーズ・ハイ

ただ、寂しさや悲しさなどの感情を想う暇などなかっただけです。
そんなもの、自覚している時間などありえませんでしたから。
それだけ我々はそれぞれの何かに追われ、そして追っていたということです。
そのことが、幸せなのか不幸なのかすら、考える暇もありませんでした。
本当は、人は、追われ追う中心軸などなくても生きていける。
たったそれだけのことすら気づけぬままに。
余計な荷物も、帰る家も寄り添い眠る家族も持たず。

でも、きっとそれでよかったのですね。
限界を忘れて全力で走り続ける。それだけで十分だったんですね。
我々はきっと、誰より幸せだったのです。

何より、僕と君とを「我々」と、一口にできていた分余計に。


「一度ランナーズ・ハイに陥ったら、絶対に途中で立ち止まるな。一瞬でも止まったら、もう走り出せなくなっちまう」

あの時君は笑って言いました。

だけど僕は一度立ち止まってしまった。
追われ追う中心軸をなくし、人はそんなものなくても生きていけると知って愕然として。
だけど中心軸がない状態で、一体どうやって生きていけばいいのか分からなくて途方に暮れて。
ただ震えるだけで、もう動かなくなってしまった己の足を、どうすればいいのか分からず呆然と見下ろしながら。
一緒に走っていたはずなのに、いつの間にか、分かれ道をそれぞれの方向に走っていたことに気づきました。

あぁ。今頃。
今頃君は何をしているのでしょう。
どこにいるのでしょう。
まだ、君が選んだその道を、限界を忘れたまま、全力で走り続けているのでしょうか。


ただただ思い出す。

夢中でひたすら繰り返し続けた日々。
「我々」のランナーズ・ハイ。


Nothing could be more happy.



another side of <Sweet home sweet>

ひとつとや

たったひとりのアナタと、たったひとりの自分とで。

たったひとつのスプーンで分け合うことの楽しさや、

たったひとつの毛布に包まって寄り添い眠ることのあたたかさを知った。

たったひとりのアナタの指は、たったひとりの自分の指と噛み合うけれど。

たったひとつの僅かな隙間すら、自分たちには埋めきれなかった。

なにひとつ、自分たちにとってどうでもいいものなどないのだと、アナタは教えてくれました。

アナタがくれたものひとつとや、いらないものになんかならないよ。

口から出任せ

時々、激痛より鈍痛の方が耐えられない、と思う。

酷い怪我をした時、傷口はそこにもうひとつ心臓が生まれたかのように、どくり、どくりと脈打つ。
痛みで理性が壊れてしまわぬよう、脳内麻薬が分泌され、痛みは酷い痺れと熱となって分からなくなってくれる。
もしくは、それでも追いつけない場合は意識を失う。
それだけだ。そして、それでよかった。

…なのに。

中途半端な打撃は、何故こんなに長く長く続くのだろう。
じわじわ、ちりちりとした痛み。
一体いつまで耐えればいいのかも分からない。
むしろ少しずつ降り積もる砂時計の砂のように、ただ見ただけでは分からないほど僅かずつ、増えていくような気がする。
ただ、顔を歪めるほどでもない、だけど笑うこともできない。
じりじり、着実に理性も肉体も攻撃する痛み。

こんなの、耐えられない、と思う。
あぁ、何より辛い拷問は、肉体的なものではなく、脳に働きかけるものだった、と思い出す。
じりじりと壊していくその緩やかさが、何よりの苦痛だと。

だから、なんて君からすればただの言い訳かもしれない。
この場から逃れる手段だと思われても仕方がないのかもしれない。

「こんなの耐え切れない」

僕は呟く。
いっそ意識を失うほどの激痛をくれたらいいのに、と。
君は、どうせ笑うだけで許してなんてくれないのだろうけれど。

じりじりと僕を追い詰める鈍痛を抱え、僕は途方に暮れる。
耐えられない、そう呟いて、だけどまだなんとか立っていられている。

あぁ、行かなくちゃ、と思う。
まだ君は許してくれない。
君が呼んでいる。
気づけないくらい少しずつ増す鈍痛をそのままに、それでも行かなくちゃ。
未だ僕を許してくれない君のところに。

盲目。

慣れることと飽きることは、全く違うことだ。

衝動はどこまでも無様に内部に燻り続けて、果てなんてない。

君のその生命線ごと僕に全部、ください。

その代わり、僕の視界全て、君にあげましょう。

爛れ腐り落ちる寸前まで全部。

分け合うなんて生易しいことはしない。

どちらかがどちらかに喰らい尽くされるまで、僕らに本当の終わりなんてこない。

噛み癖について

あんなにも欲しがった酸素を思いきり吸い込んで、吐き出す作業。
足元おざなりに投げ出したのは、一体どんな性格をしたものだっただろうか。

まだまだ僕らには重ねるべき時間が足りていない。
圧倒的に。

知らないふりをしてみたり、聞きたくても聞けなくて我慢したりを繰り返して。

ねぇ、毎日をこうして過ごせたら。
時々僕は、そんなことを思う。
君の指を、噛みながら。
誰より変化を求めて、誰より変化を嫌う日々を、それでもこうして。

Ambivalence

いつでも想ってる。
ただひたすらに、あなただけを。

だからいつでも想ってて。
ただひたすらに、僕だけを。

そうやって僕達は、互いに依存し合いながら執着し合いながら。
そうすることで呼吸すらままならないほど苦しく辛い、この想いを抱えて歩く。

いつでも、あなたの声は聞こえているよ。

僕を呼ぶあなたの声だけは、絶対に。

コーラルブルーの水中から

ゆらりゆらゆら。

夢見るように。

どこまでも遠く、心元ないほどに透き通った、綺麗すぎて生き物の一切住めない、コーラルブルーの水中から。

君を呼ぶ僕の声が、コバルトブルーの空中漂う、君に届くだろうか。

同じ青の中に生きるはずの僕と君は、

ゆらりゆらゆら。

夢見るように。

揺れる水越し、空を漂う君を見つける。

君が吸える酸素と、僕が吸える酸素は違うけれど、どちらかがどちらかに溺れてしまえば、関係ないよね。

もがく。足掻く。

今までただ、漂っていた水中から。

君に引き摺りあげられるか、君を引き摺り下ろすか。

ゆらりゆらゆら。

夢見るように、君を想う。

蜜色の水底

手のひらが、両目の瞼を撫で下ろす感触。
それに従うのは癪だったけれど、その流れるような手のひらの温度はそんな俺の意地っ張りな反抗すらそっと、溶かす力があった。
普段じゃ考えられないほど素直に瞼を下ろした俺に、間近、ふ、と柔らかに空気が揺れる気配。
それは君が微笑んだ時の揺れなのだと、悔しいほど簡単に知れた。
…何をそんなに嬉しげに微笑むんだろう。
そんなに、密やかに。

…目眩がするじゃないか、馬鹿。

焦れてるみたいじゃないか。
餓えてるみたいじゃないか。
待ってるみたいじゃないか。
それらを認めるのは瞼を下ろすより、逃げるタイミングを逃すより、何より悔しい。

だから絶対に、認めない。
どこまでも。
恋しい君を、認めない。

銀葉樹

するりとすり抜けて行ってしまいそうな肩を、行かせたくなくて。
つい、加減を忘れて強い力で掴む。

『痛い。離せ』

その力の強さを嫌がって、必ず顔をしかめてそう言われてしまう。
天邪鬼を纏い己を隠そうとする、その難解な性格を知っている。
こうして強引に引き止められることを厭うていることも。
手を離せば、行ってしまうと分かっている。
引き止められればますます離れたくなることも。
だから、離せと言われてはいそうですか、なんて、離せるわけないじゃないか。

いつも、お前を優しく抱きしめてやれないのは。

『アンタはいっつも余裕ぶって俺を見る。そういうところがいけ好かないって言ってんだよ』

お前はいつもそう言って、この手を振り払おうとするけれど。
本当は、俺に余裕なんてない。
お前に対してだけは、微塵も。

『いつも俺ばっかり余裕がないみたいでむかつく』

伝わらないのはお互い様。
もどかしいほどにすれ違うのは、それでも互いに向かう視線。
不器用な方法でしか伸ばせない手のひら。
ぶつかるだけの言葉の応酬。
それでも離したくないとこいねがう強い想い。

…こんなにも。
たったひとりに必死になったことなんて、ない。

『…なんだよ』

それでも離さない腕に、焦れるようにこちらを見上げる。
強い反抗の目が、最近少しだけ優しくなったと思うのは、ただの俺の欲目だろうか。
それでも、その分優しくしたいと強く思うのは。
自分から抱きついてくるなんて絶対にしないこいつが、それでも一度、この背中を抱きしめてくれたことがあるからだ。

過去の過ちを悔い、深い思考に溺れて抜け出せなくなっていた時だ。
俺はここにいる資格などないのではないか、そう思うと、何か分からない底知れぬ恐怖のようなもので身が震えた。
その時、ふ、と背中に気配を感じた。
それは涼やかな月夜のように静かで、柔らかく、優しい気配だった。
他の者に背後を取られることは、あまり好きではなかった。
しかし振り返ろうとした俺を制するように、両腕の隙間から滑り込み、俺の腹部を抱きしめる腕を見た時、俺は急激にこみ上げる切なさや愛しさに息ができなくなった。
震えが伝わってしまわぬよう、慎重に呼吸を意識する。
そんな臆病な俺を宥めるように、背骨にぶつかる額の硬い感触。
それから、薄く、でも柔らかな頬の感触。
すぅ、と肩から何かが落ちた。

あぁ、
俺は目を閉じる。
あぁ、俺は。こいつになら。…こいつになら、この背中を預けてもいい。
もしこのまま背後から刺されたとしても、こいつなら。
そう、思ったんだ。

あの時、この背中を暖めてくれたお前を、大切に、優しく。正面から抱きしめたいと思う。
この背中を唯一預けられるお前を、何よりも大切にしたいと。
なのに、すり抜けようとするその腕に焦って、つい強く掴んで引いてしまう。

『だから痛いってば。離せよ』

そう、言わせてしまう。
しかめた顔。薄められた瞼の奥の瞳が、切なげに揺れることを知っていて。
ただ、俺はただ、行かせたくないだけだ。
俺から、離れるな。

「   」

呼ぶと、こちらを僅か薄めた目で、それでも真っ直ぐ見上げてきた。

『なんだよ』

その視線ごと、今すぐお前を攫って逃げたいくらい。
胸がざわめく。
自分が、あまりに矮小に感じる刹那。

「…俺から、離れるな」

お決まりのその言葉は、口癖のように。
だけど毎回、心の奥底から真剣に。

本当に余裕がないのは、俺の方だ。

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欲しかったのはただ、

『待て、そこから動くなよ!今から向かう!』
不意に陥ってしまった真っ暗闇の中。
手のひらの上、彼と繋がる端末機から、彼らしからぬ酷く焦った声が聞こえて、思わず鼻で笑ってしまった。
そんなに何を焦るのだろうか。
「俺に命令するな。俺がここから動こうがどうしようが、アンタには関係ないことだ」
できるだけ早口でそう捲くし立てるように言った後、喉の奥がひくりと痛んだ。
『…な、…?』
微かに伝わってくる息を飲む気配に、喉奥の痛みは増す。
俺が口走った言葉に対して、純粋に驚き、不思議がっている様子だった。
予想通り怒声や叱咤が聞こえてこないことを知り、これ以上、会話を交わすことは不可能だと思う。
「ばっかじゃねーの」
できるだけ冷たく、突き放すように言うつもりだったのに、少しばかり失敗して震えてしまった。
悔しくて、主電源からオフにする。
切ったところで、それを投げ出すことなんてできないのに。
ぎゅう、
強く手のひらに握り締めてまた鼻で笑った。

この手のひらに強く握り締め手放せない端末機ごと、彼をも捨ててしまえばいいのに、と他人事のように思う。
それは実はとても簡単なことで、今すぐその気になればできることだ。
これを投げ捨て踏み壊し、後ろを振り返らずに歩けばいい。
なのに、地面に投げつけようと振りかぶるのに、それを握り締める手から力が抜けない。
それどころか、足は震えるだけで硬直し、ここから一歩も前に進めそうになかった。

…簡単に、捨てられたらどんなにいいか。
「…っち、」
思わず舌打ちした。

早く。
早くここから離れなければ、彼は来てしまう。
たったひとりででも。
ここがどんなに危険な場所であろうと、彼は関係なく来るだろう。
勝手な行動に出た挙句、勝手に危険な状態に陥り、やっと連絡が取れたと思えば命令を無視し主電源を落とし。
己の失態に混乱し、ただの八つ当たりのような子供地味た言葉でもって拒絶した俺を、それでも。
それでも、…俺を迎えに。

「こんなところにいたのか」
背後、真っ暗だった空間に細い光が差したと同時に、彼の声がした。
「…早かったな」
振り返らずに、できるだけうんざりした口調を心がけて言う。
そうでもしなければ、今にも彼を振り返り、彼の眼前で無様に膝を折ってしまいそうだった。
近づく彼の足音が、俺の背後で止まった。
「   」
「俺の名前を呼ぶな」
肩に伸びた彼の手ごと、咄嗟に拒絶する。
「…どうした?」
それでもそんな俺の態度に不快感すら見せず、純粋に不思議がる気配しか見せない彼。
無性に、理不尽と分かっていて腹が立った。
「アンタ何してんだよ!こんなとこに来てる場合じゃないだろ!」
彼が崩して入ってきた隙間から差す僅かな光を頼りに見える程度の、狭い落とし穴のような空間に、俺の、どこか焦った声が響いた。
汗ばんだ手のひらに握り締めた端末機を壊して歩き出そうとしたって、こんな狭い空間で、一体どこへ行けばいいと言うのだろう。
「アンタの向かうべき場所は違うだろ!急がないといけないだろ!」
ぎり、端末機を握り潰してしまいそうになるほど、力を入れた。
彼を真っ直ぐ見据えることなどできない。
こちらを真っ直ぐ見つめる彼から目をそらすことは、敗北を意味するようで悔しくてしたくなかったけれど、どうしても顔を上げることができなかった。
彼の視線は真っ直ぐに俺を見つめ、
「もう少し、俺を信用したらどうだ」
静かな、自信や生命力に満ち溢れたいつもの彼の声が俺を制する。
「   」
「俺の名前を呼ぶな!」
伸ばされた彼の手を、その声ごと振り払う。
「   」
それでも彼は俺の名を呼ぶ。
耳を塞いで逃げ出したくなるほどに、真っ直ぐ俺を呼ぶ。
少し乱暴なほどの力でもって、両肩を掴まれた。
「痛い。離せ」
振り払おうにも、払えないほどに。
「   」
「…何で…」
「   」
「何でアンタ、俺を呼ぶんだよ。俺を探したりなんかして、貴重な時間をロスする?俺なんか放っておいてくれよ!このくらい、自分で脱出できた!」
「   」
「呼ぶな!」
「…少し、黙れ」
彼は俺を制するように静かに、言った。
彼が崩して入ってきた隙間は人ひとり分の狭い穴で、そこから差す光は僅か。
だけど狭いこの空洞を何とか見渡せた。
何もない、空っぽな狭い空間。
俺と彼以外、何も。
ぎり、握ったままの端末機。
「…無事でよかった」
彼の言葉は吐息と見まごうほどにか細く、彼らしくないものだった。
「俺から離れるなと言ったはずだ」
「…アンタの命令なんて、」
言いかけた俺を、彼は首を振ることで遮る。
「命令じゃない」
「じゃあ何だよ!」
「願いだ」
「願いだと?」
間近の彼を睨む。
すると、彼は、やっとこっちを向いたな、と笑った。
そこにはすでにいつもの強気な彼の顔があった。
「戻るぞ」
俺の肩を押して促す。
それを振り払った。
今度は、簡単にその手は離れた。
「   」
「…呼ぶな」
「俺は何度でも呼ぶぞ。お前が望むだけ何度でも」
「…は?俺は呼ぶな、と言ってるんだ。寝言は寝て言え」
「そうかな。俺にはもっと呼んでほしい、と聞こえる」
「…アンタ、馬鹿じゃないのか、耳鼻科に行って検査してもらえよ、…アンタ、」
おかしい。
そう、言ってやりたかった。
声が途切れてしまう。先が続かない。
「   」
彼の声は、こんな狭い空洞に静かに染み渡るようによく響く。
俺の抗う声なんかよりずっと、力ある響きでもって。
「俺から離れたお前を迎えにくるのは、俺しかいないだろう」
俺から離れるな。一緒に戻るぞ。
はっきりと、きっぱりと。
彼の声には迷いなどない。
こうして足を引っ張る俺を、それでも何度でも迎えにくると、彼は言う。
何度でも名前を呼ぶと。
「…アンタがそんなんだから…」
彼と繋がる、握り締めた端末機。
光差す、彼の開けた出口。
「   」
「…なんだよ」
「愛してる」
初めて耳にする聞き慣れない言葉に驚いて顔を上げると、そこにはやはり、いつもの自信と生命力に満ちた彼の笑みが、俺に向かって手を伸ばしていた。
「…寝言は寝て言えよ」
必死に鼻で笑うも、目頭と喉奥がどうにも痛くて唸ることしかできなかった俺は、端末機を握り締めたまま固まってしまった手と逆の手を、彼のあたたかい、強い手に引かれた。

彼が開けた隙間から、眩い光差す、出口の方へ。

俺が欲しかったのは、ただ、…

種子から芽生えたものは

僅かな布ずれの音に、ふわり、浮き上がるような目覚め。
朝日の眩しさにおずおずと目を開けると、視界の殆どを自分のものではない柔らかな黒髪が埋めていた。
そのあまりの幸福さ加減に、思わず鼻先を摺り寄せ目を閉じる。
己の体躯と僅かな隙間をおいてそばにあるそれを、起こしてしまわぬように慎重に抱き寄せる。

自分の隣に眠るのは、黒猫だ、と思う。

艶やかな毛並みは黒々と朝日に光り、体温を含んだ哺乳類独特の優しい、甘い体臭がする。
きっと優しく撫でればゴロゴロと喉を鳴らす。
よほど機嫌がよければ、鼻先を摺り寄せ甘えてくるかもしれない。
しなやかな体躯をそっと抱きしめれば、柔らかく、でも美しく筋肉のついた心地よい手触りでもって応えてくれるだろう。
気が向かなければ、ぷぃとそっぽを向いてベッドから降りてしまう。
ひとりこちらに背を向けて考え事に没頭している時に邪魔などすれば、途端機嫌を損ねて出て行ってしまう。
無理に追わずに待ってやれば、何事もなかったかのように戻ってくる。
穏やかに毛づくろいをし、そしてまた、こうしてベッドに潜り込んで眠るのだろう。
我侭で気まぐれで不器用な、可愛い黒猫だ。

『今までたったひとりで生きてきた。これからだって生きていける。アンタなんか必要ない』

黒猫はそう言って強がりを言ってみせる。
俺の手を振り払おうとする。
だけど、実際の猫だって、単独行動を好んでも、単独生活はできないのだ。
それを証拠に、黒猫はひとり途方に暮れていた子猫を見つけ、連れ歩くようになったではないか。
俺を睨みつけ俺を追いかけ、だけど手を伸ばせば噛み付き、引っ掻いてきていたけれど、こうして、俺の隣で眠るようになったではないか。

「…もう大丈夫だ。何も怖くない」

未だ眠る黒猫の耳元、柔らかな黒い毛並みを撫でながら言い聞かせる。

『…んなこと言って、アンタだってどうせいつか俺をひとりにする。ひとりの感覚を忘れた頃にまたひとりにするくらいなら、最初から手なんか伸ばすんじゃねぇよ!』

ひとりに慣れ、ひとりでいることが一番だと思っていた黒猫。
だけど一度ひとりがふたりになってしまい、それに慣れてしまったら、もうひとりに戻ることなんてできない。
全てに怯え、警戒し、毛を逆立て、爪を立てて威嚇してきていた黒猫は、今。
少しだけ身を丸め、俺の腕の中で眠っている。
これほどの幸福はないだろう。

「もう大丈夫だ。俺が、お前を全て許そう」

許し、愛そう。
それは、お前が望む望まないに関係などない。
愛というものが、自分よりも相手を優先し相手のことを想い、自分の欲を制するものであるならば、これは恋でもかまわない。
俺はどこまでも自分勝手に、許し、愛しく思い続ける。
初めて会った時、こちらを睨みつける黒い瞳に、自分の顔だけが映っていることに気づいた高揚感も。
こうして、隣で身を丸めて眠るその体躯をそっと抱き寄せる幸福感も。
俺は一生、忘れない自信があるから。
何も、怖くない。

お前をまたひとりになど、例えお前にひとりになりたいと懇願されてもさせてやらない。
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