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まどろむことさえできない

その下瞼の淵にぷくりと膨れ上がった雫の分だけ、誰かがしあわせになろうとしていた。

小さな小さなそれは、その人の肌の色を正しく映していたことだけは分かった。

下睫毛の先から今にも落ちてしまいそうな、ふるふると揺れる頼りない透明な粒は、ぽろりと離れる寸前に途切れてしまい、行方は結局分からなかった。

あとに残ったのは、まだ明けもしない夜の闇のみ。
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色の癖に無色なんだから

何の脈略もなく、何色がいいだろうと思う。
何に対して。何をもってして。どうしてそういった考えに至ったのかは覚えていない。
ただ、紫がいいだろうか。黒がいいだろうか。それとも淡い桃色がいいだろうかと、自分でもよく分からないのに真剣に悩んでいた。
どの色を選択したところでどうなるかも分からず。
ただひたすらにひたすらに。
青がいいだろうか。赤がいいだろうか。それとも奇麗な生成り色がいいだろうかと。

あれこれ脳裏に浮かべようと足掻くも、何故かどの色も正しく脳裏に蘇ってはくれず。
夢の色はモノクロだった。

この手の感触だけが頼り

テレビモニタの向こう側のお話としては、ありだと思った。
童心に戻って何も考えずにお座りしているだけなら、情けないことに大概平気だったしと。
抜け駆けしようと満面の笑みで駆け出す腕を、遮って邪魔したりしてても、そこに無邪気すぎるくらいの笑みばかりが転がっているなら罪なんてない。
純粋に、自分が楽しいことを追いかけている背中は見ていても楽しいし嬉しくなるのだ。

胡坐をかいて、背中を丸めてそんな風にぼんやり眺めていたら、気づかぬうちに隣に座っている人がいた。
僕はそれに大して驚かず、まるでいつものことのように振る舞い、僕と同じように胡坐をかき、少しだけ背中を丸めた人物の膝を軽く叩いた。
ぱしん、と叩いた手のひらに、その人が履いていた、履き込まれたジーンズと、その人の体温の感触がありありと残って、あぁなんて生々しい。と内心笑う。
そうやって、その人に会うたび内側に隠したものがもうひとつ増える。
そのことを別段、不幸だとか虚しいだとか思わない。
むしろ逆だ。
見ている方が気持ちいいくらいの勢いで食事をする口元だとか、よく動く器用なのか不器用なのかいまいち分からない手だとか、ピアスのひとつもない耳朶の上短く切りそろえられた黒髪だとか。
そういったものをなんとなく。何の興味もなさそうに眺める。
そしてまた、ひとつ。
そんな呼吸の仕方も悪くはないと思った。

想い裏腹少し乱暴な言葉を吐いたって、相手の受け取り方さえ分かっていれば全然平気だった。
いたと思えばいなくなる。
そのくらいの自然さと自由さを羨みながら、僕もまた、ふらりと出かけるだけだったから。

どうあっても答えは知れないらしい

意識しなかったらしなかったで無理やりにでもこの目に映ってくるくせに、あえて意識すればそれは意図も簡単にこの視界から失せた。

代わりに、3つの通り道を見た。
結局どのようなものでも思い通りになんてそうそういかないのだと言われた気がしたけれど、3種類もの通り道はそれぞれに輝き、結果だけ見ればそれなりの轍になるのだと知った。
3つの道は互いに両手を繋ぎ、中央に寄せた3つの顔がことあるごとに独特の密談を楽しんだ。
そうして感化しあいながらぐるぐると螺旋を描いて、上昇したのか下降したのか。

『あなたはどれを選択したい?』

もしも3通りしかないのだとすれば、多分私の理想は最後の道なのだろう。



不意に芽生えた悪戯心と好奇心で伸ばした指先に、それは意外と柔らかく、あたたかかったことにとても驚いた。
ゆわりと持ち上がったその隙間から僅かに見えるそれはどこまでもあまやかで魅惑的で、あとから罪悪感にとらわれるなんてちっとも考え付かなかった。
あの時、忘れて行ってしまった真珠色の粒は、いつか巡り巡ってこの手のひらに戻ってきてくれるのだろうか。

例えば、全てが思い込みだったりとか、

目の前に、見たこともないような。どこかで見たことがあるような。
どこにでもあるような。少しばかり珍しく見えるような。
そんな、木製のドアがあった。
大きなドアだ。

擦りガラスがはめ込まれたドアには、鈍い銀色のドアノブがある。
丸い、ドアノブ。
鍵穴はない。
否、あったかもしれない。
それすら曖昧だ。

とにかく、そのドアノブに手を伸ばす夢を見た。

伸ばした手がドアノブに触れるか触れないか。

いつも、そういう大事なところで目が覚めてしまうのは何故だろう。

あの鈍い銀色のドアノブは、冷たかっただろうか。
それともぬるかっただろうか。
触れられたとして、それを回すことはできたのだろうか。
そして、そのドアを内側に?外側に?

…開ける夢を見られるのは一体いつだろう。

あのドアの向こう側には何があるのだろう。
次の部屋?廊下?外?

抱きしめるように、君を呼ぶ

この世に生れ落ちた瞬間から、今の今まで。そして多分これからも。もっと。
僕らはありとあらゆるものを犠牲にして成り立っている。辛うじて生きているのだ。
僕はそれら犠牲全てを正しく積み上げ数え上げられるのだろうか。
償えるのだろうか。慰められるのだろうか。

これからも生きることによって。
今、死ぬことによって。

丸々とした美しい黒目が艶々と目の前で小さく震えた。
僕はそれを見下ろしながら、その黒目を包む濃い睫や、彼女の長く艶やかな甘栗色の真っ直ぐな髪を眺めた。
その繊細なひとつひとつを目に焼き付けるように。慎重に。確実に。
これから先、僕らに何があろうと決して忘れることがないように。

僕らはこの世にあるありとあらゆるものを犠牲にして、今、ここで生きている。
これから先も多分きっと。もっと。
彼女の小さな両手では、そして僕の荒れたボロボロの手でも数え切れないくらいのそれらを、僕らは償う方法も、慰める方法も知らずにひたすら生きる。
そう、生きる。

「そう、…生きるんだ」

僕は強く歯と歯を噛み合わせて真剣に誓う。
目の前に佇む小さな少女に誓う。
彼女もまた、その外見の幼さに似合わぬ気高さで凛とそれを受け止める。

僕は思わず叫びそうになった。
世界の果てまで届けとばかり、喉が張り裂けんばかりに大声で。

僕は尊いものと出会った!
尊いものを守ることができるんだ!
そう、君と!君と一緒にだ!

「さぁおいで。君も行くんだ。僕らと一緒に」

僕はまるで胸の内に大切に抱きしめ全てから守るようにして彼を呼んだ。
鮮血のような赤い瞳の彼は、何の抵抗もなく僕を心の奥底から信頼し、僕に呼び寄せられてくれた。
僕と彼だけが抱え込むことを許された、馬鹿馬鹿しいほど頑なな使命感を疑いもせずに。

暗く儚い荒れ果てたこの世にあって、それでも諦めきれないものが胸の内に残っている限り、僕らは彼女と共に行く。
だって、夕焼けの最中にあちらこちらで僕らの方へ向いて手を振る人々の、その笑顔のなんと晴れやかで気高いこと。
僕らはその光景に胸を震わせ、背筋を真っ直ぐに伸ばし彼らに精一杯応え背を向けた。
それだけで、敵ばかりの世界全てを味方につけたような気がした。

僕は弱い。僕は無力だ。
それでも、…何か。あちこちにいた沢山の人々と、今僕らの周囲にいる人々。目の前にいる彼女の。そして僕の両腕の中の彼と、僕自身の。
今まで犠牲にしてきた沢山のものたちを分け合い背負いあって、行ける。
まだ、僕には歩ける足があるのだから。
彼や彼女を抱きしめる両腕があるのだから。

すっかり日が暮れた真っ暗闇の世界の中で、僕らは燃え盛る炎の光を真正面から受け立っていた。
オレンジ色の光は、もうもうと、ゆらゆらと不規則にかたちを変えながら僕らの頬を照らし、真っ黒な夜の空にしんと浮かぶ月の清廉な白をも、少しだけ甘く染めた。

切り開くことと、縫い合わせること。

手に持った鋏はいつもの安い文房具用ではなく、裁縫用の裁ち鋏だった。
あの持ち手の黄色い華奢な文房具ようの鋏は一体どこに行ってしまったのだろう。
幼い頃、あの子に貰った大事な鋏なのに。
もう随分と酷使して、だけどなかなか壊れない。どこにでもある、大切な鋏。
思い出と共に様々なものを切り離してきた、ちゃちな鋏。

だけど私は迷わず裁ち鋏で布を切った。
左手に握った柔らかなニット生地の布を、裁断する。
さくり、さくりと。裁断ラインが乱れてしまわぬよう、できるだけ真っ直ぐ。無駄なく。

切り抜かれた柔らかなニット生地を合わせ、マチ針で止め、使い慣れた大きさの縫い針に布と同系色の糸を通す。
切り離した布と布を、縫い合わせる。
平面でしかなかった布を、立体にするために。
何かを吹き込むように。縫い込むように。織り込むようにして。

するり、

手のひらから柔らかなニット生地が逃げた。
それはあまりに自然に流れ落ちるようにして、私の膝の上に落ちた。
そしてそこからどこにもいかない。
どこにも。

私は一旦行き場をなくした縫い針と糸とを右手に、左手を宙に止めたまま。
しばらくそのままぼんやり座り込んで前方を見ていた。

「…きっと」

きっと、

言いかけて、なんだか嬉しくなって笑った。
言葉はそれ以上続かなかった。

「お願いだから!」

照りつける太陽の熱をめいっぱい抱き込んだアスファルトの、とろけるような闇色の内側。
全てを叩き伏せるように落下した激しい夕立が、降り始めの荒々しさが嘘のようにあっけなく上がった後。
たっぷりとした水分が、アスファルトの熱に包まれもわもわと奇妙な弾力を帯びて空気中に戻ろうと足掻く様を、わざわざ立ち止まって見守る気なんてなかった。

子供は小さな両手を必死に前方に伸ばし、頼りない小さな足でもって、抱き込んだ熱と吸い込んだ水分をとろとろの闇色に染めるアスファルトを蹴って駆ける。
今にも転びそうになるもつれる足を無視して、真っ直ぐ前だけを見て。

「見つけて!」

幼い声があまりに切実に夕暮れの中響いた。

駆けて行く子供の背中がきついオレンジ色の日没間近な太陽の中に小さく小さく溶け消える瞬間は、一体どれほど美しければ気が済むのだ。

消し炭のような

まだこの世界に「黒」という確実な色がなかった頃のお話。

君はどこか自信に満ちた表情で目を閉じ、人差し指をゆらゆらゆらり。
僅かに口端を持ち上げ、口ずさむように放つ言葉は、子供の頃読んだような絵本の冒頭にありがちな枕詞だった。

曰く、「昔々、あるところに」である。

その時点で真面目に取り合うことを早々に諦めた僕のことなど全く意に介さず、君は先を続ける。
まるで実際見てきたかのように滑らかに。

「黒」という強固な色が日本に生じたのは、実はつい最近のこと。
昔は「黒」なんて端的で乱暴な色なんてこの国にはなかったんだ。

墨の色?あれも正しく漆黒ではない。
どこまでも見透かせない深い深い「黒」を作ろうと思ったら、墨汁だけでは駄目なんだ。
硯でもって?どれだけ時間と手間がかかるだろうね。どれほど深く沈めても、多分駄目だろう。

なんで急にこんな話をし始めたか、多分お前は分からないのだろう。
墨を重ねて藍を重ねて、例えどれだけの染料でもって染めようとも、丑三つ時の暗闇を探ろうとも決して漆黒にはならない国の中で。
だけど正しく「黒」を見出したのもまた、日本人だったんだ。
もちろん外国ではすでに「黒」は存在していた。だけどどこまでも閉鎖的だった日本は諸外国の影響を受ける前に、正しく「黒」を見出したんだ。

どこに?どうやって?
それは多分、お前は無意識知っている。

「光が強ければ強いほど闇は濃くなる。際立つんだ。もちろん、その逆もしかりだけれど」

眩いほど真白な一条の光差すそこは、正しく「黒」い世界ではなかったか?

僕は咄嗟に知らない、と急いで反論した。
何も焦る必要なんてなかったのだけれど、何故か無性に行き急いだ。
多分そのことが、「僕の無意識」なのだと決定付けるものだったのだろうが、今それを認めるわけにはいかない気がしたのだ。

ふ、君は吐息のような淡い淡い、薄く水に溶かした墨汁のような笑みを零した。
それは真っ白な和紙の真上、じわりと滲んで染み込んでしまった。
一度そうなってしまったものは、もうどうしたって決して洗い流せないのだと、分かった。

楽観

裸足の爪先が冷たく凍ったコンクリートの、小さな凹凸の上を捉え、蹴り上げ、跳躍する。

まず完璧に構築した上で、「完璧過ぎると逆に人間としての完璧さを損なう」という理由で少しだけ、少しだけと引き算していったかのような人が、僕の目の前で跳躍した。

その飛び立つ刹那、空中滞在、落下、着地までのほんの僅かな時間を、僕は無駄に消費した。
否、無駄だと思わなければ無駄にはならない。
だけど「僕が僕のために消費する時間」とは違うから、無駄だ。
彼の跳躍するシルエットはそれはそれは美しかったのだけれど。
僕の心のヒダは確かにその僅かな時間、震えたのだけれど。


大声で君を呼ぶ夢を見た。
喉が張り裂けんばかりに、このまま潰えても仕方ないと思うくらいに、大声で。
そうでもしなけりゃ、常時一体どこからこんなに人が集まってきたんだと思うくらい人、人、人でごった返した繁華街の、車の通行量も多い道路の反対側を歩く君を、こちらに向かせるなんて絶対にできないと思ったからだ。
焦ったからだ。
必死だった。必死に君を呼んだ。
だけどよどみなく歩み続ける君はそれでも全然こっちに気づかない。
駄目だ駄目だ駄目だ、気づいて!

げほげほと咽て、目が覚めた。

結局君の遠のく横顔は一度してこちらを振り返ることはなかった。

懐かしい夢

抜け切った、と思っていいのだろうか。
それとも単に完全に忘れてしまっただけなのだろうか。

答えなんて本当はどちらでもいいんだろうけど、時々無性に、具体案をほしがる癖はまだ抜けていない。

今から10年ほど前に見た夢を、ふと思い出した。



10年前の私は夢を見ている。
夢の中で私は、男だった。
私だった男は若い桜の樹の根元をスコップで掘っている。
桜は樹齢15~20年といったところ。幹はつやつやとしていて、触ると手のひらにほどよく馴染んだ。
真夜中だ。
月明かりだけを頼りに、男は桜の根元を掘っている。
ひたすら、ひたすら。できるだけ深く。
暗い暗い夜の闇の中。月明かりだけでははっきりとは見えない。
風が時折咲き乱れる桜の花びらや枝をさわさわと撫でるだけで、自分の荒い呼吸音しか聞こえない。
あとは、うるさいくらいの心臓の鼓動。
桜の根が絡みつく硬い土を掘って掘って掘って、これ以上ないくらい掘ってから、背後に無造作に転がしていたものを振り返る。
使い古したシーツでは可哀想だと思った。
それはあまりに美しかったから、せめてその全てをくるむなら新品の、糊の利いた最高の状態のシーツでなければと。
だけどここまで運んでくる過程や、やむおえず地べたに横たえたこと、掘ることに夢中になりすぎて散った土の破片でそれは汚れてしまった。

…あぁ、

男は溜め息をつく。
つぅとこめかみを汗が流れ落ちていったけれど、暑いわけではなかった。
むしろ冷たい。
桜が咲き誇る春の夜はまだ、風も冷たい。
男は全てをシーツでくるまれたそれを慎重に、大切に抱き上げて、掘り下げた深い深い、もう月明かりでは底も見えないくらい深い穴に。
だけど無造作に放り込んだ。

どさり、

地に落ちた鈍く重たい音と、崩れた土が落ちるぱらぱら細かな音。
男はそれを目視で確認することなく、そばにつきたてたスコップでもってまた穴を埋める。
ばさばさ、どさ、もそもそ、音がする。
時折風が桜の花びらや枝をさわさわ撫でるだけで、あとは自分の荒い呼吸音と鼓動しか聞こえない。
まるで耳の奥に膜が張ってしまったかのように。
私だった男は穴を埋める。
ついさっきまでひたすらに掘っていた穴を埋める。
埋めて埋めて埋めて、完全に平らになるまで埋めて、足でならす。ぎゅうぎゅうと硬く。誰にも掘り出されてしまわぬように。
そして全てが終わった後、男はそこへ寝そべり、頬を預けて目を閉じた。
深い深い、溜め息をついて目を閉じた。
達成感と快感、安堵感、愛しさと離別の名残惜しさ、寂しさ、悲しみ。そういった感情が溜め息を深くした。
男は目を閉じたまま、土に頬を預け地中に埋まったそれの音を聞こうと耳を澄ますけれど、今度は風の音はおろか、自分の呼吸音も心音も聞こえなかった。
まるで鼓膜ごと地中に埋めてしまったかのように。

さよなら。

男は声には出さずにそっと呟いた。




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10年前の私は夢を見ている。
夢の中で私は、男だった。
私だった男は桜の老木の根元をスコップで掘っている。
桜は樹齢100~150年といったところ。幹はごつごつとしていて、触るとあまりに手に余る。
真夜中だ。
月明かりだけを頼りに、男は桜の根元を掘っている。
ひたすら、ひたすら。見つかるまで深く。
暗い暗い夜の闇の中。月明かりだけでははっきりとは見えない。
風が時折咲き乱れる桜の花びらや枝をさわさわと撫でるだけで、自分の荒い呼吸音しか聞こえない。
あとは、うるさいくらいの心臓の鼓動。
桜の根が絡みつく硬い土を掘りながら、随分と念入りに深くしたものだと自分を笑い、それからスコップを捨てて手で掻いた。
硬い土は爪の間に食い込み、ひび割れ、剥がれる痛みも忘れ掘った。
見つかるまで。見つかるまで。見つかるまで。
男の脳裏に巡り巡るは似たような、だけど絶対的に時代の違う情景。
同じことの繰り返しだ、と男はひとり声に出さずにごちて笑う。

…あぁ、

男は溜め息をつく。
つぅとこめかみを汗が流れ落ちていったけれど、暑いわけではなかった。
むしろ冷たい。
桜が咲き誇る春の夜はまだ、風も冷たい。
男は掘り下げたそこにやっと見つけたそれをぞんざいに、乱暴に鷲掴んで、掘り下げた深い深い、もう月明かりでは底も見えないくらい深い穴から。
だけど優しく拾い上げた。

はらり、

手のひらから儚く崩れ落ちる脆いそれに頬を寄せ、目を閉じる。
何度目だろうと思いながらそれでもいつもいつも、初めてのことのように心震わせながら溜め息をついた。
達成感と快感、安堵感、愛しさと再会と輪廻の実感、感動、喜び、虚しさ。そういった感情が溜め息を深くした。
男は目を閉じたまま、粉々になってしまった欠片に頬を寄せそれの音を聞こうと耳を澄ますけれど、今度は風の音はおろか、自分の呼吸音も心音も聞こえなかった。
まるで鼓膜ごと桜の樹の養分になってしまったかのように。

あぁ、…あぁ。
やっとまた会えた。

男は今度は小さく小さく声に出して言った。
その自分が発した声だけは、恐ろしいほど無音の世界にしみじみと響き渡り、あぁ、まただもう一度だと男は思って泣いた。
喜びとも悲しみともつかない、だけどどちらでもある、どうしようもなさに泣いた。
ひたすらに、ひたすらに。

桜の樹齢ばかりが増していく。

彩色

まず最初に、真っ赤だ。と思った。
真っ赤だ。真紅だ。これぞまさしく業火なのだと。

めりめりと音を立てて建物が崩れてくる中、真っ赤な世界にもうもうと黒煙が混ざる。
あぁ、もう吸える酸素はどこにもない。きっと炎が全て使ってしまった。
僅かな残りすらそんなに時間も費やさずに燃やし尽くしてしまうだろう。
そうなれば後は眠るだけだ。幸い、ここなら寒さに凍える心配などない。と胸に抱いた縫ぐるみもろとも、様々な破片や煤で汚れた床に頬を預けようとした刹那だった。

大きな手が二の腕を乱暴に鷲掴み、私の身体は宙に浮いた。

黒煙と真紅の合間をすり抜けるようにして、めまぐるしいスピードで景色が変わった。
ふつりと業火から抜け出た瞬間、今まで諦めていた肺が急激に酸素を取り込んだせいで胸が軋むように痛んだ。
しかし暢気に咳き込む暇もなかった。
私の腕を掴んだ手は、離れるどころか力を抜いてはくれなかったのだ。

『どうせ逃げるなら、遠くへ行こう』

聞いたことがあるような、ないような。耳からというより脳に直接響くような声が、妙に真剣に。思いつめたような。だけど慈愛に満ちた優しい雰囲気で聞こえた。
逃げる。逃げるとは。私は逃げようなどと思っていなかった。一体私はどこから逃げようとしているのか。
どこへ行こうとしているのか。
遠くとは。

胸に煤けた縫ぐるみを抱いたまま、腕に引かれるがまま走らされた。
あまりの速さに足がもつれ何度も転びそうになったが、暢気に転ぶこともできなかった。
猛スピードで景色が変わる。
もうどこにも真紅はなかった。黒煙も。
赤はどこ。きょろきょろしても、背後を振り返っても、もうどこにも見つけられなかった。

ひたすら走っていた。鷲掴まれた腕を強い力で引っ張られ続けて、延々走り続けた。
桜の老木から薄紅の花弁がまるで霧雨のように舞い降る最中も、薄暗い細道の脇にある排水路の金網の上も、水中のようなどこまでも曖昧な世界も、目の前に迫ったかと思ったらすぐに背後にいってしまった。
ここはどこ。これほどまでに急いで向かう場所はどこ。
私もろとも飲み込もうとしたあの圧倒的な真紅は一体どこに。
暢気に質問をする余裕などいつまで経っても見つからなかった。

『走って』

声は時折、今十分走っているというのに急かすように。だけどやはりどこか慈愛に満ちた優しい雰囲気で脳に響いた。
これ以上走れなんて無理だ。今十分走っているのに、まだ尚というのか。
一体どれほど急げば間に合うのか。どれだけ走れば辿り付けるのか。
どこに。どこから。どうやって。

『走って』

何度目かの声の直後、二の腕を掴んでいた手が離れ、私の背中を強く前に押した。
促すように、というよりは、殆ど突き飛ばす勢いだった。
もうこれ以上走れないと思しき限界をとうに超えていた私は、指示のまま。押されるがまま走った。
背後、パン、ともドン、ともつかない爆発音がした。
その爆風で前のめりに転んでしまい、そのまま酷い摩擦音を立てて滑り、壁にぶつかって止まった。
密閉された中での火災の際、消火のためにドアや窓を破ることによって、急激に酸素が炎に取り込まれ激しく爆発することをバックドラフト現象というのではなかったか。
そう思った刹那、あぁ、もしかしたら真紅はまだ私のずっと近くにあり続けたのかもしれないと思った。
あれほど走り続けても。どれほど遠のいたと思っても。
目に。見えなくても。

だって私はどれほど猛スピードで風を切って走っていても、寒さに凍えることなど一度もなかったのだから。

吹き飛ばされたせいであちこち擦り剥いたりぶつけたりしたけれど、強く押された感触がいつまで経っても背中から消えず、瞼の裏をちらちらと染める業火の気配もそのままだったので、ぼろぼろの縫ぐるみをしっかと抱きなおしまた走った。
今度は腕を掴んで引っ張る者などいなかったけれど、あの人はいつまで経ってもその存在感だけ私のうなじ辺りに絶対的にあった。

どこへ向かっているのかは自分でも分からないままだ。
炎の中眠ろうとした私の腕を掴み走った人が誰だったのかも分からない。
ただ、腕にぎゅうと抱きしめたぼろぼろの縫ぐるみは、確か薄いブラウンの熊だったような気がする。

雨音の中から見つけだそう

さぁさぁと雨が降り続いていたけれど、それが現実の雨音なのか、夢の中だけの幻聴なのかは判断できなかった。
ただ、この夢が覚めない限り、建物の外へ出るには傘が必要だということだけは分かった。

隠された大切なものを探さなくてはならなかった。
妬みとか僻みとか、そういった誰しも胸の内に抱いてしまうゆらゆらとした感情が大切なものを隠してしまったから、どうしたって見つけなければ帰れないと思った。
このまま、なくしたまま家路になんてつけないと思った。

騒がしい喧騒の中をすり抜けながら探し回った。
途方に暮れるほどの人いきれ。
不意に肩を叩き、二手に分かれよう、と自分の進む方向とは逆を指差したのは、誰だったか。

「あなたは関係ないのに一緒に探してくれるの」

「関係あるでしょう。それに見つからないと帰れないんでしょう」

誰かはにっこり微笑んで、自分はこっちを探すから、と言った。
するすると人ごみの中を上手にすり抜け駆けていく背中を見送りながら、ありがとうありがとうと心の中で呟いた。
ありがとうありがとう。あなたがそうやって一緒に探してくれるだけでなくしたものは慰められる。
あなたがそうやって一生懸命他人のことのために頑張ってくれるだけで、自分もきっと見つかると信じて探せる。

窓の外、振り続ける雨音が少しだけ強くなった。
建物内部の湿度がそれだけでぐっと高くなった気がして、息がし辛いと深呼吸をする。
少しずつ建物内にいる人間が家路に着き、減っていく中、それでも見つからない探し物。
時々合流してはまた二手に分かれを繰り返すたび、なかなか見つからないのに、きっと見つかる。と信じる気持ちは増していった。
ありがとうありがとう。もし見つからなくても。家路につけなくなっても。あなたがそうやって真摯に探してくれるだけで息ができる。と心の奥底から思った。

見つからない物は何だっただろう。
靴だろうか、ショールだろうか、バッグだろうか、傘だろうか。
それとも、それらよりもっとずっと大切な何かだっただろうか。

何を恐れるかと君は笑う。

刹那、表情が変化した。
刹那、身体が強張った。

たったそれだけで君は、急いで踵を返し走り逃げた。
それをあっけにとられたまま見送りながら、脱兎のごとく。とはまさにこのことだと思った。

ほんの少しの揺らぎすら、君は敏感に見抜いて身を翻す。
ぬくぬくとした毛布の隙間から。
ほかほかの陽だまりの最中から。

一度見限った場所に、君はもう二度と身を委ねたりしない。

「繊細なんだね」

僕は君の過敏な臆病さをもてあまし、少し困ってしまって笑顔を取り繕うも、

「何を恐れることがあるのか」

君はそんな僕を見下すような視線で鼻で笑った。
この次なんてないのだと、僕に言っているのだと分かった。
だけど僕はそうそうたやすく絶望なんてしない。
むしろ不可能だと決め付けられた「この次」をどのように手に入れてやろうかと思う。
君はそのままそう存在するだけで、僕の心の奥底を君だけで埋めていくのだと思う。

「君」はオレンジ色の毛皮がきらきらと光る、今まで見たどの猫より美しい猫だった。
毅然とした態度を崩さない、孤高の猫だった。
そんな、夢を見た。

寂しい雫

その頬を包むこの両手のひらが、まだ土や泥やその他さまざまなもので汚れる前のものだったことに、僕はほんの少しだけ安堵した。
ただ、今よりはマシだという程度の事実が、たったそれだけでも十分な救いになるような気がしたのだ。
少なくとも汚れる前の昔の手のひらなら、まだ君にとって優しくあれるような気がしたのだ。

その儚く柔らかい頬に、今の僕の手で触れることなんてできやしない。
たとえ、その頬を伝う寂しい雫に気づき、それを拭いたいと心の奥底から願ったとしても。

晴天の屋上から

その日は格別、澄み切った清浄な空気の最中を太陽光がきらきらとすり抜け、満遍なく地の表を照らす、最高に心地よい日だった。
真夏のような乱暴さもなく、真冬のような冷徹さもない。
春のような強すぎる膨張の気配も、秋のようなあっけない収縮の気配もなかった。
日本にある四季のどれにもあてはまらなかったけれど、気温、湿度、天気、どれを取っても日本人に一番優しい瞬間だったように思う。

だというのに、私たちは薄暗く狭い階段を必死に昇っていた。
背後から迫り来る憤怒、恨みや妬み、激しい嘆きといった嵐のような恐ろしい感情からひたすら逃げていたのだ。
それに捕まってしまったら、私たちはバラバラになってしまうと思った。
もう二度と会えなくなるほど遠くに引き離されてしまうと思ったのだ。
今にも追いつかれ肩先を掴まれてしまいそうな距離感に怯え、肺いっぱいに酸素を吸い込む余裕もなく階段を駆け上がる。
この階段が途切れたそこには、清浄な空気と太陽光があると知っていた。
そこまで逃げ切れればきっと、恐ろしいものに飲まれたり、引き裂かれ孤独に沈んだりせず済むと思っていたのだ。

屋上へ。

もつれそうな両足、手すりに縋る手のひら、噛みそうになっては上顎に押し付ける舌、視界を遮る前髪を首を振ることで避け、瞬きをする瞬間にすら怯えて走った。
先を行く彼の背中から僅かでも離れてしまわぬよう、捕まってしまわぬよう。

彼の手によって、少し錆びたような荒い音を立ててドアが開けられた。
彼に続いて、敷居を越えたつま先が屋上の色褪せたコンクリートを踏みしめることに成功した。
空から降り注ぐ太陽光は優しく眩く、私たちは目を細め詰めたままだった息を全部吐き出す。
一気に身体から緊張が抜け落ち、その場にへたり込みそうになったが、乱れたままの呼吸を正す前に、私たちの背後未だ追ってくる気配に驚いてコンクリートを蹴った。
ここまでくれば大丈夫だと思ったのに。

私たちは屋上の入り口からできるだけ離れようと端へと逃げた。
そこは他に隠れるような場所も物も、周囲取り囲むようなフェンスすらなかった。
私たちは先刻出てきた入り口から現れ、私たちを捕まえ飲み込もうとするその姿を見極めようと視線を固定した。
薄暗い入り口の向こうの影が、一瞬、濃く揺れた気がして、思わず一歩後ず去る。
と、屋上ギリギリにいた彼が足を踏み外した。
彼の両手は掴む場所を決める余裕もなく空を掻く。咄嗟にそれに手を伸ばし、強く掴んで引っ張った。
しかし、重力に呼ばれる力の方が私の力よりずっと強く、私は彼もろとも落下しそうになる。
だというのに、彼は何かを悟ったかのような穏やかな微笑を浮かべ、一緒に落ちようと私を呼んだ。
瞬間、私の脳裏に蘇ったのは、エレベータや飛行機の落下時、内臓がぶわりと浮くような不快感と恐怖感。
私は咄嗟に彼の腕を掴む手を離した。
彼は私の腕から手を離そうとしなかったけれど、私の顔に明らかな恐怖が滲んでいることを見て取ったのか、微笑んだまま、先刻まで私の手を掴んでいた強さも痛みも嘘みたいに儚く、そっと手を離した。
私はその場に残った。
彼は落下した。

屋上から。

私はへたり込む気力すらなく、そのままその場に立ち尽くした。
先刻まで彼を強く掴んでいた手を下ろすこともできず、落下した彼を下に探すこともできず、澄み切った空気、降り注ぐ太陽光の最中、色褪せたコンクリートの上に立ち尽くした。

『一緒に』

最後に聞いた彼の声が頭の中に木霊した。
それを咄嗟に拒絶してしまった私は、もう二度と彼と落下するチャンスをものにすることができないことを思い知り、呆然とした。
何故、手を離してしまったのだろう。
たかが刹那の不快感と恐怖感などに飲まれ、一緒に。そう言って宥めるよう優しく微笑んでくれた彼をひとり落下させてしまったのだろう。
見殺しにしてしまったのだろう。
あのまま一緒に落下できていたならきっと、私たちはもう逃げなくても良かったはずなのに。
ひとりになることも、彼をひとりにすることもなかったはずなのに。
どうして迷ったりなんかしたんだろう。
迷う理由なんてなかったのに。
ひとり呆然と立ち尽くす。

絶望的なほど最高に心地よい、晴天の屋上にて。

パステルの光の粒

必死でかき集めた欠片たちを、一体どうやって組み上げてあげれば元に戻せるのか分からなかった。
せめて吹きすさぶ風に撒き散らされてしまわぬよう、必死に胸に抱きしめて蹲ることしかできなかった。

欠片はどれもキラキラと優しくきらめいていた。
欠片はどれも色とりどり自由に輝いて見えた。

それらパステルの光の粒たちは、何ものにも変えがたい僕の唯一だ。

それらをもう二度と元の姿に戻せないとしても、せめてここからなくさぬために。
今の僕に何ができるだろうか。

僕は現状を打破するための決定打をいつまで経っても思いつくことができずに、無様に同じ場所に蹲ったまま。
身じろぎひとつできずに夜明けをひたすら待ち侘びた。

懐かしい君に会うには、もう夢を待つしかない。

君はなかなか夢にも出てきてくれない。
どんなに呼んでもどんなに待っても、なかなか僕に会いにきてくれない。
まだ怒ってるの。
問いかけようとして、愚問に気づいて急いで飲み込む。
当然かもな。
いくら君が誰より何より僕に優しかったとは言え、
君をたったひとり孤独に凍えさせ眠らせたのは他でもない、僕なのだから。

君はその時をわざと縮めようと柔らかな太陽の匂いのする毛布をすら拒絶した。
君は一体どんな絶望感と孤独感の中で目を閉じたのだろう。
そして夢の中で僕を呼んでくれていたのだろうか。
なかなか会いに行けなかった僕を、少しは恨んでくれていたのだろうか。

君はなかなか夢にも出てきてくれやしない。
だけど、何年も呼び続け待ち侘びた僕の元に、君はようやく姿を現してくれた。
やっと再会できた君は、僕と最後に会った時の姿ではなく、僕とふたり並んで歩いていた、一番美しかった頃の君だった。

キラキラした太陽が誰より似合った君は、僕の自慢だったよ。
賢くて優しくて、どんなことがあっても必ず僕の元へ戻ってきてくれた。
何があっても真っ直ぐな瞳で僕を信じてくれていた。
僕が不機嫌だった日も、喜んでいた日も、悲しんでいた日も、なんでもない日だって。
君はいつでも空の匂いを纏ってそこにいてくれたのに。
どうして僕は君からあんなに簡単に離れられたのだろう。
君をたったひとりにすることになると分かっていたはずなのに。
誰より何より純粋無垢だった君に、仕方がなかった、なんて残酷で大人な言い訳、どうして平気で口に出来たのだろう。
せめて君が、恨み言のひとつ僕に言ってくれていたら、なんて。
穏やかさばかりで成り立っていたような君の性格を考えれば、当然ありえない希望的観測を胸に抱く。

今も思い出す。
何度も何度も何度も。
誰より美しく、清らかな微笑を僕に注いでくれていた君と過ごした日々を。
そして僕は何度も君を呼ぶ。
もう一度と切望し、それでもやっぱりなかなか夢にさえ出てきてくれない君を、今更虫のいい話だと分かっていながら何度も。

あぁせめて。
夢の中でだけでも君をもう一度抱きしめることができたらどんなにいいだろうか。

捕食の大木

森の中に、その森の頑なな途方もなさをまさに体現し象徴するような大木があった。
それは深い深い緑の葉を鬱蒼と生い茂らせてそこにあった。
みっしり。
枝は葉で埋め尽くされて、よほど近寄らなければ確認できないほど。
その緑はあまりに濃すぎて光を遮り、まるで影の黒。
ざわざわ風で揺れる様もまた、樹木というより巨大な生き物のようにも見えた。
みっしりと、そこにあった。
実が生る隙もなかった。

風も吹かないのに、葉を抱えすぎた枝が揺れた。
枝というより樹木全体が咆哮するように揺れた。
ごうごう、ぐわり、胸騒ぎのような音だった。
その枝の揺れが悲鳴のように聞こえ、惹かれるような気がしたので、大木に近寄り、目を凝らす。
みっしりと生い茂った黒に近い緑色。
それは全て葉だと思っていたら、実は裸の枝に黒くて深い緑色の光沢を伴った羽を持った羽虫が密集して集っているだけだった。
みっしり。
今にもその樹木を食い尽くさんとするかのように、枝の全てを羽虫が埋めていた。
羽虫の実が、豊作だった。
さらさら、羽が擦れる音がした。

その羽虫の羽があまりに禍々しいほど美しかったので、もう少し大木に近寄り、目を凝らす。
みっしりと枝を埋め尽くした黒に近い深い緑の羽虫。
それは全て羽虫だと思っていたら、カラスより小柄な見たこともない鳥が密集して止まっているだけだった。
みっしり。
鳥たちはざわめき、そのたび重さに耐えかねた枝枝が揺れた。
今にも折れそうなほど、根こそぎ倒れてしまいそうなほど大きく揺れた。
黒い鳥の羽は深い緑色の光沢を伴って、まるで樹木を覆う葉のようにして生っていた。
鳥の実が、豊作だった。
ぎゃあ、と鳥が鳴いた。

その鳥の鳴き声があまりに鋭くきらめいて聞こえたので、もう少し大木に近寄り、目を凝らす。
みっしりと枝を埋め尽くした黒に近い深い緑の鳥。
それは全てが鳥だと思っていたら、実は裸の枝に黒くて緑色の光沢を伴った毛並みをした猫が密集して爪を立てているだけだった。
みっしり。
猫たちはこちらを見下すように目を細め、鼻を鳴らした。
今にも樹木全てを削り尽くしてしまわんとするかのように、全ての枝に猫が生っていた。
猫の実が、豊作だった。

食事の邪魔をするな。
不用意に大木に近づき過ぎた私を、猫が笑った。
どちらの?つい投げかけた質問に、猫はこちらを見下すように目を細め、喉を鳴らした。
こちらが終われば、次はあちら。
一歩後図去りそうになった私を、猫はまた、笑った。
口端から鳥の足がはみ出ていた。
鳥の口端から羽虫の羽がはみ出ていたのを見たし、羽虫の小さな口端から葉の欠片が見えていたので、あぁやっぱり、と思っただけだった。

森の奥にあった大木は、黒に近い深い緑の実を、まるで葉のように生い茂らせてそこにあった。
みっしり。
枝は実で埋め尽くされて、よほど近寄らなければ確認できないほど。
みっしりと、そこにあった。
葉が芽生える隙もなかった。

その身を食べるは、次どちら?

変更線上で見る夢

真夜中には、時計の秒針の音だけで埋め尽くされる刹那がある。
その一瞬、未だ睡眠に陥っていないはずの意識が、勝手に夢を見る夢を見る。
それは、毎夜訪れる刹那のたび、日中沢山の音の洪水に飲まれ簡単に忘れてしまう夢の続きを思い出させる。
閉じようと震える瞼をこじ開けるようにして。

真夜中には、自分が目を閉じているのか開けているのか分からなくなる刹那がある。
真っ暗闇の中をじっと見つめるようにして、夢を見る夢を見る。
それはちゃんと己を飲み込む暗闇に見えているのか、それとも眼球の内側に現れるだけの妄想を見ているのか、分からない。
毎朝目覚めればすっかり忘れ、毎夜暗闇の中で思い出す。

毎夜毎夜、思い出す。
刹那に堕ちてようやく、思い出す。

思い出した夢は飽きもせず、鼻で笑ってしまいそうになるくらい忠実に、昨夜の刹那の続きを紡ぎ出す。
朝になれば簡単に忘れてしまうというのに。
夜にまた思い出せる保証などどこにもないというのに。

それは曖昧でいてどこか鮮明な映像。
それは幸福でいてどこか悲しい物語。
刹那を上手に重ねたら、いつか完結するのだろうか。
それとも延々、終わりなく続くのだろうか。

毎夜、全てが闇に沈み込む刹那。
夢を見る夢を見る。

メィ・ディ

落し物ですよ、と声をかけるタイミングを逃した、手のひらの上のそれが何だったのかは覚えていないけれど。
忘れ物ですよ、と呟くに値するかどうかは、見つけ拾い上げたあたしが決めることじゃないことだけは分かった。
それが大事なものか、そうでないのか。
そんなこと、もし持ち主に返せたとしてもあたしが知ることができるかどうかも分からない。

オロオロと眺めているだけだった背中が、微笑みを滲ませてこちらを向いた刹那。
未だ完全には解け切れないほどこびりついていた「緊張」で、がちがちだった肩が軋む音を聞いた。
手のひらの上、拾い上げたそれが何か覚えてないけれど、それでも。
手のひらの上、拾い上げてよかった、とだけ思えたから良かった。

大切なものですか、なんて聞く気もなかった。
そんなの本当はどっちでもいいとどこかで知っていたからだ。

笑い声のワルツ

滑らかな半円を描くように、つま先を滑らせるアスファルトの上。
わざとかかとで音を立て、左の足の後ろ、45度で一旦停止。
流れるリズムから外れないように。乱さないように、軽く一歩、ステップを踏んで、一呼吸分。
ジャンプの時は、思い切り蹴り上げるように高く。
できるだけ高く。
片足の裏全体で静かに着地したら、添えるようにもう片足も。
くるりと回って、大きく一歩、二歩、三歩。
喜ぶように、大きく跳躍する。

くすくすとくすぐったそうな笑い声が聞こえた。

アスファルトを蹴る。
一歩、二歩、三歩目の足だけ、高く上げる。
またくるりと回って身を屈め、一気に跳躍する。
着地は静かに。
わざと足音を立てるのは、停止のサインの時だけと決めているから。
裏打ちを探して、リズムから外れないように。乱さないように。
つま先まで神経を貫き通して、一歩。
かかとはつけずにもう一歩。
今度はかかとだけで後退する。一歩。また一歩。
そうやって、近づいては遠のく動作を繰り返す。

けらけらと零れるような笑い声が聞こえた。

ひとりでステップを踏む。ひとりで三拍子のリズムを刻む。
君の笑い声が何より適していると思う。

断片的な記憶

荒い舗装しかされていない、でこぼこの坂道。
剥げた部分は乾いた土と小石がむき出しだった。

それでも行きはいいものだ。
自転車に跨って、ペダルから両足を離し、前へ真っ直ぐ突き出していればそれでいい。
ハンドルを握り締め、いつでもブレーキが踏めるよう。

下る下る坂道のずっと向こう。
白くけぶった青空と、少しばかり滲むような雲。
お天気良好。

滑るように下る自転車は二台。

一台は正面からぶつかる風を心地よく引き裂き、もう一台はこれから下る先にあるモヤモヤにけぶっている。

「どうして何も言わないの」

彼女は泣きそうな顔をしてこちらを見やった。

「何も言うことがないからね」

僕は真実そう思った通りに口にした。

荒い舗装しかされていない、でこぼこの坂道を下る。
時折ハンドルを取られそうになるし、お尻が痛かったりもするけれど。
こんな情景もまた、知らないなら知らないで。知ってるなら知ってるでいいものだと思った。

路の脇に生い茂る草木が、二台の自転車が疾走することで巻き起こる風にざわりざわざわと騒ぎ立てた。

「あなたは、全部ちゃんと分かってる」

言葉はざわめきに紛れて、それでも多分、彼女の耳に届いただろう。

下る下る坂道。
行きはいいものだ。
帰りはふたりヒィフゥ息を乱しながら、押して昇らなければならないのだから。

多分、毎日毎日、飽き足らず。

あなたのお好きなように

「あなたのお好きなように」と強気に笑う夢を見た。

本当はさほど余裕なんてなかったけれど、夢の中の自分はどこまでも自信に満ちた、相手を見透かすような目をして笑っていた。
相手がほくそ笑もうが戸惑おうが、ちっとも関係なさげに振舞う夢だった。

「あなたのお好きなように」と相手に自由を贈呈する夢を見た。

主導権が自分にあるように見せかけて本当は相手にあることを知っていたけれど、そんなの欠片も見せないように笑っていた。
自分で決められなかった道を相手の判断のみに全て委ねる夢だった。

何より一番、卑怯な夢だった。

意識はいつか、眠るもの

命は可燃。
だが、祈りは不燃だ。

ささくれ立った感情のままに強く掴んだ手首をこともなげに振り払い、冷笑するだけならまだしも。

「可哀想な 」

残された言葉に、凝り固まったプライドごと振り払われた指先が痙攣するから。

「可哀想な   」

咄嗟に同じ言葉で応酬することしかできなかった。

互いの口端、同じ類の笑みが滲んでいたけれど。
内包する感情はきっと、全く違うものだった。
視線は互いを貫くように。
だけど、決して交じり合うことなんてないままだった。

入れ物は可燃。
だが、内容物はきっと不燃だ。

我々がとうとう所有し得なかったあの「手」というものは、きっと。
乱暴に掴むためでも、振り払うためでもなく。
相手の手をそっと握るためにある。

断片的な景色

大通りを少し横道に入り、進む建物と建物の合間。
狭い小道に面した大きなガラス戸は、半分から下がすり硝子、上が透明な硝子をはめ込んだもの。
触れると当然硬く冷たい。横に引くと鍵はかかっておらず、カラカラ、小さな音がした。
色あせたフローリングを素足で歩く。
足の裏に僅か埃や汚れ、子供たちの気配。
今は誰もいないけれど、託児所か保育園の類の建物だと思う。
しんと静まり返っているものの、そこに掠れ残った気配たちが幼く騒がしい。
壁際に大きなメタルラック。
その下には尻尾が千切れてしまった大蛇が拗ねて潜り込んでいた。
リリス、と声をかける。
当然返事はない。
可哀相に、と千切れた尻尾に触れようとすると、するり、滑るようにしてそれはこの手から逃げた。
抱き上げてあげたかったけれど、私の手にはあまるほどの体躯に育った彼女を狭いメタルラックの下から引きずり出すこともできない。
父に見つかってはまずい、と思いながらも、頼めるのは父しか思い浮かばなかった。
父を呼び、一緒にメタルラックの下から大蛇を引きずり出し、その頭を私が押さえつけ抱き上げた。
父は彼女の体躯を抱き上げる。
そのまま、彼女がいるべきケージ代わりの一室に運ぶ。
もはやリリスに一部屋占領されているのだ。
ずしりと重たい。
だけど不思議と重みと共に感じる苦しさのようなものは全く感じなかった。
父は眉間に皺を寄せ、恐ろしそうに腕の中の彼女と、彼女を大切に抱く私を睨んだ。
何故黙っていたんだ、こんなもの飼うものじゃない、と父は言った。
ごめん、逃がすつもりはなかったんだけど、と私ははぐらかすように言った。
噛み合わない会話に父は苦笑した。
リリス、と抱いた頭に声をかける。
当然返事はない。
だけど種類からしてこんなに大きく育つはずがない、規格外の体躯になった彼女は、私がペットショップから連れ帰ったあの夜とも、日々傍で育って生きている時とも全く変わらず、チロチロ舌を出しては周囲の気配を探っていた。
大きくなってもならなくても、リリスは弱視のままだと知った。
まん丸な黒い瞳で視るものなんて、たかが知れている。

リリスの部屋に彼女を戻し、父にお礼を言ってから、私もその中に入ってドアを閉めた。
父は何も言わずに帰っていった。
多分、あの託児所か保育園の類の建物に戻るのだと思った。
何故リリスはここから脱走してあの場所に行ったのか分からないし、何故私はリリスを探してあの場所に行ったのかも分からない。
すっかり大人しくなった彼女の頭を膝に抱き、私はうとうと、そのまままどろんだ。
大蛇に育ったリリスは私なんて簡単に飲み込めるんだろうな、と思いながら。
リリスの肌は大きかろうと小さいままだろうと変わらず、ぬるく、すべすべとしていた。

千切れ落ちてしまった尻尾の先を持ち帰るのを忘れたな、どうして千切れてしまったのだろう、でもリリスが死ななくてよかった、とぼんやり思う。

酷く醜い甘い夢

あなたの夢を見ました。
もうずっと会えていないし、あなたとの繋がりの一切をとっくの昔になくしているので、生きているか否かすら分からないあなた。
夢で見たあなたは、あの頃のあなたでした。
今のあなたを知らない、私のエゴ丸出しの夢でした。

夢の中でも私は眠っていました。
いつもの布団の上、うつ伏せて転寝をしていました。
あなたは眠る私の枕元に足を崩して座ってしました。
「うつ伏せ寝って苦しくないの?」
あなたは苦笑します。
夢うつつにあなたのその声が聞こえました。
きっと、うつ伏せてしか完全に弛緩できない臆病な私に、苦笑したのだと思いました。
「うつ伏せは確かに苦しいけれど、これが一番安心して眠れる」
私は眠りながら、声には出せずに心の中であなたに答えます。
だけど、私の声などあなたに届かないことくらい、分かっていました。
あなたはあの頃のあなたのままで。
私だけ、今の私になっていたのですから。
もう私とあなたの間には、指折り数えるのも悲しくなるほどの時間という壁が隔たっていました。
声など届くはずがないのです。

あなたの夢を見ました。
あの頃のままのあなたが、眠る今の私の髪を撫でる夢を見ました。
私のエゴ丸出しの、酷く醜い、夢でした。

星陵

朧げな記憶を必死で手繰ると、僅かに見えてくるものがある。

それは重ねるべきものを着実に重ねた彼の、最後に見た背中。

ぬらり滑り込むようにしてそれが巻き付いて、どうしたって解いてあげられなかったけれど。

彼は、壁に凭れ目を細めて、静かにタバコを吸うだけだった。

先端からくゆる煙は、青紫。

彼の口から吐き出されるそれは、濁った白。

その違いだけを、彼は最後に教えて消えた。

胸骨の間

短く浅い夢の淵、君は見事に僕を誤解していた。

今の僕が、何を不満に思うものか。
そのことに関しては、満たされたり、餓えたりするような器そのもの持ち合わせてなどいないのに。
君は完全に僕を誤解している。

何を求め追い、それほどまでに焦るのか。
君が思う、これ以上もこれ以下もないほどに醜い僕は、確かにどこかに存在するのかもしれない。
だけど、今の僕はそれをそこまで不満になど思っていない。
僕は君の思うそれをもっとよく知覚すべきだと思うけれど、君はそのものの誤解を知覚すべきだ。

朦朧とした意識の淵、君は見事に僕を誤解していた。
口惜しみ苛立つほどに、明確なイメージでもって。

胸骨の間、君の、肉の際ギリギリで切った短い爪の人差し指が食い込む。
どうせならいっそ、その指で貫いてくださいよ。
君にできるものならね。
僕は半笑いで吐き捨てようとして、ぐ、と飲み下す。
それは一度口に出してしまえば、君にとっても僕にとっても、冗談なんかじゃ済んではくれない。
とても悪い癖だ。
僕も君も、相手が残酷な気持ちになればなるほど、競うように残酷さをエスカレートさせていってしまう。
切りがないほど延々と。
そして結局両者破綻することくらい、目に見えているというのに。

そろそろ目を覚ます時なのかもしれない。
この夢は、君にとっても僕にとっても、あまりに理不尽すぎる。

完全フィクション

私と加奈子が通う中学には、生徒の中だけで代々伝わっていく七不思議のような、伝説のようなものがあった。
先輩から、兄弟から、人づてに広がる曖昧なものだから、もしかしたらもうすでに原型は留めていないのかもしれないし、そもそもの出所など誰も知らないから信憑性など全くない。
それでもこの中学に通う生徒の殆どはそれを心底信じ、恐れ、そしてどこかで自慢するような節があった。
そしてそれは私も加奈子も同じだった。
その七不思議はトイレの花子さんを筆頭に、どこの中学でもあるようなありふれたものが殆どだったが、ひとつふたつ、この中学独特のものがあった。
それは学校裏手にある焼却炉に向かう途中、校内にも関わらず何故か地蔵がひとつだけぽつんと。木陰に隠れるようにしてあること。
もうひとつは、そのまさに焼却炉の足元に無造作にそこら辺にある少し大きめの石を積み上げて作ったような小さな祠があることだ。
地蔵は当然のことのように生徒内では「この学校で自殺した生徒の魂を慰めるためのものだ」とか、「不慮の事故でなくなったこの学校の何代か前の理事長の代わりに生徒を見守っているのだ」とか、そんな曰くが勝手につけられていたし、
祠は祠で、「小さな男の子が住んでいて、その子は生徒を守っているのだ」とか何とか、座敷わらしじゃあるまいし、と思いたくなるくらいの噂が滑稽なほど真剣に語られているのだった。
他の生徒はわからないが、とりあえず、私と加奈子は祠の中を覗き込んだことはない。
焼却炉なんて日直になれば嫌でも放課後のゴミ捨てで近づくのだけれど、その頃には大体夏でも夕暮れを迎えており、小さな祠の中は真っ暗なのだ。
昼間の日が高い時間に行けばまだ違ったかもしれないが、普通の休み時間などに校舎裏など行く子はいない。
いるとすれば、誰か好きな人を呼び出して告白する人くらい。
祠どころではないのだ。
とにかく私たちはあの祠の小さな暗闇が、周囲がオレンジ色に染まる中、あまりに深くて覗く気になどなれなかった。

それら噂がある以上、当然のように日直、という仕事は生徒にとってとても憂鬱なものだった。
休み時間に黒板消しのチョークの粉をはたくのはいい。
日誌だって適当に書けばいい。
だけど放課後に焼却炉にひとりでゴミ捨てに行かねばならないのが、酷く怖い。
特に加奈子はその恐怖感が過剰だった。
しかし日にちが過ぎれば絶対に日直の日がくる。
加奈子は日直になった日、青い顔をして学校にきた。
休んだところでその日は免れるにしても、次に学校に来た時に肩代わりをしてくれた人の分の日直を任されるのだ。
この学校を卒業するまでは、絶対に逃げられないと知っているのだろう。
「ユキ」
加奈子は酷く深刻そうに私を呼ぶ。
「何よ、どうしたの。顔色悪いわよ」
「今日私日直なの」
私の心配の声など彼女には聞こえていないように、加奈子は淡々とそう言う。
「知ってる」
だから私もできるだけ淡々と受け流そうとした。
すると加奈子は悲痛な表情で私の腕を掴み、
「お願い、放課後一緒にゴミ捨てに行って」
そう頼むのだ。
私はそんなお願いは慣れていた。
何度も同じことがあったからだ。
しかし毎回、加奈子は初めて口にするかのように、今までずっと我慢していたことをようやく吐露するように私に願う。
だから私は毎回、いいわよ、とできるだけ彼女の重みを軽減させようと、軽く了承する。
どんなに嫌なゴミ捨てでも、代わって、と言わない彼女が好きだったからだ。
私の了承を耳にした加奈子はいつも一瞬信じられない、と言いたげな驚いた顔をした後、安堵するように溜息をついて肩の力を抜く。
それを見るたび、了承してよかったと思う。
加奈子は一日、私が一緒に行ってくれる、と安心したようで、日直の仕事をてきぱきと済ませていった。
だけどやっぱり恐怖が蓄積されるように、放課後が近づくとどんどん暗い顔になる。

放課後、職員室に日誌を出しに行った彼女を待って、夕暮れ近づく教室で待っていた。
他のクラスの日直はもうゴミ捨ても終え、帰っていってしまったようだ。
加奈子だけが少し遅れている。
先生に呼び止められてしまったのだろうか。
日誌は当たり障りのないことしか書いてないから問題にならないはず。
私はひとりぐるぐる考える。
さすがに加奈子ほど恐れはないにしても、私だって放課後の校舎にひとり、とか、暗くなってからあの祠に近づく、とかは怖い。
どうしよう。職員室までゴミ箱持って迎えに行こうか。
でも入れ違いになってしまったら、余計に時間がかかってしまう。
太陽が私以外誰もいない教室を真オレンジ色に染める。
それはとても綺麗な風景なはずなのに、どうしても私の心を不安だけでいっぱいにする不快な色でしかなかった。
…加奈子の恐怖が移ってしまったのだろうか。
奇妙な焦りが募る。

すると、遠く職員室の方からばたばたと走る足音がした。
きっと加奈子だろう。
加奈子は目立つほどではないけれど、ちょっと独特の、かかとを滑らせるような足音を立てる。
私は少し安心してその足音が教室に飛び込んでくるのを待った。
「ユキ!」
ガラガラと音を立てて教室のドアが開くと同時に、加奈子が悲痛に私を呼んだ。
「廊下を走ったら先生に怒られるよ」
私が笑うのに、加奈子はもう今にも泣き出しそうだった。
「どうしよう、日が暮れてしまう!」
「そんなに焦ることないよ、急げば間に合う」
「私怖いの!」
まくし立てるように加奈子は叫ぶ。私の軽い口調を責めるようだ。
私は別に加奈子の恐怖を馬鹿にしているわけではない。
自分だって怖いのだ。
夕日が沈むとそれだけ教室に騒然と並ぶ華奢で頑丈な机や椅子の脚の影が伸びる。
伸びた影から今にも真っ黒な触手が伸びてきて、私や加奈子の足を掴んで引っ張りそうだと思う。
だけどそれを口にしてしまうと、加奈子が余計に怯えてしまうから、黙っているだけ。
私まで焦れば、彼女はますます焦る。
だから冷静なふりをしていただけだ。
だけどそれを加奈子は悲しむ。
「知ってる」
私は加奈子を待っていた時のように少し真剣な顔に戻って、頷いた。
「急ごう」
ゴミ箱を掴む。
加奈子ももうひとつのゴミ箱を掴んだ。
教室を出る前、ふと窓を振り返る。
完全な日没まで、あとどのくらいあるだろう。
無意識震える指を牽制する意味も込めて、ひとつ、深呼吸。
「行こう」
廊下に私の声が嫌に響いた。そんなに大きな声なんか出してないのに。
私の声が思いのほか響いたのが怖かったのか、加奈子は声に出さずに頷くだけ。
私たちはゴミ箱を握り締め、できるだけ足音を立てないように(先生に見つかって呼び止められたら貴重な時間をロスしてしまうから、見つからないように)走った。
走った。
息が続かないんじゃないかと思うくらい、足先に緊張を満たして、ゴミ箱を掴む指に力を入れて。
加奈子と私の息を殺した足音だけが、それでも誰もいないオレンジ色の廊下に響く。
どんどん影が迫ってくる。
追われるように、私たちは走った。
どちらかが遅れたりしないように、時折視線を交わらせながら。
荒い呼吸と辛そうな加奈子の表情。
きっと彼女にも、私は同じように苦しげに見えるのだろう。
怖い。怖い。怖い。
呼吸が辛くなればなるほど、日が暮れれば暮れるほど、無意味な恐怖と焦りが増していった。
階段を駆け下りる。
下って下って、玄関で靴を履き替えることもせず、上履きのまま校舎裏に走った。

焼却炉は同じ場所にあった。
足元にはやはり小さな祠。
それを見ないようにしながら、どうか私たちを守って、と心の中で祈った。
私は急いで焼却炉の蓋を開ける。
加奈子はそこにゴミ箱の中身を空け、私の持っていたゴミ箱も受け取ってそこに流し入れた。
そして私はゴミを投げ入れた焼却炉から何か怖いものが出てきそうな気がして、急くようにして蓋を閉める。
たったそれだけだ。
加奈子はそれでも慌てた様子で制服のポケットから小さなスプレーボトルを引っ張り出し、自分の制服に吹き付けた。
それは彼女の癖のようなものだ。
その携帯用のスプレーボトルには液体の消臭剤が入っている。
焼却炉やトイレなどの、少し臭いがするところに近づいた後、彼女は必ずそれをする。
臭いに酷く神経質なのだ。
何もこんな時間のない時にしなくても、とは思うけれど、それでもそうしなければ加奈子は次の動作に移れないことを知っている。
ある意味儀式みたいなものだと思う。
加奈子はスプレーをした後、慌てていたのかスプレーボトルを投げ出し、スカートをはたく。
スプレーボトルは焼却炉の足元、祠の前に落ちた。
途端、
「あ~ぁ」
という、私でも加奈子でもない声がしてはっとする。
いつの間にいたのか、小学生くらいの男の子が校舎とは反対の方向、林のようになっているところに立っていて、私たちの方を指差し、
「それが呼んでしまうのに」
そう言った。
怖くはなかった。その子が誰かなんて考える暇などないのだ。
日没はもう間近に迫っている。
その前に私たちは上履きの土をはらい、教室にゴミ箱を戻し、荷物を持ってこの校舎から逃げなければならない。
私は急いで転がってしまったスプレーボトルを引っ掴み、ふたつの空になったゴミ箱を掴み、
「加奈子、行くよ!」
走り出す。
私が先に走り出しても、加奈子は手ぶらだからすぐに追いつけると思ったのだ。
途中誰か大人とすれ違ったような気がしたが、多分教師か用務員さんだろうと思ってひたすら走った。
加奈子の足音、荒い呼吸音が耳に残っていたから、ちゃんとついてきていると勘違いした。
加奈子が焼却炉の前で立ち尽くしてるなんて、思いもしなかった。

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